2008年04月18日

山岡鉄舟の赤誠

1868年(慶応4年)1月鳥羽・伏見の戦いにおいて大敗を喫した幕府軍は迷走を始める。

まず徳川慶喜は、部下を見捨ててさっさと江戸に逃げ帰り、新政府軍との徹底抗戦を主張する小栗上野介たちの意見を退け、2月に勝海舟を陸軍総裁に、大久保一翁を会計総裁に起用。
この時点で慶喜は新政府軍への「恭順」の意思を固め、和平派の勝海舟たちに後を任せ、自らは蟄居してしまいます。

幕府軍総崩れにより、新政府軍は錦の御旗を押したて東上してくることになりました。

山岡鉄舟は寛永寺大慈院で謹慎中の将軍徳川慶喜の恭順の意を、駿府の官軍総督府の西郷隆盛へ伝える使者の役を担って、その行動の了解を得ようと幕府の要職にあった勝海舟に会いにいくのだ。

このときの山岡は勝に対し凛とした態度で臨み、勝もその姿をみて山岡ならこの大難をやってのけると確信した。
勝海舟西郷隆盛への手紙を託し、「口上での談判は山岡おぬしに一任する。うまくやってくれよ」と言い、案内役に薩摩藩の益満休之助をつけて、送り出すことにした。

こうして1868年3月9日山岡は官軍の駐留する駿府に向かい、山岡は官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。
無事に西郷のもとに着いた山岡は早速、勝からの手紙を西郷に見せるのだった。
一読した西郷は降伏条件を提示するのである。

このとき、西郷が降伏条件として示したのは、
一「江戸城を明け渡すこと」・二「城中の人数を向島に移すこと」・三「軍艦を渡すこと」四「兵器を渡すこと」五「徳川慶喜を備前藩へあずけること」の五箇条であった。

山岡は条件をもっともだと思った。
しかし、徳川慶喜を備前藩へあずけるの一条は承服しかねた。
勝から「談判は山岡おぬしに一任する」という言葉を聞いていた山岡はこう言い放つ。

「立場が違って、もし西郷先生が私ならどのようにご返事なさいますか」

西郷はしばらく黙してしまった。
山岡はこのとき西郷の顔から目を離さず、キッと睨んでいたという。

西郷は山岡の主君を思う心に胸うたれ、我が身に変えても善処するといい、この一条を変えるのを承諾させたのだ。

こうして山岡鉄舟は江戸に戻っていき勝海舟に会談の報告し、勝もこの難問を処理した山岡を慰労した。
勝は「山岡氏沈勇にして、その識高く、よく君上の英意を演説して残す所なし。もっとも以って敬服するにた堪えたり」と山岡の捨て身の働きには心から感服せざるを得なかった。

江戸に入って来た官軍の西郷を勝は芝の愛宕山上に招待し江戸城下の有様を眺望させた。
このとき西郷は「さすが徳川公、良いお宝をお持ちだ」と語る。

勝が良い宝とは?と聞くと「山岡さんのことだ」と云う。
西郷は「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬといったような始末に困る人ですが、しかしあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合う訳には参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう」と言い褒めた。

1868年(慶応4年)3月14日勝海舟が、薩摩藩蔵屋敷を訪ね、東征軍参謀西郷隆盛と会談。
この会談によって東征軍の総攻撃は中止となり、江戸城の「無血開城」が実現する。
この会談の下地を作ったのは紛れもなく山岡鉄舟であり、その山岡を信用し全てを託した勝海舟の眼力もあり、そしてなにより西郷隆盛の将来を見通した目だったのだろう。

江戸は戦火を免れ、時代は明治へと向かっていくのであった。

CoRichブログランキングランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット

幕末の三舟―海舟・鉄舟・泥舟の生きかた (講談社選書メチエ)幕末の三舟―海舟・鉄舟・泥舟の生きかた (講談社選書メチエ)
(1996/10)
松本 健一

商品詳細を見る


山岡鉄舟の武士道 Price740 円
幕末三舟伝 Price2,940 円
活人剣山岡鉄舟Price1,680 円
禅と武士道Price819 円


この記事へのトラックバックURL
http://shouin1859.gifulog.com/t36200