2008年03月24日
武市瑞山 三文字切り
土佐の多くの郷士に慕われた武市半平太は土佐勤王党を結成する。

結成した翌年、1862年(文久2年)武市は土佐藩主 山内豊範への進言を退け、公武合体派の土佐藩 参政の吉田東洋暗殺を計画する。
土佐における上士と郷士の身分差別はかなりひどく、多くの郷士達の恨みの矛先にもなっていたのかもしれないが、武市自身も藩政の中で虐げられたところもあったのではないだろうか。
実行犯に選ばれたのは土佐勤王党の、那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助であった。
吉田東洋暗殺後、武市は東洋派重臣を要職からはずし、新たに要職に就いた守旧派を傀儡として藩政の実権を掌握していくことになる。
ついで藩主山内豊範を擁して入京し、他藩応接役として諸藩の有志と交わり、幕府に対して攘夷実行を命じる勅使を江戸に派遣するための朝廷工作に奔走する。
これらの動きが功を奏し、朝廷が攘夷の朝議を決した際、一橋慶喜がこれをくつがえそうと入京を画策したが、武市は、裏工作により、これを一時妨害することに成功している。
また、京における武市は数々の佐幕派暗殺を指示。
天誅、斬奸と称して、刺客を放ち、政敵を暗殺させていく。武市の下で岡田以蔵、薩摩藩の田中新兵衛が暗殺を繰り広げていき、土佐の吉田東洋の暗殺以後、暗殺のたびに自分自身の理想に近づいていくことに充実感もあったのではないだろうか。
攘夷督促の勅使三条実美や姉小路公知の東下にあたっては、姉小路の雑掌となり、柳川左門と変名して10月に京都を出発した。
このころが武市瑞山と土佐勤王党の最も華やかな活躍時代で、武市は年末に留守居組に列せられて上士格に進み、1863年(文久3年)京都留守居役となった。
しかし、そんな時代も長くは続かなかった。
1863年(文久3年)8月18日、会津藩と薩摩藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が中央政界で失脚すると事態は一転する。
勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握るようになる。
これは土佐藩でも同じように時勢に流されていく。公武合体派の前藩主で老公と呼ばれた山内容堂の影響力が再び増すこととなる。
土佐に帰国していた武市は、側近の平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太が青蓮院宮の令旨を盾に藩政改革を断行しようとしたことを理由に捕縛され、切腹を命じられていく姿を見ながら時代の変化に苦悩する日々を費やしていく。
そんな武市だったが、遂には武市自身にも捕縛命令が下りる。
9月に逮捕、投獄され、獄中闘争のなか、まだ捕まっていない同志を思い、吉田東洋暗殺も否定し続けた。
岡田以蔵が捕まると、武市は岡田以蔵が京でのあるゆることを自白する前に毒殺しようとするが失敗し、これに対し以蔵が怒りすべてを自白していくことになる。
岡田以蔵の自白により武市瑞山の罪状はおおむね決定するが、それでも武市は東洋暗殺を否定していたが、1865年(慶応元年)閏5月11日「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹を命ぜられる。
切腹に際し、武市は三文字の切腹を成し遂げて、武士の気概を見せつけた。
享年36歳。
このことが土佐藩を薩摩、長州に遅れをとる要因となったことはいうまでもない。
維新後、山内容堂は武市を殺してしまったことを何度も悔き、後藤、板垣は妻・富子に対し、武市を切腹させたのは間違っていたと頭を下げたという。
辞世の句は
ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり
ブログランキング参加中です。クリックして応援お願いします。


結成した翌年、1862年(文久2年)武市は土佐藩主 山内豊範への進言を退け、公武合体派の土佐藩 参政の吉田東洋暗殺を計画する。
土佐における上士と郷士の身分差別はかなりひどく、多くの郷士達の恨みの矛先にもなっていたのかもしれないが、武市自身も藩政の中で虐げられたところもあったのではないだろうか。
実行犯に選ばれたのは土佐勤王党の、那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助であった。
吉田東洋暗殺後、武市は東洋派重臣を要職からはずし、新たに要職に就いた守旧派を傀儡として藩政の実権を掌握していくことになる。
ついで藩主山内豊範を擁して入京し、他藩応接役として諸藩の有志と交わり、幕府に対して攘夷実行を命じる勅使を江戸に派遣するための朝廷工作に奔走する。
これらの動きが功を奏し、朝廷が攘夷の朝議を決した際、一橋慶喜がこれをくつがえそうと入京を画策したが、武市は、裏工作により、これを一時妨害することに成功している。
また、京における武市は数々の佐幕派暗殺を指示。
天誅、斬奸と称して、刺客を放ち、政敵を暗殺させていく。武市の下で岡田以蔵、薩摩藩の田中新兵衛が暗殺を繰り広げていき、土佐の吉田東洋の暗殺以後、暗殺のたびに自分自身の理想に近づいていくことに充実感もあったのではないだろうか。
攘夷督促の勅使三条実美や姉小路公知の東下にあたっては、姉小路の雑掌となり、柳川左門と変名して10月に京都を出発した。
このころが武市瑞山と土佐勤王党の最も華やかな活躍時代で、武市は年末に留守居組に列せられて上士格に進み、1863年(文久3年)京都留守居役となった。
しかし、そんな時代も長くは続かなかった。
1863年(文久3年)8月18日、会津藩と薩摩藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が中央政界で失脚すると事態は一転する。
勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握るようになる。
これは土佐藩でも同じように時勢に流されていく。公武合体派の前藩主で老公と呼ばれた山内容堂の影響力が再び増すこととなる。
土佐に帰国していた武市は、側近の平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太が青蓮院宮の令旨を盾に藩政改革を断行しようとしたことを理由に捕縛され、切腹を命じられていく姿を見ながら時代の変化に苦悩する日々を費やしていく。
そんな武市だったが、遂には武市自身にも捕縛命令が下りる。
9月に逮捕、投獄され、獄中闘争のなか、まだ捕まっていない同志を思い、吉田東洋暗殺も否定し続けた。
岡田以蔵が捕まると、武市は岡田以蔵が京でのあるゆることを自白する前に毒殺しようとするが失敗し、これに対し以蔵が怒りすべてを自白していくことになる。
岡田以蔵の自白により武市瑞山の罪状はおおむね決定するが、それでも武市は東洋暗殺を否定していたが、1865年(慶応元年)閏5月11日「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹を命ぜられる。
切腹に際し、武市は三文字の切腹を成し遂げて、武士の気概を見せつけた。
享年36歳。
このことが土佐藩を薩摩、長州に遅れをとる要因となったことはいうまでもない。
維新後、山内容堂は武市を殺してしまったことを何度も悔き、後藤、板垣は妻・富子に対し、武市を切腹させたのは間違っていたと頭を下げたという。
辞世の句は
ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり
ブログランキング参加中です。クリックして応援お願いします。

![]() | 『武市半平太―ある草莽の実像』批判―併せて我が国史壇批判 (2003/12) 横田 達雄 商品詳細を見る |
この記事へのトラックバックURL
http://shouin1859.gifulog.com/t36157
この記事へのコメント
TITLE:
SECRET: 0
PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
はじめまして、ブログ村からきました^^。
自分は、今、幕末の小説がすきで読んでます。
大村益次郎とか好きです。
志はあまり高くありませんが、全然関係ない絵も描いてます。
良かったら、見てください^^。
Posted by bokkusu at 2008年03月24日 17:53


