2008年04月03日
攘夷の医師 所郁太郎
瀕死の井上聞多を治療した名医 所郁太郎。
美濃国赤坂の商人、矢橋亦一の四男として生まれ、大野郡の医者・所伊織の養子となった。

初め、加納藩の青木松軒に学んでいたが、京に出て安藤桂洲に学ぶ。
このころ、同じく美濃出身の柳川星巌と親交を結び、1860年(万延元年)には大坂の適塾に入り、緒方洪庵に学んだ。
ついで京の長州藩邸の側に開業したため、この頃から長州藩士と交わり、尊王思想の大義を説いている。
朱に交われば赤くなるじゃないだろうか・
長州藩邸に出入りしているうちに、洗脳?され元々柳川星巌などと親しいこともあり、」桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作などの思想はすんなりと受け入れられていったようだ。
このころから井上聞多とは仲が良くなっていたんではないだろうか。
1863年(文久3年)には長州藩邸内の医院総督となり、8.18の政変では長州に下向し遊撃隊医官の長となっている。
1864年(元治元年)には長州藩の吉敷郡に開業し、そして9月には刺客に襲われて重傷を負い瀕死状態の井上聞多の治療にあたり、井上の一命を救うのに成功している。
その時、郁太郎は、手術道具がないものの、畳針によって井上の一命を取り留めたのである。
郁太郎が井上の家に着いた時は、すでに2人の医者がいたが、全く手をつけられず、結局郁太郎によって助けられた。
このことから、かなりの手術技術を持っていたといえる。
翌年には遊撃隊参謀として高杉晋作を助けて転戦したが、陣中で発病し吉敷村の陣営で没した。
所郁太郎 享年28歳であった。
所郁太郎、生きていれば美濃を代表する人物になっていただろう。
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美濃国赤坂の商人、矢橋亦一の四男として生まれ、大野郡の医者・所伊織の養子となった。

初め、加納藩の青木松軒に学んでいたが、京に出て安藤桂洲に学ぶ。
このころ、同じく美濃出身の柳川星巌と親交を結び、1860年(万延元年)には大坂の適塾に入り、緒方洪庵に学んだ。
ついで京の長州藩邸の側に開業したため、この頃から長州藩士と交わり、尊王思想の大義を説いている。
朱に交われば赤くなるじゃないだろうか・
長州藩邸に出入りしているうちに、洗脳?され元々柳川星巌などと親しいこともあり、」桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作などの思想はすんなりと受け入れられていったようだ。
このころから井上聞多とは仲が良くなっていたんではないだろうか。
1863年(文久3年)には長州藩邸内の医院総督となり、8.18の政変では長州に下向し遊撃隊医官の長となっている。
1864年(元治元年)には長州藩の吉敷郡に開業し、そして9月には刺客に襲われて重傷を負い瀕死状態の井上聞多の治療にあたり、井上の一命を救うのに成功している。
その時、郁太郎は、手術道具がないものの、畳針によって井上の一命を取り留めたのである。
郁太郎が井上の家に着いた時は、すでに2人の医者がいたが、全く手をつけられず、結局郁太郎によって助けられた。
このことから、かなりの手術技術を持っていたといえる。
翌年には遊撃隊参謀として高杉晋作を助けて転戦したが、陣中で発病し吉敷村の陣営で没した。
所郁太郎 享年28歳であった。
所郁太郎、生きていれば美濃を代表する人物になっていただろう。
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