2008年04月30日
維新の三傑 大久保利通
維新の三傑 大久保利通は1830年(文政13年)薩摩藩士・大久保利世の長男として生まれる。
大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士で、幼少期に親友の西郷隆盛、海江田信義らと共に学問を学ぶ。

1846年(弘化3年)から藩の記録所書役助として出仕するようになるが、1850年(嘉永3年)お由羅騒動にて連座で罷免され謹慎処分となっている。
島津斉彬が藩主となると復職し、精忠組の領袖として活動していく。
斉彬の死後失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・島津久光に友人・税所篤の助力で接近する。
篤の兄・吉祥院乗願が久光の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれている。
島津久光から信用はかなりのもので、1862年(文久元年)での間に久光から一蔵の名を賜り改名している。
そして1865年(慶応元年)大久保利通と改名する。
久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らと公武合体政策を画策し、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。
西郷と共に政治の中枢として活動し、1867年(慶応3年)に江戸幕府将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉と共に王政復古のクーデターを計画して実行した。
西郷は歴史の表舞台で活躍し、脚光を浴びる中、大久保は裏で政界を改革していく地味な役?だったためあまりめざましい活躍は少ないが、行った功績は大きい。
大久保達の志は一つ、「外国に蔑まれない国を創る」という国家的使命感への熱気に溢れていた。
「日本から外国人を追い出せ」と主張する攘夷論者であった彼らが、後に開国論者に変わっていったのは、軽薄な変節漢であったからではない。
むしろ変わらぬ「一つの志」、「祖国愛」だったからであろう。大久保は信念の人であるがゆえ不動の人であり、現実を見極める力があるがゆえ柔軟の人でもあった。
そんな大久保だったが維新後は大久保の考えについていけない士族たちの恨みの矛先になっていってしまう。
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大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士で、幼少期に親友の西郷隆盛、海江田信義らと共に学問を学ぶ。

1846年(弘化3年)から藩の記録所書役助として出仕するようになるが、1850年(嘉永3年)お由羅騒動にて連座で罷免され謹慎処分となっている。
島津斉彬が藩主となると復職し、精忠組の領袖として活動していく。
斉彬の死後失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・島津久光に友人・税所篤の助力で接近する。
篤の兄・吉祥院乗願が久光の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれている。
島津久光から信用はかなりのもので、1862年(文久元年)での間に久光から一蔵の名を賜り改名している。
そして1865年(慶応元年)大久保利通と改名する。
久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らと公武合体政策を画策し、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。
西郷と共に政治の中枢として活動し、1867年(慶応3年)に江戸幕府将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉と共に王政復古のクーデターを計画して実行した。
西郷は歴史の表舞台で活躍し、脚光を浴びる中、大久保は裏で政界を改革していく地味な役?だったためあまりめざましい活躍は少ないが、行った功績は大きい。
大久保達の志は一つ、「外国に蔑まれない国を創る」という国家的使命感への熱気に溢れていた。
「日本から外国人を追い出せ」と主張する攘夷論者であった彼らが、後に開国論者に変わっていったのは、軽薄な変節漢であったからではない。
むしろ変わらぬ「一つの志」、「祖国愛」だったからであろう。大久保は信念の人であるがゆえ不動の人であり、現実を見極める力があるがゆえ柔軟の人でもあった。
そんな大久保だったが維新後は大久保の考えについていけない士族たちの恨みの矛先になっていってしまう。
