2008年04月11日
時山直八 奇兵隊の猛将
奇兵隊の猛将・時山直八
1838年(天保9年)士雇 時山茂作の子として生まれる。幼名は松太郎、直八は通称である。
13歳頃から、時山は城下に住む藩の槍術師範・岡部半蔵のもとに通って、宝蔵院流を習い始める。ここには、山縣有朋が同門でいた。
槍の稽古に打ち込んでいた時山だが、1958年(安政5年)松下村塾に入門する。
時山21歳のときである。門下生としては、かなり末期の入門生で、しかも入門時の年齢もやや高い。
時山がどういった経路で吉田松陰のもとに入門するに至ったのか、はっきりしたことはわからないのだが、入門直後から松陰の教えに傾倒し、松下村塾で寝泊りしながら勉学に打ち込むこともあったようだ。
その熱心さに、松陰も「中々の奇男子なり、愛すべし」と一目も二目も置く存在であったらしい。
しかし時代は井伊直弼による取締りが強くなってきており、その波は長州にも押寄せてきていた。
松陰の過激な発言と行動を危惧した周布政之助は 松下村塾は閉校させ、松陰を野山獄に閉じ込めていたのである。
周囲の門弟たちも家族のことなどもあり少し松陰との距離を置くようになるのだ。
時山も松陰が再下獄される頃からしだいに疎遠となり、そのころ家督を継いだこともあって、実家に引きこもった状態になっていた。
そして1859年(安政6年)安政の大獄により江戸に送られた吉田松陰は処刑されてしまうのである。
1860年(万延元年)江戸詰めを命じられて出府した時山は、江戸遊学を許されて滞在していた久坂玄瑞たちと行動を共にすることが多くなっていた。
その一方で、槍の稽古にも通い、儒学者・安井息軒の主宰する三計塾にも入門する。
1862年(文久2年)尾寺新之丞らとともに。「航海遠略策」を朝廷に周旋するために上洛する、長井雅楽の供として京都へ随従する。
ちょうどこの頃、「航海遠略策」に反対し、長井その人の暗殺をも計画していた久坂や山縣たち松門生たちである。
久坂たちの過激な行動をなんとか思いとどまらせようと時山たちをあえて送り込んだのは、桂小五郎であった。
桂はこれ以上無駄な犠牲は出したくない、今はまだ時期尚早であると判断していたためである。
久坂たちの暴走を抑える役目も、時山たちは請け負っていた。
1863年(文久3年)時山は主に久坂たちと行動を共にしており、石清水八幡宮行幸にも警備の一員として随従し、馬関での攘夷決行時には光明寺党の一員として出撃している。
8.18の政変時にも、禁門の変にも常に久坂や桂たちと行動し、また奇兵隊にも早くから参加し、戦いの最前線に立ち続けた。
1864年(元治元年)四国艦隊との馬関戦争では、奇兵隊を率いて前田砲台の攻防戦を指揮し、1866年(慶応2年)の四境戦争において、軍監山縣を補佐する参謀として、4ヶ月に及ぶ激戦の最前線で陣頭指揮をした。
1868年(慶応4年)北陸道鎮撫総督参謀の山縣有朋らとともに越後へ向かうことになる。
越後長岡藩は強く、佐幕派諸藩の連携も取れており、長岡城攻略は難航した。
攻略の要となる朝日山・妙見峠を会津藩兵から奪還すべく、5月13日奇兵隊の精鋭は峠を攻め上るのだ。
いったんは会津藩兵を退却に追い込んだのだが、桑名藩から応援に来ていた立見鑑三郎率いる雷神隊の猛反撃にあい、陣頭にて指揮していた時山は、敵兵に撃たれて即死。
戦場の最前線であったので、奇兵隊士が時山の首を掻き斬り持ち帰るのが精一杯で、遺体はその場に泣く泣く放置して退却せざるをえない状況であったという。
時山直八、享年31歳であった。
この時山の戦死は、山縣や品川弥二郎をはじめとする門弟たちに動揺を与えた。
山縣は時山の首を目にしてショックを隠しきれず、品川は後々まで山縣に対し「時山を殺したのはお前だ」と非難を続けたという。
