2008年08月13日
藤本鉄石 潔く散る
藤本鉄石 天誅組三総裁の一人である。
藤本鉄石は1816年(文化13年)岡山藩の片山佐吉の四男として生まれている。
後に藩士藤本彦右衛門の養子となり、農事掛り、手代を務めていたが、1840年(天保11年)に脱藩して京都へ出る。
何故に脱藩して京に出たのかは詳しい史料がないために不明だが、この時代の多くの者がそうした状況下にいたので別段不思議なことではないですね。
脱藩した藤本は諸国を遊歴して書画・和歌・漢詩の修行をしていく。
書画は北宋、後に南宋に転じ山水花鳥が最も巧みだったという。その一方で長沼流軍学を修め、剣術は一刀新流の免許を得ている。
1843年(天保14年)東北から江戸、中国そして九州を遊歴し、各地の名士、豪傑、奇傑らと交わり、少年時代に藤本鉄石に接した清河八郎や山岡鉄舟は大いに影響を受けたと言われている。
そんな中、1853年(嘉永6年)ペリー来航以来の混沌とする国難の中で藤本も慷慨の志を持ち、清河八郎を介して尊攘派志士たちと交わりを持つようになる。
1854年(安政元年)伏見奉行内藤正繩に招かれてその部下を教え、伏見京町の私塾である言志塾で学問、武道、兵法を教えはじめる。
しかし、井伊直弼の独断による日米条約調印に藤本は憤り、激しい尊攘論を主張するようになっていく。
1862年(文久2年)薩摩藩 島津久光が率兵上京することになり、世間の志士達はこれを倒幕のための上洛だと勝手に解して、平野国臣、清河八郎、吉村虎太郎らは上方に浪士を集めて、有馬新七ら薩摩藩士の過激派と結託して挙兵を策した。
藤本もこの動きに加わることになる。
だが、島津久光の真意は公武合体であり、藤本は薩摩藩邸に軟禁され、ほどなく挙兵計画から離脱して去っている。
結局、寺田屋事件で薩摩藩士の過激派は粛清され、平野、吉村らも捕えられて国許へ送還されてしまうのだ。
1863年(文久3年)京都守護職松平容保は朝廷に浪士の言論洞開策を勅栽を得て京都市中に布告した。
ただし、これには黒谷の会津藩本陣に出頭する必要があり、応じた浪士は3人しかいなかったが、そのうちの一人が藤本だった。
容保に奉公を願い出た浪士35人を記した会津藩の記録の「京方浪人別」に「浪士頭」として藤本の名が見える。
この時の藤本の真意は何だったのかは不明だ。
同年8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が発せられると、藤本は吉村虎太郎、松本奎堂とともに行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを計画。
藤本は挙兵の軍資金調達のために河内へ先行し、14日に吉村は前侍従中山忠光を迎えて浪士39人が方広寺に結集して京都を出立。
一行は海路堺に入り、河内へ進んで狭山藩から銃器武具を差し出させた。
17日に一行は河内檜尾山観心寺に逗留し、ここへ藤本が合流。
この浪士たちは後に天誅組と称されるようになるのだ。
天誅組は大和国五条天領へ入り、代官所を襲撃して炎上させ、代官鈴木源内の首を刎ねて挙兵した。
天誅組は桜井寺に本陣を定め、自らを「御政府」と称し、中山忠光を主将、藤本、松本、吉村を総裁とする職制を定めた。
だが、直後の18日になって8・18の政変が起きて政情は一変してしまう。
三条実美ら攘夷派公卿は失脚し、長州藩は京都からの撤退を余儀なくされ、大和行幸の詔は偽勅とされ中止となってしまう。
犠牲になったのは突然、孤立無援となった天誅組だ。
頼るものもなくなってしまった天誅組は本陣を要害の天ノ辻に移し、十津川郷士を募兵して1000人を集めた。
しかし、26日に高取城を攻撃するが敗北し、この戦いで吉村は重傷を負ってしまう。
9月には周辺諸藩が討伐に動員され、天誅組は善戦するものの多勢に無勢、装備も貧弱で、寄せ集めの軍団は次第に追い詰められていく。
藤本は紀州新宮へ突破して四国九州へ逃れ再挙することを策すが叶わず、遂には十津川郷士たちも離反し、天誅組は実質的な戦闘力を失った。
天誅組残党は山中の難路を進んで脱出を試みるが、三総裁のうち吉村は傷が悪化して歩行困難となり脱落、もう一人の松本は負傷して失明状態になっていた。
24日、藤本ら天誅組残党は鷲尾峠を経た鷲家口で紀州・彦根藩兵と遭遇。
藤本は敵中突破に成功したのが、逃げ延びることを潔しとせず、翌25日、弟子の福浦米吉とともに再び敵陣まで引き返し、紀州藩本陣に猛烈な切り込みをかけるのだ。
不意をつかれた敵軍は混乱に陥ったが、所詮は多勢に無勢、奮戦もむなしく壮絶な死を遂げることになる。
藤本鉄石 享年48歳であった。

