2008年05月31日

加藤司書 筑前勤王党の盟主

筑前勤王党の原動力であった加藤司書

ペリー艦隊の浦賀来航と共に全国に沸き起こった尊皇攘夷運動。
筑前にもこの運動は起こっており、加藤司書月形洗蔵らによって筑前勤王党が結成される。

1863年(文久3年)8・18の政変により京都におげる政治的地位を失墜した長州藩。
加藤らは攘夷の急先鋒の長州藩の状態を良しとせず、なんとか長州を復帰させようと奔走していた。

そんな中、1864年(元治元年)長州藩は我慢の限界を超えたのか、兵を京に向けて進発する。
世に言う禁門の変である。
結果は長州軍の惨敗で終わり、禁裏に発砲した事で朝敵とされ幕府は第一次長州征伐軍を起す。

福岡藩も藩兵500人を禁裏守護のため京都へ派遣することになり、加藤司書がこれを率いて本国を発したが、第一次長州征伐により派兵は中止となった。
加藤は征長軍議に参加するため広島に赴き、征長軍の解散を主張した。
薩摩の西郷隆盛も無断な血を流すのは無益、なんとか穏便にことを済ませたい考え、加藤と謀り、ついに征長総督徳川慶勝に解兵の決定をさせることになる。
この結果、長州滞在中の五卿は筑前太宰府へ移ることとなり、加藤はこれを迎えることに斡旋・奔走し、翌1865年(慶応元年)五卿の太宰府に移るや、その保護に心血を注ぐ。
この事により福岡藩では勤皇派の発言力が増し、勢に乗った勤皇派は更に一歩進んで薩摩と長州の調停を図るなどと、藩における比重を高めていった。

時に幕府に長州再征の挙あるを聞き、解兵に奔走し、また西郷に謀って薩長連合を説き、両藩の間に奔走した。たまたま藩内に佐幕派の勢力が台頭し、わずか三ヵ月で家老の職を退いた。

勤王派諸藩の中にあって歴然たる存在感を誇示していたが、幕府の勤王派諸藩に対する圧迫が激しくなると、かつて勤王派に理解を示し、その思想をもって藩の方針たることを容認していた藩主黒田長溥は、藩内佐幕派の巻き返しもあって、藩論を一変させた。
藩主の考えと違う加藤は次第に黒田長溥の不興をかって職を追われる形となる。

加藤の罷免を受けて藩政で力を急速に失った勤皇派は、体勢を挽回しようとして五卿を薩摩に移して九州勤皇派の総決起を図ることを画策する。

もし藩主・長溥が同意しないときは、長溥を犬鳴山別館に押し込めて子の黒田長知を立て、計画の実現するという強行的なものだった。
しかし、事前に計画は露見して勤皇派は全員逮捕されてしまう。

自身を亡き者にしようとする勤皇派に対し、藩主・長溥は加藤司書・衣非茂記・建部武彦・斉藤五六郎・万代十兵衛・森勘作・尾崎惣右衛門等は切腹、月形洗蔵・梅津幸一・鷹取養巴・伊丹真一郎等は斬首、野村望東尼は姫島流罪など厳しい処分が断行する。
これによって筑前勤皇党は潰減、福岡藩における尊壌運動は挫折するとともに、福岡藩の西南諾藩における主導権も崩壊してしまい、これ以後、福岡藩は、薩摩・長州と離れて、譜代以上に佐幕的性格を鮮明にして幕末を迎えることとなった。

加藤司書の最後は罪を得て家に禁固され、博多の天福寺で自刃を命ぜられた。
加藤司書 享年36歳。

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2008年05月31日

吉田松陰 事に練れて過誤なきに若かん

吉田松陰一日一言―魂を鼓舞する感奮語録吉田松陰一日一言―魂を鼓舞する感奮語録
(2006/12)
川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『事に練れて過誤なきに若かん』

翁曰く「事為さずして過誤を免かるるは、何ぞ事に練れて過誤なきに若かん」と。

中谷翁がいわれた。
「何事もしないで、過ちを免れるよりは、仕事に熟練して、過ちを犯さないようにするにこしたことはない」と。
楽をして難を逃れるのではなく、事に精通し努力してこそ難なく過ごせる。
だから人は努力をしなさいということだろう。
  