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1838年(天保9年)士雇 時山茂作の子として生まれる。幼名は松太郎、直八は通称である。
13歳頃から、時山は城下に住む藩の槍術師範・岡部半蔵のもとに通って、宝蔵院流を習い始める。ここには、山縣有朋が同門でいた。
槍の稽古に打ち込んでいた時山だが、1958年(安政5年)松下村塾に入門する。
時山21歳のときである。門下生としては、かなり末期の入門生で、しかも入門時の年齢もやや高い。
時山がどういった経路で吉田松陰のもとに入門するに至ったのか、はっきりしたことはわからないのだが、入門直後から松陰の教えに傾倒し、松下村塾で寝泊りしながら勉学に打ち込むこともあったようだ。
その熱心さに、松陰も「中々の奇男子なり、愛すべし」と一目も二目も置く存在であったらしい。
しかし時代は井伊直弼による取締りが強くなってきており、その波は長州にも押寄せてきていた。
松陰の過激な発言と行動を危惧した周布政之助は 松下村塾は閉校させ、松陰を野山獄に閉じ込めていたのである。
周囲の門弟たちも家族のことなどもあり少し松陰との距離を置くようになるのだ。
時山も松陰が再下獄される頃からしだいに疎遠となり、そのころ家督を継いだこともあって、実家に引きこもった状態になっていた。
そして1859年(安政6年)安政の大獄により江戸に送られた吉田松陰は処刑されてしまうのである。
1860年(万延元年)江戸詰めを命じられて出府した時山は、江戸遊学を許されて滞在していた久坂玄瑞たちと行動を共にすることが多くなっていた。
その一方で、槍の稽古にも通い、儒学者・安井息軒の主宰する三計塾にも入門する。
1862年(文久2年)尾寺新之丞らとともに。「航海遠略策」を朝廷に周旋するために上洛する、長井雅楽の供として京都へ随従する。
ちょうどこの頃、「航海遠略策」に反対し、長井その人の暗殺をも計画していた久坂や山縣たち松門生たちである。
久坂たちの過激な行動をなんとか思いとどまらせようと時山たちをあえて送り込んだのは、桂小五郎であった。
桂はこれ以上無駄な犠牲は出したくない、今はまだ時期尚早であると判断していたためである。
久坂たちの暴走を抑える役目も、時山たちは請け負っていた。
1863年(文久3年)時山は主に久坂たちと行動を共にしており、石清水八幡宮行幸にも警備の一員として随従し、馬関での攘夷決行時には光明寺党の一員として出撃している。
8.18の政変時にも、禁門の変にも常に久坂や桂たちと行動し、また奇兵隊にも早くから参加し、戦いの最前線に立ち続けた。
1864年(元治元年)四国艦隊との馬関戦争では、奇兵隊を率いて前田砲台の攻防戦を指揮し、1866年(慶応2年)の四境戦争において、軍監山縣を補佐する参謀として、4ヶ月に及ぶ激戦の最前線で陣頭指揮をした。
1868年(慶応4年)北陸道鎮撫総督参謀の山縣有朋らとともに越後へ向かうことになる。
越後長岡藩は強く、佐幕派諸藩の連携も取れており、長岡城攻略は難航した。
攻略の要となる朝日山・妙見峠を会津藩兵から奪還すべく、5月13日奇兵隊の精鋭は峠を攻め上るのだ。
いったんは会津藩兵を退却に追い込んだのだが、桑名藩から応援に来ていた立見鑑三郎率いる雷神隊の猛反撃にあい、陣頭にて指揮していた時山は、敵兵に撃たれて即死。
戦場の最前線であったので、奇兵隊士が時山の首を掻き斬り持ち帰るのが精一杯で、遺体はその場に泣く泣く放置して退却せざるをえない状況であったという。
時山直八、享年31歳であった。
この時山の戦死は、山縣や品川弥二郎をはじめとする門弟たちに動揺を与えた。
山縣は時山の首を目にしてショックを隠しきれず、品川は後々まで山縣に対し「時山を殺したのはお前だ」と非難を続けたという。
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