2008年01月27日

松下村塾 久坂玄瑞 

久坂玄瑞は、高杉晋作山県小輔伊藤俊輔らと共に定期的に塾へ通い時勢の変動について語り合った。この松下村塾で、吉田利麿入江九一らは、後にその英才振りから松門の
四天王とまで称されるようになるのだ。
久坂は師・松陰のススメで松陰の妹・文と結婚することとなる。
公私ともに松陰の門弟となった久坂はメキメキと才能を開花させていく。

しかし時代は久坂達が思うのとは反対の方向に動き始める。
安政の大獄がおこるのだ。橋本左内梅田雲浜らが捕縛され、終には師の吉田松陰までもが江戸へ連衡されていってしまう。
江戸に着いた松陰は厳しい取調べのあと、処刑される。

松陰の死に久坂玄瑞は、師や多くの同志と呼べる人材を弾圧した幕府に激しい怒りを持つ様になり、高杉晋作と同様に倒幕の意思を固めることとなる。

長井雅楽の「航海遠略策」によって長州藩論が公武合体論に傾くと、同志と共に長井の弾劾書を藩に提出し、長州藩論の転換に尽力。同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使三条実美姉小路公知らと共に江戸に入ると、高杉らと御楯組を結成、12月には品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行してしまうのだ。

文久3年、玄瑞は攘夷督促の勅旨と共に江戸へ向かう、幕府にその期限を5月10日と迫って帰藩。下関にて光明寺党という軍的組織を結成させる。
下関を通る一隻の外国商船を見つけると、大砲射撃により、外国商船を沈めてしまう。
その数ヶ月後に外国の正式な軍船による報復射撃を受け、一時馬関を制圧された。
玄瑞の夷荻嫌いは激しくかったと言い伝えられている。
過激派のようなものですね、偏った思想は時として人を過激な動きに変える典型的な例である。

そして、1863年(文久3年)は久坂にとって大変な年となる。



君よ、志を持って生きてみないか―橋本左内『啓発録』を読む君よ、志を持って生きてみないか―橋本左内『啓発録』を読む
(2005/01)
石川 洋

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