2008年07月31日

高杉晋作 剣の腕前

高杉晋作の遺品の中に躾刀と呼ばれる木刀がある。
武士は常に帯刀するのが当たり前の時代。であるから幼少期から腰にその感覚を覚えさせるために、この躾刀を挿してしてた。

晋作も例外になくこの躾刀を使っていた。
吉田松陰に出会うまでの高杉は武人として剣の道に励んでいたようだ。

それはもともとの高杉家の家柄の良さもあったのだろう。
武士たるものの心得として剣術を極めていく。
松陰と出逢った後は学問の道にも傾倒していくのだが、1860年(万延元年)晋作は22歳のときに内藤作兵衛から柳生新陰流の免許皆伝書を授けられている。
その後も剣術の修行は怠ることがなかったようで、藩校の明倫館の道場にて撃剣に汗を流していたようだ。

これはペリー来航以後、危機感を感じていたため、有事の際にはいつでも戦える自分を創っていたのだろう。
では実際晋作の剣の腕前はどれくらいだったのだろうか。

残念ながら晋作が剣を振るう記録は全く残っていないようだ。
残っている話は、1862年(文久2年)晋作は江戸の藩邸に幕府の密偵と噂されていた宇野八郎を連れ込んで斬ったという。
これが晋作が生涯で唯一、人を斬ったとされる話だ。
江戸幕府による統治が200年あまり続いた江戸末期である。
剣を使う時代ではなくなっていたのだろう。
夷敵からの海防という一心が剣術修行に駆り立てていたのかもしれない。

その後晋作は剣を抜くことはなくなる。
それは上海などの視察を通じて最早、剣で戦う時代の終わりをいち早く感じていたのだろう。
欧米列強の文化に着いて行くことが日本を守る手段であると考え、藩の許可もなく軍艦購入などをしていくところに晋作の思想の変化が見られる。


晋作は精神という剣を研き始めたのだろう。

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Posted by 左近将監 at 18:45Comments(0)TrackBack(0)高杉晋作

2008年07月31日

吉田松陰 苟も道に志して

[吉田松陰] ブログ村キーワード
吉田松陰 今日の一言 
『苟も道に志して』

吉田松陰一日一言

士、道に志さざればすなわち已む。
苟も道に志して、禍を畏れ罪を惧れ、言を尽さざる所あり、容を当世に取り、誤を将来に胎すは、豈に君子の学を為す者の所ならんや。



士たる者で道に志さないのであれば、それで終わりである。
仮にも道に志した士が、眼前の禍を恐れ、罪に問われることを恐れて諫言もせず、悪しき事態を容認し、将来にあやまちを残すようであれば、それは君子の学問を学ぶ者の態度であろうか。
そうではなかろう。



  
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2008年07月30日

天狗党の西上

1864年10月25日、武田耕雲斎を首領とした水戸天狗党は京都を目指し最上を開始。

下野の黒羽藩で攻撃を受けるが、その後は大きな戦闘もなく進んでいく。
この天狗党は先頭に三つ葉葵の紋を染めた吹流しをかかげ、各小隊ごとに日本魂、奉勅、攘夷、報国、赤心などと書いた旗をあげて行進した。

これを追う幕府追討軍の総括田沼意尊は後を追うものの、直接攻撃を仕掛けることはなく、街道沿いの諸藩に追討を命じていた。
11月16日 上野の下仁田に着いた天狗党に高崎藩が攻撃を仕掛けてきた。
しかし、各地で転戦してきた天狗党は強く、高崎藩は多くの犠牲者を出すことになる。そればかりか、大砲3門、小銃50挺を奪われる結果となった。

その後11月17日平賀、18日望月、と中山道を進み、信濃に入り和田峠では高島・松本両藩に攻撃を受ける。
天狗党はかなりの死傷者を出すがかろうじて撃退した。
この和田峠の戦い以後、沿道の諸藩は直接攻撃を避けるようになる。
それだけでなく、尊攘主義に賛同する藩にいたっては、資金援助をする藩もでてきた。
天狗党は順調に西上していく。
11月27日には美濃の中津川に入り目指す京は目前となってきた。

