2008年04月08日
山田顕義 用兵の妙、神の如し
日本大学の祖 山田顕義。
1844年(弘化元年)萩藩士・山田七兵衛の長男として生まれる。

松本村の新山直衛塾に学び、また、伯父山田亦介により、中村九郎と竹内竹叢から兵学を教授される。
その後、藩校明倫館に学んだ後、15歳の時に伯父の勧めで松下村塾に入門、吉田松陰に師事する。松陰にとって最年少の門下生だったようである。
1862年(文久2年)高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ねる。
その後、長州藩の内乱に参戦するなど倒幕の志士として数々の戦いに参加。
1863年(文久3年)孝明天皇の攘夷祈願の賀茂社行幸にあたり、御前警護のため世子毛利定広に随行し、4月11日には石清水八幡宮への行幸にも同様に随行している。
そして8.18の政変で、堺町御門を戒厳、大砲掛となるが、三条実美以下7人の尊攘派公卿とともに長州亡命に同行。
途中、兵庫から大坂経由で京都へ上り潜伏し、12月に長州に帰国している。
帰国した山田は藩から遊撃隊御用掛を命ぜられ、普門寺塾で大村益次郎から西洋兵学を学んでいる。
この大村益次郎との関係は後々まで重要な関係になっていく。
蛤御門の変にも当然ながら参陣し、山崎に布陣する久坂玄瑞、真木和泉らの陣に加わり奮戦するも、長州軍は大敗し、なんとか逃げ帰っている。
この蛤御門の変で長州は久坂、入江、寺島などの有望な若者を失い、残った山田達は苦労していくことになる。
残党狩りを掻い潜り長州に戻った山田は大田市之進、品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となり、四カ国連合艦隊の馬関戦争で奮戦するが、ここでも長州藩は敗北してしまう。
このことで外国の力を再確認させられ、なおかつ1藩倒幕の困難を認識させられたものと思われる。
求心力を失っていた長州藩は対幕恭順論の「俗論派」による藩支配が進み、しばらくは山田達も身の危険にさらされる生活が続いていた。
そこに高杉晋作の決起行動がおこり、これに参戦し勝利に貢献し「俗論派」を排除し、藩論を倒幕に統一する。
薩長同盟により倒幕の動きが強くなってくると幕府は長州藩を危険分子とし再び長州征伐を試みる。
山田顕義は1866年(慶応2年)第二次長州征伐に際し、藩海軍総督の高杉晋作から小型砲艦・丙寅丸の砲隊長に任命され、周防大島沖で幕府軍艦を奇襲攻撃し、御楯隊司令として芸州口に転戦、数々の勝利を収めていく。
第2次長州征伐は薩摩の不参加や、長州軍の最新兵器、幕府軍の統率の悪さなどの理由により長州の圧勝で終わる。
先の戦いでの実力が認められ御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。
薩摩藩からの倒幕のための出兵要請を受けた藩主毛利敬親の命で、全軍総督毛利内匠の東征軍先鋒隊700余とともに海路東上、京都に入り、 1868年(慶応4年)鳥羽・伏見の戦いにおいて、新政府・仁和寺宮嘉彰征討総督の副参謀に任命され、勝利に導いていく。
その後は陸軍参謀兼海陸軍参謀として官軍を率い、東北諸藩との戦いや箱館戦争で勝利した。
維新の軍功により新政府から永世600石の禄を下賜されるが、そんなおり大村益次郎の暗殺未遂がおこる。病床の大村より日本近代軍制の創設について指示を受け、兵部少輔久我通久と連署で大村の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出。大村の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力するしていく。
維新後、明治7年に江藤進平らが起こした「佐賀の乱」、明治10年に西郷隆盛らが起こした「西南の役」に征討軍の将として参加し、いずれも鎮圧。その戦術は「用兵の妙、神の如し」と評された。
明治新政府では、東京鎮台司令長官、司法大輔、陸軍中将、参議、工部・内務・司法の各卿などを歴任。明治18年、初代の司法大臣として入閣し、法典編纂に貢献し、法典伯と称される。
明治24年、病気のため辞職するまで、伊藤、黒田、山県、松方の四代の内閣で司法大臣を務める。
また、教育を重視し、明治22年日本大学の前身である日本法律学校を創設し、次いで翌年、國學院(現在の國學院大学)を設立、その後公私法律学校を育成した。
明治25年帰郷途中、生野銀山で急逝。享年49歳
