2008年01月11日

西郷隆盛 錦江湾に投身する

島津斉彬の死後、国許薩摩へ戻った西郷隆盛に更なる試練が待っていました。


幕府大老の地位に就いた井伊直弼は、自分の方針に反対する大名や公家の多くを謹慎処分にし、その他幕府に批判的な意見を持つ一般の志士達を一斉に捕縛していったのです。
世に言う「安政の大獄」です。

島津斉彬没後の薩摩藩も対抗する術はなく、斉彬の息のかかった者たちは次々に失脚していきます。

西郷は京都・江戸において薩摩藩のために尽力した僧・月照をこの安政の大獄から守ろうと薩摩へ呼び寄せます。しかし、藩主は斉彬の弟・久光の子 島津忠義になっており、実権を握っていたのは、斉彬の父であり前々藩主の斉興だった。

斉興はそれまでの政策をすべて止めさせ、旧体制に戻していました。
当然ながら、薩摩藩は月照を匿うはずもなく、追放命令を出したのです。
愛情深く、そして義理堅い西郷は月照は、二人で相談し、相伴って寒中の海に身を投じたのでした。

錦江湾の海に身を投じた西郷と月照でしたが、西郷だけは奇跡的に命を取りとめます。
そのことがまた西郷を苦しめます。自分だけ生き残ってしまったことに武士として恥辱を感じていたことでしょう。
そんな西郷に薩摩藩は奄美大島行きを命じました。西郷は前藩主・斉彬の無二の寵臣であったので、藩としては隠したかったのでしょう。

それから3年後、時代は再び大きく動き始めます。
桜田門外の変が起こったのです。これにより幕府は急速に力を弱めていきます。

薩摩藩もそのころは斉彬の弟の久光が、藩主・忠義の後見人となっており
その久光の重臣としての地位を確立しつつあった西郷の盟友、大久保一蔵は、先君の寵臣として働いていた西郷を奄美大島から召還させることを久光に願い出ました。

そして西郷は3年ぶりに藩政に戻ることとなったのです。
しかし戻るなり西郷はまた謹慎となります。

その後薩摩藩は、寺田屋騒動などの動きの中、着実に時代の変革の中心となって行きます。

そんな中「生麦事件」が起こります。
島津久光が江戸から戻る行列を4人のイギリス人が馬で乗り入れ、横切ろうとしたのです。
薩摩藩士 奈良原幸五郎は刀を引き抜き、イギリス人の一行に斬り、一人が死亡したのです。
この事件が切っ掛けで薩英戦争となっていきます。

そのころ京では長州藩が実権を握っていました。
これを快く思わない会津藩ともう一つが、薩摩藩でした。
両藩が協力して長州藩を京から追い出そうとしたのです。

ここでまた西郷は呼び戻されます。
そして戻った西郷はまず、会津との同盟を破棄させます。
志の違う両藩が、長州憎しというだけで結んだ同盟だったからです。

蛤御門の変でも西郷は会津藩からの援軍を断っています。
そして蛤御門の変の2ヵ月後、西郷はある人物との出会いを迎えます


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