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2008年04月30日
吉田松陰 徳を以って
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吉田松陰 今日の一言
『徳を以って』
師弟朋友皆徳を以って交わる者なり。挟む所あるべからず。
先生と弟子、友達同士、みなそれぞれの人徳をもって交際しているのである。
自分の身分や地位などを心にたのみ鼻にかけるべきでない。
人前にでれば皆同じである。尊敬される人はちゃんと周りが尊敬してくれる。ワザワザ自分がそれを威張る必要はない。
タグ :吉田松陰
2008年04月29日
吉田松陰 国の存するや自ら存するなり
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吉田松陰 今日の一言
『国の存するや自ら存するなり』
国の存するや自ら存するなり。
あに外に待つことあらんや。外に待つことなし。
あに外に制せらるることあらんや。外に制せらるることなし。
故に能く外を制す。
国家というのは自ら存在するものである。
どうして外国の御機嫌などを窺う必要があろうか。必要はない。
また、どうして、外国の指導などを受ける必要があろうか。ありはしない。
そういう自立した国家であってこそ、初めて外国をおさえることができるのである。
タグ :吉田松陰
2008年04月28日
江川太郎左衛門 世直し江川大明神
幕末に多くの志士達が学んだ江川太郎左衛門の砲術。
江川英龍は1801年(享和元) 父江川英毅の次男として韮山で生まれる。
江川家は鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄である。代々の当主は太郎左衛門を名乗り、江戸時代には伊豆韮山代官として天領の民政に従事していた。

江戸に出て、神田の神道無念流、岡田十松道場に入門し剣術を学ぶ一方、兄弟子の斎藤弥九郎と懇意になり代官地の領内を隠密に歩き回ったりしている。
1821年(文政4年)兄の江川英虎が病死してしまう。このたため英龍は嫡子となり、江川家を継ぐことになるのだ。
1835年(天保6年)英龍が35歳のとき父・英毅が死去する。これにより英龍は代官職を継ぐ。
父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した政治を行っていたので、英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行った。
また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した。こうした領民を思った英竜の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛したという。
江川英龍が代官職を継嗣してからは異国の船がしばしば現れ、幕府も異国船打払令を制定していた。
江川としても代官としての管轄区域には伊豆・相模沿岸の太平洋から江戸湾への入り口に当たる海防上重要な地域が含まれており、この問題に大きな関心と危機感を持っていた。
ちょうどそのころ川路聖謨・羽倉簡堂の紹介で江川は渡辺崋山・高野長英ら尚歯会の人物と出会うことになる。
渡辺崋山らは海防問題を改革する必要性を主張。
ところが当時の状況を見れば肝心の沿岸備砲は旧式ばかりで、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わるものしかなく、尚歯会は洋学知識の積極的な導入を図っていく。
江川は積極的に知識の吸収を行った。
そうした中、江川と同様に海防問題を抱える崋山は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かすことを考える。
しかし、幕府内の蘭学を嫌う鳥居耀蔵ら保守勢力がこの動きを不服とし、鳥居は過去に江川英龍と東京湾岸の測量手法を巡って争った際に、崋山の人脈と知識を借りた英龍に敗れ、老中・水野忠邦に叱責された経緯があり、職務上の同僚で目の上のたんこぶである英龍、そして渡辺崋山らが気に入らなかった。
1839年(天保10年)鳥居は冤罪をでっち上げ、渡辺崋山・高野長英らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやる。
しかし江川英龍に関しては江川を高く評価する水野忠邦に庇われ、罪に落とされなかったのだ。
その後、江川は崋山らの遺志を継いで長崎へと赴いて高島に弟子入りし、近代砲術を学ぶとともに幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。