そんな天狗党にとんでもない知らせが入る。
取りすがるつもりの一橋慶喜が京都にて朝廷に天狗党討伐を願い出ていたのである。

天狗党一行は一橋慶喜との交戦を避け、美濃から近江に入るのをやめ、越前に向かうことになる。

気節は冬である。
厳しい行軍になることは間違いなかった。

天狗党は中津川から鵜沼、揖斐に入りここから蠅帽子峠を越え越前へ向かう。
この蠅帽子峠は地元民でも真冬の峠越えは敬遠する難所であった。
天狗党は寒さと飢えに苦しみながらも12月6日、木本に到着する。

越前に着いた天狗党だったが、加賀藩が迎え撃つ態勢を整えており、武田耕雲斎は金沢藩を通じて一橋慶喜に嘆願書を提出する。
しかし慶喜は嘆願書の受け取りを拒否し、諸藩に攻撃命令を出す。

窮地に追い込まれた天狗党は降伏を決意。
12月20日加賀藩に身を預けた。

加賀藩は天狗党諸士を丁寧に扱い、敦賀に移送した。
一橋慶喜は敦賀に来る事もなく、事後の処理を幕府追討軍総括田沼意尊に預け京都に戻ってしまった。

田沼は天狗党諸士を敦賀の海岸沿いにある鰊蔵に詰め込んだ。
この鰊蔵、もともとが字の如く、鰊を詰め込む蔵だ。人が寝起きできるようなものではない。ましてや時期は真冬である。
天狗党は罪人以下の扱いを受けていた。

田沼はそれだけでなく大量処刑を始める。
2月4日武田耕雲斎山国兵部田丸稲之衛門藤田小四郎ら幹部24人を処刑。
そして2月15日から23日日にかけて328人を処刑していく、処刑を免れた者137人は皆、遠島処分となった。
水戸においても幹部の家族などは皆捕らえられ惨殺されていく。
その後水戸藩は藩内抗争により多くの志士を失い、維新の際には特に大きな功績を残すこともなく埋もれていくことに成る。


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Posted by 左近将監 at 15:59Comments(0)TrackBack(0)水戸藩

2008年07月30日

吉田松陰 自ら昭々にして

吉田松陰 今日の一言 
『自ら昭々にして』

吉田松陰一日一言

自ら昭々にして、人を昭々ならしむるは賢者にて、必ず其の功を見るなり。
自ら昏々にして、人をして昭々ならしむるは不肖にて、必ず其の功を見ず。
人君官吏、豪奢を好み安逸に耽り、天下へ質素倹約、文武興隆の令を降す如き、古より未だかつて行わるるものにあらず。
近人の文中に「主人晏く起くれば家僮門を掃はず、騎者胆壮なれば馬余勇あり」の語あり。
余以って名言とす。


自分自身が明らかな人徳をもっていて、人を導き、徳を明らかにさせようとする人は心ある立派な人であり、それは必ず成功する。
自分自身が道理に暗く愚かな人物でありながら、その徳を明らかにさせようとする人は愚人であり、それは必ず失敗する。
君主や役人が、贅沢を好み、何もしないで遊び暮らしながら天下の人々に質素倹約、文武の興隆を命令しても、昔からそのようなことが実行されないたためしはない。
近頃の人に文中に「主人が遅く起きるなら、召使は門前掃除をしない。馬の乗り手の意気が盛んであれば、馬も元気が溢れてくる」という言葉である。
私はこれをすばらしい言葉だと思っている。






