2008年01月28日
久坂玄瑞 早すぎる死
久坂玄瑞にとって激動の1863年(文久3年)。
尊攘思想を掲げ京を中心に独走する長州藩に大きな事変が起こる。
長州の朝廷政権独走を快く思わない薩摩と、同じく会津が、長州藩の京追放の一策を画策します。薩摩と長州は共に犬猿の仲であり、かつて薩摩藩士には長州によって京政界から落とされたという恥辱の念が残っていためでした。
この数日後に長州藩は他藩の浪士らと共に帝を大和へ連れ出し攘夷祈願をするよう働きかけ
ていた。その動きの根底にある真意を掴み、同時に今上の意思が攘夷では無い事を悟った薩
摩・会津藩は直ちに公卿らに働きかけ、やがて帝を介し、長州藩の御門警備の解除と、長州系公卿の禁足を命じる勅を出す。
何も知らぬ長州藩は、事態に驚きつつも汚名を被るを良しとせず、涙を飲みながら風雨の中、帰藩していく。禁門の政変といい、また8月18日に起こったので8.18の政変とも云う。
長州に帰った久坂は来島又兵衛や真木和泉らなどの主戦論者の説得に努めることとなるが、
1864年(元治元)6月15日、新撰組による池田屋事件が起こると長州藩は京進発論へ傾く。
長州は軍を出動させ、瀬戸内の海路を通り大阪を経由し京へ向けて進むのである。
当然ながら兵を率いての入京は許されるはずもなく、朝廷の拒否に対し、久坂は何度も歎願の証書を送っていた。
相手は朝廷である、逆賊の汚名を被れば元も子もない、あくまで慎重に対処し和を持って望んでいた久坂であったが、真木、来島ら強硬派に押されて遂には進撃を余儀なくされるのだ。
山崎天王山を任かされた久坂は、最期まで交戦に反対する姿勢を示し、砲弾の飛び交う市中を、長州藩主の冤罪を歎願してきた関白・鷹司卿の邸宅へ進入する。
久坂は此度の戦に及ぶに至る経緯とこれまでの歎願に記してきた藩の冤罪を卿に涙ながらに上奏願い訴えるが、禁裏に発砲したという事実から拒絶され、鷹司卿に逃げられてしまう。
久坂は邸内に迫る敵に対し、やむ得ず応戦するが、邸宅は激しい砲撃により燃え始め、久坂自身も流れ弾によって負傷してしまうのだ。
もはやこれまでと自ら悟ると、傍に居た入江九一に後事を託し、久坂は同じ松下村塾塾生である寺島中三郎と共に自刃することになる。
久坂玄瑞、享年25歳。あまりにも早過ぎる死であった。

後年、長州藩の志士たちの墓所を京都霊山に営んだ際、久坂、寺島の遺骨も移し、久坂の分骨の墓は萩東光寺にある杉家墓所へも営まれている。
明治21年には、久坂のかつての同志達の手によって靖国神社へ合祀せられ、更に2年後、明治24年4月特旨を以って正四位を贈られているのである。
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尊攘思想を掲げ京を中心に独走する長州藩に大きな事変が起こる。
長州の朝廷政権独走を快く思わない薩摩と、同じく会津が、長州藩の京追放の一策を画策します。薩摩と長州は共に犬猿の仲であり、かつて薩摩藩士には長州によって京政界から落とされたという恥辱の念が残っていためでした。
この数日後に長州藩は他藩の浪士らと共に帝を大和へ連れ出し攘夷祈願をするよう働きかけ
ていた。その動きの根底にある真意を掴み、同時に今上の意思が攘夷では無い事を悟った薩
摩・会津藩は直ちに公卿らに働きかけ、やがて帝を介し、長州藩の御門警備の解除と、長州系公卿の禁足を命じる勅を出す。
何も知らぬ長州藩は、事態に驚きつつも汚名を被るを良しとせず、涙を飲みながら風雨の中、帰藩していく。禁門の政変といい、また8月18日に起こったので8.18の政変とも云う。
長州に帰った久坂は来島又兵衛や真木和泉らなどの主戦論者の説得に努めることとなるが、
1864年(元治元)6月15日、新撰組による池田屋事件が起こると長州藩は京進発論へ傾く。
長州は軍を出動させ、瀬戸内の海路を通り大阪を経由し京へ向けて進むのである。
当然ながら兵を率いての入京は許されるはずもなく、朝廷の拒否に対し、久坂は何度も歎願の証書を送っていた。
相手は朝廷である、逆賊の汚名を被れば元も子もない、あくまで慎重に対処し和を持って望んでいた久坂であったが、真木、来島ら強硬派に押されて遂には進撃を余儀なくされるのだ。
山崎天王山を任かされた久坂は、最期まで交戦に反対する姿勢を示し、砲弾の飛び交う市中を、長州藩主の冤罪を歎願してきた関白・鷹司卿の邸宅へ進入する。
久坂は此度の戦に及ぶに至る経緯とこれまでの歎願に記してきた藩の冤罪を卿に涙ながらに上奏願い訴えるが、禁裏に発砲したという事実から拒絶され、鷹司卿に逃げられてしまう。
久坂は邸内に迫る敵に対し、やむ得ず応戦するが、邸宅は激しい砲撃により燃え始め、久坂自身も流れ弾によって負傷してしまうのだ。
もはやこれまでと自ら悟ると、傍に居た入江九一に後事を託し、久坂は同じ松下村塾塾生である寺島中三郎と共に自刃することになる。
久坂玄瑞、享年25歳。あまりにも早過ぎる死であった。

後年、長州藩の志士たちの墓所を京都霊山に営んだ際、久坂、寺島の遺骨も移し、久坂の分骨の墓は萩東光寺にある杉家墓所へも営まれている。
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