2008年03月18日
日々旅にあり 梁川星巌
我が大垣藩の誇る漢詩人 梁川星巌。
名は孟緯・字は公圖・美濃安八郡曽根村の人で、家は代々農業を生業とする豊かな豪農であった。
7歳の時郷の花溪寺に入り大随和尚に学び、12歳にして父母を亡し悲哀寝食を忘れるほどであった。
梁川星巌19歳の時に志を立て、家業の農事を弟の長興に譲って江戸に遊学し、古賀精里に入門する。
ついで昌平黌を受験するが身分格差によって断念、そのために山本北山の「奚疑塾」に入学した。
そこでは、経史・詩文などを研究し、特に詩作に関しては天才的能力を発揮したが、酒豪ともなり無一文になって一時帰郷することになる。
その後また江戸の「奚疑塾」に戻り、大田錦城らとともに北山門下十哲に数えられ、このとき京都などにも遊歴、また故郷の曽根に帰った。
江戸から戻った梁川星巌はこの曽根町で塾を開き、32才の時、1820年稲津長好の娘の紅蘭と結婚します。
しかし、星巌は結婚後すぐに旅に出てしまうのです。
妻の紅蘭には「ちょっと近国を漫遊してくる。その間にこの詩を暗誦しておきなさい」と言い出て行ってしまいました。
彼女は詩を完璧に覚えますが、星巖は一向に家に帰ってきません。周りの人たちが離婚を勧めますが、彼女はひたすら待ち続けます。
ついに、星巖が帰ってきますが、帰ってきたのは1年後。ずいぶん長い「ちょっと」です

やっと戻って来た梁川星巌ですが、この人も一種の病気です。じっとしている事が出来ません。
また旅に出ようとするのです。
紅蘭は「私も一緒にお供します。留守番はこりごりです。決して弱音をはきませんからお連れ下さい。」と頼み、星巖はしぶしぶながら紅蘭のいうことを聞き、二人での旅が始まります。
1822年、紅蘭と西遊の旅に出て広島・長崎などを訪れる。そしてまた故郷曽根に帰り、村瀬藤城・神田柳渓・江馬佃香ら白鴎社の詩人と往来した。
1827年には京都で頼山陽・日野資愛らとも交流し、1834年には江戸に入って神田お玉が池に新居を構え「玉池吟社」と称した。
なんと隣の家は佐久間象山で、星巌と紅蘭の夫婦喧嘩の仲裁にいつもはいっていたという。
江戸にいる頃には藤田東湖や西郷隆盛なども交流をしている。
このころにはすでに梁川星巌の名は有名で、鯖江藩主の間部詮勝や彦根藩家老の岡本黄石などが詩作の添削を依頼してくるほどであった。
1846年には突然、京都に移住し、鴨川近くに「黄葉山房」を開くが、のちに川端丸太町に引っ越して「鴨沂小隠」を開いている。本当に落ち着きのない人である・・・・[emoji:i-230]
ここでは佐久間象山や吉田松陰、宮部鼎蔵・梅田雲浜らが出入り時局を論じる。
幕府からはここを「悪謀の問屋」と評されるようになっていた。
その後、池内大学・春日潜庵・芝山昌道・小林良典らが来るようになると朝廷公卿の間にも名が知られるようになり、1858年、幕府が条約調印を行うとこれに憤慨、梅田雲浜らと公卿に攘夷を建言、水戸藩に密勅を降下させた。
間部詮勝が京都に入ると詩25首を賦して諌止せんとした。
1859年(安政6年)しかし井伊直弼の安政の大獄がはじまると真っ先に狙われることとなる。
だが逮捕の直前にコレラにかかって70歳で死亡した。
死後2日後に梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内が逮捕されて世の人は「星巌は死(詩)に上手」と評判した。
梁川星巌人生を通じて落ち着かない性格だったのか、あちこち移っているのが星巌らしさだろう。
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奥飛騨の山並みに囲まれてひっそりと佇む隠れ家
***** 奥飛騨温泉郷 寛ぎの舎 游 *****



