2008年03月26日
伊藤俊輔 志士の目覚め
松下村塾の門下生であり、初代内閣総理大臣の伊藤博文。
周防国熊毛郡束荷村の農民・十蔵、琴子の長男として生まれ、幼名は利助、のち俊輔。
家は貧しく幼い頃より奉公に出る。

父が萩藩の中間水井武兵衛(後に伊藤直右衛門と改名)の養子となったことにより下級武士の身分を得ることになり、そのことで松下村塾で学ぶようになるのだ。
当然ながら松下村塾にて、久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一、吉田稔麿など多くの仲間と出会うことで尊皇攘夷運動に奔走することになる。
どういった経緯かは分からないが、桂小五郎と行動を共にするようになる。
1859年(安政6年)桂が江戸勤務を命じられると、桂は伊藤俊輔を共につれて江戸に赴くのである。
江戸に着いた伊藤を待っていたのはとても辛い師・吉田松陰の死でした。
安政の大獄により捕縛された吉田松陰は江戸に送られ10月29日斬首されます。
伊藤は桂と共に吉田松陰の遺体を引き取りに行き、千住回向院に埋葬します。
他の門下生同様に伊藤の心にも倒幕の意志が固まった瞬間でもありました。
1862年(文久2年)坂下門の変が起こり、これに失敗した水戸藩浪士の、川辺左治右衛門が長州藩邸にて自決したことにより、たまたまその場に居合わせた伊藤俊輔も幕府に拘束されることになりますが、幕府は桂のほうを重点的に調べ結局これといった因果関係が見つからないため為に釈放される。
桂と共に江戸から京へと向かった伊藤は今日にて久坂とともに公武合体論を主張する長州藩長井雅楽の暗殺を画策しますが失敗に終わり、このことで桂の義弟・来原良蔵が自決するという予想外のことがおきます。
伊藤は桂と良く行動を共にしていたので来原とも昵懇だったのでしょう。来原の遺骸を萩まで届けに行くのです。
その後また桂と共に江戸に戻って行くのですが、12月高杉晋作、久坂玄瑞らとともにイギリス公使館焼き討ちに参加するのです。
慎重派の桂と行動派ともにはしていましたが、やはりそこは血気盛んな志士だったのでしょう高杉たちの過激な行動に惹かれて行きます。
12月21日、山尾庸三とともに、国学者・塙次郎、加藤甲次郎を斬殺するという過激な行動をする。
翌1863年(文久3年)伊藤は同じ松下村塾の門下生・入江九一の妹を娶り、その後すぐに士分として取り立てられる。
5月には桂の後押しもあり、幕府に内密で藩からの許可も貰い、井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らと共にイギリスに留学の旅に出るのである。
イギリスにて文化の違いや国力の違いを痛感した伊藤俊輔は四国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上聞多とともに急ぎ帰国、山口政治堂に入り攘夷戦争の中止を懇願するのだ。
二人の説得も虚しく伊藤らを外国のスパイ扱いにして、二人を斬るべし、と激昂する者もいて、不穏な空気が藩内を満たしはじめていました。
こうした空気を一掃するため、6月30日、藩政府は改めて攘夷の布告を発して、決戦の覚悟します。
そのころ長州の主力部隊は京に向けて進軍しており萩には戦えるだけの戦力はありませんでした。
藩政府は伊藤、井上両名に4カ国との執り成しを頼みますが、そんな虫のいい話は4カ国も認めることはなく、京にいる桂に相談をしに向かっていた伊藤の下に品川弥二郎より長州軍が大敗し長州追討令が出された事が知らされます。
伊藤は急ぎ萩に戻ります。京において久坂、入江、吉田など主力の仲間がすべて戦死してしまったこと、頼みの桂も行方知れずになっていること等、すべてが暗転していました。
萩において頼みの綱は高杉晋作のみです。
8月4日、4カ国艦隊の砲撃が一斉に火を噴きます。
長州軍も応戦し頑張りますが、火力の差、兵力の差は埋めることが出来ません。
開戦まもなくして長州藩は和議を決意します。
このままでは長州藩が壊滅状態になってしまう危険もありました。
しかし藩内の攘夷派はそんな状況でも納得が出来ません。
和議を提案する伊藤、高杉の命を狙う者も出る始末だったため両名は雲隠れしてしまいます。
こうして伊藤俊輔は高杉と共に長崎に逃亡ししばらく身を隠すことになるのです。
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当然ながら松下村塾にて、久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一、吉田稔麿など多くの仲間と出会うことで尊皇攘夷運動に奔走することになる。
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江戸に着いた伊藤を待っていたのはとても辛い師・吉田松陰の死でした。
安政の大獄により捕縛された吉田松陰は江戸に送られ10月29日斬首されます。
伊藤は桂と共に吉田松陰の遺体を引き取りに行き、千住回向院に埋葬します。
他の門下生同様に伊藤の心にも倒幕の意志が固まった瞬間でもありました。
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そのころ長州の主力部隊は京に向けて進軍しており萩には戦えるだけの戦力はありませんでした。
藩政府は伊藤、井上両名に4カ国との執り成しを頼みますが、そんな虫のいい話は4カ国も認めることはなく、京にいる桂に相談をしに向かっていた伊藤の下に品川弥二郎より長州軍が大敗し長州追討令が出された事が知らされます。
伊藤は急ぎ萩に戻ります。京において久坂、入江、吉田など主力の仲間がすべて戦死してしまったこと、頼みの桂も行方知れずになっていること等、すべてが暗転していました。
萩において頼みの綱は高杉晋作のみです。
8月4日、4カ国艦隊の砲撃が一斉に火を噴きます。
長州軍も応戦し頑張りますが、火力の差、兵力の差は埋めることが出来ません。
開戦まもなくして長州藩は和議を決意します。
このままでは長州藩が壊滅状態になってしまう危険もありました。
しかし藩内の攘夷派はそんな状況でも納得が出来ません。
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