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2008年05月30日

月形洗蔵 夢に描いた薩長同盟

薩長同盟坂本龍馬中岡慎太郎の功績と思われていますが、薩長同盟の提案者は月形洗蔵筑前勤王党である。


福岡藩内には、月形洗蔵、黒田家重臣・加藤司書らが中心となって、組織する筑前勤王党があった。
特に月形は強硬な尊攘派で、福岡藩に対して、参勤交代を中止して、「ご忠義の軍勢にて、天下の魁をなさん!」と豪語するほどであった。
藩政を尊攘路線に転換することを進言する建白書を藩に提出し、過激な尊攘論を藩内に展開した。

1861年(文久元年)5月、藩主黒田長溥は、過激な尊攘論を展開する月形らを藩政誹謗の罪で捕らえ、月形はじめ主犯格六名を流罪に処し、その他二十数名も厳しく処断した。
世にいう「辛酉の獄」である。時に時代は公武合体へ流れていた。


1863年(文久3年)8・18の政変により京都におげる政治的地位を失墜した長州藩は薩摩藩に敵意を抱いていた。
長州の品川弥二郎は下駄に「薩賊会奸」と書き付けて踏んで憎悪をあらわにしていた程である。

しかし、そのように敵対意識を持つ薩摩と長州に手を結ばせ武力討幕を実行しようとした人物がいる。 
それが月形洗蔵たちである。
薩長和解は、元々は筑前勤王党月形洗蔵早川勇によって唱えられた。
彼らはいち早く倒幕するには一藩のみの力では無理であり、当時の強藩である薩摩と長州が手を結ぶ事が大事であると考えた。

しかし、長州藩は地位回復をねらって翌1864年(元治元年)兵を率いて禁門に迫る。禁門の変である。
会津・桑名・薩摩の藩兵と衝突した長州軍だったが、結果は惨敗で敗走した。

これに対して幕府は、朝敵として長州を伐ち、一気に権威を回復しようとし征長の勅許を受け、長州征伐に乗り出す。

そのころ福岡藩では、第一次長州征伐を前にし、保守派と勤皇派が深刻な対立を起こしていったのである。

保守派は、内乱の拡大は外悔を招くから、国内の争乱は絶対に回避すべきだとして、幕府と長州との間をとりもとうとした黒田長溥の方針に対し、長州との接触は、幕府の嫌疑を受けることになるので排除すべきだと主張した。
これに対して勤皇派は、長州征伐の阻止工作を積極的に行うべきであると主張した。
結果は勤皇派の主張が通り、加藤司書月形洗蔵らが奔走し、西郷隆盛らと連絡を取りながら征討軍総裁に働きかけ、ついには解兵に成功した。
この事により福岡藩では勤皇派の発言力が増し、勢に乗った勤皇派は更に一歩進んで薩摩と長州の調停を図るなどと、藩における比重を高めていった。

このとき西郷隆盛が筑前に来訪した際、月形、早川の両人は密かに西郷に会い薩長和解を説いた。
西郷も「いたずらに長州と内輪の争いをしている時ではない、天下一和に刷新すべき」と語ったという。
月形と早川は、長州の高杉晋作が筑前に来た時にも西郷と密会させ、その後、月形と早川は長州に入り、下関で再度西郷と高杉を密会させ、薩摩・長州・筑前の3藩をもって幕府の暴挙を防ぎ、三条実美8・18の政変で都落ちとなった公家たちの復権を実行しようとした。

ところが、筑前勤王党は藩内の弾圧にあう。
1865年(慶応元年)長州再征の命が下ると、五卿に対する幕府の態度が強硬となり、大宰府の五卿もいつ幕府から強制的に引き渡しを要求されるかわからない状況となってきた。

福岡藩では加藤司書黒田長溥の不興をかって職を追われていたので、潰減の危機にあったのだ。
焦った勤皇派は、体勢を挽回しようとして五卿を薩摩に移して九州勤皇派の総決起を図ることを画策する。

もし藩主・長溥が同意しないときは、長溥を犬鳴山別館に押し込めて子の黒田長知を立て、計画の実現するという強行的なものだった。
しかし、事前に計画は露見して勤皇派は全員逮捕されてしまう。

