2008年02月21日
中岡慎太郎 薩長同盟締結に向けて
薩摩と長州の会談は順調に下関でおこなわれるはずであった。
中岡慎太郎と西郷隆盛を乗せた船は順調に航海をしていた。
しかし、京都の大久保利通から一刻も早く上京してほしいとの手紙が西郷の元に届く。
急遽第2次長州征伐の勅許を阻むのが先決であるとして、西郷は中岡を佐賀で下船させ、京都へ向うのだ。
西郷の到着を下関にて待っていた坂本龍馬と桂小五郎の前に現れたのは中岡慎太郎ただ一人だけであった。
これにはさすがに桂も怒った。
当然である、それまで「薩賊会奸」と言って嫌ってきた薩摩藩と手を結ぶにあたりどれだけ苦渋を舐めてきたことか・・・・桂の心情を思うと理解できる。
龍馬の「西郷はどうした?」の問いに中岡は
「西郷は幕府が2度目の長州征伐をするというのは無謀もはなはだしい。前の長州征伐の時には、わが薩摩も出兵はしたけれども今度は出兵するにあたらない。ついては木戸との会談も大事だが、このことが大事であるからあらかじめ朝議を固めておかねばならぬ。 一刻もじっとしておられぬ。 早々京都へ上らねばならぬ」と言って京へ向かったがじゃ・・・・
中岡は桂に詫びると、桂は中岡の立場を思い、「今後は薩摩からわが藩へ使者をよこしてほしい。」と言った。
薩摩、長州両藩共に対面ばかりを気にしていた。
気落ちしてばかりもいられない中岡慎太郎と龍馬は再び動く。
京都の薩摩藩邸の赴き西郷に会うのだ、そして懇々と説きつめて西郷を説得する。
そして西郷と共に薩摩に向かうのだ。
ここで龍馬は面白い案を提供するのだ。それは当時第2次長州征伐を前に武器弾薬に悩んでいた長州藩に薩摩が武器弾薬を提供する。
当然、長州は拒否をするだろうが、同じく兵糧に困っていた薩摩藩に長州から米を引き換えに渡せば両藩共に対面を保てる。というのだ。
龍馬はこの双方の利益となる取引をもって両藩の和解を図ろうと考えたのである。
これには薩摩の小松帯刀も西郷も快く承諾し、長州の桂も快諾した。
7月には長州の伊藤俊輔と井上聞多が長崎に訪れ、薩摩藩邸にて小松帯刀に会い、様式銃7千挺を買い付け、薩摩藩の船で下関に運びこんだ。
武器調達に尽力してくれた薩摩に恩を感じ、長州は米を調達してくれたので、薩摩は使者として、黒田清隆らを長州に赴かせ、米は長州から薩摩へと運ばれた。
しかしこの米は西郷が「もうすぐ第2次長州征伐が始まりそうで長州も大変だろうから、米は長州へ返す」と余計な気遣いをした。
桂も「一度差し出した米じゃ受け取れん。もしかしたら薩摩は長州の米は食いたくないのか?」となったため、龍馬の亀山社中がこの米を貰うことになる。
米を受け取りに来た黒田清隆に龍馬は「王政復古の大目的を達せんには、薩長の間を和解し、二藩連合して天下に率先せざるべからず」と熱弁し、黒田も龍馬を交え、桂や高杉晋作と話を詰めようとした。
しかし、桂は先の西郷のスッポカシの件もあり、乗り気ではない。
そこであの過激な高杉晋作が説得をするのだ。
「桂さん、長州1藩の力じゃどうもできん。先の馬関での戦で分かったじゃろ?ここは苦しくても薩摩と手を結び、この日の本を守らねばならんぞ。今ならまだ長州に味方してくれる他藩もある。今のうちに薩摩と手を結んで他藩も引き込むんじゃ」
晋作をはじめ龍馬、井上聞多も再三説得し、ついに桂は「公命下るに至る、よって余(木戸)恥を忍び意を決し」とし上京をする。(このころ藩命により桂から木戸へ名を変える)
1866年(慶応2年)1月8日、木戸は京都へ入り、薩摩藩家老・小松帯刀の屋敷で西郷に会った。
ところが連日宴会で互いに国事、天下の形勢を論じ合い、肝心の同盟の話には一切触れず終いだった。
1週間遅れで京都に入った龍馬は当然もう同盟が成していると思い薩摩藩邸にいくと、まだ同盟を結んでいない旨を聞かされる。
驚いた龍馬は長州藩邸の桂を訪ねた。
「天下のために連合を周旋し、両藩の要人を会わせたのにくだらない感情におぼれて意地を張り合うとは何事じゃ!」といい。
桂は
「今、苦境にあえぐ長州が薩摩に低頭してまで危険に引きずり込むことができましょうや。薩摩が自ら手をさしのべてくれてこそ、我らは救いを乞いもしよう。このまま長州は滅びてもよいのです。薩摩が生き残って幕府を討ってくれるなら、我々に憾みはないでありましょう」と説いた。
ようするに長州は薩摩の気持ちはありがたいが、滅びんとしている長州の巻き添えになってくれとは言えないというのだ。
龍馬はこの桂の言葉に感動し、薩摩藩邸に戻り、西郷、小松らに長州の胸のうちを語り、何とか薩摩から長州を助けてやってくれんかと説いた。
そして龍馬は「こげな小さな維持の張り合いをしちょる場合か!今までこの日の本の国のために死んでいった者たちは、ただの犬死になってしまうがか?」と訴えた。
ことのことにより、西郷は是非薩摩から長州に同盟をお願いしたいといい。
「薩摩は日本を救うために長州を全面的に援助する」という言葉が出た。
こうして1866年1月21日 中岡慎太郎、坂本龍馬の奔走の甲斐があり見事 薩長同盟は締結される。