名は孟緯・字は公圖・美濃安八郡曽根村の人で、家は代々農業を生業とする豊かな豪農であった。
7歳の時郷の花溪寺に入り大随和尚に学び、12歳にして父母を亡し悲哀寝食を忘れるほどであった。
梁川星巌19歳の時に志を立て、家業の農事を弟の長興に譲って江戸に遊学し、古賀精里に入門する。
ついで昌平黌を受験するが身分格差によって断念、そのために山本北山の「奚疑塾」に入学した。
そこでは、経史・詩文などを研究し、特に詩作に関しては天才的能力を発揮したが、酒豪ともなり無一文になって一時帰郷することになる。
その後また江戸の「奚疑塾」に戻り、大田錦城らとともに北山門下十哲に数えられ、このとき京都などにも遊歴、また故郷の曽根に帰った。
江戸から戻った梁川星巌はこの曽根町で塾を開き、32才の時、1820年稲津長好の娘の紅蘭と結婚します。
しかし、星巌は結婚後すぐに旅に出てしまうのです。
妻の紅蘭には「ちょっと近国を漫遊してくる。その間にこの詩を暗誦しておきなさい」と言い出て行ってしまいました。
彼女は詩を完璧に覚えますが、星巖は一向に家に帰ってきません。周りの人たちが離婚を勧めますが、彼女はひたすら待ち続けます。
ついに、星巖が帰ってきますが、帰ってきたのは1年後。ずいぶん長い「ちょっと」です

やっと戻って来た梁川星巌ですが、この人も一種の病気です。じっとしている事が出来ません。
また旅に出ようとするのです。
紅蘭は「私も一緒にお供します。留守番はこりごりです。決して弱音をはきませんからお連れ下さい。」と頼み、星巖はしぶしぶながら紅蘭のいうことを聞き、二人での旅が始まります。
1822年、紅蘭と西遊の旅に出て広島・長崎などを訪れる。そしてまた故郷曽根に帰り、村瀬藤城・神田柳渓・江馬佃香ら白鴎社の詩人と往来した。
1827年には京都で頼山陽・日野資愛らとも交流し、1834年には江戸に入って神田お玉が池に新居を構え「玉池吟社」と称した。
なんと隣の家は佐久間象山で、星巌と紅蘭の夫婦喧嘩の仲裁にいつもはいっていたという。
江戸にいる頃には藤田東湖や西郷隆盛なども交流をしている。
このころにはすでに梁川星巌の名は有名で、鯖江藩主の間部詮勝や彦根藩家老の岡本黄石などが詩作の添削を依頼してくるほどであった。
1846年には突然、京都に移住し、鴨川近くに「黄葉山房」を開くが、のちに川端丸太町に引っ越して「鴨沂小隠」を開いている。本当に落ち着きのない人である・・・・[emoji:i-230]
ここでは佐久間象山や吉田松陰、宮部鼎蔵・梅田雲浜らが出入り時局を論じる。
幕府からはここを「悪謀の問屋」と評されるようになっていた。
その後、池内大学・春日潜庵・芝山昌道・小林良典らが来るようになると朝廷公卿の間にも名が知られるようになり、1858年、幕府が条約調印を行うとこれに憤慨、梅田雲浜らと公卿に攘夷を建言、水戸藩に密勅を降下させた。
間部詮勝が京都に入ると詩25首を賦して諌止せんとした。
1859年(安政6年)しかし井伊直弼の安政の大獄がはじまると真っ先に狙われることとなる。
だが逮捕の直前にコレラにかかって70歳で死亡した。
死後2日後に梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内が逮捕されて世の人は「星巌は死(詩)に上手」と評判した。
梁川星巌人生を通じて落ち着かない性格だったのか、あちこち移っているのが星巌らしさだろう。
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