これが実現し、江川は水野より正式な幕命として高島秋帆への弟子入りを認められることになり、以後は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育していく。
江川の門を叩いた人物には佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎などが多くの志士達が彼の門下で学んでいる。
水野忠邦が失脚した後に老中となった阿部正弘にも評価され、彼の命で台場を作成。
同様に反射炉も作り、銃砲製作も行った。また、造船技術の向上にも力を注ぎ、さらに近代的装備による農兵軍の組織を企図したが、その途上で江川は病死してしまう。
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江川英龍は1801年(享和元) 父江川英毅の次男として韮山で生まれる。
江川家は鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄である。代々の当主は太郎左衛門を名乗り、江戸時代には伊豆韮山代官として天領の民政に従事していた。

江戸に出て、神田の神道無念流、岡田十松道場に入門し剣術を学ぶ一方、兄弟子の斎藤弥九郎と懇意になり代官地の領内を隠密に歩き回ったりしている。
1821年(文政4年)兄の江川英虎が病死してしまう。このたため英龍は嫡子となり、江川家を継ぐことになるのだ。
1835年(天保6年)英龍が35歳のとき父・英毅が死去する。これにより英龍は代官職を継ぐ。
父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した政治を行っていたので、英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行った。
また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した。こうした領民を思った英竜の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛したという。
江川英龍が代官職を継嗣してからは異国の船がしばしば現れ、幕府も異国船打払令を制定していた。
江川としても代官としての管轄区域には伊豆・相模沿岸の太平洋から江戸湾への入り口に当たる海防上重要な地域が含まれており、この問題に大きな関心と危機感を持っていた。
ちょうどそのころ川路聖謨・羽倉簡堂の紹介で江川は渡辺崋山・高野長英ら尚歯会の人物と出会うことになる。
渡辺崋山らは海防問題を改革する必要性を主張。
ところが当時の状況を見れば肝心の沿岸備砲は旧式ばかりで、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わるものしかなく、尚歯会は洋学知識の積極的な導入を図っていく。
江川は積極的に知識の吸収を行った。
そうした中、江川と同様に海防問題を抱える崋山は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かすことを考える。
しかし、幕府内の蘭学を嫌う鳥居耀蔵ら保守勢力がこの動きを不服とし、鳥居は過去に江川英龍と東京湾岸の測量手法を巡って争った際に、崋山の人脈と知識を借りた英龍に敗れ、老中・水野忠邦に叱責された経緯があり、職務上の同僚で目の上のたんこぶである英龍、そして渡辺崋山らが気に入らなかった。
1839年(天保10年)鳥居は冤罪をでっち上げ、渡辺崋山・高野長英らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやる。
しかし江川英龍に関しては江川を高く評価する水野忠邦に庇われ、罪に落とされなかったのだ。
その後、江川は崋山らの遺志を継いで長崎へと赴いて高島に弟子入りし、近代砲術を学ぶとともに幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。
これが実現し、江川は水野より正式な幕命として高島秋帆への弟子入りを認められることになり、以後は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育していく。
江川の門を叩いた人物には佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎などが多くの志士達が彼の門下で学んでいる。
水野忠邦が失脚した後に老中となった阿部正弘にも評価され、彼の命で台場を作成。
同様に反射炉も作り、銃砲製作も行った。また、造船技術の向上にも力を注ぎ、さらに近代的装備による農兵軍の組織を企図したが、その途上で江川は病死してしまう。
