2008年04月04日
野村靖 兄の無念を晴らす
野村靖、1842年(天保13年)長州藩 入江嘉伝次の三男として生まれ、幼名を和作と言いました。
兄に入江九一がおり、兄の九一が入江氏の家督を継いだため、靖は父の実家の野村氏の家督を継いだ。

1857年(安政4年)16歳の時に吉田松蔭の門に入り、常に尊攘の事に奔走し、吉田松陰からの信頼も厚かったようである。
野村は兄・入江とともに1859年(安政6年)2月、老中 間部詮勝の暗殺計画に加わります。
この計画は長州藩行相府宛てに、松陰自ら襲撃申請をしており、藩府より吉田松陰は投獄・松下村塾の閉鎖をもって阻止されてします。
当然ながら野村も兄の入江も捕縛されます。
どこの世の中に襲撃することを申請する人がいるのでしょうか?
この辺りも松陰の実直なところなんでしょうね。
その後、罪を許されて釈放されるのですが、松陰救出のため他の塾生たちが尻込みした「伏見要駕策」 (藩主を伏見で待ち伏せし、上洛して幕府の失政を問いただしてもらおうとするもの)に兄とともに立ち上がるのです。
結局他の塾生から情報が漏れ、兄の入江九一の代わりに伏見要駕策を実行しようとした野村はまたしても逮捕され、共謀した罪で入江九一も投獄されてしまう。
1862年(文久2年)には横浜のイギリス公使館の焼き討ちにも高杉晋作・久坂玄瑞たちの同志と血盟した。
1864年(文久4年)8・18の政変によって兄の入江九一を失い、長州も大敗すると、七卿とともに西下し、その御用掛として陪従し、また元冶元年の藩主雪冤運動に、慶応元年の藩論回復運動に尽力するところが多く、2年6月の幕長戦には芸州小瀬川口に出征した。
明治4年7月宮内権大丞に任ぜられ、宮内少丞を経て外務大記に転じ、特命全権大使岩倉具視に随行して欧米各国を視察、6年7月帰朝して外務省に出仕し、8年外務権大丞となり、9月江華島事件に際しては黒田清隆に随行して朝鮮に出張。ついで神奈川県権令、11年同県令となり、14年駅逓総監、18年逓信大輔心得、19年逓信次官に進んだ。21年枢密院顧問官、24年フランス等の外国公使を勤め、27年第二次伊藤内閣内務大臣、第二次松方内閣逓信大臣となり、40年富美宮・泰宮両内親王養育掛長を勤めて晩年に及んだ。ついで脳溢血症のため鎌倉御用邸で病死した。
年68没。
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兄に入江九一がおり、兄の九一が入江氏の家督を継いだため、靖は父の実家の野村氏の家督を継いだ。

1857年(安政4年)16歳の時に吉田松蔭の門に入り、常に尊攘の事に奔走し、吉田松陰からの信頼も厚かったようである。
野村は兄・入江とともに1859年(安政6年)2月、老中 間部詮勝の暗殺計画に加わります。
この計画は長州藩行相府宛てに、松陰自ら襲撃申請をしており、藩府より吉田松陰は投獄・松下村塾の閉鎖をもって阻止されてします。
当然ながら野村も兄の入江も捕縛されます。
どこの世の中に襲撃することを申請する人がいるのでしょうか?
この辺りも松陰の実直なところなんでしょうね。
その後、罪を許されて釈放されるのですが、松陰救出のため他の塾生たちが尻込みした「伏見要駕策」 (藩主を伏見で待ち伏せし、上洛して幕府の失政を問いただしてもらおうとするもの)に兄とともに立ち上がるのです。
結局他の塾生から情報が漏れ、兄の入江九一の代わりに伏見要駕策を実行しようとした野村はまたしても逮捕され、共謀した罪で入江九一も投獄されてしまう。
1862年(文久2年)には横浜のイギリス公使館の焼き討ちにも高杉晋作・久坂玄瑞たちの同志と血盟した。
1864年(文久4年)8・18の政変によって兄の入江九一を失い、長州も大敗すると、七卿とともに西下し、その御用掛として陪従し、また元冶元年の藩主雪冤運動に、慶応元年の藩論回復運動に尽力するところが多く、2年6月の幕長戦には芸州小瀬川口に出征した。
明治4年7月宮内権大丞に任ぜられ、宮内少丞を経て外務大記に転じ、特命全権大使岩倉具視に随行して欧米各国を視察、6年7月帰朝して外務省に出仕し、8年外務権大丞となり、9月江華島事件に際しては黒田清隆に随行して朝鮮に出張。ついで神奈川県権令、11年同県令となり、14年駅逓総監、18年逓信大輔心得、19年逓信次官に進んだ。21年枢密院顧問官、24年フランス等の外国公使を勤め、27年第二次伊藤内閣内務大臣、第二次松方内閣逓信大臣となり、40年富美宮・泰宮両内親王養育掛長を勤めて晩年に及んだ。ついで脳溢血症のため鎌倉御用邸で病死した。
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