2008年04月10日
前原一誠 誠実さ人に過る
前原一誠は佐世彦七の長男として生まれ、本姓は宇多源氏佐々木氏流。正式な名乗りは源 一誠。
通称は八十郎、彦太郎。従四位。
遠祖はあの尼子氏重臣で、のちに毛利氏家臣となった佐世清宗である。

1857年(安政4年)久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。
松陰からは「誠実さ人に過る」と愛されたようだ。
1859年(安政6年)安政の大獄で松陰が処刑された後は長崎で洋学を学んだ。
1862年(文久2年)には久坂玄瑞らとともに脱藩して、師匠である松陰の江戸護送を阻止しなかったことから恨んでいた藩の直目付である長井雅楽暗殺を計画。
しかし、暗殺実行前の文久3年(1863年)、雅楽は奸物として藩命により切腹となってしまい、これは徒労に終わり、その後、7月に攘夷監察使の東園基敬に従って時山直八と紀州に行き、帰藩して8.18の政変により京を離れ長州藩を頼った三条実美ら七卿の用掛となっている。
1864年(元治元)の馬関戦争で外国艦隊と戦い、1865年12月15日高杉晋作が伊藤俊輔や石川小五郎らわずか80人を率いて起こした功山寺挙兵に行動を共にし、長州藩の政権を掌握します。
その後は倒幕運動に協力し、明治元年(1868年)の戊辰戦争では会津戦線で活躍した。
この功績により、明治政府では参議に任じられて重用され、大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねた。
しかし前原はろくろく出省せず、その為、船越衛は前原不出仕による省務の停滞を度々嘆いている。また、戦いは武士が行うものだと信じる前原一誠は大村の目指した「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して、同じ長州藩出身者である木戸孝允と対立する。
やがて大村の路線の後継者である山縣有朋に追われる形で下野し、明治9年(1876年)に奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こした。しかし即座に政府軍によって鎮圧され、前原は捕らえられて処刑されたのである。
享年43歳、誠実すぎる前原の人柄は時代の変化に着いては行けず、同じ門弟たちからも遠ざけられてしまった。
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通称は八十郎、彦太郎。従四位。
遠祖はあの尼子氏重臣で、のちに毛利氏家臣となった佐世清宗である。

1857年(安政4年)久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。
松陰からは「誠実さ人に過る」と愛されたようだ。
1859年(安政6年)安政の大獄で松陰が処刑された後は長崎で洋学を学んだ。
1862年(文久2年)には久坂玄瑞らとともに脱藩して、師匠である松陰の江戸護送を阻止しなかったことから恨んでいた藩の直目付である長井雅楽暗殺を計画。
しかし、暗殺実行前の文久3年(1863年)、雅楽は奸物として藩命により切腹となってしまい、これは徒労に終わり、その後、7月に攘夷監察使の東園基敬に従って時山直八と紀州に行き、帰藩して8.18の政変により京を離れ長州藩を頼った三条実美ら七卿の用掛となっている。
1864年(元治元)の馬関戦争で外国艦隊と戦い、1865年12月15日高杉晋作が伊藤俊輔や石川小五郎らわずか80人を率いて起こした功山寺挙兵に行動を共にし、長州藩の政権を掌握します。
その後は倒幕運動に協力し、明治元年(1868年)の戊辰戦争では会津戦線で活躍した。
この功績により、明治政府では参議に任じられて重用され、大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねた。
しかし前原はろくろく出省せず、その為、船越衛は前原不出仕による省務の停滞を度々嘆いている。また、戦いは武士が行うものだと信じる前原一誠は大村の目指した「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して、同じ長州藩出身者である木戸孝允と対立する。
やがて大村の路線の後継者である山縣有朋に追われる形で下野し、明治9年(1876年)に奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こした。しかし即座に政府軍によって鎮圧され、前原は捕らえられて処刑されたのである。
享年43歳、誠実すぎる前原の人柄は時代の変化に着いては行けず、同じ門弟たちからも遠ざけられてしまった。
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