2008年08月27日
高杉晋作の義弟 南貞助
長州藩内の内紛が治まり、「正義派」が「俗論派」を抑えることで一先ずは藩の方向性は見えて来た。
そうすると高杉晋作は積年の夢だった西洋文明を直に見ることのため、伊藤俊輔を伴い長崎へ向かった。
長崎に着いた高杉は密航すべく船を捜すのだ。
しかしこれに反対した人物がいた。グラバーだ。
グラバーは長州藩の大事なときに高杉自身が留学することは危険であり、日本が落ち着いてから留学すればいいと諭した。
グラバーの説得によりイギリス行きを諦めた高杉は長州へと戻っていく。

長州藩は先に帰国した伊藤俊輔、井上聞多の代わりの留学生を探しており、高杉は自身が行けないのならと山崎小三郎と南貞助を留学に勧めたのだ。
山崎は先にも書いた人物である。
南は時に18歳、高杉の従兄弟でもあり、義弟でもあった。
高杉は自分の義弟に自分の夢を託したのだ。
南はその高杉の後押しを得て、イギリスへ向かう。
しかし、山崎の病や極度の貧困により思うように勉強は進まなかったようだ。
学費が足りず、陸軍大学校などで学んではいたのだが、留学継続を諦め、1867年(慶応3年)帰国する。
帰国する途中、香港の地で高杉が病死したこと知ったという。
帰国後も再度の留学を試みるのだが、なかなか実現できず、明治元年、外国御用掛として新政府に出任する。
南が再びイギリスに渡るのは、1871年(明治4年)のこと。
東伏見宮嘉彰親王の英国留学に随従を命じられたからである。
南はイギリスで法律、実業を学び、イギリス人の女性と結婚までしているのだ。
南は日本民族を優秀にする為、国際結婚をして民俗の血を混ぜるのだとし、「人種改造論」を主張。
このときイギリスに来ていた岩倉具視がこれ承認し、日本における国際結婚の第1号となったのだ。
しかし、妻のライザは子どもに恵まれず、ライザ自身も日本になじもうとしなかったため10年後には離婚という結果になっている。
その後も南貞助は国際化に関することに力を注ぎ、外国人相手の旅行会社を設立するなど「国際人」として生きていた。
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そうすると高杉晋作は積年の夢だった西洋文明を直に見ることのため、伊藤俊輔を伴い長崎へ向かった。
長崎に着いた高杉は密航すべく船を捜すのだ。
しかしこれに反対した人物がいた。グラバーだ。
グラバーは長州藩の大事なときに高杉自身が留学することは危険であり、日本が落ち着いてから留学すればいいと諭した。
グラバーの説得によりイギリス行きを諦めた高杉は長州へと戻っていく。

長州藩は先に帰国した伊藤俊輔、井上聞多の代わりの留学生を探しており、高杉は自身が行けないのならと山崎小三郎と南貞助を留学に勧めたのだ。
山崎は先にも書いた人物である。
南は時に18歳、高杉の従兄弟でもあり、義弟でもあった。
高杉は自分の義弟に自分の夢を託したのだ。
南はその高杉の後押しを得て、イギリスへ向かう。
しかし、山崎の病や極度の貧困により思うように勉強は進まなかったようだ。
学費が足りず、陸軍大学校などで学んではいたのだが、留学継続を諦め、1867年(慶応3年)帰国する。
帰国する途中、香港の地で高杉が病死したこと知ったという。
帰国後も再度の留学を試みるのだが、なかなか実現できず、明治元年、外国御用掛として新政府に出任する。
南が再びイギリスに渡るのは、1871年(明治4年)のこと。
東伏見宮嘉彰親王の英国留学に随従を命じられたからである。
南はイギリスで法律、実業を学び、イギリス人の女性と結婚までしているのだ。
南は日本民族を優秀にする為、国際結婚をして民俗の血を混ぜるのだとし、「人種改造論」を主張。
このときイギリスに来ていた岩倉具視がこれ承認し、日本における国際結婚の第1号となったのだ。
しかし、妻のライザは子どもに恵まれず、ライザ自身も日本になじもうとしなかったため10年後には離婚という結果になっている。
その後も南貞助は国際化に関することに力を注ぎ、外国人相手の旅行会社を設立するなど「国際人」として生きていた。
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2008年08月27日
吉田松陰 忿を懲らす
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『忿を懲らす』

吉田松陰一日一言
忿を懲らすと慾を塞ぐと、英雄の雙工夫。
慾を塞ぐは猶お容易、殊に忿を懲らすに於いて輸る。
怒りを抑えることと情欲にちょっとでも迷わないこと、この二つは英雄の工夫すべきものである。
情欲を封じ込めることはまだ簡単である。
とりわけ、怒りを抑えるということにおいて、失敗する。

吉田松陰 今日の一言
『忿を懲らす』
吉田松陰一日一言
忿を懲らすと慾を塞ぐと、英雄の雙工夫。
慾を塞ぐは猶お容易、殊に忿を懲らすに於いて輸る。
怒りを抑えることと情欲にちょっとでも迷わないこと、この二つは英雄の工夫すべきものである。
情欲を封じ込めることはまだ簡単である。
とりわけ、怒りを抑えるということにおいて、失敗する。
2008年08月26日
吉田松陰 自ら挫折することなかれ
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『自ら挫折することなかれ』

吉田松陰一日一言
足下鋭を蓄え志を養い、一蹉跌を以って自ら挫折することなかれ。
君は鋭気を蓄え、志をさらに鍛え、一回の失敗をもって、中途で自分からくじけ、駄目にならないようにしなさい。
何事もたった1回の失敗ごときでクヨクヨしていては駄目。
その失敗を糧に次の成功に向けて努力するからこそ、その失敗が活かされるという事ですね。