  
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2008年07月29日

吉田松陰 内に思うことある者は

吉田松陰 今日の一言 
『内に思うことある者は』

吉田松陰一日一言

内に思うことある者は外に感じ易し。
故に学を聞きて哭する者あり、花を見て泣く者あり。
上人内にすでに思う所あり、すなわち外に感ずる所以なり。


心の中に思いを抱いている者は、外の事に対して感じやすいものである。
だから、音楽を聞いて声をあげて泣く者があり、また、花を見て涙する者もある。
上人は心のうちに国家に対するいろいろな思いを抱いているのだから、外の事に感じやすい。




  
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2008年07月28日

篤姫 宮崎あおい 第30回

篤姫 宮崎あおい 第30回 『将軍の母』

次期将軍となる徳川慶福が江戸城に入り、名も家茂と改める。
家定を失った天璋院は家茂の後見役となることに希望を見出す。

一方、大老井伊直弼は、一橋派らを次々と弾圧し始めるのだ。
世に言う「安政の大獄」のはじまりである。

家茂は井伊の方針に疑問を感じ、天璋院に相談しようとする。
家定から家茂を後見するようにと遺言された天璋院は素直に喜ぶが、井伊は天璋院が幕政に関与することを嫌い、さらには西郷隆盛の居場所を問いただす。

ついに京を追われた西郷と月照は薩摩に逃れるが、すでに藩の実権を掌握していた島津斉興は二人を捕らえる。
小松帯刀大久保利通は西郷と月照を逃がそうとするが、二人は帯刀らに迷惑がかからないようにと海に身を投げてしまうのだ。

しかし西郷は助かるが、奄美に送られることになる。

そのような中、幾島は天璋院の将軍後継争いに敗れた責任を負って、大奥を去りたいと申し出る。

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Posted by 左近将監 at 10:14Comments(0)TrackBack(0)篤姫

2008年07月28日

吉田松陰 平日に視るに非ず

吉田松陰 今日の一言 
『平日に視るに非ず』

吉田松陰一日一言


士の気節あるは、これを平日に視るに非ず。
必ずや変に臨みて撓まず、死を守りて懼れず、すなわち其の気節を見るのみ。
亦これを無事に視るに非ず。
必ずや天下潰乱し、正議鬱塞して、すなわち其の定論を見るのみ。


ある武士に気概や節義があるかどうかは平穏無事な生活の日に確かめられることではない。
非常事態に臨んでも、気概が萎えず、いざという時に死を恐れないようであれば、それを確かめることができる。
国家に正しい方針があるかどうかも、平穏無事な生活の日に確かめられることではない。
世が乱れ、正しい議論がなどが出来ないような状態でおいてのみ初めて国家に正しい方針があるか否かを見るだけである。







  

2008年07月27日

吉田松陰 位を去りて外を願うは

吉田松陰 今日の一言 
『位を去りて外を願うは』

吉田松陰一日一言

人各々位あり、位を去りて外を願うは、素行の道にあらざるなり。

人はそれぞれ自分の位置、境遇というものがある。
それを離れて、他を望むということは、人としてあるべき生き方ではない。




  
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2008年07月26日

山岡鉄舟 高山陣屋跡にて

先週だが高山に涼をとりに行っていた。
さすがの高山も夏は暑い、が、大垣ほどではないようだ。
夜はけっこう快適だった。
高山は江戸時代初期には金森氏の領地だったが改易され、1692年から天領になっている。
そのため当然ながら江戸から役人が出向という形で赴任してくるのだが、その跡が高山の陣屋である。

その昔山岡鉄舟の父は高山に赴任していたので、ここであの山岡は幼少期を過ごしていたことになる。

「高山陣屋跡」は全国でただ一つの現存する陣屋の遺構として、国指定史跡になっている。
もちろん全体が残っているのではなく、役所と米蔵に門程度なんですけどね。

ここは始め高山藩の下屋敷だったが、天領になってからは飛騨地方の天領11万石を支配する代官や郡代の役所が置かれていた。
維新後は高山県庁や岐阜県事務所などに昭和40年代まで使われていた。