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1844年(弘化元年)萩藩士・山田七兵衛の長男として生まれる。

松本村の新山直衛塾に学び、また、伯父山田亦介により、中村九郎と竹内竹叢から兵学を教授される。
その後、藩校明倫館に学んだ後、15歳の時に伯父の勧めで松下村塾に入門、吉田松陰に師事する。松陰にとって最年少の門下生だったようである。
1862年(文久2年)高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ねる。
その後、長州藩の内乱に参戦するなど倒幕の志士として数々の戦いに参加。
1863年(文久3年)孝明天皇の攘夷祈願の賀茂社行幸にあたり、御前警護のため世子毛利定広に随行し、4月11日には石清水八幡宮への行幸にも同様に随行している。
そして8.18の政変で、堺町御門を戒厳、大砲掛となるが、三条実美以下7人の尊攘派公卿とともに長州亡命に同行。
途中、兵庫から大坂経由で京都へ上り潜伏し、12月に長州に帰国している。
帰国した山田は藩から遊撃隊御用掛を命ぜられ、普門寺塾で大村益次郎から西洋兵学を学んでいる。
この大村益次郎との関係は後々まで重要な関係になっていく。
蛤御門の変にも当然ながら参陣し、山崎に布陣する久坂玄瑞、真木和泉らの陣に加わり奮戦するも、長州軍は大敗し、なんとか逃げ帰っている。
この蛤御門の変で長州は久坂、入江、寺島などの有望な若者を失い、残った山田達は苦労していくことになる。
残党狩りを掻い潜り長州に戻った山田は大田市之進、品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となり、四カ国連合艦隊の馬関戦争で奮戦するが、ここでも長州藩は敗北してしまう。
このことで外国の力を再確認させられ、なおかつ1藩倒幕の困難を認識させられたものと思われる。
求心力を失っていた長州藩は対幕恭順論の「俗論派」による藩支配が進み、しばらくは山田達も身の危険にさらされる生活が続いていた。
そこに高杉晋作の決起行動がおこり、これに参戦し勝利に貢献し「俗論派」を排除し、藩論を倒幕に統一する。
薩長同盟により倒幕の動きが強くなってくると幕府は長州藩を危険分子とし再び長州征伐を試みる。
山田顕義は1866年(慶応2年)第二次長州征伐に際し、藩海軍総督の高杉晋作から小型砲艦・丙寅丸の砲隊長に任命され、周防大島沖で幕府軍艦を奇襲攻撃し、御楯隊司令として芸州口に転戦、数々の勝利を収めていく。
第2次長州征伐は薩摩の不参加や、長州軍の最新兵器、幕府軍の統率の悪さなどの理由により長州の圧勝で終わる。
先の戦いでの実力が認められ御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。
薩摩藩からの倒幕のための出兵要請を受けた藩主毛利敬親の命で、全軍総督毛利内匠の東征軍先鋒隊700余とともに海路東上、京都に入り、 1868年(慶応4年)鳥羽・伏見の戦いにおいて、新政府・仁和寺宮嘉彰征討総督の副参謀に任命され、勝利に導いていく。
その後は陸軍参謀兼海陸軍参謀として官軍を率い、東北諸藩との戦いや箱館戦争で勝利した。
維新の軍功により新政府から永世600石の禄を下賜されるが、そんなおり大村益次郎の暗殺未遂がおこる。病床の大村より日本近代軍制の創設について指示を受け、兵部少輔久我通久と連署で大村の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出。大村の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力するしていく。
維新後、明治7年に江藤進平らが起こした「佐賀の乱」、明治10年に西郷隆盛らが起こした「西南の役」に征討軍の将として参加し、いずれも鎮圧。その戦術は「用兵の妙、神の如し」と評された。
明治新政府では、東京鎮台司令長官、司法大輔、陸軍中将、参議、工部・内務・司法の各卿などを歴任。明治18年、初代の司法大臣として入閣し、法典編纂に貢献し、法典伯と称される。
明治24年、病気のため辞職するまで、伊藤、黒田、山県、松方の四代の内閣で司法大臣を務める。
また、教育を重視し、明治22年日本大学の前身である日本法律学校を創設し、次いで翌年、國學院(現在の國學院大学)を設立、その後公私法律学校を育成した。
明治25年帰郷途中、生野銀山で急逝。享年49歳
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