2008年04月07日
品川弥二郎 奔走する
1843年(天保14年)萩の足軽・弥市右衛門の長男として生まれる。
通称:省吾、弥吉、弥二郎。変名:橋本八郎、松本清熊。
品川弥二郎は、近所で評判の松下村塾に入門したいと父に願い出る。
父に許され、1857年(安政4年)松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるようになる。
学問に熱心な品川は、近所に自宅があったにも関わらず、時間を忘れて泊り込むこともしばしばだったという。
その当時の品川を松陰は「温厚、正直で人情に厚く、うわべを飾らない人物である。能力が抜きん出てはいないが、心が広く奥深いのが優れたところだ」と評している。

そんな一生懸命に学ぶ品川であったが、程なくして松陰が捕縛されてしまうために実際は松陰といた時間は長くはない。
しかし、翌年の1858年(安政5年)12月には梅田雲浜に捕縛に絡み、松陰が捕縛され野山獄に投獄されると、品川は松陰の冤罪を訴えて謹慎させられてしまう。
1859年(安政7年)井伊直弼による安政の大獄で松陰が処刑されると、高杉晋作と行動を共にし、尊王攘夷運動に加わった。
他の門弟たちと同様に松陰の死によって倒幕の強い意思を固めたことは間違いないだろう。
文久2年上京して寺田屋事件に関与していたとおもわれる
そして江戸に行き、高杉晋作らとともにイギリス公使館を襲撃計画をたて、御楯組の血盟に参加した。
1863年(文久3年)8.18の政変により一時長州に帰国する。
このとき品川弥二郎は、追放された七卿とともに世話役として長州まで同行した。
そして長州は運命の1864年(元治元年)禁門の変を向かえるのだ。
品川は禁門の変では八幡隊の隊長として参戦。
この戦いで、久坂玄瑞や、入江九一、寺島忠三郎など、先輩塾生を失い、品川自身も敗れると、西本願寺にかくまわれ、僧侶の変装をして、やっとのことで脱出したといわれている。
長州にとってはあまりにも多くの犠牲が出た戦いであった。
敗れてなんとか帰国した品川弥二郎は山田顕義らと協力して御盾隊を組織し、再度攻めてくるであろう幕府軍に備えていた。
1865年(慶応元年)木戸孝允と共に上京し、薩長同盟の連絡役となり、そして同盟成立後、薩摩藩の人質となっている。
薩長同盟の成立により倒幕の勢いが加速していくと品川もその最前線にて奮戦していく。
大久保一蔵と岩倉具視に会い、錦旗調製のことを託されるとともに、討幕の密勅を奉じて広沢兵助らと山口に帰ったのも品川である。
戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀として活躍。
明治維新後の品川弥二郎は明治3年(1870年)、渡欧して普仏戦争を視察した。
帰国後は内務少輔、農商務大輔などを歴任し、明治24年(1891年)に成立した第1次松方正義内閣のもとで内務大臣となった。
しかし、松方の命で次官の白根専一とともに内務省管轄下にあった警察を動員して、強力な選挙干渉を行なって死者まで出した経緯を国民から非難され、引責辞職を余儀なくされてしまった。
その後は西郷従道と協力して国民協会を組織する。
これは国権主義的な政治団体である。また、獨逸学協会学校や旧制京華中学校の創立、信用組合の設立にも貢献した。
1900年(明治33年)58歳で死去。
戊辰戦争のとき、新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」(「宮さん宮さん」)は、弥二郎が作詞者であると言われている
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通称:省吾、弥吉、弥二郎。変名:橋本八郎、松本清熊。
品川弥二郎は、近所で評判の松下村塾に入門したいと父に願い出る。
父に許され、1857年(安政4年)松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるようになる。
学問に熱心な品川は、近所に自宅があったにも関わらず、時間を忘れて泊り込むこともしばしばだったという。
その当時の品川を松陰は「温厚、正直で人情に厚く、うわべを飾らない人物である。能力が抜きん出てはいないが、心が広く奥深いのが優れたところだ」と評している。

そんな一生懸命に学ぶ品川であったが、程なくして松陰が捕縛されてしまうために実際は松陰といた時間は長くはない。
しかし、翌年の1858年(安政5年)12月には梅田雲浜に捕縛に絡み、松陰が捕縛され野山獄に投獄されると、品川は松陰の冤罪を訴えて謹慎させられてしまう。
1859年(安政7年)井伊直弼による安政の大獄で松陰が処刑されると、高杉晋作と行動を共にし、尊王攘夷運動に加わった。
他の門弟たちと同様に松陰の死によって倒幕の強い意思を固めたことは間違いないだろう。
文久2年上京して寺田屋事件に関与していたとおもわれる
そして江戸に行き、高杉晋作らとともにイギリス公使館を襲撃計画をたて、御楯組の血盟に参加した。
1863年(文久3年)8.18の政変により一時長州に帰国する。
このとき品川弥二郎は、追放された七卿とともに世話役として長州まで同行した。
そして長州は運命の1864年(元治元年)禁門の変を向かえるのだ。
品川は禁門の変では八幡隊の隊長として参戦。
この戦いで、久坂玄瑞や、入江九一、寺島忠三郎など、先輩塾生を失い、品川自身も敗れると、西本願寺にかくまわれ、僧侶の変装をして、やっとのことで脱出したといわれている。
長州にとってはあまりにも多くの犠牲が出た戦いであった。
敗れてなんとか帰国した品川弥二郎は山田顕義らと協力して御盾隊を組織し、再度攻めてくるであろう幕府軍に備えていた。
1865年(慶応元年)木戸孝允と共に上京し、薩長同盟の連絡役となり、そして同盟成立後、薩摩藩の人質となっている。
薩長同盟の成立により倒幕の勢いが加速していくと品川もその最前線にて奮戦していく。
大久保一蔵と岩倉具視に会い、錦旗調製のことを託されるとともに、討幕の密勅を奉じて広沢兵助らと山口に帰ったのも品川である。
戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀として活躍。
明治維新後の品川弥二郎は明治3年(1870年)、渡欧して普仏戦争を視察した。
帰国後は内務少輔、農商務大輔などを歴任し、明治24年(1891年)に成立した第1次松方正義内閣のもとで内務大臣となった。
しかし、松方の命で次官の白根専一とともに内務省管轄下にあった警察を動員して、強力な選挙干渉を行なって死者まで出した経緯を国民から非難され、引責辞職を余儀なくされてしまった。
その後は西郷従道と協力して国民協会を組織する。
これは国権主義的な政治団体である。また、獨逸学協会学校や旧制京華中学校の創立、信用組合の設立にも貢献した。
1900年(明治33年)58歳で死去。
戊辰戦争のとき、新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」(「宮さん宮さん」)は、弥二郎が作詞者であると言われている
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