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2008年04月28日
吉田松陰 万事自ら
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吉田松陰 今日の一言
『万事自ら』
文王を待ちて而る後に興る者は凡民なり。
夫の豪傑の士のごときは文王なしと雖もなお興る。
凡民と豪傑の分を明らかに知るべし。豪傑とは万事自ら創して敢て人の轍跡を踏まぬことなり。
文王のような心ある立派な王の指導を受け、その後で意気を奮い起すようなものは凡民、一般の民衆である。
豪傑、つまり傑出した人物というものは、文王の指導を受けなくても、自らの力で興起するものである。
凡民と豪傑の違いをはっきりと知るべきである。
武勇に優れ肝っ玉の据わっている人は何事も自分で創意工夫するものであり、決して他人の行った真似などはしないものである。
タグ :吉田松陰
2008年04月27日
宮部鼎蔵 肥後の雄
肥後熊本藩士の尊皇攘夷派の核心宮部鼎蔵。
1820年(文政3年)肥後国に生まれる。
代々医師の家系の叔父である宮部増美の養子となる。
山鹿流軍学を学び、30歳で熊本藩に召抱えられ、林櫻園に国学などを学ぶようになる。
吉田松陰が九州遊学に来たときに松陰と会談する機会があり懇意になり、1850年(嘉永3年)に東北旅行に同行している。
尊皇攘夷に目覚め始めたのがこの頃だと言われている。
東北諸藩で諸国の志士と交遊し尊皇攘夷の信念を深くしますが、吉田松陰の捕縛に伴い帰国。
水前寺乱闘事件のとがで兵法師範職を廃されてしまいます。
1861年(文久元年)肥後勤皇党にその名を連ね、党の中でも中心的な人物となり活躍していく。
1862年(文久2年)清河八郎が九州遊説の折に、中山大納言家の諸大夫であった田中河内介の紹介で肥後に参じている。清河八郎は中川大納言が攘夷に立つにあたり、肥後の有志も参加するように説きに来たのだったが、肥後勤皇党員たちの信用を得られず、やむなく熊本を去っている。
この時、宮部、河上彦斎らは清河の志を汲み、党内で必死の説得に当たっている。
清河ので奮起した宮部は上京し、全国から集まってきた尊攘派志士たちと政治活動に奔走するようになる。
しかし、挙兵のために集まってきた尊攘派志士たちの高揚とはうらはらに、薩摩の島津久光の真意は公武合体にあったため、不穏な動きを察知した島津久光は寺田屋にいる志士の粛清を命じる。寺田屋の変にて粛清された尊攘派志士たちは京都での挙兵は失敗に終ったため、
1863年(文久3年)8.18の政変で尊攘派の急先鋒の長州藩が京を追放され、宮部は佐幕の熊本藩に戻る気にもなれず、宮部ら尊攘派志士たちは脱藩、三条実美ら七卿らとともに長州へと向かうことになる。
翌1864年(元治元年)宮部は再び上京し、潜伏しつつ尊皇攘夷の活動に奔走する。
そして6月4日、同志の一人古高俊太郎が新撰組に逮捕されてしまいます。
宮部は同志を救出するため、京都三条小橋池田屋で、宮部鼎蔵や長州、土佐、肥後の尊皇攘夷派がひそかに会合していました。
そこへ、京都守護職隷下の会津・桑名・彦根・加賀の諸藩兵ならびに禁裡御守衛総督指揮の一橋勢、並びに京都所司代指揮の奉行、与力等総兵力三千余人が導員され、その中にいた近藤勇、土方歳三らが率いる新撰組により襲撃されました。
世に言う池田屋事件だが、長州の桂小五郎などが決起の自粛を求めるように動いていたが結局過激派の志士たちを貯めることはできなかった。
宮部鼎蔵も最早これまでと悟り、「諸君、潔く自決せよ」と叫ぶと、捕縛されること恥と思ったのか、立ったまま割腹します
享年45歳。
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新選組・池田屋事件顛末記Price2,940 円
1820年(文政3年)肥後国に生まれる。
代々医師の家系の叔父である宮部増美の養子となる。
山鹿流軍学を学び、30歳で熊本藩に召抱えられ、林櫻園に国学などを学ぶようになる。
吉田松陰が九州遊学に来たときに松陰と会談する機会があり懇意になり、1850年(嘉永3年)に東北旅行に同行している。
尊皇攘夷に目覚め始めたのがこの頃だと言われている。
東北諸藩で諸国の志士と交遊し尊皇攘夷の信念を深くしますが、吉田松陰の捕縛に伴い帰国。
水前寺乱闘事件のとがで兵法師範職を廃されてしまいます。
1861年(文久元年)肥後勤皇党にその名を連ね、党の中でも中心的な人物となり活躍していく。
1862年(文久2年)清河八郎が九州遊説の折に、中山大納言家の諸大夫であった田中河内介の紹介で肥後に参じている。清河八郎は中川大納言が攘夷に立つにあたり、肥後の有志も参加するように説きに来たのだったが、肥後勤皇党員たちの信用を得られず、やむなく熊本を去っている。