吉田松陰 今日の一言
『自ら挫折することなかれ』
吉田松陰一日一言
足下鋭を蓄え志を養い、一蹉跌を以って自ら挫折することなかれ。
君は鋭気を蓄え、志をさらに鍛え、一回の失敗をもって、中途で自分からくじけ、駄目にならないようにしなさい。
何事もたった1回の失敗ごときでクヨクヨしていては駄目。
その失敗を糧に次の成功に向けて努力するからこそ、その失敗が活かされるという事ですね。
タグ :吉田松陰
2008年08月25日
篤姫 宮崎あおい 第34回
篤姫 宮崎あおい 第33回 『公家と武家』
皇女和宮の江戸行きが迫っていた。
盛大に迎えようと張り切る天璋院であったが、朝廷から輿入れ後も身の回りはすべて御所風にて暮らすとの要求を突きつけられる。それにより、江戸方と京方との衝突がくすぶり始める。
ついに和宮は江戸城に入り、将軍・徳川家茂との対面をする。
家茂に対し不安を抱いていた和宮であったが、眼前に現れた家茂はやさしく凛としていて、和宮は一目でひかれ始める。

一方、天璋院との初対面において、敷物のない下座へ通された和宮たちは激怒。
和宮からも「天璋院へ」と呼び捨てのあて名を添えた土産が届けられ、双方の対立は激化してゆく。
そのころ薩摩では、有馬新七たち誠忠組がやり場のない思いを胸にたぎらせていた。
小松帯刀と大久保利通は島津久光に、今こそ幕政改革のときであり、不満を募らせる誠忠組をまとめるには西郷隆盛の力が必要であると説く。
さて、和宮たちと仲良くしたいと思いをめぐらす天璋院であったが、朝廷が和宮の帰京を強硬に迫り、さらには家茂直筆の請文を帝に差し出させたことを知り、意を決し飛び出していく。向かうは大奥・新御殿、和宮のいる場所であった。
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タグ :篤姫
2008年08月25日
吉田松陰 人の信ずる所に負かずんば
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『人の信ずる所に負かずんば』

吉田松陰一日一言
若し能く侃々行々、人の信ずる所に負かずんば不幸一斃すとも、信ずる者益々衆く、再起の日必ず能く事を済さん。
もしも、よく剛直でくじけず、また自分を信じてくれた人に背かなければ、不幸にもひとたび、うまくいかなかったとしても、自分を信じてくれる人は益々多くなり、再び立ち上がったときには、必ず思いを成し遂げることができる。

吉田松陰 今日の一言
『人の信ずる所に負かずんば』
吉田松陰一日一言
若し能く侃々行々、人の信ずる所に負かずんば不幸一斃すとも、信ずる者益々衆く、再起の日必ず能く事を済さん。
もしも、よく剛直でくじけず、また自分を信じてくれた人に背かなければ、不幸にもひとたび、うまくいかなかったとしても、自分を信じてくれる人は益々多くなり、再び立ち上がったときには、必ず思いを成し遂げることができる。
タグ :吉田松陰
2008年08月24日
異国の地にて散る 山崎小三郎
志を高く密航留学をする志士達。
しかし、長州藩の留学生たちのように資金面で苦労するものは多かったようだ。
井上聞多、伊藤俊輔が帰国したことで、長州藩は新たに新しく2人の留学生をイギリスに送ることを計画する。
一人は山崎小三郎、もう一人は南貞助である。
山崎は長州藩 藩船癸亥丸の船将と努め、将来を嘱望された次世代の長州藩を担う若手であった。
一方、南のほうは高杉晋作を義兄にもち、高杉の強い勧めでイギリス留学を望んだ。
彼ら二人ともう一人、竹田庸次郎も選ばれイギリスに向け出発していた。
長州藩の財政は厳しく、3人の留学生に渡された資金は千両だけであったという。
上海に到着した竹田は所用で一旦日本に帰国することになり、イギリスに向かうのは山崎と南の二人になった。
上海を出て4ヶ月。1865年(慶応元年)11月イギリスの到着する。
その頃には二人の資金は底を付いており、住居だけは第一次留学生の山尾庸三が借りていた部屋に入ることが出来たようだ。
だが冬のロンドンである。
暖を取るものもなく、食事もままならない状態が続いたそうだ。
ロンドンにいた野村弥吉はそのときの事を手紙でこう伝えている。
「山崎小三郎、南同行の処、両人とも無金にて、着英の上大いに困窮にて朝夕衣食の事も弁じ難く、昼夜共衣服をも替えず、かつ居処に火炉等もこれなく、深冬を凌ぎ、誠に無窮の貧困を致し候由、居住は彼のクーパの内に居候由」とある。