自身を亡き者にしようとする勤皇派に対し、藩主・長溥は加藤司書・衣非茂記・建部武彦・斉藤五六郎・万代十兵衛・森勘作・尾崎惣右衛門等は切腹、月形洗蔵梅津幸一・鷹取養巴・伊丹真一郎等は斬首、野村望東尼は姫島流罪など厳しい処分が断行する。
これによって筑前勤皇党は潰減、福岡藩における尊壌運動は挫折するとともに、福岡藩の西南諾藩における主導権も崩壊してしまい、これ以後、福岡藩は、薩摩・長州と離れて、譜代以上に佐幕的性格を鮮明にして幕末を迎えることとなった。
当然ながら月形洗蔵たちが目指した薩長同盟も夢に帰してしまう。
しかし、月形と生前から懇意にしていた土佐脱藩者・中岡慎太郎がこの夢を引き継ぐのである。

中岡は同胞の坂本龍馬にことを話し、月形たちが描いた夢は現実のものとなっていくのである。

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2008年05月30日

吉田松陰 士道と云うは

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(2006/12)
川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『士道と云うは』

士道と云うは、無礼無法、粗暴狂悖の偏武にても済まず、記誦詞章、浮華文柔の偏文にても済まず、真武真文を学び、身を修め心を正しうして、国を治め天下を平らかにすること、是れ士道なり。

士道、武士として踏み行うべき道義というものは、礼儀にははずれたり、道理に合わなかったり、荒々しく乱暴で、道義に背いた非常識な言動をするような偏った武ではいけない。
また、そらんじるばかりで、これを理解することに努めず、また実践しない学問や、上辺ばかり華やかで内容がない、という偏った学問でもいけない。
真の武、真の学問を学び、身を修め、心を正しくして、国家を治め、天下を平らかにすること、これが士道である。






  
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2008年05月29日

小松帯刀 温かき心

下級武士に過ぎなかった西郷隆盛大久保利通、また脱藩浪人の坂本龍馬などが幕末にあれだけ活躍できたのは、薩摩藩家老という地位と権力を持った小松帯刀の存在が大きかった。

鶴丸城跡近くに小松帯刀の銅像がある。
西郷隆盛の銅像の正対する位置に建てられているのだが、大きさ、視覚の入りやすさなど比較すれば、目立たず、観光客にも気づかれずにいます。



小松帯刀は勤皇派から佐幕派に対抗できる名門の出身として期待されていきます。
そしてやがて倒幕派へと流れていく薩摩藩の藩論を推進していく志士たちの中心人物として幕末の日本に大きな影響を及ぼします。

実際に薩長同盟をはじめ、様々な幕末の裏側に小松の姿は見えます。
志士達を後押しする形で小松は自らの地位と権力を使い支援していくのです。

今も鹿児島の人達はこの小松のような気さくさがあり、人間味溢れる人が多いと思う。
この温か味が坂本龍馬をはじめ、多くの志士達が薩摩人の心に感謝したに違いないでしょう。

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2008年05月29日

吉田松陰 深き者は

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(2006/12)
川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『深き者は』

世人の事を論ずる、浅き者は事の成敗を視、深き者は人の忠奸を視る。かくの如くのみ。

世間一般の人がある事を論ずる際、心無い人は勝ち負け、つまり、結果を重視して視る。
心ある立派な人は、まごころか、よこしまな心かを重視する。こんなものである。



  
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2008年05月28日

篤姫館

大河ドラマの『篤姫』の放送に合わせて造られた篤姫館

錦江湾のドルフィンポート内にあるのだが、やはりブームなのか観光客は多かった。

撮影で使われた衣装や小物などを展示してあり、ドラマの撮影で使われた衣装を着ることも出来る。
しかし、歴史的な資料は無く、イベント施設的なものでした。

同じように指宿にも「いぶすき篤姫館」があるのだが、こちらもドルフィンポートにある篤姫館同様にロケセットや撮影風景などの展示のようです。


しかしお土産はかなり豊富。
昨年行ったときには篤姫のお土産など焼酎が1、2本あったくらいだったが、今年は焼酎だけでも7、8本くらいあったし、お菓子などは数え切れないくらいに増えていた。
さすが大河ドラマ効果は絶大だ。