この時、宮部、河上彦斎らは清河の志を汲み、党内で必死の説得に当たっている。
清河ので奮起した宮部は上京し、全国から集まってきた尊攘派志士たちと政治活動に奔走するようになる。
しかし、挙兵のために集まってきた尊攘派志士たちの高揚とはうらはらに、薩摩の島津久光の真意は公武合体にあったため、不穏な動きを察知した島津久光は寺田屋にいる志士の粛清を命じる。寺田屋の変にて粛清された尊攘派志士たちは京都での挙兵は失敗に終ったため、
1863年(文久3年)8.18の政変で尊攘派の急先鋒の長州藩が京を追放され、宮部は佐幕の熊本藩に戻る気にもなれず、宮部ら尊攘派志士たちは脱藩、三条実美ら七卿らとともに長州へと向かうことになる。
翌1864年(元治元年)宮部は再び上京し、潜伏しつつ尊皇攘夷の活動に奔走する。
そして6月4日、同志の一人古高俊太郎が新撰組に逮捕されてしまいます。
宮部は同志を救出するため、京都三条小橋池田屋で、宮部鼎蔵や長州、土佐、肥後の尊皇攘夷派がひそかに会合していました。
そこへ、京都守護職隷下の会津・桑名・彦根・加賀の諸藩兵ならびに禁裡御守衛総督指揮の一橋勢、並びに京都所司代指揮の奉行、与力等総兵力三千余人が導員され、その中にいた近藤勇、土方歳三らが率いる新撰組により襲撃されました。
世に言う池田屋事件だが、長州の桂小五郎などが決起の自粛を求めるように動いていたが結局過激派の志士たちを貯めることはできなかった。
宮部鼎蔵も最早これまでと悟り、「諸君、潔く自決せよ」と叫ぶと、捕縛されること恥と思ったのか、立ったまま割腹します
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2008年04月27日
吉田松陰 一世の風俗を以って
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吉田松陰 今日の一言
『一世の風俗を以って』
平士の職は一身の修治を本とし、一世の風俗を以って己が任となすべし。
平士たる者は、自分一身を修めることを根本とし、その時代の風俗をよきものとすることを、自分の任務と自覚すべきである。
タグ :吉田松陰
2008年04月26日
吉田松陰 一善を行えば
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吉田松陰 今日の一言
『一善を行えば』
一善を行えば一善己れに存す。
一益を得れば一益己に存す。一日を」加うれば一日の功あり。
一年を加うれば一年の功あり。
人を教える者かくこそ言うべし。
1つのよき事を行えば、その善は自分のものとなる。
1つの有益なものを得れば、それは自分のものとなる。
一日努力をすれば、1年の功績がある。人を教える者はこのようにこそ教え導くべきものである。
タグ :吉田松陰
2008年04月26日
横井小楠 認めてもらえぬ才能
横井小楠は1809年(文化6年)肥後藩士 横井時直の次男として生まれる。
「小楠」は、かれが使った号のひとつで、諱は「時存」であり、正式な名のりは平時存。通称は「平四郎」で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。

幼少時代の小楠はかなりの腕白で生傷が絶えなかったといわれています。
しかし一方で学問に励み、藩のエリートが学ぶ時習館に入学。ここでも頭角を現し、1837年(天保8年)やがて居寮長となって後輩を指導する地位に就きます。
2年後の1839年(天保10年)には江戸遊学を命じられ、水戸藩士の藤田東湖と面会して意見を闘わせたりしましたが、酒の席での失敗により熊本へ呼び戻されてしまいます。
このころ小楠は学べば学ぶほど飽きたらないものを覚えるようになりました。
それは、時習館の教えは学問のための学問に終っているのではないかという疑問です。小楠が考える学問の本領とは「学政一致」、すなわち現実の政治や経済に生かしてこそである。
「実際に役立つ学問こそ、最も大事」であると云う考えで「実学党」である。
1855年(嘉永5年)越前藩の求めに応じ「学校問答書」という建白書を書きます。
この教育論には吉田松陰も感心し、長州藩にも推薦しようとしたといいます。吉田松陰は嘉永6年に小楠に会いに熊本にまで来ています。
私塾「四時軒」(しじけん)を開き、多くの門弟を輩出した。主張するところは攘夷論から開国論へ移っていきました。また、坂本龍馬や井上聞多など、明治維新の立役者やのちの明治新政府の中枢の多くもここを訪問している。
熊本での冷遇とは反対に、1852年(嘉永5年)以来、招請により4度も福井を訪れています。福井藩の明道館校長にも任ぜられ、松平春嶽の政治顧問としても重視され、藩政改革にあたります。