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中岡慎太郎と西郷隆盛を乗せた船は順調に航海をしていた。
しかし、京都の大久保利通から一刻も早く上京してほしいとの手紙が西郷の元に届く。
急遽第2次長州征伐の勅許を阻むのが先決であるとして、西郷は中岡を佐賀で下船させ、京都へ向うのだ。
西郷の到着を下関にて待っていた坂本龍馬と桂小五郎の前に現れたのは中岡慎太郎ただ一人だけであった。
これにはさすがに桂も怒った。
当然である、それまで「薩賊会奸」と言って嫌ってきた薩摩藩と手を結ぶにあたりどれだけ苦渋を舐めてきたことか・・・・桂の心情を思うと理解できる。
龍馬の「西郷はどうした?」の問いに中岡は
「西郷は幕府が2度目の長州征伐をするというのは無謀もはなはだしい。前の長州征伐の時には、わが薩摩も出兵はしたけれども今度は出兵するにあたらない。ついては木戸との会談も大事だが、このことが大事であるからあらかじめ朝議を固めておかねばならぬ。 一刻もじっとしておられぬ。 早々京都へ上らねばならぬ」と言って京へ向かったがじゃ・・・・
中岡は桂に詫びると、桂は中岡の立場を思い、「今後は薩摩からわが藩へ使者をよこしてほしい。」と言った。
薩摩、長州両藩共に対面ばかりを気にしていた。
気落ちしてばかりもいられない中岡慎太郎と龍馬は再び動く。
京都の薩摩藩邸の赴き西郷に会うのだ、そして懇々と説きつめて西郷を説得する。
そして西郷と共に薩摩に向かうのだ。
ここで龍馬は面白い案を提供するのだ。それは当時第2次長州征伐を前に武器弾薬に悩んでいた長州藩に薩摩が武器弾薬を提供する。
当然、長州は拒否をするだろうが、同じく兵糧に困っていた薩摩藩に長州から米を引き換えに渡せば両藩共に対面を保てる。というのだ。
龍馬はこの双方の利益となる取引をもって両藩の和解を図ろうと考えたのである。
これには薩摩の小松帯刀も西郷も快く承諾し、長州の桂も快諾した。
7月には長州の伊藤俊輔と井上聞多が長崎に訪れ、薩摩藩邸にて小松帯刀に会い、様式銃7千挺を買い付け、薩摩藩の船で下関に運びこんだ。
武器調達に尽力してくれた薩摩に恩を感じ、長州は米を調達してくれたので、薩摩は使者として、黒田清隆らを長州に赴かせ、米は長州から薩摩へと運ばれた。
しかしこの米は西郷が「もうすぐ第2次長州征伐が始まりそうで長州も大変だろうから、米は長州へ返す」と余計な気遣いをした。
桂も「一度差し出した米じゃ受け取れん。もしかしたら薩摩は長州の米は食いたくないのか?」となったため、龍馬の亀山社中がこの米を貰うことになる。
米を受け取りに来た黒田清隆に龍馬は「王政復古の大目的を達せんには、薩長の間を和解し、二藩連合して天下に率先せざるべからず」と熱弁し、黒田も龍馬を交え、桂や高杉晋作と話を詰めようとした。
しかし、桂は先の西郷のスッポカシの件もあり、乗り気ではない。
そこであの過激な高杉晋作が説得をするのだ。
「桂さん、長州1藩の力じゃどうもできん。先の馬関での戦で分かったじゃろ?ここは苦しくても薩摩と手を結び、この日の本を守らねばならんぞ。今ならまだ長州に味方してくれる他藩もある。今のうちに薩摩と手を結んで他藩も引き込むんじゃ」
晋作をはじめ龍馬、井上聞多も再三説得し、ついに桂は「公命下るに至る、よって余(木戸)恥を忍び意を決し」とし上京をする。(このころ藩命により桂から木戸へ名を変える)
1866年(慶応2年)1月8日、木戸は京都へ入り、薩摩藩家老・小松帯刀の屋敷で西郷に会った。
ところが連日宴会で互いに国事、天下の形勢を論じ合い、肝心の同盟の話には一切触れず終いだった。
1週間遅れで京都に入った龍馬は当然もう同盟が成していると思い薩摩藩邸にいくと、まだ同盟を結んでいない旨を聞かされる。
驚いた龍馬は長州藩邸の桂を訪ねた。
「天下のために連合を周旋し、両藩の要人を会わせたのにくだらない感情におぼれて意地を張り合うとは何事じゃ!」といい。
桂は
「今、苦境にあえぐ長州が薩摩に低頭してまで危険に引きずり込むことができましょうや。薩摩が自ら手をさしのべてくれてこそ、我らは救いを乞いもしよう。このまま長州は滅びてもよいのです。薩摩が生き残って幕府を討ってくれるなら、我々に憾みはないでありましょう」と説いた。
ようするに長州は薩摩の気持ちはありがたいが、滅びんとしている長州の巻き添えになってくれとは言えないというのだ。
龍馬はこの桂の言葉に感動し、薩摩藩邸に戻り、西郷、小松らに長州の胸のうちを語り、何とか薩摩から長州を助けてやってくれんかと説いた。
そして龍馬は「こげな小さな維持の張り合いをしちょる場合か!今までこの日の本の国のために死んでいった者たちは、ただの犬死になってしまうがか?」と訴えた。
ことのことにより、西郷は是非薩摩から長州に同盟をお願いしたいといい。
「薩摩は日本を救うために長州を全面的に援助する」という言葉が出た。
こうして1866年1月21日 中岡慎太郎、坂本龍馬の奔走の甲斐があり見事 薩長同盟は締結される。
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