2008年08月08日

吉田松陰 今大業を創めんとならば

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吉田松陰 今日の一言 
『今大業を創めんとならば』

吉田松陰一日一言

按するに、小人必ず才あり。
其の才用うべし、其の悪赦すべからず。
今大業を創めんとならば、君子小人となく皆其の才を用うべし、其の不善を露わさざれば可なり。


思うに、徳のないつまらない人でも必ず才能はもっている。
その才能を活用するべきである。しかし、そのつまらない低俗な気持ちをゆるしてはいけない。
今、大きな事業をはじめようとするなら、心ある立派な人であれ小人であれ、その人の全ての才能を活用すべきである。
よこしまな心をあらわさなければよしとすべきである。

  
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2008年08月08日

伊東甲子太郎 高台院党

伊東甲子太郎 高台院党を創設した男だ。
元の名は、鈴木大蔵

1835年(天保6年)常陸・志筑藩の私塾「俊塾」の校主、鈴木忠明の長男として生まれている。
幼少期の詳しい史料は残っていない。

父の塾で学んだのち水戸に出、金子健四郎の道場に入門し、ここで神道無念流剣術と水戸学を学び、勤王思想に傾倒していく。
伊東の基本理念はこの頃に出来上がっていたようである。

水戸にいる間に武田耕雲斎の知己を得て、国事に尽くさんと金子と共に江戸に出るが、徳川斉昭の蟄居に伴い金子らも蟄居となると伊東は北辰一刀流剣術伊東道場に入門する。

その後、道場主伊東精一に認められてその跡目を継ぎ、一人娘のうめの婿となり、伊東姓を名乗り伊東大蔵と称するようになった。
時代が時代であり、伊東も他の志士達同様に攘夷について語り合う日々を過ごしていたようだ。
特に水戸学を学んだ伊東にとっては生温いやり方では日本は守れないと感じていたのだろう。

桜田門外の変坂下門外の変など水戸の同志たちが志の元散っていく姿を見て血が踊るような気持ちだったのかもしれない。
攘夷の急先鋒である長州藩は8・18の政変により京での地位を失っており、地方の攘夷志士達は益々危機感を感じていた。

そんな中、1864年(元治元年)同門の藤堂平助が新撰組隊士募集のため江戸に来ていた。
伊東は藤堂の誘いのもと、弟の鈴木三樹三郎、盟友の篠原泰之進加納鷲雄服部武雄、門人の内海二郎中西昇らと京都へ上る。
この上洛の年が元治元年甲子だったので、伊東甲子太郎と名を改めたのだ。

新選組では、文武両道、伊東道場道場主ということで、参謀兼文学師範に抜擢される。

ここで疑問が生じる。
なぜ伊東は新撰組に入隊したのか?
攘夷論者であり、水戸学を学んだ伊東が、佐幕派の新撰組に入るというのは解せない。

これには一つの思惑があったようである。
伊東は新撰組の参謀の地位を利用して、組を手土産に薩長に取り入るつもりだったらしいのだ。
伊東は藤堂を使って山南敬助を利用しようとする。
しかし山南の感情の起伏が激しいことと、山南の新撰組での地位が危ういのを見て断念。

山南は孤立していき自害してしまう。
近藤勇は当初は伊東の入隊を歓迎したようだが、土方歳三は並ならぬ策士と見て警戒したようである。

その後の新撰組は近藤・土方の独裁上となっていき組を揺るがすことは困難になった。

1867年(慶応3年)伊東甲子太郎は薩摩の動向を探るという名目と、孝明天皇からの御陵警備任務拝命により新撰組を離脱する。
伊東は「薩摩の動向を調べるために隊を離れる。逐一報告をする」と言って近藤に持ちかける。
入隊以来伊東を調べてきた土方はこれ以上危険分子を隊の中に置くことを嫌い承諾する。
伊東は三条城安寺、五条東詰善立寺、そして東山高台寺に屯所を移し、御陵衛士(高台寺党)をあらたに結成。
新選組結盟以来の隊士で八番隊組長の藤堂平助御陵衛士に参加する。
その後、新選組内で失脚しつつあった武田観柳斎らは御陵衛士に加わりたいと願うが、伊東は拒絶した。

伊東は四通の建白書を朝廷に提出し、中でも大政奉還の行われた直後の10月に出された3通目の建白書では、公家中心の新政府を作り、一和同心(国民が一つになり、議論を尽くして決めること。挙国一致を唱え、幕府側の人間も参加させるべきとしているのは坂本龍馬に近い考え方)、実務には広く天下から人材を集めること、畿内(近畿地方)五ヶ国を新政府の直轄領にすること、国民皆兵などを提唱している。
また、一通目の建白書では神戸開港反対を唱えていたが、三通目では「大開国、大強国」を作ることを唱え、積極的開国による富国強兵策に近い考え方を示している(ただし、神戸開港は孝明天皇の遺志に反するとしてあくまでも反対している)。また、殺された時に懐に五通目の草稿があり、同時代の記録によるとほとんど三通目の写しに近く、この案で近藤を説得しようとしていたと言われている。
当時の一級資料「鳥取藩丁卯筆記」では、薩摩の吉井幸輔が越前の中根雪江にこの建白を「いちいち尤も」と言っていたと記されている。

近藤は自分の妾宅に伊東を呼び出して酔わせ、帰宅途中の油小路で新選組の大石鍬次郎ら数名に暗殺させた(油小路事件)。
本光寺の門前にて「奸賊ばら」といい倒れたといわれている。
伊東甲子太郎 享年33歳。
酒に酔わせたうえで、多人数で待ち伏せ、また闇から刺すという慎重な暗殺方法を取ったのは、北辰一刀流剣術の道場主であった伊東の剣の腕を、近藤や土方が警戒したからとも言われている。
いかにも土方らしい堅実なやり方である。

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Posted by 左近将監 at 09:17Comments(0)TrackBack(0)新撰組