1862年(文久2年)松平春嶽が幕府政治総裁となり、小楠も松平春嶽の要望に応え「国是7カ条」を作成するなどし、幕政改革にも参画しており公武合体運動を推進し、雄藩連合を構想していました。
このときに三岡八郎は小楠の考えに傾倒し、のちの財政手腕が発揮されるようになる。
福井藩に小楠がいるときには坂本龍馬も尋ねてきて、三岡、龍馬、小楠の3人で日本の将来について語り明かしという。
1868年(慶応4年)新政府に参与として出仕するが、翌年参内の帰途、十津川郷士らにより、京都市中京区寺町丸太町下る東側で暗殺される。
横井小楠 享年61歳。
殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであった。
しかも弾正台の古賀十郎ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が裁判において横井が書いたとする『天道覚明書』という偽書を作成して横井が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥った。
紆余曲折の末、実行者であった十津川郷士ら4名が明治3年に処刑される事となった。
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横井小楠 Price1,575 円
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「小楠」は、かれが使った号のひとつで、諱は「時存」であり、正式な名のりは平時存。通称は「平四郎」で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。

幼少時代の小楠はかなりの腕白で生傷が絶えなかったといわれています。
しかし一方で学問に励み、藩のエリートが学ぶ時習館に入学。ここでも頭角を現し、1837年(天保8年)やがて居寮長となって後輩を指導する地位に就きます。
2年後の1839年(天保10年)には江戸遊学を命じられ、水戸藩士の藤田東湖と面会して意見を闘わせたりしましたが、酒の席での失敗により熊本へ呼び戻されてしまいます。
このころ小楠は学べば学ぶほど飽きたらないものを覚えるようになりました。
それは、時習館の教えは学問のための学問に終っているのではないかという疑問です。小楠が考える学問の本領とは「学政一致」、すなわち現実の政治や経済に生かしてこそである。
「実際に役立つ学問こそ、最も大事」であると云う考えで「実学党」である。
1855年(嘉永5年)越前藩の求めに応じ「学校問答書」という建白書を書きます。
この教育論には吉田松陰も感心し、長州藩にも推薦しようとしたといいます。吉田松陰は嘉永6年に小楠に会いに熊本にまで来ています。
私塾「四時軒」(しじけん)を開き、多くの門弟を輩出した。主張するところは攘夷論から開国論へ移っていきました。また、坂本龍馬や井上聞多など、明治維新の立役者やのちの明治新政府の中枢の多くもここを訪問している。
熊本での冷遇とは反対に、1852年(嘉永5年)以来、招請により4度も福井を訪れています。福井藩の明道館校長にも任ぜられ、松平春嶽の政治顧問としても重視され、藩政改革にあたります。
1862年(文久2年)松平春嶽が幕府政治総裁となり、小楠も松平春嶽の要望に応え「国是7カ条」を作成するなどし、幕政改革にも参画しており公武合体運動を推進し、雄藩連合を構想していました。
このときに三岡八郎は小楠の考えに傾倒し、のちの財政手腕が発揮されるようになる。
福井藩に小楠がいるときには坂本龍馬も尋ねてきて、三岡、龍馬、小楠の3人で日本の将来について語り明かしという。
1868年(慶応4年)新政府に参与として出仕するが、翌年参内の帰途、十津川郷士らにより、京都市中京区寺町丸太町下る東側で暗殺される。
横井小楠 享年61歳。
殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであった。
しかも弾正台の古賀十郎ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が裁判において横井が書いたとする『天道覚明書』という偽書を作成して横井が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥った。
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2008年04月25日
水戸の両田 藤田東湖
徳川斉昭の腹心として幕末の水戸藩の尊皇志士に大きな影響を与えた男 藤田東湖。
1806年(文化3年)藤田東湖は父の水戸学者藤田幽谷の下に生まれる。