そのような状態だったので、遂には山崎は疲労と栄養失調により病にかかり、起き上がることさえ出来なくなってしまった。
これを見かねたグラバー商会のハリソンの父親は月々25ポンドの援助してくれるようになった。
住まいもロンドン大学付近のウィリアムソン教授の家に移り、夫妻の献身的な世話を受けた。
しかし、山崎はその甲斐もなく1866年(慶応2年)1月27日病院で息を引き取る。死因は肺炎だったそうである。
野村は後年、飢えと寒さ、語学力不足、異国での心労等を考え、留学資金の見通しが立たない場合は留学をさせないほうがよいといっている。
このことは密留学が志だけではとても難しく、多くの困難が待っていることを証明した結果となった。
山崎の死を聞いた高杉はひどく悲しみ、慚愧に堪えないが長州人が異郷の地に骨を埋めた日本人の先鋒となったことは、他藩にも誇りになり得ると自ら慰めている。
山崎の遺骸はロンドンの共同墓地に埋葬され、薩長両藩の留学生たちの手で手厚く葬られた。
幕末の時代、祖国を憂い、自身の命を賭してまで近代日本のため取り組んだ彼ら留学生たちの姿勢は決して忘れてはならないであろう。
現代社会、物が満ち溢れ、文化、技術が自由に交差することに感謝し、山崎小三郎達のような若者たちの犠牲をいつまでも大切にしていったほうが良いのだろうと改めて感じた。
山崎小三郎 享年22歳。
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しかし、長州藩の留学生たちのように資金面で苦労するものは多かったようだ。
井上聞多、伊藤俊輔が帰国したことで、長州藩は新たに新しく2人の留学生をイギリスに送ることを計画する。
一人は山崎小三郎、もう一人は南貞助である。
山崎は長州藩 藩船癸亥丸の船将と努め、将来を嘱望された次世代の長州藩を担う若手であった。
一方、南のほうは高杉晋作を義兄にもち、高杉の強い勧めでイギリス留学を望んだ。
彼ら二人ともう一人、竹田庸次郎も選ばれイギリスに向け出発していた。
長州藩の財政は厳しく、3人の留学生に渡された資金は千両だけであったという。
上海に到着した竹田は所用で一旦日本に帰国することになり、イギリスに向かうのは山崎と南の二人になった。
上海を出て4ヶ月。1865年(慶応元年)11月イギリスの到着する。
その頃には二人の資金は底を付いており、住居だけは第一次留学生の山尾庸三が借りていた部屋に入ることが出来たようだ。
だが冬のロンドンである。
暖を取るものもなく、食事もままならない状態が続いたそうだ。
ロンドンにいた野村弥吉はそのときの事を手紙でこう伝えている。
「山崎小三郎、南同行の処、両人とも無金にて、着英の上大いに困窮にて朝夕衣食の事も弁じ難く、昼夜共衣服をも替えず、かつ居処に火炉等もこれなく、深冬を凌ぎ、誠に無窮の貧困を致し候由、居住は彼のクーパの内に居候由」とある。

そのような状態だったので、遂には山崎は疲労と栄養失調により病にかかり、起き上がることさえ出来なくなってしまった。
これを見かねたグラバー商会のハリソンの父親は月々25ポンドの援助してくれるようになった。
住まいもロンドン大学付近のウィリアムソン教授の家に移り、夫妻の献身的な世話を受けた。
しかし、山崎はその甲斐もなく1866年(慶応2年)1月27日病院で息を引き取る。死因は肺炎だったそうである。
野村は後年、飢えと寒さ、語学力不足、異国での心労等を考え、留学資金の見通しが立たない場合は留学をさせないほうがよいといっている。
このことは密留学が志だけではとても難しく、多くの困難が待っていることを証明した結果となった。
山崎の死を聞いた高杉はひどく悲しみ、慚愧に堪えないが長州人が異郷の地に骨を埋めた日本人の先鋒となったことは、他藩にも誇りになり得ると自ら慰めている。
山崎の遺骸はロンドンの共同墓地に埋葬され、薩長両藩の留学生たちの手で手厚く葬られた。
幕末の時代、祖国を憂い、自身の命を賭してまで近代日本のため取り組んだ彼ら留学生たちの姿勢は決して忘れてはならないであろう。
現代社会、物が満ち溢れ、文化、技術が自由に交差することに感謝し、山崎小三郎達のような若者たちの犠牲をいつまでも大切にしていったほうが良いのだろうと改めて感じた。
山崎小三郎 享年22歳。
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2008年08月24日
吉田松陰 断じて之れを行えば
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『断じて之れを行えば』

吉田松陰一日一言
断じて之れを行えば、鬼神も之れを避く。
大事を断ぜんと欲せば、先ず成敗を忘れよ。
決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。
大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるか出来ないかということを忘れなさい。
ようするに、どうこう考えるよりも実践あるのみ!
結果は自ずとついてくるはずなのだから。




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吉田松陰 今日の一言
『断じて之れを行えば』
吉田松陰一日一言
断じて之れを行えば、鬼神も之れを避く。
大事を断ぜんと欲せば、先ず成敗を忘れよ。
決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。
大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるか出来ないかということを忘れなさい。
ようするに、どうこう考えるよりも実践あるのみ!
結果は自ずとついてくるはずなのだから。


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タグ :吉田松陰
2008年08月23日
吉田松陰 大識見大才気の人を待ちて
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『大識見大才気の人を待ちて』

吉田松陰一日一言
嗚呼、世、材なきを憂えず、其の材を用いざるを患う。
大識見大才気の人を待ちて、群材始めて之が用を為す。
ああ、私は世の中に才能ある人がいないことを憂えているのではない。
その才能ある人を任用しないことを憂えているのである。
正しい判断力を持ち、気概に溢れた人は上にあってこそ、才能をもった多くの人々も活きるのである。
この事は本当にそうだと思う。
薩摩藩の島津斉彬がいなければ、西郷隆盛、大久保利通なども活きる場所を得なかったであろうし、時代も変わらなかったかもしれない。
人を見る目、それを用いる器量があってこそだ。


吉田松陰 今日の一言
『大識見大才気の人を待ちて』
吉田松陰一日一言
嗚呼、世、材なきを憂えず、其の材を用いざるを患う。
大識見大才気の人を待ちて、群材始めて之が用を為す。
ああ、私は世の中に才能ある人がいないことを憂えているのではない。
その才能ある人を任用しないことを憂えているのである。
正しい判断力を持ち、気概に溢れた人は上にあってこそ、才能をもった多くの人々も活きるのである。
この事は本当にそうだと思う。
薩摩藩の島津斉彬がいなければ、西郷隆盛、大久保利通なども活きる場所を得なかったであろうし、時代も変わらなかったかもしれない。
人を見る目、それを用いる器量があってこそだ。
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2008年08月22日
一足早い薩長同盟
1863年(文久3年)5月12日、攘夷が高まるなか、長州藩5人の志士が密かにイギリスに向けて出航しました。
桂小五郎の発案でイギリス密航を計画。
藩に奏上するも、藩の要職につく桂が留学できるはずもなく、その代わりに選ばれたのが5人の志士であった。
伊藤俊輔、井上聞多、遠藤勤助、山尾庸三、野村弥吉である。

