2008年10月11日
斬首。。吉田松陰の最後
長州藩は、これ以上危険な行動を起されると吉田松陰の身が危ういと判断し、松陰を再び野山獄に入れるのだ。
これには獄に入ってもらっておけば、しばらくは自重し、その間に幕府の目も離れるだろうと思っていた。
しかし、1859(安政6年)幕府から吉田松陰を江戸に護送するように命令が来てしまう。
そして5月25日吉田松陰は野山獄から籠に入れられ江戸に送られる。
吉田松陰が江戸に送られる理由は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜が萩で松陰に会った事を話したのが理由だったそうである。
幕府は松陰を危険分子と見なしたのである。

江戸幕府が松陰に詰問したのは、梅田雲浜との内容、京の御所に文書を置いたのかという点であった。
ここで松陰はとんでもないことを幕府に言ってしまう。
「間部詮勝要撃計画」を告白するのだ。
「間部詮勝要撃計画」とは長州にいるときに松下村塾の門下生に幕府・老中暗殺計画を立てたのである。これの計画を知った長州藩は松下村塾は閉校させ、松陰を野山獄に閉じ込めていたのである。
そんな折の江戸への護送、そして計画の告白。
こんな話を聞かされて驚かない役人はいないはずだ。
この正直さというか、人を信じ、想いは伝わるということを疑わなかった松陰の運命は決まった。
幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。しかし大老・井伊直弼は容赦することなく「死罪」を申し渡す。
幕府の態度から死を覚悟した松陰は、家族への「永訣の書」と門下生に向けた「留魂録」を記す。
そして1859年(安政6年)10月27日、「死罪」が言い渡され、即日処刑となる。
吉田松陰、享年30歳という若さでした。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂
家族宛の『永訣書』には“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”と記されている。
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幕府は松陰を危険分子と見なしたのである。

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幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。しかし大老・井伊直弼は容赦することなく「死罪」を申し渡す。
幕府の態度から死を覚悟した松陰は、家族への「永訣の書」と門下生に向けた「留魂録」を記す。
そして1859年(安政6年)10月27日、「死罪」が言い渡され、即日処刑となる。
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