2008年10月09日

吉田松陰 投獄されるとも消えぬ志

結局、長州にて野山獄に投獄された吉田松陰は、獄中にて囚人達に「孟子」の講義を始める。
のちに、吉田松陰の主著となる「講孟余話」としてまとめられたるのがここでの講義である。


投獄されてから1年2か月後、自宅謹慎となり実家の杉家で預かりの身となる。

このときに親族・近隣の者を相手に「孟子」の講義を再開し、それが長州藩全体にウワサが広がり、世に有名な松下村塾に人が集まるようになるのだ。

元々は松陰の叔父・玉木文之進が始めた松下村塾だったが、松陰の名声とウワサにより、あたかも松陰が作ったように思われてしまっている。
松下村塾は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れることにより、後の高杉晋作の奇兵隊などに影響を及ぼしていく。
当初は3畳という僅かな幽囚室で密かに行なわれていたものの、塾生は次第に増え始め杉家の納屋を塾舎に改修し、講義を施していた。

塾生には、久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿入江九一伊藤博文山県有朋前原一誠品川弥二郎山田顕義野村靖など傑物ばかりである。

実際に吉田松陰が松下村塾で塾生たちに教えを施したのは、1856年(安政3年)8月から1858年(安政5年)12月までのわずか2年余りという短い間に過ぎないのだが、松陰は自らの信念を伝え、塾生達は貪欲にそれを吸収していった。

松陰は学を学ぶことだけが大切なのではない、人は学びそれを実行することが大切であるとし、門弟たちもその心意気を継承していった。
そんな松陰であるから、自ら行動をもって門弟たちにも示すのである。
幕府の老中・間部詮勝が朝廷を厳しく取り締まろうとしていると聞き、松陰は間部詮勝要撃計画を実行しようするのだ。
まず、塾生に声をかけ要撃隊をつくり、藩には武器・弾薬の提供を願い出て、藩公認で襲撃をしようとしたのである。
これには藩も驚いた。
襲撃するのに事前に知らせを受けるのは前代未聞だ。
このバカ正直さが後の松陰の死にも繋がってしまう。

当然ながら藩はこれを阻止せんとし、松陰は再び野山獄に入れられることになり、松下村塾も危険分子を見なされ閉鎖されてしまう。

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この記事へのコメント
はじめまして

水戸藩の幕末騒乱を調べている者ですが吉田松陰が水戸を五回程訊ね会沢正志斎と逢っていますね。
「新論」で国体(日本)をはじめて気がついた様です。桂小五郎も視察に訪れ藤田小四郎が適当に煽てられ天狗党の筑波山挙兵となったようです。
沢山の人材を大量に死なせてしまいました。
Posted by aita at 2008年10月10日 06:01