2008年01月17日

西郷隆盛 徳川慶喜と錦の御旗

坂本龍馬・中岡慎太郎の東奔西走の甲斐もあり締結した薩長同盟

これによって時代はまた大きく動き始める。

幕府は強行に第2次長州征伐を敢行します。
しかし薩摩藩や芸州藩などの有力諸藩が征長軍に参戦しなかったことにより連敗が続きます。

特に薩摩藩は武器や弾薬などを長州に提供、薩長同盟のもと、倒幕に動き始めていました。

そんな時、大阪城に出向き総大将として指揮を執っていた徳川家茂が急死します。
病弱な体にもかかわらず江戸から大坂まで赴き、連日の敗戦のほうが心労をきしたのかもしれません。

このことにより幕府は第15代将軍として一橋慶喜を将軍職に就かせるのです。
しかし、いかに徳川慶喜でも時代の波には逆らうことは出来ません。

西郷隆盛大久保利通等は1867年(慶応3年)10月14日、薩摩藩と長州藩に対して、待望の 「討幕の密勅」 を取り付けるのです。
ですが、薩長同盟のために奔走していた坂本龍馬が政権を幕府から朝廷に返還させるという 「大政奉還」 にむけて動いていたのです。

龍馬はかつての縁敵 土佐藩の後藤象次郎板垣退助らにはかり幕府を説得するよう話をするのです。
後藤は土佐藩が出遅れたのを挽回するのはここにあるとし、将軍・慶喜を説得します。


このため 「討幕の密勅」 の動きを知った徳川慶喜は土佐藩の建白を受け入れ、大政奉還に踏み切ったのです。

朝廷は動揺します。戦国以来政治に関わってこなかったので何をどうすればいいのかが分からないんです。
西郷はそんな朝廷をなだめ、大久保や長州の桂らと共に新政府樹立にむけ動きます。

「小御所会議」において徳川慶喜の辞官・納地が決定されることになります。

そんな中幕府は自宅謹慎中だった勝海舟を呼び戻します。

1868年(明治元年)1月3日、「鳥羽・伏見の戦い」が起こります。
幕府軍は「討薩の表」を掲げ、鳥羽、伏見の二街道を通り京へ向けて進撃を開始します。
これに対し新政府側は、薩摩藩が鳥羽街道、長州藩が伏見街道とわかれて布陣。

 戦いは薩長連合軍有利で進みますが、兵力の多い幕府軍は少しづつ押し返してきます。
しかし、翌1月4日、薩長軍側に「錦の御旗」が揚がると戦局は一気に新政府軍に傾くのです。
天皇公認の軍であることの証「錦の御旗」
これを見た幕府軍は、戦意を喪失して総退却を余儀なくされたのです。

幕府軍は大坂にいる将軍 徳川慶喜に出陣を要請します。
しかし、慶喜は出陣するといっておきながら夜陰に紛れて軍艦にて江戸に逃げるのです。

翌朝、総大将がいなくなった幕府軍は総崩れで江戸に向けて逃げて行くのです。

 「鳥羽・伏見の戦い」 で勝利した新政府軍は、有栖川宮熾仁親王を「東征大総督」に任命し、東海、東山、北陸の三道に分かれて江戸に向け進軍します。
西郷隆盛は「東征大総督府下参謀」に任命され、東海道を通り江戸を目指すことになったのです。

そして江戸城無血開城へと繋がっていきます。


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