2008年08月22日

一足早い薩長同盟

1863年(文久3年)5月12日、攘夷が高まるなか、長州藩5人の志士が密かにイギリスに向けて出航しました。

桂小五郎の発案でイギリス密航を計画。
藩に奏上するも、藩の要職につく桂が留学できるはずもなく、その代わりに選ばれたのが5人の志士であった。

伊藤俊輔井上聞多遠藤勤助山尾庸三野村弥吉である。

長州藩の真の目的は「不正な大君政府」を倒して正統な皇帝である『朝廷』へ大政を奉還し、祖国に平和と秩序を回復すること。
そのために必要な外国の技術と文化を学ぶために、攘夷の先鋒である長州藩は内々で留学を決行したのです。
イギリスに着いた井上らは祖国の存亡のため必死で様々なことを学んでいく。
こうした危機感の中、彼らに変化が起こる。
それは「強兵」から「富国」への転換だった。
そんな中、急報がもたらされる。イギリス『タイムズ紙』に載った長州藩への列強諸国の砲撃であった。
井上と伊藤は長州藩を救うには藩論を一刻も早く開国に転じさせることを決意、帰国を決める。

遠藤、野村、山尾は引き続き残り勉学に励むことになる。

ロンドンで勉学に励む遠藤らに驚きの出会いが待っていた。
1865年(慶応元年)5月28日、薩摩藩の留学生19名がロンドンに降り立った。
世話人のイギリスグラバー商会のライル・ホームは偶然にもケンジントン公園で日本人を見かける。
それが遠藤たち長州藩士であった。

ホームから3人の日本人の話を聞いた薩摩藩士たちは驚いた。
幕末とはいえ、まだ鎖国中、国禁を犯して密留学している者が自分たち以外にもいたのだから。

ホームの仲介で彼らは懇談することになる。
長州藩の3人が薩摩藩寄宿舎を訪れたのは7月2日と言われている。
このときの薩摩藩の留学生は、五代才助寺島宗則新納刑部らであった。

寄宿舎で対面した両藩の留学生たちは互いに警戒心をもっていました。
それもその筈です。
長州藩は8・18の政変禁門の変以来、薩摩藩を「薩賊会奸」として恨み憎んでいた。
それが遥か祖国を離れたイギリスの地で、お互いに国禁を破り留学しているのです。

しかし、その警戒心も祖国から離れているということ、共に進む道が同じである事を理解し始めます。
彼らは徳川幕府による貿易独占権の排除、不正な条約の破棄という問題では共通の認識を持っていた。
その実現には西南雄藩が連合して国を変革するしかない、という結論に達した為でした。

異国の地で長州・薩摩は互いに協力し合います。
薩摩藩では藩全体をあげての留学だった為、資金は豊富にあった。
それに対し長州藩では、藩論は纏めてみたものの、俗論派をはばかり十分な資金援助が出来ていなかったのです。

長州藩の山尾は造船技術を学ぶために、ロンドンから造船業が盛んなグラスゴーに移りたいと思っていました。
ですが資金は底を付きどうすることも出来ません。山尾は困窮して薩摩藩の留学生たちに相談すると、他藩留学生のために藩費を使うわけにはいかなかったので、彼らは留学生たちから義捐金を募り、16人が1ポンドずつ出し合って、合計16ポンドを集めたのです。
これを山尾に渡したのです。
この義捐金で山尾のグラスゴー行きは実現しました。

山尾はこのことを深く感謝し、終生忘れることはなかったといいます。
薩摩藩の五代たちも義の厚い人柄で、藩単位ではなく、同じ日本人として雄藩の連合を目指した志の高さだった。

1868年1月21日、京都の薩摩藩邸で薩長同盟が正式に結ばれるが、それよりも3年前にイギリスの地で長州と薩摩は連携し合い、目的に向けて動き出していたのである。

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Posted by 左近将監 at 10:57Comments(0)TrackBack(0)

2008年08月22日

吉田松陰 事を済すは誠に在り

[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言 
『事を済すは誠に在り』

吉田松陰一日一言

事を済すは誠に在り。

物事をきちんとやり遂げることができるのは、真心だけである。
誠心誠意尽すことが大事なのでしょう。
真心があるから人も動いてくれるのだろうし、理解をしてくれる。
政治家たちよ、真心を持って国民、政治に向かい合ってくれ。





  
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