2008年04月21日

有馬新七 勇む心をあとに

寺田屋で壮絶な死を遂げた有馬新七
新七は薩摩藩の郷士・坂木四郎兵衛の子として生まれる。
父が城下士の有馬家の養子となったため、新七もそのまま城下士となった。
新七は元服した頃から真影流の剣術を学び、独学で山崎闇斎派の朱子学をも学んでいく。
文武両道の俊傑とうたわれていた。

1843年(天保14年)江戸にでて山口管山に学び、翌年には師の代講を勤めるようにもなっていた。
1856年(安政3年)師の進めもあり、京都にいき梅田雲浜と交流するようになる。
翌年の1857年(安政4年)には薩摩藩邸学問所教授に就任し、尊皇攘夷派の志士達と多く交流して水戸藩とともに井伊直弼暗殺(桜田門外の変)を謀ったが、自藩の同意を得られなかったため手を退き、結果的に水戸藩を裏切る形となってしまった。

その後も有馬新七は過激な尊皇攘夷活動を続け、1862年(文久2年)藩主 島津久光が兵を率いて上洛する。
しかし、ちょうどその頃、久留米藩士・真木和泉らが薩摩藩に倒幕の働きかけをしていたため、これは実は倒幕の兵であると深読みし勘違いするものが出てきました。これが、有馬新七たちだった。

この真木の元に久坂玄瑞品川弥二郎入江九一山縣有朋清河八郎など全国から3百近い者が京に集結していた。

しかし島津久光はむしろ公武合体を推し進めていました。

「久光公は上洛したが、一向に倒幕に乗り出す気配がない」と痺れを切らした有馬たちは、倒幕挙兵の先方たらんとし幕府寄りの公卿や京都所司代を襲おうと画策し、寺田屋へ集結。

この不穏な動きを察知した久光は、その計画を思いとどまらせようと奈良原喜八郎らを寺田屋に向かわせます。


寺田屋についた奈良原は思いとどまるよう久光の意を告げますが、有馬たちは聞き入れず斬り合いに発展。ここに凄惨な忠誠組同志同士の斬りあいが始まる。
斬りあう最中、有馬の刀が折れ素手で組み合っていると刺客の一人 道島五郎兵衛を壁に押し付け、橋口吉之丞 「おいごと刺せ!」 と叫び壮絶な死を遂げている。

有馬新七享年38歳。文武両道の雄だったが、時代が変わる一足前に才能を発揮することもなく逝ってしまった。

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