2008年01月09日

島津斉彬の教え

幕末の動乱期を見事に立て直した薩摩藩主 島津斉彬公。

その島津斉彬公に重用され、斉彬公が亡くなったときに自らも命を絶とうとした男
それが・・・西郷隆盛である。

西郷隆盛は 鹿児島城下、下加冶屋町山之口馬場で生まれ、通称 吉之助で通していました。
西郷家は薩摩藩の中でも下級藩士でした。
16才の時、西郷隆盛は藩の郡方書役助という職に就きます。ここで西郷は迫田利済と出会います。
迫田の理念「国の根本をなすものは農民である」は西郷に大きな影響を与えていきます。

1849年(嘉永2年)薩摩藩にお家騒動が起こります世に言う 『お由羅騒動』 です。

薩摩藩第27代藩主・島津斉興は長子の斉彬でなく、異母兄弟の久光を藩主にしようとします。
当時斉彬は、世間からは「当時三百諸侯中の世子の中でも随一」と言われるほどの人物。

斉興のこの異常な行動に対し、薩摩藩内の不満を持っていたグループが「斉興隠居・斉彬擁立」の運動を起こします。

これに対し激怒した斉興はその一派を切腹・島流し等にしていきます。
これが『お由羅騒動』です。

斉彬の「どうしたら日本は日本でいられるか。列国の属国にされず、欧米各国と同等の独立国でいられるか。」という心は強く、終に1851年(嘉永4年)2月 薩摩藩主となります。

藩主となった斉彬は様々な方針を打ち出していきます。

そして広く意見を求めることをしたのです。

そのときに西郷は、農政に関する建白書を出したと言われています。
西郷の建白書は、いかに農民が重税に苦しみ、困難な生活を強いられているか、ということを切々と訴えたものであったとされています。

このような西郷の建白書や意見書は、斉彬の目に留まり中御小姓・定御供・江戸詰を命じられたのです。

これが西郷隆盛島津斉彬公との出会いでした。

島津斉彬公に見出され、江戸勤務となった西郷。

斉彬より庭方役を拝命することとなる。斉彬は西郷の才能着目し、面倒な手続きを取らずに自由に庭先などで会うことの出来る庭方役に任命し、これにより西郷は藩主 斉彬の自由な時間に会う事ができるようになったのです。

そんなおり1858年(安政5年)7月16日 島津斉彬公は突然急逝します。
西郷にとって大きな存在であった斉彬は、神のような存在でもありました。
斉彬の突然の死は、西郷に大きなショックを与え
 「斉彬公亡き今、もう生きてはいけない・・・」 とまで思わせました。

しかし西郷は、斉彬の志を継いで日本の近代化に向けて働くことを心に決めます。

そして国許の薩摩へ帰った西郷に更なる試練が待っていたのです。

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