2008年03月17日

攘夷の支柱 梅田雲浜

攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの精神的なリーダー梅田雲浜
吉田松陰が斬首さっれるきっかけになってしまった人である。

1815年(文化12年)小浜藩藩士・矢部義比の次男として生まれる。
幼名を義質のち定明といい、通称は源次郎といいました。

藩校・順造館で学び、1830年(天保元年)、藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学び、その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、梅田雲浜の名が有名になっていく。
0044_r.jpg

大津に湖南塾を開いていたが、1843年(天保14年)には京都へ上京して藩の塾である望楠軒の講師となる。

日本が対外関係で緊迫化するのなか、海防策に関する意見書を藩主に提出しました。
これが藩主・酒井忠義の怒りに触れて、藩籍を剥奪された。

翌1853年(嘉永6年)、アメリカのペリーが浦賀に来航すると日米条約反対と外人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの精神的なリーダーとなり、幕政を激しく批判。
十津川郷士の周旋、長州藩や水戸藩への遊説など忙しい日々をすごす。
また、稼いだ金は他の志士との交流のためにそのほとんどを費やすなど、まさしく尊王攘夷運動のために人生を捧げるような毎日が続いた。

藤田東湖佐久間象山高杉晋作らと交際をし、また、梁川星巌と共に在京志士の合意をとり、一橋慶喜を将軍後継とすることに尽力、また大老 井伊直弼を斥けて幕府の改造を図ろうとし、大義名分を説いて志士を指導した。京都の尊王攘夷派の中心として活躍、幕閣からは梁川らと共に「悪謀の四天王」と目されていた。
1858年8月 水戸藩に降下した「戊午の密勅」も、青蓮院宮に提出した梅田雲浜の意見が朝議の参考になったものである。

しかし激し過ぎる雲浜の活動は、時の大老・井伊直弼の怒りを買い、安政の大獄にて捕縛され、獄中の人となってしまう。

江戸に檻送され、小倉藩主小笠原忠嘉邸に預けられたが、幽囚中病にかかり、1859年(安政6年)9月14日病死した。享年45歳であった。

梅田雲浜の有名な漢詩

君が世を思ふ心の一筋に吾身ありとは思はざりけり

ブログランキング参加中です。クリックして応援お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ banner2.gif 7.gif b_02.gif








この記事へのトラックバックURL
http://shouin1859.gifulog.com/t36143