長州藩の真の目的は「不正な大君政府」を倒して正統な皇帝である『朝廷』へ大政を奉還し、祖国に平和と秩序を回復すること。
そのために必要な外国の技術と文化を学ぶために、攘夷の先鋒である長州藩は内々で留学を決行したのです。
イギリスに着いた井上らは祖国の存亡のため必死で様々なことを学んでいく。
こうした危機感の中、彼らに変化が起こる。
それは「強兵」から「富国」への転換だった。
そんな中、急報がもたらされる。イギリス『タイムズ紙』に載った長州藩への列強諸国の砲撃であった。
井上と伊藤は長州藩を救うには藩論を一刻も早く開国に転じさせることを決意、帰国を決める。
遠藤、野村、山尾は引き続き残り勉学に励むことになる。
ロンドンで勉学に励む遠藤らに驚きの出会いが待っていた。
1865年(慶応元年)5月28日、薩摩藩の留学生19名がロンドンに降り立った。
世話人のイギリスグラバー商会のライル・ホームは偶然にもケンジントン公園で日本人を見かける。
それが遠藤たち長州藩士であった。
ホームから3人の日本人の話を聞いた薩摩藩士たちは驚いた。
幕末とはいえ、まだ鎖国中、国禁を犯して密留学している者が自分たち以外にもいたのだから。
ホームの仲介で彼らは懇談することになる。
長州藩の3人が薩摩藩寄宿舎を訪れたのは7月2日と言われている。
このときの薩摩藩の留学生は、五代才助、寺島宗則、新納刑部らであった。
寄宿舎で対面した両藩の留学生たちは互いに警戒心をもっていました。
それもその筈です。
長州藩は8・18の政変や禁門の変以来、薩摩藩を「薩賊会奸」として恨み憎んでいた。
それが遥か祖国を離れたイギリスの地で、お互いに国禁を破り留学しているのです。
しかし、その警戒心も祖国から離れているということ、共に進む道が同じである事を理解し始めます。
彼らは徳川幕府による貿易独占権の排除、不正な条約の破棄という問題では共通の認識を持っていた。
その実現には西南雄藩が連合して国を変革するしかない、という結論に達した為でした。
異国の地で長州・薩摩は互いに協力し合います。
薩摩藩では藩全体をあげての留学だった為、資金は豊富にあった。
それに対し長州藩では、藩論は纏めてみたものの、俗論派をはばかり十分な資金援助が出来ていなかったのです。
長州藩の山尾は造船技術を学ぶために、ロンドンから造船業が盛んなグラスゴーに移りたいと思っていました。
ですが資金は底を付きどうすることも出来ません。山尾は困窮して薩摩藩の留学生たちに相談すると、他藩留学生のために藩費を使うわけにはいかなかったので、彼らは留学生たちから義捐金を募り、16人が1ポンドずつ出し合って、合計16ポンドを集めたのです。
これを山尾に渡したのです。
この義捐金で山尾のグラスゴー行きは実現しました。
山尾はこのことを深く感謝し、終生忘れることはなかったといいます。
薩摩藩の五代たちも義の厚い人柄で、藩単位ではなく、同じ日本人として雄藩の連合を目指した志の高さだった。
1868年1月21日、京都の薩摩藩邸で薩長同盟が正式に結ばれるが、それよりも3年前にイギリスの地で長州と薩摩は連携し合い、目的に向けて動き出していたのである。
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桂小五郎の発案でイギリス密航を計画。
藩に奏上するも、藩の要職につく桂が留学できるはずもなく、その代わりに選ばれたのが5人の志士であった。
伊藤俊輔、井上聞多、遠藤勤助、山尾庸三、野村弥吉である。

長州藩の真の目的は「不正な大君政府」を倒して正統な皇帝である『朝廷』へ大政を奉還し、祖国に平和と秩序を回復すること。
そのために必要な外国の技術と文化を学ぶために、攘夷の先鋒である長州藩は内々で留学を決行したのです。
イギリスに着いた井上らは祖国の存亡のため必死で様々なことを学んでいく。
こうした危機感の中、彼らに変化が起こる。
それは「強兵」から「富国」への転換だった。
そんな中、急報がもたらされる。イギリス『タイムズ紙』に載った長州藩への列強諸国の砲撃であった。
井上と伊藤は長州藩を救うには藩論を一刻も早く開国に転じさせることを決意、帰国を決める。
遠藤、野村、山尾は引き続き残り勉学に励むことになる。
ロンドンで勉学に励む遠藤らに驚きの出会いが待っていた。
1865年(慶応元年)5月28日、薩摩藩の留学生19名がロンドンに降り立った。
世話人のイギリスグラバー商会のライル・ホームは偶然にもケンジントン公園で日本人を見かける。
それが遠藤たち長州藩士であった。
ホームから3人の日本人の話を聞いた薩摩藩士たちは驚いた。
幕末とはいえ、まだ鎖国中、国禁を犯して密留学している者が自分たち以外にもいたのだから。
ホームの仲介で彼らは懇談することになる。
長州藩の3人が薩摩藩寄宿舎を訪れたのは7月2日と言われている。
このときの薩摩藩の留学生は、五代才助、寺島宗則、新納刑部らであった。
寄宿舎で対面した両藩の留学生たちは互いに警戒心をもっていました。
それもその筈です。
長州藩は8・18の政変や禁門の変以来、薩摩藩を「薩賊会奸」として恨み憎んでいた。
それが遥か祖国を離れたイギリスの地で、お互いに国禁を破り留学しているのです。
しかし、その警戒心も祖国から離れているということ、共に進む道が同じである事を理解し始めます。
彼らは徳川幕府による貿易独占権の排除、不正な条約の破棄という問題では共通の認識を持っていた。
その実現には西南雄藩が連合して国を変革するしかない、という結論に達した為でした。
異国の地で長州・薩摩は互いに協力し合います。
薩摩藩では藩全体をあげての留学だった為、資金は豊富にあった。
それに対し長州藩では、藩論は纏めてみたものの、俗論派をはばかり十分な資金援助が出来ていなかったのです。
長州藩の山尾は造船技術を学ぶために、ロンドンから造船業が盛んなグラスゴーに移りたいと思っていました。
ですが資金は底を付きどうすることも出来ません。山尾は困窮して薩摩藩の留学生たちに相談すると、他藩留学生のために藩費を使うわけにはいかなかったので、彼らは留学生たちから義捐金を募り、16人が1ポンドずつ出し合って、合計16ポンドを集めたのです。
これを山尾に渡したのです。
この義捐金で山尾のグラスゴー行きは実現しました。
山尾はこのことを深く感謝し、終生忘れることはなかったといいます。
薩摩藩の五代たちも義の厚い人柄で、藩単位ではなく、同じ日本人として雄藩の連合を目指した志の高さだった。
1868年1月21日、京都の薩摩藩邸で薩長同盟が正式に結ばれるが、それよりも3年前にイギリスの地で長州と薩摩は連携し合い、目的に向けて動き出していたのである。
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2008年08月22日
吉田松陰 事を済すは誠に在り
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『事を済すは誠に在り』

