2008年04月17日
江戸城無血開城の立役者 山岡鉄舟
山岡鉄舟は1836年(天保7年)江戸の本所に御蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として生まれる。

9歳の頃より久須美閑適斎より神陰流剣術を学び、1845年(弘化2年)飛騨郡代となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過ごすこととなる。
弘法大師流入木道51世の岩佐一亭に書を学び、15歳に52世を受け継ぎ、一楽斎と号すことになるのだ。
また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶが、1852年(嘉永5年)に父の死に伴い、江戸へ戻ると、井上清虎の援助により講武所に入り、千葉周作らに剣術を学ぶ。
また同時期、山岡静山に槍術を学んでいる。
静山が急死すると、静山の弟・高橋泥舟らに望まれて山岡家の養子となり、静山の妹・英子と結婚し山岡家をつぐことになる。
写真を見ても分かるように山岡鉄舟は身長六尺二寸(188センチ)、体重二十八貫(105キロ)と当時としては並外れた体格であった。
1857年(安政4年)清河八郎らとともに尊王攘夷を標榜する山岡達は「国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない」という意味をこめた「虎尾の会」をを結成する。
集まったのは直参旗本の山岡のほかに、松岡万、薩摩藩士の伊牟田尚平、益満休之助をはじめ15名であった。
目的は尊皇攘夷ただ一つだった。
しかし翌1858年(安政5年)大老井伊直弼は「日米修好通商条約」調印してしまう。
これに反対した吉田松陰・橋本佐内らを安政の大獄により処刑していってしまうのである。
1863年(文久3年)山岡鉄舟は浪士組(新撰組の前身)取締役となり、将軍徳川家茂の先供として上洛するのだが、間もなく清河八郎の動きに異変を感じた幕府は浪士組を呼び戻し、清河は幕府の刺客・佐々木只三郎、窪田泉太郎などに暗殺されてしまう。
清河暗殺後、山岡は謹慎処分となり、浪士組は新徴組として再組織されることになる。
浪士組みの中で京に残留を願い出たものが近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らであった。
芹沢らは壬生浪士組となり、のちの新撰組と発展していくことになる。
この頃、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする。
時代は倒幕への勢いは増していく中山岡にはさらなる仕事が待っていた。
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9歳の頃より久須美閑適斎より神陰流剣術を学び、1845年(弘化2年)飛騨郡代となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過ごすこととなる。
弘法大師流入木道51世の岩佐一亭に書を学び、15歳に52世を受け継ぎ、一楽斎と号すことになるのだ。
また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶが、1852年(嘉永5年)に父の死に伴い、江戸へ戻ると、井上清虎の援助により講武所に入り、千葉周作らに剣術を学ぶ。
また同時期、山岡静山に槍術を学んでいる。
静山が急死すると、静山の弟・高橋泥舟らに望まれて山岡家の養子となり、静山の妹・英子と結婚し山岡家をつぐことになる。
写真を見ても分かるように山岡鉄舟は身長六尺二寸(188センチ)、体重二十八貫(105キロ)と当時としては並外れた体格であった。
1857年(安政4年)清河八郎らとともに尊王攘夷を標榜する山岡達は「国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない」という意味をこめた「虎尾の会」をを結成する。
集まったのは直参旗本の山岡のほかに、松岡万、薩摩藩士の伊牟田尚平、益満休之助をはじめ15名であった。
目的は尊皇攘夷ただ一つだった。
しかし翌1858年(安政5年)大老井伊直弼は「日米修好通商条約」調印してしまう。
これに反対した吉田松陰・橋本佐内らを安政の大獄により処刑していってしまうのである。
1863年(文久3年)山岡鉄舟は浪士組(新撰組の前身)取締役となり、将軍徳川家茂の先供として上洛するのだが、間もなく清河八郎の動きに異変を感じた幕府は浪士組を呼び戻し、清河は幕府の刺客・佐々木只三郎、窪田泉太郎などに暗殺されてしまう。
清河暗殺後、山岡は謹慎処分となり、浪士組は新徴組として再組織されることになる。
浪士組みの中で京に残留を願い出たものが近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らであった。
芹沢らは壬生浪士組となり、のちの新撰組と発展していくことになる。
この頃、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする。
時代は倒幕への勢いは増していく中山岡にはさらなる仕事が待っていた。

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