2008年02月06日
勝海舟 西郷隆盛との話し合い
勝海舟と西郷隆盛と最初の会見は1864年(元治元年)9月10日に会見しています。
そのときのことを板倉聖宣著『勝海舟と明治維新』では。
「そのころ西郷隆盛は、幕府に協力して長州征伐の軍を組織していたので、『幕府の中でも切れ者との噂の高い勝海舟と会って話をしてみたい』」と考えていたということです。
このとき西郷は、海舟の話を聞いて驚いてしまいました。
勝海舟は『幕府にはもう天下の政治をとりしきるカがないから、有力な藩が協力して国政を動かさなければならない』と話したからです。

勝海舟は幕臣でありながら、もうすでに幕府を見限っていたのです。
この勝の予想をしていなかった考えを聞き、西郷は、鹿児島の大久保利通に宛てた手紙の中で、勝海舟のことを 『ひどくほれ申し候』と褒めたたえていました。
これ以後、それまで長州藩と敵対していた薩摩薄は、長州藩と手を結んで、幕府と対抗する道を進むようになりました。だから海舟はこのとき、みずから幕府を滅ぼす道をたどりはじめていたことになります。
幕府はなくなりますが、日本は異国の脅威から身を守れる国に変化する道を歩むこととなるのです。
小さなことにこだわっておってはならん。
幕府や、薩摩やなどというのは日本があってもの!
その日本が異国の植民地になってしまっては、どうにもならない。
それが勝が観た将来観だったのでしょう。
しかし、幕府は勝を江戸赤坂氷川の自宅屋敷にて蟄居させます。
勝が幕政に携わらない間、勝の変わりにその教えを遂行して行ったのが坂本龍馬。
龍馬は東奔西走の日々を送ります。
そして、1866年1月21日遂に薩長同盟を結ばせることになるのです。
5月28日勝は再び軍艦奉行をして再任されるのです。
そして勝に任された仕事は、第二次長州征伐の停戦協定です。
勝自身「てやんでぇ〜こんな面倒な尻拭いばかりさせやがって」ってな気持ちだったのでしょうか?
この不利な状況で勝は見事停戦協定をします。
しかし、武力討伐を目指す薩長は、1868年鳥羽・伏見の戦いにおいて再び戦火を繰り広げる。
徳川慶喜は、部下を見捨てて江戸に逃げ帰り、新政府軍との徹底抗戦を主張する小栗上野介たちの意見を退け、2月に勝海舟を陸軍総裁に、大久保一翁を会計総裁に起用。
この時点で慶喜は新政府軍への「恭順」の意思を固め、和平派の勝海舟たちに後を任せ、自らは蟄居してしまいます。
幕府軍総崩れにより、新政府軍は錦の御旗を押したて東上していく。
「東征大総督府下参謀」として東海道を東上する西郷隆盛、そして幕府軍の代表となった勝海舟。
二人は久しぶりに再会をお互いに敵対する最高責任者同士として顔を合わせることになる。
まず勝は、新政府軍の本陣がある駿府に山岡鉄舟を派遣し、西郷隆盛と江戸城開城の条件について話し合わせる。
そして、1868年(慶応4年)3月13日自ら江戸高輪の薩摩藩邸に赴いて西郷隆盛と会見し、新政府軍の江戸総攻撃は中止され、江戸城無血開城が実現することになるのです。
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そのときのことを板倉聖宣著『勝海舟と明治維新』では。
「そのころ西郷隆盛は、幕府に協力して長州征伐の軍を組織していたので、『幕府の中でも切れ者との噂の高い勝海舟と会って話をしてみたい』」と考えていたということです。
このとき西郷は、海舟の話を聞いて驚いてしまいました。
勝海舟は『幕府にはもう天下の政治をとりしきるカがないから、有力な藩が協力して国政を動かさなければならない』と話したからです。

勝海舟は幕臣でありながら、もうすでに幕府を見限っていたのです。
この勝の予想をしていなかった考えを聞き、西郷は、鹿児島の大久保利通に宛てた手紙の中で、勝海舟のことを 『ひどくほれ申し候』と褒めたたえていました。
これ以後、それまで長州藩と敵対していた薩摩薄は、長州藩と手を結んで、幕府と対抗する道を進むようになりました。だから海舟はこのとき、みずから幕府を滅ぼす道をたどりはじめていたことになります。
幕府はなくなりますが、日本は異国の脅威から身を守れる国に変化する道を歩むこととなるのです。
小さなことにこだわっておってはならん。
幕府や、薩摩やなどというのは日本があってもの!
その日本が異国の植民地になってしまっては、どうにもならない。
それが勝が観た将来観だったのでしょう。
しかし、幕府は勝を江戸赤坂氷川の自宅屋敷にて蟄居させます。
勝が幕政に携わらない間、勝の変わりにその教えを遂行して行ったのが坂本龍馬。
龍馬は東奔西走の日々を送ります。
そして、1866年1月21日遂に薩長同盟を結ばせることになるのです。
5月28日勝は再び軍艦奉行をして再任されるのです。
そして勝に任された仕事は、第二次長州征伐の停戦協定です。
勝自身「てやんでぇ〜こんな面倒な尻拭いばかりさせやがって」ってな気持ちだったのでしょうか?
この不利な状況で勝は見事停戦協定をします。
しかし、武力討伐を目指す薩長は、1868年鳥羽・伏見の戦いにおいて再び戦火を繰り広げる。
徳川慶喜は、部下を見捨てて江戸に逃げ帰り、新政府軍との徹底抗戦を主張する小栗上野介たちの意見を退け、2月に勝海舟を陸軍総裁に、大久保一翁を会計総裁に起用。
この時点で慶喜は新政府軍への「恭順」の意思を固め、和平派の勝海舟たちに後を任せ、自らは蟄居してしまいます。
幕府軍総崩れにより、新政府軍は錦の御旗を押したて東上していく。
「東征大総督府下参謀」として東海道を東上する西郷隆盛、そして幕府軍の代表となった勝海舟。
二人は久しぶりに再会をお互いに敵対する最高責任者同士として顔を合わせることになる。
まず勝は、新政府軍の本陣がある駿府に山岡鉄舟を派遣し、西郷隆盛と江戸城開城の条件について話し合わせる。
そして、1868年(慶応4年)3月13日自ら江戸高輪の薩摩藩邸に赴いて西郷隆盛と会見し、新政府軍の江戸総攻撃は中止され、江戸城無血開城が実現することになるのです。
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