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2008年05月28日

吉田松陰 士の妻室たる者は

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吉田松陰 今日の一言


『士の妻室たる者は』

「士の妻室たる者は、士常に朝在りて内を知らず、故に夫に代わりて家業を戒む。豈に惰弱を以ってせんや」と云うは実に至言なり。

「武士の妻たる者は、武士が常に城に詰めていて、家のことを知らないのであるから、夫になり代わって、家のことを一切取り仕切るものである。どうして、軟弱で意気地のない態度でよかろうか。いけない。」という教えは、実に適切な言葉である。




全国の窯元から焼酎用品を取り揃え「晩酌.net」
  
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2008年05月27日

やっぱり薩摩の英雄 西郷隆盛

先日鹿児島に行って来ました。

鹿児島に着くとどこに行っても西郷さんです。
薩摩の人達がどれだけ西郷さんを大切にしているかがとても良くわかります。

鶴丸城の二の丸にある図書館のそばに西郷さんの像がある。

当日は雨にもかかわらず、多くの人が記念写真を撮っていた。

若い女性の姿が多いのもビックリした。
その後維新ふるさと館などを見学して回ったのだが、ホント薩摩には英雄が多い。

大久保利通小松帯刀東郷平八郎大山巌海江田信義など数え上げれば限がないくらいに多くの人物がこの薩摩の出だ。

この薩摩には郷中教育なるものがある。
これは年上の者が年下の者を教育し、指導していくことである。
西郷や大久保たちもこの郷中教育の中成長してきたのだ。

現代社会において殺伐した人間関係のが引き起こす諸問題は多い。
だからこそ、いまこの様な人間臭い付き合いが必要に感じる。
鹿児島の人達のこのような風土は引き継がれており、いつ行っても心温まる歓迎を受ける。
人間はもう少し人間らしく生きたほうがいい!そう感じさせてくれる街である。


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2008年05月27日

吉田松陰 忠孝の本

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吉田松陰 今日の一言


『忠孝の本』

「君父の恩情を体認する」は忠孝の本なり。

「君主や父親の御恩を体験してしっかり会得すること」は、忠孝の基本である。
  
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2008年05月26日

篤姫 宮崎あおい 第21回

篤姫 宮崎あおい 第21回 『妻の戦』

将軍 徳川家定は実はうつけのふりをしているのではないかと感じた篤姫は、家定本人に真相を問い詰めようとする。
しかし、家定が篤姫のもとを訪れない日々が続く。
幾島や滝山、そして家定の実母・本寿院らは、篤姫の髪型や服装をいろいろと変えることで家定の気を引こうと試行錯誤するが、いっこうに効果はあらわれない。
仏間で朝に家定と顔を合わせた篤姫は、とうとう家定自身に願い出る。

ようやく家定が篤姫のもとを訪れる。
篤姫は、家定に何故うつけのふりをしているのかと聞くが、家定は相手にもしない。
しかも、自らの子を持つつもりはないと明言するのである。

この情報はすぐさま幾島から島津斉彬にもたらされた。斉彬や徳川斉昭らは、一橋慶喜を次期将軍に擁立すべきときがいよいよ近づいたことを知る。

篤姫は、側室のお志賀を招き、家定の真の姿についてどう考えているのかと問うが、お志賀はただただ家定のそばにいられれば幸せだと答えるのみ。
家定のことが気になって仕方のない篤姫は、それが愛情という感情だということに、まだ気づいていなかったのであった。

  

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2008年05月26日

吉田松陰 国を憂うるを以って自ら任ず

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川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『国を憂うるを以って自ら任ず』

抑々余が如き、正直国を憂うるを以って自ら任ず。

私は衷心より国家を憂えることを自分の責任としている。
  
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2008年05月26日

高杉晋作 おもしろきこともなき世を

福岡の平尾山荘に匿われていた高杉晋作だったが、俗論派による正義派家老の処刑を聞きどうせ死ぬるなら志の元に死なん。
そう、吉田松陰との最後の手紙で教えを思い出し再び下関へ帰還する。

高杉晋作は倒幕にまとめるためついに、1864年12月15日、長府の功山寺でこの寺に潜んでいた三条実美ら五卿の前で 「今こそ長州男児の肝玉をご覧に入れます」 といって決起します。
高杉帰還の方をうけ四散していた同志たち伊藤俊輔井上聞多など隠れていた者たちが高杉の元に参集してきます。
伊藤俊輔率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて同時に挙兵。後に奇兵隊ら諸隊も加わり、高杉は次々に俗論派を倒し、俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩論を倒幕に統一することに成功する。

