2008年02月13日

坂本龍馬 西郷隆盛の出逢い

1863年(文久3年)、勝海舟は、将軍徳川家茂が船で大阪湾を巡視するのに同行します。
神戸村に上陸後、海舟は「この村に海軍の仕官育成の機関を建設したい。」と将軍家茂に直談判するのです。
この勝の提案が直ちに受け入れられ、「神戸海軍操練所」が設立されることとなりました。


神戸海軍操練所は、幕臣たちが学ぶ場所であった。
これに隣接して諸藩の志士を集めた「神戸海軍塾」が設けられます。
塾頭は、そうあの勝の手足となり奔走した坂本龍馬でした。
この間、海軍塾設立資金の調達のために越前福井藩主松平春嶽を訪ねるなど、龍馬は海舟の手足となって働きました。

神戸海軍塾は広く塾生を求めた。
門下生には陸奥宗光伊東祐亭、龍馬の誘いにより岡田以蔵近藤長次郎北添佶摩望月亀弥太などもいた。
そのため、脱藩者はもとより、薩州の暴れ者や諸藩の浪人が多くなり、幕府から睨まれていた。

そして禁門の変の責任を問われて、勝が軍艦奉行を罷免されたこと。
致命的だったのは、池田屋事件の浪士の中に、神戸海軍塾の塾生の北添佶摩望月亀弥太が参加していたことが露見してしまったのだ。

これにより勝は江戸にて蟄居、神戸海軍操練所は、幕命によって閉鎖されてしまう。

この1年ちょっとの海軍塾であったが、その間に歴史を動かす大きな出会いがある。
それは勝海舟西郷隆盛西郷隆盛坂本龍馬の出会いであった。

勝は1864年(元治元年)兼ねてより見識のあった西郷と会談をもつ。
これによりお互いの意見を交わし、共に進むべき道を確認します。
そして勝は龍馬にも西郷を紹介します。

西郷と会った龍馬は
「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。ただ、その鐘をつく撞木が小さかったのが残念でした。」

 西郷を「釣り鐘に」、龍馬自身を「撞木」に例えているところが、いかにも龍馬らしいですね。
この龍馬の西郷評を聞いた勝は、
「評される人も評される人。評する人も評する人。」と言っています。
この後この数奇な出会いが日本を変えていくことになるのです。

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