2008年08月14日

松本奎堂 右眼の志士

松本奎堂 天誅組三総裁の一人である。

松本奎堂は1832年(天保2年)三河刈谷藩士の松本印南惟成の次男として生まれている。
幼い頃から学を好み、10歳にして詩文をつくり神童と称えられたという。
父が刈谷藩用人兼漢学甲州流軍学師範という環境から、11歳で名古屋の尾張藩儒臣奥田桐園に入門。

秀才であったが、三味線や胡弓を奏で、美声の持ち主で歌も上手な芸達者だったそうで、豪胆でもあり18歳の時、槍術の稽古中に左眼を失明したが、平然としていたと伝えられている。
初め尾張国沓掛村の伊藤両村に師事し、1852年(嘉永5年)藩より選ばれて昌平坂学問所に学び、舎長になる。
江戸藩邸の教授兼侍読に任じられるが、過激な言論のために禁固刑に処せられている。

三河国刈谷は徳川家の地元、発祥の地の近くである。
藩主土井氏は譜代大名であり、幕府創業の功を誇る藩風であったが、松本は早くから尊王の志が高く、徳川家を称賛することを恥とし、久能山東照宮廟を訪れたときに徳川家康の狡猾を憎み、志を得た暁には墓を暴き骨を鞭打ってやると罵りような人であり、地元では変人扱いであった。
譜代藩出身で昌平阪学問所で舎長まで勤めたエリートであり、体制側に身をおけば将来は安泰であったというところが他の志士の経歴と比べて異質である。当時もっとも先鋭的な志士の一人であった。

1855年(安政2年)再び昌平坂学問所で学んだが、勤皇思想の正当性を確信した松本は職を辞して脱藩し、名古屋、大坂に出て私塾を開くことになる。

松本は四国の博徒の大親分、日柳燕石とは大変懇意であったし、私塾にはいつも何人もの博徒がいたりもした。
非常な教養人であったが、型破りな人物でもあったようで、頼三樹三郎梅田雲浜らと親しく、安政の大獄の時、彼らと共に要注意人物に挙げられていたが、生き延び、次第に勤皇志士の中で重きをなすようになっていったのだ。


1862年(文久2年)京都に上り、薩摩藩国父島津久光の率兵上京を期した平野国臣吉村虎太郎らによる浪士の挙兵計画に参加するが、寺田屋事件で薩摩藩の過激派は粛清され、主だった浪士たちも捕縛されてしまった。
この時、浪士の中には青蓮院宮を奉じて比叡山に籠ろうという議論があったが、松本は大和国十津川の険に拠ることを主張したという。
後年の天誅組の挙兵で、松本はこの案を実行している。

松本は淡路島へ逃れ、同地の勤皇派大地主古東領左衛門や河内国の勤皇派大地主水郡善之祐とも親し交わり、後に彼らは天誅組のために莫大な私財をなげうつことになる。

1863年(文久3年)長州藩は外国船への砲撃を行い攘夷を決行する。
だが、翌月には米仏艦隊の反撃にあって敗北する。松本は吉村らと長州へ赴き高杉晋作と国事を論じ、藩主毛利敬親に謁見した。

8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が下る。松本は吉村や藤本鉄石と議して、行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを決め、前侍従中山忠光を擁して、39人の浪士が京都を出立する。
17日に大和国五条天領に入り、代官所を襲撃し代官鈴木源内の首を刎ねて兵を挙げた。
挙兵した浪士たちは天誅組と呼ばれるようになる。

天誅組は自らを「御政府」と称し、五条を「天朝直轄地」とし、年貢半減などの触書を出した。
職制を定め中山を主将とし、松本は吉村、藤本とともに三総裁の一人となる。趣意書、軍令書、布告など天誅組が公にした文書はほとんどが松本の手にものとされる。教養と文章力は天誅組の中で随一であった。

だが、天誅組の挙兵の直後に8・18の政変が起きて京都の政情は一変してしまう。
攘夷派公卿は失脚し、大和行幸は偽勅とされたのだ。

これにより孤立した天誅組
天誅組は十津川郷士1000人余を募り、高取城を攻撃するが失敗。
9月には周辺諸藩の大軍が動員され、天誅組は善戦するも各地で敗退が続く。
そのうちに十津川郷士が離反するに及び、中山は兵の解散を命じ、残党は脱出すべく山中の難路を彷徨うことになる。
そのころ松本は右目が悪化し、元々見えない左目と合わせて盲目となっていた。
吉村も脚を負傷して歩行困難になり一行から脱落していく。

9月24日、天誅組残党は鷲家口で紀州・彦根藩兵に捕捉され、壊滅した。
主将の中山は脱出するが、他はほとんどの者が戦死するか捕縛された。
足ノ郷峠を下りてきた松本奎堂藤本鉄石ら一行は御殿越しといわれる峠を越えて庄屋松本清兵衛宅に到着する。
ここで夜を明かし、翌日2時過ぎに清兵衛宅を出た。
盲目の松本奎堂は地元の者を雇いカゴに乗って出発した。

清兵衛宅を出た藤本鉄石と松本は途中で別れ、駕籠にのっている松本が遅れはじめたからだった。
藤本は先にこの地蔵堂前を過ぎ伊勢街道へと向かっていた。

松本奎堂のカゴは地元の者にかつがれていたが、近くの清兵衛宅で紀州藩兵によるトキの声と銃声がなった途端、彼らはカゴを放り出し逃げていってしまった。

盲目の松本奎堂は従者の村上万吉と共に山に入り潜伏した。
しかしすぐに彦根藩士に見つかり、村上万吉とともに銃殺された。
松本奎堂 享年33歳。

松本奎堂歌碑
君がため みまかりにきと 世の人は 語りつぎてよ 峰の松風

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Posted by 左近将監 at 10:24Comments(0)TrackBack(0)未分類

2008年08月14日

吉田松陰 恒産と恒心

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吉田松陰 今日の一言 
『恒産と恒心』

吉田松陰一日一言

恒の産なくして恒の心ある者は、惟だ士のみ能くすと為す。
此の一句にて士道を悟るべし。
諺に云う、武士は食わねど高楊枝と、亦此の意なり。


一定の生業をもっていなくても、不動の信念をもつことができるのは、ただ侍たる人物だけである。
この一句で侍たるものの道のあり方を悟るべきである。
諺に「武士は食わねど高楊枝」という。
これも同じ意味である。



  
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