2008年04月15日

有吉熊次郎 実直に生きた男

実直に生きた志士有吉熊次郎
1842年(天保13年)有吉忠助の次男として生まれる。

藩校の明倫館に学んだのち、1857年(安政4年)16歳の時に吉田松陰松下村塾に入塾する。
松下村塾において松陰の教えを学んだ有吉は他の門弟同様に尊皇攘夷に傾倒していくことになる。

1858年(安政5年)松陰の老中間部詮勝暗殺計画に血盟したことから、外叔の白根多助により家に幽閉される。
松陰自身も捕縛され投獄、そして松下村塾も閉鎖をされてしまうのです。
長州藩としてはこれ以上松陰が幕府から目を付けられるのを心配した行動でした。

1861年(文久元年)有吉は高杉晋作に随い江戸へ遊学、桜田の藩邸内にある有備館に入る。
江戸において様々な人と交流をして益々攘夷論に拍車をかけることになっていく。
その最たるのもが1862年(文久2年)有吉は高杉ら同志と武州金澤で外国公使を刺殺しようと計画したが、久坂玄瑞が土佐の武市瑞山に話した事から、山内容堂を介して長州世子・毛利定広に伝わったため実行に到らず、謹慎を命ぜられることになる。

謹慎中の有吉ら同志は御楯組結成の血盟書を作る。
血盟書に署名のある同志は、有吉をはじめ高杉晋作久坂玄瑞大和弥八郎長嶺内蔵太井上聞多松島剛蔵寺島忠三郎赤根武人山尾庸三品川弥二郎、の11名である。

そして有吉達は品川御殿山の英国公使館焼き討ちを決行するのだ。

文久3年(1863年)、藩命により航海術を学び、その後京都学習院への出仕を命じられ、京洛での尊攘運動に邁進している。

8.18の政変により長州藩は京での権力を失い、多くの志士達も長州へと戻っていき、有吉も帰国する。
帰国後、久坂、堀真五郎らと山口にて八幡隊を結成。

1864年(元治元年)池田屋事件では、吉田稔麿ら同志と会合中に新選組に襲撃されるが、乱闘から長州藩邸に逃げ込み、事件の生き証人としてその悲報を国許に伝える。

次第に時勢は長州にとって憂慮すべき自体になっていく中、有吉は急進派の藩士らとともに上京し、禁門の変に参加していく。

有吉は久坂、寺島らとともに行動し、最後は鷹司邸内で自刃することになる。
有吉熊次郎、享年23歳であった。
有吉は何を思い何を考え走り抜いたのだろうか?
明治維新後の日本をどう見ていたのだろう。

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松下村塾と吉田松陰Price1,155円

江戸の終わり、多くの俊才を輩出した松下村塾。物置き小屋を改造した粗末な塾舎で、一年あまりの短い間、松陰は若者たちに何を授けたのか。松下村塾で学んだ若者たちと、吉田松陰の教育法をさぐる。



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