吉田松陰一日一言
事を済すは誠に在り。
物事をきちんとやり遂げることができるのは、真心だけである。
誠心誠意尽すことが大事なのでしょう。
真心があるから人も動いてくれるのだろうし、理解をしてくれる。
政治家たちよ、真心を持って国民、政治に向かい合ってくれ。


吉田松陰 今日の一言
『事を済すは誠に在り』
吉田松陰一日一言
事を済すは誠に在り。
物事をきちんとやり遂げることができるのは、真心だけである。
誠心誠意尽すことが大事なのでしょう。
真心があるから人も動いてくれるのだろうし、理解をしてくれる。
政治家たちよ、真心を持って国民、政治に向かい合ってくれ。
タグ :吉田松陰
2008年08月21日
吉田松陰 祖先の孝するは
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『祖先の孝するは』

吉田松陰一日一言
祖先の孝するは栄禄に非ざるなり。
父母に事ふるは定省に非ざるなり。
祖先の忠を墜さず、父母の名を辱しめず、孝・事の大、是れのみ。
祖先に尽すというのは、名声を得たり、高い俸給をもらうことなどではない。
父母にお仕えするということは、親にうやうやしく仕え、孝養を尽すことなどではない。
祖先の残された忠の実績をはずかしめないことである。
孝行する。また、仕えるということであり、これ以上のことはない。

吉田松陰 今日の一言
『祖先の孝するは』
吉田松陰一日一言
祖先の孝するは栄禄に非ざるなり。
父母に事ふるは定省に非ざるなり。
祖先の忠を墜さず、父母の名を辱しめず、孝・事の大、是れのみ。
祖先に尽すというのは、名声を得たり、高い俸給をもらうことなどではない。
父母にお仕えするということは、親にうやうやしく仕え、孝養を尽すことなどではない。
祖先の残された忠の実績をはずかしめないことである。
孝行する。また、仕えるということであり、これ以上のことはない。
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2008年08月20日
高杉晋作 前原一誠とも交誼
高杉晋作が信頼し、心を許した同志の一人に前原一誠がある。
1864年(元治元年)12月15日高杉晋作が伊藤俊輔や石川小五郎らわずか80人にて功山寺で挙兵したさい、前原は単身で駆けつけたほどの信頼関係である。
この決起により長州藩の政権を再び掌握した。
長州藩は桂小五郎などの復帰により順調に維新に向けて動き出した。
前原もこの新政権に参加し、藩政府員として桂を補佐し、軍備の拡張、洋式への変換。
薩摩藩との提携を行っていた。
しかし、急激な改革を断行していく長州藩は、藩内でも激しい非難を浴びることもあり、次第に前原は非難に耐え切れなくなっていた。
そしてとうとう出奔してしまうのだ。
出奔した前原が向かった先は、高杉のいる下関であった。
高杉は心を病んでしまった前原を匿い、休ませていた。
高杉は前原が自殺してしまうのではないかと思ったのだ、しばらく自分の下で逗留させ慰めていた。
この高杉の信頼が前原を蘇らせた。というよりも志を持つ者といることで自分が納得できたのであろう。

そんな中、第二次長州征伐が始まる。
高杉は奇兵隊ともに出兵、各地で連戦連勝していた。
しかし、そんな高杉は体を患っていたのだ。
肺結核である。
そんな高杉であるから指揮を執ることができなくなっていた。
高杉が指揮を委託したのは・・・・前原であった。
吉田松陰から「誠実さ人に過る」と称された前原は高杉の信頼を受けて指揮を執る。
しかし皮肉にも高杉から信頼を受けた前原も時代の間で喘ぐことになる。
後年、不平士族を率いて決起することになるのだ。
高杉の死後、前原の良き理解者がいなくなったことが原因であろう。
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1864年(元治元年)12月15日高杉晋作が伊藤俊輔や石川小五郎らわずか80人にて功山寺で挙兵したさい、前原は単身で駆けつけたほどの信頼関係である。
この決起により長州藩の政権を再び掌握した。
長州藩は桂小五郎などの復帰により順調に維新に向けて動き出した。
前原もこの新政権に参加し、藩政府員として桂を補佐し、軍備の拡張、洋式への変換。
薩摩藩との提携を行っていた。
しかし、急激な改革を断行していく長州藩は、藩内でも激しい非難を浴びることもあり、次第に前原は非難に耐え切れなくなっていた。
そしてとうとう出奔してしまうのだ。
出奔した前原が向かった先は、高杉のいる下関であった。
高杉は心を病んでしまった前原を匿い、休ませていた。
高杉は前原が自殺してしまうのではないかと思ったのだ、しばらく自分の下で逗留させ慰めていた。
この高杉の信頼が前原を蘇らせた。というよりも志を持つ者といることで自分が納得できたのであろう。

