2008年02月22日

陸援隊じゃ 中岡慎太郎

1866年1月21日薩長同盟を締結させた中岡慎太郎坂本龍馬

1月24日龍馬が寺田屋で襲撃をされる。
寺田屋のお龍の気転で難を免れた龍馬だったが負傷した体を癒し介抱していたお龍と結婚することになる。
2月29日、媒酌人は中岡慎太郎であった。
中岡、龍馬のほんの僅かな平和な時間だっただろう。

そして3月中岡、龍馬、お龍、三吉慎蔵は薩摩藩の船で薩摩に向かう。
途中、下関にて中岡、三吉は下船している。

この船の中、中岡は次なる展開を構想する。
それは長州、薩摩にもう1枚両藩の独走を止め、さらに強い倒幕の絆をつくるには、強力な藩が必要だと考える。
中岡慎太郎が目をつけたのが・・・・土佐であった。

1867年、中岡は早速行動する。
まず、乾退助と会談する。
このころには乾はすっかり勤王思想に目覚めており、密かに活動をしていた。
そこに中岡慎太郎からの話しを聞き、乾はこれに乗るのだ。

乾は後藤象二郎を説得、土佐を勤王へと進めさせる一方、龍馬達と手を結ぶことを勧める。

後藤としても薩摩、長州に後れを取り戻したかったこともあり、両者は会談することになる。
1月13日 坂本龍馬 長崎清風邸で後藤象二郎と会見。
これにより土佐藩は龍馬、中岡の脱藩の罪をゆるし、龍馬の亀山社中と土佐藩の土佐商会を合わせ海援隊を発足、隊長を坂本龍馬とした。

5月21日 中岡慎太郎乾退助 西郷隆盛小松帯刀と倒幕決行を会談し、薩土密約を結ばせる。

これを受け6月 9日 坂本龍馬は、土佐藩船「夕顔丸」に後藤象二郎と乗船し京へとむかうのだ。この船中で龍馬は「船中八策」を後藤に提示する。
この「船中八策」は幕府と討幕派との武力衝突を避ける可能性を提示していた。
また、この文書は「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書だった。

6月22日 京三本木料亭にて薩摩藩、西郷隆盛小松帯刀大久保利通坂本龍馬中岡慎太郎後藤象二郎乾退助福岡孝悌が会談し薩土盟約を結ぶのだ。

慎太郎は「議論周旋も結構だが、近日中に必ず薩長による開戦になるのだから、武器をとって戦う覚悟がなければ空論に終わる」として京都にて龍馬の海援隊と同じく、土佐藩の補助をうけ陸援隊を発足させる。

隊士の中には田中顕助木村弁ノ進らの名前があり、倒幕間近の風潮もあり血気盛んだった、そのころ、先の龍馬の提案した船中八策を後藤は土佐の山内容堂に進言。
容堂もこれを取り入れ、時代は大政奉還へと動きはじめだしていた。


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