今では岐阜県内屈指の観光スポットである。
しかし鉄舟の象は、名物のみたらしだんご屋に隠れてひっそりとたたずんでいるだけであり、誰もが気にしないという状態であった。

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Posted by 左近将監 at 10:10Comments(0)TrackBack(0)幕府側

2008年07月26日

吉田松陰 気類先ず接し

吉田松陰 今日の一言 
『気類先ず接し』

吉田松陰一日一言


学の功たる、気類先ず接し義理従って融る。
区々たる礼法規則の能く及ぶ所に非ざるなり。


学問の功績と言うのはまず、心が通い合って、一つとなり、道理など、観念も理解しあえるようになることである。
つまらない礼儀作法などに影響されることではない。




  
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2008年07月25日

藤田小四郎 水戸天狗党

先日話をした水戸の天狗党
決起させたのは藤田小四郎である。
藤田小四郎はあの水戸藩の藤田東湖の四男である。
小四郎には二人の兄がいたのだが、小四郎は兄弟の中で最も才能があり活発であったと言われている。
東湖の影響を受け、尊皇攘夷思想を掲げて活動するようになる。

1863年(文久3年)藩主徳川慶篤の上洛に随従した際に、長州藩の桂小五郎久坂玄瑞をはじめ京都に集う志士と交流する。これにより更に尊皇攘夷の思想に拍車をかけ、水戸藩過激派の首領格として台頭していくことになる。
そして翌1864年(元治元年)朝廷より攘夷の勅が出されながらも無策を続ける幕府に憤り、同志など60人余りが集結して筑波山にて挙兵するに至る。

決起した天狗党は亡き水戸藩主 徳川斉昭の位牌を神輿に入れ日光に向かった。
日光は徳川の聖地。徳川家康が祀った場所である。
天狗党は日光を拠点に攘夷活動をするつもりだったようだ。

しかしこれは日光奉行に拒否をされ実現しない。
しばらくは下野にて滞在するが、この間に豪商・豪農から資金を集めている。
そして北関東各地の志士がこのウワサを聞き、天狗党が再び筑波山に戻る頃には700名にもおよぶ人数になっていた。

そのために武器、食料などをまかなうのにかなりの資金を必要となり、天狗党が取った手段は豪商・豪農への強要だった。
これが天狗党の評判を悪くさせた。
攘夷の志士から浮浪・強盗の集団と言われるようになってしまった。

水戸藩は徳川斉昭在命中も改革派と保守派に分裂をしていました。そのため斉昭の死後はその対立は激しさを増していくのです。
改革派も激派と鎮派とに分かれてしまう。
保守派と鎮派は激派である天狗党の動きに危機感を感じ、水戸藩の実権を握った。

幕府も水戸藩の内部抗争に収束を命じたため、藩主 徳川慶篤は部隊(大発勢)を水戸へ向かわせた。
幕府の追討軍と戦った天狗党はその後水戸を目指す、また水戸に残っていた武田耕雲斎は鎮派を集結し江戸に向かう。
しかし耕雲斎は途中で追討軍に阻まれ、そこに江戸から水戸に向かう大発勢と合流し水戸を目指すことになる。

水戸城は保守派が占拠しており、大発勢・武田軍の入城を拒否。
大発勢・武田軍はいったん那珂湊に向かう。
そこへ天狗党も合流する。

幕府と保守派は大発勢と天狗党に一斉攻撃を開始、これにより大発勢は降伏してしまうのだが、天狗党と武田軍は戦火を交えながら北へと逃げていく。

そして大子に来た辺りで首領を武田耕雲斎に、副将として藤田小四郎田丸稲之衛門とした。
天狗党の今後の方針は京都 禁裏守衛総督一橋慶喜にすがることだった。

こうして天狗党の京に向けた西上が開始される。

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Posted by 左近将監 at 10:15Comments(0)TrackBack(0)水戸藩

