2008年08月16日

小原鉄心 新政府への転身

大垣藩士小原鉄心。幕末の大垣藩の藩論を幕府側から新政府側に変えた男です。

小原鉄心は1817年(文化14年)に生まれている。
1842年(天保13年)家督を相続し、藩主・戸田氏正に仕える。
氏正に重用されて家老・大垣城代にまで抜擢され、西洋文明の導入や大砲の鋳造など、藩政改革を積極的に行なうことなる。
1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航すると、浦賀奉行を務めていたのは大垣藩主 戸田氏正の親類の戸田氏栄だった。戸田氏栄は大垣藩に藩兵を送る様に要請、これに基づき大垣藩家老・小原鉄心から送られた130名の大垣藩兵を率いてペリーと接見したという。
外国艦隊を見た小原は、異国の文化と軍備に驚愕し、その後、大砲の製造、軍備の拡張に乗り出すことになる。


氏正が隠居し、新藩主の戸田氏彬のもとでも重用され、1863年(文久3年)には戸田氏彬に従って上洛した。
1864年(元治元年)禁門の変では薩摩藩とともに長州藩の軍勢と戦い、伏見まで追いつめるという武功を挙げている。
このときに大砲を持ち込み敵を大いに粉砕したと伝えられている。

氏彬の死後は戸田氏共に仕え、1868年(慶応4年)戊辰戦争が始まると、小原は参与に選ばれて新政府に仕えたが、鳥羽伏見の戦いでは大垣藩は旧幕府軍に属しており、子の兵部は鳥羽街道の先駆を命ぜられ淀に向っていた。
この時小原鉄心は兵部に大義名分を説き、先駆を辞退させようとしたが時すでに遅く、大垣藩は一時朝敵の汚名を受けることになる。
父は政府軍、子は旧幕府軍という事態の中、小原は急いで大垣に帰り、天に二日なく地に二王なしの意をもって佐幕派と尊王派で分裂した藩論を尊王派で統一して新政府に恭順し、子の小原兵部を東山道先鋒として従軍させている。
これにより一時受けた朝敵の汚名はそそがれることになる。

戸田家は元々が譜代大名であった。
藩主 戸田氏鉄徳川家康の近習として仕えており、天草四郎島原の乱おりには幕府軍総大将として戦地に赴くほどの家柄であったのだ。
そんな譜代大名の大垣藩を幕府を捨て、新政府軍に転じさせるには、相当な困難があったと思われる。
小原鉄心はいかにして藩論を幕府側から新政府側に変えたのか…。
小原は薩摩・長州藩の志士たちや朝廷の人たちと交流がありました。
時代を憂う志士と接していく中で「いまの幕府ではだめだ…」と考えるようになるのです。
そんな中、時勢が大きく動き出します。1867年(慶応3年)10月14日将軍徳川慶喜が自ら大政奉還をし、やがて12月9日には王政復古の大号令が発せられました。
歴代譜代の大垣藩に思いがけない要請が着ます。
新政府より大垣藩の家老小原鉄心に対して、「新政府に出仕すべく京都へ参上せられたい」との連絡があるのです。
新政府は大垣藩の立地的条件と、大砲技術、その他の軍事技術に眼を着けていたのです。
小原は時勢を鑑みて参与の職を拝命します。

1月3日、幕府の権力回復をめざす会津藩や桑名藩などの旧幕府軍が、鳥羽・伏見において新政府軍と戦端を開く。
小原鉄心は、旧幕軍支持に傾きがちな大垣藩の動向を危惧し、直ちに大垣に戻り、藩主の面前で諸藩士と激論をします。
「今の日本を救うのは幕府ではない。天皇を中心とした新政府である」と熱心に思いをぶつけます。
小原の賢明な説得により1月10日、新政府軍支持の方針を決定した大垣藩。従来は幕府側の傾向が強かった大垣藩も、わずか数十日、もっといえば数日の間に「勤王」に方針を転身させたのです。

こうして、大垣藩は小原鉄心のみならず、藩をあげて新政府軍に付くことになったのです。
大垣藩内で内紛もなく、戦火にあうこともなく明治維新を迎えられたのは、小原の時勢を見る眼力があったお蔭でしょう。

この大垣藩の動向を見て、幕府に付くか新政府に付くか迷っていた多くの藩が新政府に付いたのです。
その後、新政府は旧幕府軍と戦い、勝利した後、明治新政府を樹立します。
明治維新の樹立に際して、大垣藩は長州藩・薩摩藩・土佐藩に続いて多くの褒美を与えられています。

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Posted by 左近将監 at 10:24Comments(0)TrackBack(0)大垣藩

2008年08月16日

吉田松陰 書を読むのみに非ざるなり

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吉田松陰 今日の一言 
『書を読むのみに非ざるなり』

吉田松陰一日一言

気節行義は村塾の第一義なり、徒に書を読むのみに非ざるなり。

気概があって節操が堅く、正しいことを行うことが、松下村塾の最も目指していることである。
いたずらに書物を読んでいるだけではない。
松陰の人間性というか、考え方そのものが出ていますよね。
勉学をするだけでなく、心を研くそれが松下村塾である。

  
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