そんな中、第二次長州征伐が始まる。
高杉は奇兵隊ともに出兵、各地で連戦連勝していた。
しかし、そんな高杉は体を患っていたのだ。
肺結核である。
そんな高杉であるから指揮を執ることができなくなっていた。
高杉が指揮を委託したのは・・・・前原であった。
吉田松陰から「誠実さ人に過る」と称された前原は高杉の信頼を受けて指揮を執る。
しかし皮肉にも高杉から信頼を受けた前原も時代の間で喘ぐことになる。
後年、不平士族を率いて決起することになるのだ。
高杉の死後、前原の良き理解者がいなくなったことが原因であろう。
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2008年08月20日
吉田松陰 互いに寛容致し
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『互いに寛容致し』

吉田松陰一日一言
多人数の中には、自然気性の不同も之れあるもの候へども、これ等の類大概私心より起こる事に候へば、互いに寛容致し、隔心之れなき様相心得、先進を敬い後進を導き候儀、肝要たるべく候事。
多くの人がいる中には、自ずと気持ちの合わない者もいるだろう。
しかし、これはたいてい、私心、俺が俺がという、私欲をはかる心から起こることである。
そこで、お互いに咎めだてしないようにし、へだてのある心を起さないよう、気を配ることが大切である。
また、先輩を敬い、後輩を正しく導く、ということが非常に大切である。

吉田松陰 今日の一言
『互いに寛容致し』
吉田松陰一日一言
多人数の中には、自然気性の不同も之れあるもの候へども、これ等の類大概私心より起こる事に候へば、互いに寛容致し、隔心之れなき様相心得、先進を敬い後進を導き候儀、肝要たるべく候事。
多くの人がいる中には、自ずと気持ちの合わない者もいるだろう。
しかし、これはたいてい、私心、俺が俺がという、私欲をはかる心から起こることである。
そこで、お互いに咎めだてしないようにし、へだてのある心を起さないよう、気を配ることが大切である。
また、先輩を敬い、後輩を正しく導く、ということが非常に大切である。
タグ :吉田松陰
2008年08月19日
吉田松陰 国事は極めて重し
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『国事は極めて重し』

吉田松陰一日一言
夫れ国事は極めて重し、苟も国に為すなくんば、朋友を得と雖も悦ぶに足らず、すなわち朋友を失うも憂うるに遑あらざるなり。
国家に関する事項というものは、大変重要なものである。
仮にも、国家に貢献しないのであれば、同じ志を持った友を得たとしても喜ぶほどのことはない。
また、朋友を失ったとしても、憂慮するほどのゆとりもない。


吉田松陰 今日の一言
『国事は極めて重し』
吉田松陰一日一言
夫れ国事は極めて重し、苟も国に為すなくんば、朋友を得と雖も悦ぶに足らず、すなわち朋友を失うも憂うるに遑あらざるなり。
国家に関する事項というものは、大変重要なものである。
仮にも、国家に貢献しないのであれば、同じ志を持った友を得たとしても喜ぶほどのことはない。
また、朋友を失ったとしても、憂慮するほどのゆとりもない。
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2008年08月18日
篤姫 宮崎あおい 第33回
篤姫 宮崎あおい 第33回 『皇女和宮』
桜田門外の変による井伊直弼の突然の死は、幕府を大きく揺るがしていた。
失われた権威を取り戻すため、幕府では、孝明天皇の妹・和宮と将軍徳川家茂との縁組みを進めていた。
天璋院は、和宮に婚約者がいると聞き強く反対するが、老中の安藤信正は聞く耳を持たない。
一方、京でも和宮の母・観行院や庭田嗣子らが婚儀に反対し、和宮自身も乗り気では無かった。
しかし、幕府に恩を売れば攘夷を実行できるという岩倉具視の言葉に心動かされた孝明天皇は、婚儀を進めることを決意。
和宮に、日本国のためと言い聞かせる。

天璋院は家茂に不安を訴えるが、婚儀を幕府と朝廷の架け橋にしたいという家茂の言葉に、息子の成長を感じ安心するのだった。
時を同じくして薩摩藩から天璋院の元に、故郷の薩摩へ帰ってはどうかとの書状が来る。
心動かされる天璋院だったが、滝山からこの誘いは幕府老中たちの企みであると聞き一転、薩摩へは帰らぬと安藤に告げる。
天璋院は亡くなった徳川家定の遺志を受け継ぎ、徳川将軍家を守り抜くと宣言し、和宮を迎える準備を始める。
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桜田門外の変による井伊直弼の突然の死は、幕府を大きく揺るがしていた。
失われた権威を取り戻すため、幕府では、孝明天皇の妹・和宮と将軍徳川家茂との縁組みを進めていた。
天璋院は、和宮に婚約者がいると聞き強く反対するが、老中の安藤信正は聞く耳を持たない。
一方、京でも和宮の母・観行院や庭田嗣子らが婚儀に反対し、和宮自身も乗り気では無かった。
しかし、幕府に恩を売れば攘夷を実行できるという岩倉具視の言葉に心動かされた孝明天皇は、婚儀を進めることを決意。
和宮に、日本国のためと言い聞かせる。

天璋院は家茂に不安を訴えるが、婚儀を幕府と朝廷の架け橋にしたいという家茂の言葉に、息子の成長を感じ安心するのだった。
時を同じくして薩摩藩から天璋院の元に、故郷の薩摩へ帰ってはどうかとの書状が来る。
心動かされる天璋院だったが、滝山からこの誘いは幕府老中たちの企みであると聞き一転、薩摩へは帰らぬと安藤に告げる。
天璋院は亡くなった徳川家定の遺志を受け継ぎ、徳川将軍家を守り抜くと宣言し、和宮を迎える準備を始める。
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タグ :篤姫
2008年08月18日
吉田松陰 己を修むると人を治む
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『己を修むると人を治む』

