2008年02月12日

坂本龍馬 勝海舟を斬るのか

千葉道場にて再び厄介になることになった坂本龍馬



千葉道場の千葉定吉は鳥取藩の剣術師範に就任し、鳥取藩江戸屋敷詰であり、その子千葉重太郎も1860年(万延元年)には重太郎も鳥取藩に仕官することになっていた。

龍馬は千葉道場に再び訪れたのは1862年だから、千葉家は仕官して2年くらいはたっていたことになる。
重太郎は鳥取藩士として江戸政界に関わる中で当時の勝海舟の開国論に反感を抱くようになっていた。
江戸で生活している千葉重太郎にしてみれば、勝の開国論は日の本をダメにする考え方、異国に国を売ろうとしている輩とした思えていない。

そこに土佐を脱藩して訪れた龍馬。

重太郎にしてみれば、師範の自分と、免許皆伝の龍馬二人いれば勝を仕留めることができると考えたのだろう。

重太郎から勝の話しを聞かされた龍馬は、脱藩はしてみたが何一つしていない自分の生活にも嫌気がさしていたのだろう。
「一度、勝の話しを聞いてみるか!」ってな具合に考えた。

そこで龍馬は幕府政事総裁職の松平春嶽に面会し、春嶽公の紹介状を携え千葉重太郎と共に勝海舟を訪ねるのである。

しかしそこで龍馬は勝の話に吸い込まれていく、まずは異国に匹敵する国防力を待たなくてはいけない、そのためには、開国し異国文化を取り入れ、貿易をなして、海軍の建設していかなくてはならない。と説く海舟。

龍馬は今宵のこと、ひそかに期する所あり。もし公の説いかんによりては、あえて公を刺さんと決したり。今や公の説を聞き、大いに余の固陋(ころう)を恥づ。 請う、これよりして公の門下生とならん。として勝に師事することになるのだ。

勝海舟は後年、このときの龍馬を
「彼はオレを斬りにきた奴だったが、なかなかの人物さ。その時おれは笑って受けたが、落ちついていて、なんとなく冒しがたい威厳のある、いい男だったよ」と評している。

坂本龍馬はこの後、勝と共に海軍設立のために奔走していく。
自由にならない幕臣、勝海舟の変わりに手足となり、国中を駆け巡るのだ。

ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。
ランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット


all%2fbook%2fcabinet%2f2670%2f26701741.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0">

幕末三舟伝 Price 2,940 円
師弟 Price 1,785 円
龍馬の時代京を駆けた志士群像 Price 1,575 円


有田焼「幕末・明治維新の志士達」陶板 Price 48,000 円
有田焼 坂本龍馬磁器陶額 Price 26,250 円


この記事へのトラックバックURL
http://shouin1859.gifulog.com/t36075