2008年07月25日

吉田松陰 治国の要は

吉田松陰 今日の一言 
『治国の要は』

吉田松陰一日一言

治国の要は賢を挙げ能を用うるにあり、是れ古今の通論なり。
然れども徒に挙げて之を用うるを知りて、而して之を鼓舞激励するを知らざるは、その初にしてすなわち未だしきりなり。

国家を治める際の要点は、賢者を登用し、能力のある者を採用することである。これは昔から今に至る、人々の認める真理である。
しかし、今挙用することを知っていながら、これらを激励し、気持ちを奮い立たせる、ということを知らないというのは、人を用いるということの初心者であり、人を挙用するにはまだ早すぎる。




  
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2008年07月24日

武田耕雲斎 敦賀にて散る

先日海水浴をしに大谷吉継の領地 敦賀の水晶浜に行って来た。

原発があるせいか、海岸は人工的にも手が加えられとても綺麗。

もう15年くらい海水浴はここに来ている。

まぁそんなことはさておいて帰りに思い出した。
武田耕雲斎のお墓に行ってから帰ろう。

海水浴客多くいれども、耕雲斎のお墓に行く奴なんかいるはずもない。
場所は近いのに道はガラガラ、いるのは僕だけだ。


耕雲斎といえば水戸天狗党だ。
耕雲斎の諫めも及ばず決起した藤田小四郎。最早時代の流れと総大将に担ぎ上げられた武田耕雲斎

天狗党は、斉昭の子で当時は京都にいた一橋慶喜を新たな水戸藩主に据えることを目的としていたのだ。
そのため800名の将兵を率いて中山道を進軍したが、敦賀で幕府軍の追討を受けて降伏した。
降伏すると、簡単な取調べを受けるが、斬首された。

徳川斉昭の死後、行き場を失っていた耕雲斎は天狗党の首領とされた時、既に死を覚悟していたようだ。
最後の死に場所を求めたのかもしれない。



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Posted by 左近将監 at 09:49Comments(1)TrackBack(0)水戸藩

2008年07月24日

吉田松陰 物の常

吉田松陰 今日の一言 
『物の常』

吉田松陰一日一言

一治一乱は政の免かれざる所、一盛一衰は国の必ずある所にして、衰極まりて復た盛んに、乱極まりて又極まりて又治まるはすなわち物の常なり。


治まったり、乱れたりするのは政治を行ううえで、逃げられない所である。
栄えたり、衰えたりするのは、国家には必ずあることである。
窮極まで衰退しまた盛んとなること、窮極まで乱れて、また治まることは、ものの常である。




  

2008年07月23日

吉田松陰 無丁の野漢

吉田松陰 今日の一言 
『無丁の野漢』

吉田松陰一日一言


大抵文辞ある人は言語信じ難し。
無丁の野漢、是れ僕の此の人を取る所以なり。


だいたい、ちょっと学問をして、得意になっているような人の言葉は信じられるものではない。
しかし、文字は全く知らなくても、上辺を飾らず、誠実であること、これが僕がこの人を信用する理由である。








  
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2008年07月23日

精忠組 寺田屋事件での同士討ち

薩摩藩主 島津茂久から正式に認められた精忠組

その後精忠組大久保利通を中心に活動していく。
1860年(万延元年)には過激な水戸藩との連携をさらに強くし、井伊直弼襲撃計画が江戸詰めの面々を通じて具体化されていく。

大久保はこれに対して島津久光「出兵建言主意書」を提出。
水戸藩、越前藩、尾張藩との連携を訴え、先君 島津斉彬の遺志を受け継ぐことが大切であるとしている。
具体的には将軍家に嫁した天璋院篤姫の警護を名文に江戸と京都に100人ずつ出兵すべきとした。

大久保の主張は過激な脱藩者的なものではなく、あくまでも島津久光を口説き、薩摩藩全体で行うことを主張しており、これに対した島津久光の答えは「争乱の義」ならば出兵はやぶさかではないが、今はまだその義に非ずという自重論であった。