吉田松陰一日一言
楽しむに天下を以ってし、憂うるに天下を以ってすと、是れ聖学の骨子なり。
凡そ聖学の主とする所、己を修むると人を治むの二途に過ぎず。
「楽しむに天下を以ってし、憂うるに天下を以ってす」という言葉がある。
これこそが、聖学、つまり孔子の学問の骨子である。
だいたい聖学の主眼とするところは、自分を修めることと人を治めることの2つに過ぎない。



吉田松陰 今日の一言
『己を修むると人を治む』
吉田松陰一日一言
楽しむに天下を以ってし、憂うるに天下を以ってすと、是れ聖学の骨子なり。
凡そ聖学の主とする所、己を修むると人を治むの二途に過ぎず。
「楽しむに天下を以ってし、憂うるに天下を以ってす」という言葉がある。
これこそが、聖学、つまり孔子の学問の骨子である。
だいたい聖学の主眼とするところは、自分を修めることと人を治めることの2つに過ぎない。
タグ :吉田松陰
2008年08月17日
吉田松陰 徳なり
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『徳なり』

吉田松陰一日一言
士に貴ぶ所は徳なり、才に非ず。
行なり学に非ず。
立派な人が重んじるのは人徳であって才能ではない。
実際に行いであり、役に立たない理論ではない。

吉田松陰 今日の一言
『徳なり』
吉田松陰一日一言
士に貴ぶ所は徳なり、才に非ず。
行なり学に非ず。
立派な人が重んじるのは人徳であって才能ではない。
実際に行いであり、役に立たない理論ではない。
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2008年08月16日
小原鉄心 新政府への転身
大垣藩士小原鉄心。幕末の大垣藩の藩論を幕府側から新政府側に変えた男です。
小原鉄心は1817年(文化14年)に生まれている。
1842年(天保13年)家督を相続し、藩主・戸田氏正に仕える。
氏正に重用されて家老・大垣城代にまで抜擢され、西洋文明の導入や大砲の鋳造など、藩政改革を積極的に行なうことなる。
1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航すると、浦賀奉行を務めていたのは大垣藩主 戸田氏正の親類の戸田氏栄だった。戸田氏栄は大垣藩に藩兵を送る様に要請、これに基づき大垣藩家老・小原鉄心から送られた130名の大垣藩兵を率いてペリーと接見したという。
外国艦隊を見た小原は、異国の文化と軍備に驚愕し、その後、大砲の製造、軍備の拡張に乗り出すことになる。

氏正が隠居し、新藩主の戸田氏彬のもとでも重用され、1863年(文久3年)には戸田氏彬に従って上洛した。
1864年(元治元年)禁門の変では薩摩藩とともに長州藩の軍勢と戦い、伏見まで追いつめるという武功を挙げている。
このときに大砲を持ち込み敵を大いに粉砕したと伝えられている。
氏彬の死後は戸田氏共に仕え、1868年(慶応4年)戊辰戦争が始まると、小原は参与に選ばれて新政府に仕えたが、鳥羽伏見の戦いでは大垣藩は旧幕府軍に属しており、子の兵部は鳥羽街道の先駆を命ぜられ淀に向っていた。
この時小原鉄心は兵部に大義名分を説き、先駆を辞退させようとしたが時すでに遅く、大垣藩は一時朝敵の汚名を受けることになる。
父は政府軍、子は旧幕府軍という事態の中、小原は急いで大垣に帰り、天に二日なく地に二王なしの意をもって佐幕派と尊王派で分裂した藩論を尊王派で統一して新政府に恭順し、子の小原兵部を東山道先鋒として従軍させている。
これにより一時受けた朝敵の汚名はそそがれることになる。
戸田家は元々が譜代大名であった。
藩主 戸田氏鉄は徳川家康の近習として仕えており、天草四郎の島原の乱おりには幕府軍総大将として戦地に赴くほどの家柄であったのだ。
そんな譜代大名の大垣藩を幕府を捨て、新政府軍に転じさせるには、相当な困難があったと思われる。
小原鉄心はいかにして藩論を幕府側から新政府側に変えたのか…。
小原は薩摩・長州藩の志士たちや朝廷の人たちと交流がありました。
時代を憂う志士と接していく中で「いまの幕府ではだめだ…」と考えるようになるのです。
そんな中、時勢が大きく動き出します。1867年(慶応3年)10月14日将軍徳川慶喜が自ら大政奉還をし、やがて12月9日には王政復古の大号令が発せられました。
歴代譜代の大垣藩に思いがけない要請が着ます。
新政府より大垣藩の家老小原鉄心に対して、「新政府に出仕すべく京都へ参上せられたい」との連絡があるのです。
新政府は大垣藩の立地的条件と、大砲技術、その他の軍事技術に眼を着けていたのです。
小原は時勢を鑑みて参与の職を拝命します。
1月3日、幕府の権力回復をめざす会津藩や桑名藩などの旧幕府軍が、鳥羽・伏見において新政府軍と戦端を開く。
小原鉄心は、旧幕軍支持に傾きがちな大垣藩の動向を危惧し、直ちに大垣に戻り、藩主の面前で諸藩士と激論をします。
「今の日本を救うのは幕府ではない。天皇を中心とした新政府である」と熱心に思いをぶつけます。
小原の賢明な説得により1月10日、新政府軍支持の方針を決定した大垣藩。従来は幕府側の傾向が強かった大垣藩も、わずか数十日、もっといえば数日の間に「勤王」に方針を転身させたのです。
こうして、大垣藩は小原鉄心のみならず、藩をあげて新政府軍に付くことになったのです。
大垣藩内で内紛もなく、戦火にあうこともなく明治維新を迎えられたのは、小原の時勢を見る眼力があったお蔭でしょう。
この大垣藩の動向を見て、幕府に付くか新政府に付くか迷っていた多くの藩が新政府に付いたのです。
その後、新政府は旧幕府軍と戦い、勝利した後、明治新政府を樹立します。
明治維新の樹立に際して、大垣藩は長州藩・薩摩藩・土佐藩に続いて多くの褒美を与えられています。
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小原鉄心は1817年(文化14年)に生まれている。
1842年(天保13年)家督を相続し、藩主・戸田氏正に仕える。
氏正に重用されて家老・大垣城代にまで抜擢され、西洋文明の導入や大砲の鋳造など、藩政改革を積極的に行なうことなる。
1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航すると、浦賀奉行を務めていたのは大垣藩主 戸田氏正の親類の戸田氏栄だった。戸田氏栄は大垣藩に藩兵を送る様に要請、これに基づき大垣藩家老・小原鉄心から送られた130名の大垣藩兵を率いてペリーと接見したという。
外国艦隊を見た小原は、異国の文化と軍備に驚愕し、その後、大砲の製造、軍備の拡張に乗り出すことになる。

