2008年02月20日

中岡慎太郎 長州にて

土佐を後に長州は三田尻に向かった中岡慎太郎

中岡は長州にて先の8.18の政変にて京都を追い出された三条実美ら七人の公家と面会する。
以後、名を石川誠之助と変え、三条実美らの護衛に当たりながら、三条の手足となって各地の情報を集め、三条の遺志を伝えてことに徹するのだ。

慎太郎の後、すぐに脱藩してきた坂本龍馬もひとまず長州に赴く。
この後、龍馬は江戸に向けて出発している。

1864年(元治元年)中岡慎太郎高杉晋作らと共に薩摩の島津久光暗殺を企てるが失敗に終わる。
そして、7月長州軍の東上部隊に参加し、禁門の変真木和泉久坂玄瑞を亡くした忠勇隊を引継ぎ隊長して活躍しました。

この禁門の変で長州は多大なる犠牲を出す。来島又兵衛 討死 久坂玄瑞寺島忠三郎、自刃、入江九一 戦死、桂小五郎、行方不明である。

このことで慎太郎は諸藩による無益な戦が意味のないことを思い知らされる。
慎太郎は決意する、薩摩と長州の手を繋がせることを。

そのころ薩長は犬猿の仲であり、誰しもが認める仲の悪さだった。

慎太郎が行動するよりも早く、1863年に筑前藩の月形洗蔵早川勇によって薩長和解策は唱えられていた。
現に1864年10月に薩摩の西郷隆盛が筑前に来訪した際、月形、早川は西郷に会い薩長和解を説いており、
西郷も「いたずらに長州と内輪の争いをしている時ではない、天下一和に刷新すべき」と語ったという。
月形と早川は、高杉晋作が筑前に来た時に西郷と密会もさせている。

その後も、下関で再度、西郷と高杉を密会させ、薩摩・長州・筑前の3藩をもって幕府の暴挙を防ぎ倒幕を画策していた。

しかし、筑前勤王党は藩内の弾圧にあい挫折、薩長連合は夢に消えるかと思われたが、この月形洗蔵早川勇の意志を受け継いだのが中岡慎太郎であった。

慎太郎は同志の土方久元と共に、まずは坂本龍馬を訪ねる。
龍馬は海軍塾を閉鎖され、京都の薩摩藩邸にて為すべきとがないままに日を過ごしていた。
そこに中岡からの話である。
龍馬は慎太郎の話に賛同し、行動を開始する。

龍馬はまず西郷、小松帯刀に長州と手を結び共に倒幕することを説く。
一方、慎太郎も薩摩藩邸において薩摩藩士らに西郷・木戸会談の必要性を説くのだ。好感触を得た慎太郎はその足で薩摩へと向かう。
龍馬は入れ替わりで桂小五郎を説得をしに長州へと向かうのだ。

二人の必死の説得により両藩の会談は実現に向けて動く。
閏5月16日、慎太郎は西郷と共に下関に向けて出航する、下関では龍馬と土方が長州勢を説き伏せ待っていた。

しかし・・・・事はうまくは回らなかったのだ。

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