そんなときに行方知れずとなっていた桂小五郎が戻ってくる。
もともと高杉は戦術家ではあったが、戦略家ではなかったのかもしれない。
藩の頭に立って人を導いて行くような仕事に嫌気が差していたのだろう、桂の帰還は誰よりも悦んだ。

1865年(慶応元年)高杉は高杉家を廃嫡されて「育」扱いとされ、そして同年9月29日には藩命により谷 潜蔵と改名する。
さらに1866年(慶応2年)1月21日土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元を仲介として、晋作も桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちと共に進めていた薩長同盟が京都薩摩藩邸で結ばれる。
一藩のみの倒幕は有り得ないということを経験してきた高杉や桂など長州の志士にとってはとてつもなく大きな後ろ盾が出来たことになる。

そして6月、第2次長州征伐がおこると、高杉は海軍総督として丙寅丸に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半七率いる第二奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還する。
また、小倉方面の戦闘指揮では、まず軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃させ、その援護のもと奇兵隊・報国隊を上陸させ、幕軍の砲台、火薬庫を破壊し幕府軍を敗走させるのだ。

結局、幕府軍総督小笠原壱岐守の日和見ぶり態度や、過去の幕府の諸藩いじめなど、様々な要因が起因し、諸藩が随時撤兵していってしまう。
7月には将軍徳川家茂の死去の報を受け、小笠原がこれ幸いと戦線を離脱したため幕府敗北は決定的となる。

高杉自身は、肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、1867年(慶応3年)4月14日大政奉還を見ずしてこの世を去る。

高杉晋作 享年27歳。短い一生を終えました。
 「おもしろきこともなき世をおもしろく」 

伊藤博文が彼を顕彰した大きな碑があり、“動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし”と刻まれています。

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高杉晋作を歩く (歩く旅シリーズ 歴史・文学)高杉晋作を歩く (歩く旅シリーズ 歴史・文学)
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2008年05月25日

中島三郎助 幕末の砲撃手

中島三郎助は1821年(文政4年)浦賀奉行所与力・中島清司の長男として浦賀に生まれる

三郎助は若い頃より勉学に励み、特に砲術を得意としたという。

また俳諧、和歌を父・清司より手ほどきを受けたと伝えられている。
1835年(天保6年)浦賀奉行与力見習となり、1837年(天保8年)のモリソン号事件で砲手を務め、褒美を受けている。
1849年(嘉永2年)には父の番代として、浦賀奉行与力に召抱えられることになる。
天然理心流・剣術目録、北辰一刀流・剣術目録など武士として剣術・槍術を備え、砲術に関しても諸流派の免許皆伝、更に大筒鋳造、砲台建設に至るまでの専門技術も備えたスペシャリストであった。

中島に一大仕事がおとずれる、それは1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航するのだ。
当時の浦賀奉行 戸田氏栄の副奉行と称して、通詞堀達之助を連れて、旗艦サスケハナに乗船した。

その後、浦賀奉行戸田氏栄ら重役に代わり、香山栄左衛門とともに米国使者の応対を勤めている。
アメリカ側の記録では、船体構造、搭載砲、蒸気機関を入念に調査したことから、密偵のようだと記されている。

ペリー帰国後、阿部正弘に提出した意見書で軍艦の建造と、蒸気船を含む艦隊の設置を主張し、1854年(嘉永7年)に完成した日本初の洋式軍艦鳳凰丸の製造掛の中心として活躍し、完成後はその副将に任命された。

1855年(安政2年)幕府が設立した長崎海軍伝習所に第一期生として入所、造船学・機関学・航海術を修め、帰府後、築地軍艦操練所教授方出役に任ぜらる。
1859年(安政6年)浦賀の長川を塞き止めて日本初のドライドックを建設、遣米使節に随行する咸臨丸の修理を行っている。

もともと喘息の持病があったようで、様々な職につくものの病に見舞われ、富士見宝蔵番格軍艦頭取出役に任ぜられたものの、再び病気となり、1866年(慶応2年)には出役御免、同年末には与力の職も、長男・中島恒太郎に譲っている。