しかし血気盛んな志士がそのようなことで納まるわけも無く、その後も大久保は5度にわたり建言している。
大久保のイメージはどちらかと言うと冷静であり、穏健なイメージが強いが、実際はかなりの過激な発言を繰り返していることがおもしろい。

亡き斉彬公の遺志を受け継ぐという、ある意味漠然とした使命により結束した精忠組だったが、時代の波に押し流されていく。

1862年(文久2年)島津久光は1000人の兵をもって上京することを決める。
しかし、この情報を聞いた精忠組 有馬新七らは、これを利用し攘夷派の集結、挙兵を目論んだ。
このウワサはたちまちに広がり、各地の攘夷派の志士たちが集まり始める。

そして京都伏見の寺田屋に集結をした。
その中に薩摩藩士が31名おり、このウワサを聞いた島津久光は激怒。
早速鎮撫隊を差し向けるのである。

このときの鎮撫隊はほとんどが精忠組であり、寺田屋に集まった過激な攘夷志士達もほとんどが精忠組であった。
まさに同士討ちである。
有馬新七「おいごと刺せ!」という言葉でも分かるように凄惨を極めた騒動であった。

この寺田屋事件の同士討ちにより、精忠組はその姿を消すことになる。
どこの藩も同じであるが、同じ志を持ちながらもその手法が異なったが故の結末だった。

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2008年07月22日

篤姫 宮崎あおい 第29回

篤姫 宮崎あおい 第29回 『天璋院篤姫』

将軍・徳川家定の死を知った篤姫は悲しみにくれていた。

ハリスとの会見をすすめたり、将軍後継争いに巻き込んでしまったことが病弱な家定に大きな負担を与えたと、篤姫は自分を激しく責める。

一方、薩摩では藩主・島津斉彬の死によって政局が混乱していた。
前藩主・島津斉興が復権を目論んでいたのだ。
小松帯刀は、斉彬の遺志を継いで幕政改革を断行したいという忠教の側近になる。
また主君斉彬の死によって気落ちする西郷隆盛は、僧・月照に諭され、斉彬の遺志を継ぐため政治工作活動を始めるのだ。

篤姫は、周囲の反対を押し切って側室・お志賀と生母・本寿院に家定の死を伝えようとする。

しかし、お志賀からは病弱な家定に無理をさせたことを責められ、本寿院からは篤姫が家定を毒殺したのだと決めつけられ、ひどい仕打ちをうける。

それから数日後、家定の葬儀が行われた。
未亡人となった篤姫は落飾して天璋院となる。新たな将軍となる徳川慶福の後見役を頼むという家定の遺言を果たそうとする天璋院は、大老・井伊直弼と対面する。


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2008年07月22日

吉田松陰 人情は

吉田松陰 今日の一言 
『人情は』

吉田松陰一日一言

人情は困しめば、すなわち振るい、得ればすなわち怠る。

人の心というものは苦しめば奮い立ち、思うようになれば、怠けてだらけてしまうものである。
世に言う初心忘れるべからず、と言ったとこだろうか。





  
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2008年07月21日

吉田松陰 学をなすの要は

吉田松陰 今日の一言 
『学をなすの要は』

吉田松陰一日一言

凡そ学をなすの要は己が為にするにあり。
己が為にするは君子の学なり。
人の為にするは小人の学なり。


学問をする時大切なのは自分のためにするということである。
自分を正しい人にするための学問は立派な人の学問である。
他人に認められるためにするのは、つまらない、心の正しくない人の学問である。



  
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2008年07月20日

吉田松陰 人を以って

吉田松陰 今日の一言 
『人を以って』

吉田松陰一日一言

山は樹を以って茂り、国は人を以って盛んなり。


山は樹木をもって青々と茂り、国家は人物をもって盛んになるのだ。

よって自身が国家にとって有意義な人物に成長すること、これが国の為、家族のためになる。




  
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