氏正が隠居し、新藩主の戸田氏彬のもとでも重用され、1863年(文久3年)には戸田氏彬に従って上洛した。
1864年(元治元年)禁門の変では薩摩藩とともに長州藩の軍勢と戦い、伏見まで追いつめるという武功を挙げている。
このときに大砲を持ち込み敵を大いに粉砕したと伝えられている。
氏彬の死後は戸田氏共に仕え、1868年(慶応4年)戊辰戦争が始まると、小原は参与に選ばれて新政府に仕えたが、鳥羽伏見の戦いでは大垣藩は旧幕府軍に属しており、子の兵部は鳥羽街道の先駆を命ぜられ淀に向っていた。
この時小原鉄心は兵部に大義名分を説き、先駆を辞退させようとしたが時すでに遅く、大垣藩は一時朝敵の汚名を受けることになる。
父は政府軍、子は旧幕府軍という事態の中、小原は急いで大垣に帰り、天に二日なく地に二王なしの意をもって佐幕派と尊王派で分裂した藩論を尊王派で統一して新政府に恭順し、子の小原兵部を東山道先鋒として従軍させている。
これにより一時受けた朝敵の汚名はそそがれることになる。
戸田家は元々が譜代大名であった。
藩主 戸田氏鉄は徳川家康の近習として仕えており、天草四郎の島原の乱おりには幕府軍総大将として戦地に赴くほどの家柄であったのだ。
そんな譜代大名の大垣藩を幕府を捨て、新政府軍に転じさせるには、相当な困難があったと思われる。
小原鉄心はいかにして藩論を幕府側から新政府側に変えたのか…。
小原は薩摩・長州藩の志士たちや朝廷の人たちと交流がありました。
時代を憂う志士と接していく中で「いまの幕府ではだめだ…」と考えるようになるのです。
そんな中、時勢が大きく動き出します。1867年(慶応3年)10月14日将軍徳川慶喜が自ら大政奉還をし、やがて12月9日には王政復古の大号令が発せられました。
歴代譜代の大垣藩に思いがけない要請が着ます。
新政府より大垣藩の家老小原鉄心に対して、「新政府に出仕すべく京都へ参上せられたい」との連絡があるのです。
新政府は大垣藩の立地的条件と、大砲技術、その他の軍事技術に眼を着けていたのです。
小原は時勢を鑑みて参与の職を拝命します。
1月3日、幕府の権力回復をめざす会津藩や桑名藩などの旧幕府軍が、鳥羽・伏見において新政府軍と戦端を開く。
小原鉄心は、旧幕軍支持に傾きがちな大垣藩の動向を危惧し、直ちに大垣に戻り、藩主の面前で諸藩士と激論をします。
「今の日本を救うのは幕府ではない。天皇を中心とした新政府である」と熱心に思いをぶつけます。
小原の賢明な説得により1月10日、新政府軍支持の方針を決定した大垣藩。従来は幕府側の傾向が強かった大垣藩も、わずか数十日、もっといえば数日の間に「勤王」に方針を転身させたのです。
こうして、大垣藩は小原鉄心のみならず、藩をあげて新政府軍に付くことになったのです。
大垣藩内で内紛もなく、戦火にあうこともなく明治維新を迎えられたのは、小原の時勢を見る眼力があったお蔭でしょう。
この大垣藩の動向を見て、幕府に付くか新政府に付くか迷っていた多くの藩が新政府に付いたのです。
その後、新政府は旧幕府軍と戦い、勝利した後、明治新政府を樹立します。
明治維新の樹立に際して、大垣藩は長州藩・薩摩藩・土佐藩に続いて多くの褒美を与えられています。
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2008年08月16日
吉田松陰 書を読むのみに非ざるなり
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『書を読むのみに非ざるなり』

吉田松陰一日一言
気節行義は村塾の第一義なり、徒に書を読むのみに非ざるなり。
気概があって節操が堅く、正しいことを行うことが、松下村塾の最も目指していることである。
いたずらに書物を読んでいるだけではない。
松陰の人間性というか、考え方そのものが出ていますよね。
勉学をするだけでなく、心を研くそれが松下村塾である。
吉田松陰 今日の一言
『書を読むのみに非ざるなり』
吉田松陰一日一言
気節行義は村塾の第一義なり、徒に書を読むのみに非ざるなり。
気概があって節操が堅く、正しいことを行うことが、松下村塾の最も目指していることである。
いたずらに書物を読んでいるだけではない。
松陰の人間性というか、考え方そのものが出ていますよね。
勉学をするだけでなく、心を研くそれが松下村塾である。
タグ :吉田松陰
2008年08月15日
大垣藩 記事一覧
大垣藩---記事一覧

● 『梁川星巌---日々旅にあり』
● 『所郁太郎---攘夷の医師』
● 『戸田氏栄---日米和親条約の使者』
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● 『所郁太郎---攘夷の医師』
● 『戸田氏栄---日米和親条約の使者』
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