しかし、三郎助の才能を眠らせておくわけには行かない幕府は、1867年(慶応3年)に再奉公を命じられ、軍艦組出役、小十人格軍艦役勤方を経て、両番上席軍艦役に進んだ。

1868年(慶応4年)戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁榎本武揚らと行動を共にして江戸品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に至った。
箱館政権下では箱館奉行並を勤め、戦時は本陣前衛の千代ヶ岡陣屋を守備し陣屋隊長として奮戦、箱館市中が新政府軍に占領されたため新政府軍より降伏勧告を受けるもこれを拒否。
徹底抗戦を主張する。本陣五稜郭降伏2日前の1869年(明治2年)長男恒太郎・次男英次郎・腹心の柴田伸助と共に戦死。中島三郎助 享年49歳。


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2008年05月25日

吉田松陰 帰らじと思いさだめし旅なれば

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(2006/12)
川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『帰らじと思いさだめし旅なれば』

帰らじと思いさだめし旅なればひとしおぬるる涙松かな

もう帰っては来ないだろう、と覚悟を決めた旅であるので、一層涙にぬれるこの涙松である。


  
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2008年05月24日

加冶屋町の英雄 西郷隆盛

1827年(文政10年)12月7日鹿児島城下、下加冶屋町山之口馬場で生まれた西郷隆盛

通称は吉之助である。
西郷の家は「御小姓与」という身分で、士分では下から2番目の身分の下級藩士あった。


少年時代に西郷は、喧嘩で右ひじを負傷し、完全に右ひじを曲げることが出来ないようになった為、この時より武術をあきらめ、学問に精を出すようになったと言われています。
このことが幼少期に武芸ではなく、学問に励むきっかけとなるのです。あとになってみれば、西郷にとってはよかったのかもしれません。

西郷達が住む甲突川近辺は下級武士が多く住んでいた地域で、西郷の育った加治屋町方限は、甲突川東岸ぞいの地区で、今の加治屋町にあたり、当時約七十戸があったらしい。
この狭い方限から、西郷をはじめ、大久保利通吉井友実伊地知正治篠原国実村田新八大山巌東郷平八郎山本権兵衛、などたくさんの偉人が出ている。

まさに偉人の巣窟のような凄いところである。


西郷はある年齢になると造士館という藩の学校に通います。
薩摩には郷中教育という独特の文化がありました。
郷中教育とは、青少年を「稚児」と「二才」に分けて、勉学・武芸・山坂達者を通じて、先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする組織でした。
その学舎の教育基盤は武道に励はげみ、心身を鍛きたえ、 廉恥れんちを重んじ、礼節を大事にする知・徳・体の調和のとれた人格形成にありました。

西郷達はそんな厳しい郷中教育のなかで鍛えられ成長しました。
16歳になると、西郷は藩の郡方書役助に任命されます。
薩摩藩では、武士の家庭の子弟がある程度の年齢に達すると、家計の助けとなるように小さな役目に付ける慣習がありました。これは武士人口が多い薩摩藩ならではの慣習だったようです。
西郷は右ひじのケガのために武芸をあきらめ学問に精を出していたので、書がかなり巧みだったのでしょう、郡方書役助、つまり農政をつかさどる役所の書記官の補助、といった役目に任命されたのです。

二十歳のころ、下加治屋町郷中の二才頭に選ばれ、誠意をもって後輩を指導していくのです。
自分たちも先輩から教えられたように、次は西郷達の番です。
西郷はココでリーダーとしての資質を身につけていったのではないでしょうか。

西郷の所には何人もの後輩たちが教えを受けにきました。
明治維新にはこの方限から、数多くの偉人が出たが、そのほとんどが西郷の影響を強く受けて育ったといわれています。

大久保利通・有村俊斎たちと論読会をつくり「近思録」や「伝習録」などを共同で研究もしたようです。

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Posted by 左近将監 at 10:20Comments(0)TrackBack(0)西郷隆盛

2008年05月24日

吉田松陰 我が道に従わせ難きは

吉田松陰一日一言―魂を鼓舞する感奮語録吉田松陰一日一言―魂を鼓舞する感奮語録
(2006/12)
川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『我が道に従わせ難きは』

彼の道を改めて我が道に従わせ難きは、猶ほ吾の万々彼の道に従うべからざる如し。

人の生き方を改めさせて、自分の生き方に従わせるのが難しいのは、なお、私が決して人の生き方に従うことができないのと同じである。

  
タグ :吉田松陰

2008年05月23日

吉田松陰 欲の陥り易くして

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川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『欲の陥り易くして』

