2008年04月13日
寺島忠三郎 忠義の門弟
松下村塾きっての忠義の人、寺島忠三郎
1843年(天保14年)寺島直一の子として生まれる。
藩校明倫館に入り学び、16歳のときに吉田松陰の松下村塾に入塾し、尊皇攘夷派の志士として成長していく。
1859年(安政6年)安政の大獄により吉田松陰は江戸に送られることになると、当時、高水にいた寺島忠三郎は呼坂まで来ると、松陰と無言の別れを告げ、松陰と寺島忠三郎は別れの詩を交歓した。
かりそめの今日の別れは幸なりき ものをも言はば思いましなん 松陰
よそに見て別れゆくだに悲しさを 言にも出でば思いみだれん 忠三郎

1862年(文久2年)高杉晋作は、「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。
ちょうどその頃、外国公使がしばしば武州金澤(金沢八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志らと相談されるのだ。
しかし、久坂玄瑞が土佐の武市半平太にこのことを話したことから、これが無謀であるとして山内容堂が毛利定広に伝えたために実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。
謹慎中の同志は御楯組結成の血盟書を作った。
このとき寺島も血盟書に名を連ね、そのほかに血盟書に署名したのは、高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、井上聞多、松島剛蔵、有吉熊次郎、赤根武人、山尾庸三、品川弥二郎の10名に参加であった。
1863年(文久3年)、8.18の政変で長州藩が失脚した後、窮地に追い込まれた長州藩。
1864年(元治元年)池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸左馬之助らは藩論の沈静化に努めるが、もはや福原越後や益田右衛門介、国司信濃の三家老等の積極派を抑えることは出来ず、長州藩は討薩賊会奸を掲げて挙兵し、益田、久坂玄瑞らは山崎天王山、宝山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構える。
寺島もこれに従軍し久坂らと行動をともにしている。
会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と衝突、尊皇攘夷を唱える長州勢は壊滅状態になってしまう。
寺島忠三郎は久坂玄瑞、入江九一とともに鷹司邸内に立てこもって応戦しました。そのうち鷹司邸は会津、桑名など諸藩の兵に囲まれていく。
久坂は参内する鷹司父子に朝廷での取りなしをしてもらおうと懇願するが聞き入れてもらえず、幕府軍の攻撃が激化してくると鷹司父子は脱出してしまった。
残された寺島らは出の不可能を悟って死を覚悟します。
久坂は負傷いていたために寺島、入江に脱出して毛利敬親にこのことを伝えて欲しいと頼みます。
しかし、寺島、入江両名ともに久坂とともに残ると言い張ります。
久坂はなんとしても長州藩を守るためにと、入江を説得しその役目を託しました。
残った寺島と久坂は諸肌を脱いで刀を手に取り、最期は、互いに刺し違えたといいます。
寺島忠三郎、享年21歳であった。
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1843年(天保14年)寺島直一の子として生まれる。
藩校明倫館に入り学び、16歳のときに吉田松陰の松下村塾に入塾し、尊皇攘夷派の志士として成長していく。
1859年(安政6年)安政の大獄により吉田松陰は江戸に送られることになると、当時、高水にいた寺島忠三郎は呼坂まで来ると、松陰と無言の別れを告げ、松陰と寺島忠三郎は別れの詩を交歓した。
かりそめの今日の別れは幸なりき ものをも言はば思いましなん 松陰
よそに見て別れゆくだに悲しさを 言にも出でば思いみだれん 忠三郎

1862年(文久2年)高杉晋作は、「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。
ちょうどその頃、外国公使がしばしば武州金澤(金沢八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志らと相談されるのだ。
しかし、久坂玄瑞が土佐の武市半平太にこのことを話したことから、これが無謀であるとして山内容堂が毛利定広に伝えたために実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。
謹慎中の同志は御楯組結成の血盟書を作った。
このとき寺島も血盟書に名を連ね、そのほかに血盟書に署名したのは、高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、井上聞多、松島剛蔵、有吉熊次郎、赤根武人、山尾庸三、品川弥二郎の10名に参加であった。
1863年(文久3年)、8.18の政変で長州藩が失脚した後、窮地に追い込まれた長州藩。
1864年(元治元年)池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸左馬之助らは藩論の沈静化に努めるが、もはや福原越後や益田右衛門介、国司信濃の三家老等の積極派を抑えることは出来ず、長州藩は討薩賊会奸を掲げて挙兵し、益田、久坂玄瑞らは山崎天王山、宝山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構える。
寺島もこれに従軍し久坂らと行動をともにしている。
会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と衝突、尊皇攘夷を唱える長州勢は壊滅状態になってしまう。
寺島忠三郎は久坂玄瑞、入江九一とともに鷹司邸内に立てこもって応戦しました。そのうち鷹司邸は会津、桑名など諸藩の兵に囲まれていく。
久坂は参内する鷹司父子に朝廷での取りなしをしてもらおうと懇願するが聞き入れてもらえず、幕府軍の攻撃が激化してくると鷹司父子は脱出してしまった。
残された寺島らは出の不可能を悟って死を覚悟します。
久坂は負傷いていたために寺島、入江に脱出して毛利敬親にこのことを伝えて欲しいと頼みます。
しかし、寺島、入江両名ともに久坂とともに残ると言い張ります。
久坂はなんとしても長州藩を守るためにと、入江を説得しその役目を託しました。
残った寺島と久坂は諸肌を脱いで刀を手に取り、最期は、互いに刺し違えたといいます。
寺島忠三郎、享年21歳であった。
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