藤本鉄石遺詠
雲をふみ岩をさくみしもののふのよろひの袖に紅葉かつちる
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藤本鉄石は1816年(文化13年)岡山藩の片山佐吉の四男として生まれている。
後に藩士藤本彦右衛門の養子となり、農事掛り、手代を務めていたが、1840年(天保11年)に脱藩して京都へ出る。
何故に脱藩して京に出たのかは詳しい史料がないために不明だが、この時代の多くの者がそうした状況下にいたので別段不思議なことではないですね。
脱藩した藤本は諸国を遊歴して書画・和歌・漢詩の修行をしていく。
書画は北宋、後に南宋に転じ山水花鳥が最も巧みだったという。その一方で長沼流軍学を修め、剣術は一刀新流の免許を得ている。
1843年(天保14年)東北から江戸、中国そして九州を遊歴し、各地の名士、豪傑、奇傑らと交わり、少年時代に藤本鉄石に接した清河八郎や山岡鉄舟は大いに影響を受けたと言われている。
そんな中、1853年(嘉永6年)ペリー来航以来の混沌とする国難の中で藤本も慷慨の志を持ち、清河八郎を介して尊攘派志士たちと交わりを持つようになる。
1854年(安政元年)伏見奉行内藤正繩に招かれてその部下を教え、伏見京町の私塾である言志塾で学問、武道、兵法を教えはじめる。
しかし、井伊直弼の独断による日米条約調印に藤本は憤り、激しい尊攘論を主張するようになっていく。
1862年(文久2年)薩摩藩 島津久光が率兵上京することになり、世間の志士達はこれを倒幕のための上洛だと勝手に解して、平野国臣、清河八郎、吉村虎太郎らは上方に浪士を集めて、有馬新七ら薩摩藩士の過激派と結託して挙兵を策した。
藤本もこの動きに加わることになる。
だが、島津久光の真意は公武合体であり、藤本は薩摩藩邸に軟禁され、ほどなく挙兵計画から離脱して去っている。
結局、寺田屋事件で薩摩藩士の過激派は粛清され、平野、吉村らも捕えられて国許へ送還されてしまうのだ。
1863年(文久3年)京都守護職松平容保は朝廷に浪士の言論洞開策を勅栽を得て京都市中に布告した。
ただし、これには黒谷の会津藩本陣に出頭する必要があり、応じた浪士は3人しかいなかったが、そのうちの一人が藤本だった。
容保に奉公を願い出た浪士35人を記した会津藩の記録の「京方浪人別」に「浪士頭」として藤本の名が見える。
この時の藤本の真意は何だったのかは不明だ。
同年8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が発せられると、藤本は吉村虎太郎、松本奎堂とともに行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを計画。
藤本は挙兵の軍資金調達のために河内へ先行し、14日に吉村は前侍従中山忠光を迎えて浪士39人が方広寺に結集して京都を出立。
一行は海路堺に入り、河内へ進んで狭山藩から銃器武具を差し出させた。
17日に一行は河内檜尾山観心寺に逗留し、ここへ藤本が合流。
この浪士たちは後に天誅組と称されるようになるのだ。
天誅組は大和国五条天領へ入り、代官所を襲撃して炎上させ、代官鈴木源内の首を刎ねて挙兵した。
天誅組は桜井寺に本陣を定め、自らを「御政府」と称し、中山忠光を主将、藤本、松本、吉村を総裁とする職制を定めた。
だが、直後の18日になって8・18の政変が起きて政情は一変してしまう。
三条実美ら攘夷派公卿は失脚し、長州藩は京都からの撤退を余儀なくされ、大和行幸の詔は偽勅とされ中止となってしまう。
犠牲になったのは突然、孤立無援となった天誅組だ。
頼るものもなくなってしまった天誅組は本陣を要害の天ノ辻に移し、十津川郷士を募兵して1000人を集めた。
しかし、26日に高取城を攻撃するが敗北し、この戦いで吉村は重傷を負ってしまう。
9月には周辺諸藩が討伐に動員され、天誅組は善戦するものの多勢に無勢、装備も貧弱で、寄せ集めの軍団は次第に追い詰められていく。
藤本は紀州新宮へ突破して四国九州へ逃れ再挙することを策すが叶わず、遂には十津川郷士たちも離反し、天誅組は実質的な戦闘力を失った。
天誅組残党は山中の難路を進んで脱出を試みるが、三総裁のうち吉村は傷が悪化して歩行困難となり脱落、もう一人の松本は負傷して失明状態になっていた。
24日、藤本ら天誅組残党は鷲尾峠を経た鷲家口で紀州・彦根藩兵と遭遇。
藤本は敵中突破に成功したのが、逃げ延びることを潔しとせず、翌25日、弟子の福浦米吉とともに再び敵陣まで引き返し、紀州藩本陣に猛烈な切り込みをかけるのだ。
不意をつかれた敵軍は混乱に陥ったが、所詮は多勢に無勢、奮戦もむなしく壮絶な死を遂げることになる。
藤本鉄石 享年48歳であった。

藤本鉄石遺詠
雲をふみ岩をさくみしもののふのよろひの袖に紅葉かつちる
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2008年08月13日
吉田松陰 人の患いは
[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言
『人の患いは』

吉田松陰一日一言
若し夫れ罪を知りて改めざる者は、真に如何ともすべからざるの人なり。
人の患いは罪を犯して罪を知らざるにあり。
だいたい自分が正しくないことをしている、と分かっていながら改めない者は、本当にどうしようもない人である。
人の憂えるべきことは、罪を犯していながら、それを自覚していないことである。
吉田松陰 今日の一言
『人の患いは』
吉田松陰一日一言
若し夫れ罪を知りて改めざる者は、真に如何ともすべからざるの人なり。
人の患いは罪を犯して罪を知らざるにあり。
だいたい自分が正しくないことをしている、と分かっていながら改めない者は、本当にどうしようもない人である。
人の憂えるべきことは、罪を犯していながら、それを自覚していないことである。
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