凡そ欲の陥り易くして悔い難きものは、多く忽せにする所にあり。

だいたい、欲望というものが陥りやすく、後から振り返って、悔やんでも悔やみきれないのは、いい加減にしているところがあるからである。
  
タグ :吉田松陰

2008年05月23日

苦悩の老中 阿部正弘

幕末の一番難しいときに老中筆頭になっていた阿部正弘

阿部に対する評価はまちまちで、内政・外交の姿勢から「優柔不断」あるいは「八方美人」な指導者として見られ、低い評価をされがちであった。


実際、1853年(嘉永6年)のペリー艦隊来航から1854年(嘉永7年)日米和親条約締結に至るまで1年余りの猶予があったが、朝廷から全国の外様大名まで幅広く意見を募った挙句、何ら対策を打ち出せず時間の引き延ばしを図ろうとするなど、老中としてリーダーシップを発揮しようとする姿勢は見られないと言われている。

しかし、これは阿部個人の資質の問題ではなく、幕府の体質と当時の日本の文化文明の違いといえるものではなだろうか。

阿部の前に老中であった水野忠邦は強硬路線に反発を受け失脚しているし、後に阿部の方針を否定していた井伊直弼は幕閣どころか朝廷や国内各層の反感をも買って国内を混乱に陥れている。
こうした事を考えると、阿部の協調路線は幕政を円滑に運営する方策であった、しかし幕府の威光よりも混乱回避を優先した姿勢は「幕府を亡ぼす者は阿部伊勢守なり」と言われるようになり、評価としては、よく言えば柔軟な人であり、悪く言えば主体性のない人だと思われる。

しかしこの激動の時代にはやはり阿部のような広く意見を求める政策は適していたのではないだろうか。

そんな阿部正弘は1819年(文政2年)第5代備後福山藩主・阿部正精の6男として生まれた。
兄の阿部正寧が第6代藩主を継ぐが、病に伏せがちだったため、1836年(天保7年)兄に代わり第7代藩主に就任することになる。

1843年(天保14年)25歳で老中となり、水野忠邦天保の改革の挫折により2度の失脚のたため、老中首座となる。

幕政において、1845年(弘化2年)から海岸防禦御用掛を設置して外交・国防問題に当たらせた。
また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲戸田氏栄松平近直川路聖謨井上清直水野忠徳江川英龍ジョン万次郎岩瀬忠震など大胆な人事登用を行っていった。

そんな中とんでもない知らせが阿倍のもとに知らされる。
1853年(嘉永6年)マシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。
ペリーは江戸幕府に対し開国と通商を求め、期限を1年としていったん帰国していく。

阿部はこの国難を乗り切るため朝廷を始め外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募ったが、結局有効な対策を打ち出せず時間だけが経過していった。
そうこうしていると長崎にロシアのプチャーチン艦隊も来航して通商を求めてきた。

阿部は松平春嶽島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命。これが諸大名の幕政へ介入する原因となり、結果的に幕府の権威を弱めることに繋がっていく。
もはやこの時点で幕府は自力で問題を解決できる力がなかったのかもしれない。

なお阿部は異国船打払令の復活を度々諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。

結局、積極的な政策を見出せないまま、事態を穏便にまとめる形で、翌、1854年(嘉永7年)ペリーの再来により日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げた。

これを不満に思う諸藩や志士達は激しい行動に出始める。
1855年(安政2年)攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の老中 松平乗全松平忠優の両名を罷免したことが、井伊直弼らの怒りをかい、孤立を恐れた阿部は開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。

こうした中、阿部は江川英龍勝海舟大久保忠寛永井尚志高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や洋学所、長崎海軍伝習所などを創設した。
また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革に取り組んだ。

結果的には倒幕の志士達を育てるような形も見受けられるが、これも時代の流れであったのだろう。
阿部自身が悪いわけではない。

1857年(安政4年)阿部は老中在任のまま急死してしまう。
長年の心労が原因だったのかもしれない。
阿部正弘 享年39歳。時代に流されていった人だった。

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Posted by 左近将監 at 09:23Comments(0)TrackBack(0)幕府側

2008年05月22日

彗星の如く奔る 入江九一

松下村塾四天王の一人、入江九一

1837年(天保8年)4月5日長州藩の下級武士、入江嘉伝次の長男として萩に生まれる。
13歳の頃より藩の下役に就くが、20歳のときに父が死去し、家計を助ける為に江戸藩邸に勤務するようになる。
1857年(安政4年)9月、中谷正亮から入江九一についての情報を得ていた松陰は、吉田稔麿を介して来塾を勧誘する。
しかし、この時入江は公務で江戸に居た為、実際に松下村塾への入門するのは1858年7月初旬になる。

吉田松陰は入江を
「使い走りの身でありながら、世を憂い、改革する強い志を持っている。その考えは自分と非常に共通している。しかし真に尊いのは、彼の憂いが切実で、それに対する改革策が本質を突いていることであり、私の及ぶところではない」
と賞賛しており、後に高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿と共に『松門四天王』に数えられるほどである。

ここで入江が高杉や久坂たちと違うのは、出自が低いことである。
此の辺りが松陰の志が高ければ家の位等は関係ないといったところの表れなのだろう。
才能や志高い人間をどんどん入塾させている。
また入江ももともとが下級武士だったので、己に奢る事無く実直に松陰の考えを受け入れ、それを実現するために奔走していく。

入江は師・吉田松陰の影響で、早くから尊王攘夷運動に奔走する。
1859年(安政6年)2月、間部詮勝の暗殺計画に加わりますが、この計画は長州藩行相府宛てに、松陰自ら襲撃申請をしており、藩により吉田松陰は投獄・松下村塾の閉鎖をもって阻止されてします。

どこの世の中に襲撃計画を申請する人がいるのだろう・・・この辺りが松陰の憎めないところというか、温かみを感じる部分である。
長州藩も松陰の才能は認めており、これを惜しんだために、これ以上松陰が暴走しないようにした手段だった。

獄中の松陰は入江九一に後事を託したという手紙を送り、なんとか計画を遂行してもらいたいと頼むのである。
松陰は京都に尊攘堂を建てて勤王の志士を祀り国民の志気を鼓舞したいと考えていた。
入江は実直にこの師からの依頼を受け、他の塾生たちが尻込みした「伏見要駕策」 (藩主を伏見で待ち伏せし、上洛して幕府の失政を問いただしてもらおうとするもの)に立ち上がるのです。

結局他の塾生から情報が漏れ、入江九一の代わりに伏見要駕策を実行しようとした弟、野村和作が逮捕される。
共謀した罪で入江九一も投獄されてしまう。

1859年(安政6年)6月、幕府は長州藩に松陰の江戸送致を命令する。
松陰は獄において、老中暗殺計画を自供して自らの思想を語りるのである。話せば分かってもらえると思っていたということだ。
しかし、幕府は松陰の考えは危険であると判断し、遂には吉田松陰は江戸にて処刑される。

1863年(文久3年)桜田門外の変で大老井伊直弼が倒れ、長州藩論が尊王攘夷に転じたたことにより松下村塾の名声は高まり、尊王攘夷に転じた藩によって従来からの志を認められ、地方組足軽から終身士雇に昇格した。

その後の入江の活躍はめざましく、久坂玄瑞に従い、関門海峡の外国船無断往航に対し砲撃したり、高杉晋作の奇兵隊の幹部に入り、暴走しがちな晋作を止めたりといたるところで入江は活躍するのである。


1864年(元治元年)禁門の変が起こります。
久坂玄端寺島忠三郎達らと山崎の天王山に屯し、浪士隊参謀として鷹司邸内で奮戦しますが、会津・薩摩を中心とした王城警護の軍の前になす術もなく敗北。
久坂の戦死に際して、「入江あとは頼む!」と後事を託され、囲みをついて出ようとした時、被弾して重傷を負いその場で切腹します。

入江九一 享年28歳。
彗星の如く、激動に奔り抜けた入江九一

その姿は吉田松陰から「君だけは国のために死ねる男児である」と評されるほど。

後年、木戸孝允・大村益次郎たちによって、長州藩内の桜山神社、朝日山護国神社、京都霊山護国神社、靖国神社に護国の英霊として祀られている。

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Posted by 左近将監 at 10:58Comments(1)TrackBack(0)入江九一