青年期に彰考館に勤め、1827年(文政10年)に家督を相続。
進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集、彰考館総裁代役などを歴任する。

1829年(文政12年)水戸藩に継嗣問題が起こる。第8代藩主・徳川斉脩の死後、門閥派より第11代将軍・徳川家斉の第20子・徳川斉彊を養子に迎える動きがあったが、徳川斉昭はこれを抑えて下士層の支持を得て家督を継ぎ、第9代藩主となる。
このとき東湖は斉昭を擁立する一派の中心人物として活躍し、斉昭の第9代藩主への襲封を成功させる手助けをしている。
斉昭の襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進、1840年(天保11年)には側用人として藩政改革に当たるなど、藩主斉昭の絶大な信用を得て、水戸藩の天保改革の中心人物として藩政改革を推進するなど、その政治手腕は他藩にも聞こえるようになりる。
しかし、斉昭が1844年(弘化元年)に鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などを罪に問われて、幕命により家督を嫡男の徳川慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられると、当然の如く東湖も藩政から失脚し、禄を剥奪される。
その後、水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握って専横を行なうが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって1846年(弘化3年)に謹慎を解除されるとそれまでの責を問われ江戸屋敷に幽閉、翌年謹慎処分となる。
1849年(嘉永2年)徳川斉昭が藩政関与が許されると、東湖の罪も許され水戸に戻ることが出来た。
そして3年後の1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航し、時代が激震をすると、幕府は徳川斉昭が海防参与として幕政に参画させ、それに伴い藤田東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。
1854年(安政元年)には側用人に復帰している。
徳川斉昭には側近・戸田忠太夫がおり、東湖と共に、 「水戸の両田」と並び称せられ、全国の藩士・志士達から絶大な信頼と輿望を一身に集めました。
各藩の志ある若者達は、江戸に来た際には必ずと言って良いほど、東湖の元を訪れ、その薫陶を受けていったのです。
また東湖は他藩士との交流を通して尊皇攘夷思想を広め、東に水戸藩ありと言われるほどの力をもっていた。
ペリーの来航以後彷徨う幕政の中、水戸学を学んだ藤田東湖の思想は「尊皇攘夷」であった。
水戸学と水戸藩はこの思想の魁となったため、その行動も過激になっていく。
1855年(安政2年)江戸を大激震が襲う。安政の大地震である。
そのとき東湖は、小石川の水戸藩邸内の自宅いました。
東湖自身は何とか危機を脱し、屋敷の庭へと逃れることが出来ましたが、母が脱出できずに閉じ込められてしまいました。
東湖は母を救出するために屋敷内に立ち戻るのです。
その戻った東湖の頭上に大きな梁が落ちてきます。東湖は母をかばって自らが梁の下敷きとなり、体全身で大きな梁を受け止め、母を脱出させた後、ついに力尽きて圧死してしまうのです。
藤田東湖 享年50歳。
水戸藩にとってこれはとてつもない損失でした。
東湖を亡くした水戸藩は、歴史が示している通り、藩内で内部抗争を繰り返し、血の粛清が吹き荒れ、維新を迎えた頃には、ほとんど有為な人材が残っていないかったのです。
これを見ても、東湖の死は、その後の水戸藩の歴史を運命付けたとも言えましょう。
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尊王攘夷の旗




藤田東湖の生涯Price1,365 円
水戸学と明治維新Price1,785 円
幕末入門書Price1,890 円
1806年(文化3年)藤田東湖は父の水戸学者藤田幽谷の下に生まれる。
青年期に彰考館に勤め、1827年(文政10年)に家督を相続。
進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集、彰考館総裁代役などを歴任する。

1829年(文政12年)水戸藩に継嗣問題が起こる。第8代藩主・徳川斉脩の死後、門閥派より第11代将軍・徳川家斉の第20子・徳川斉彊を養子に迎える動きがあったが、徳川斉昭はこれを抑えて下士層の支持を得て家督を継ぎ、第9代藩主となる。
このとき東湖は斉昭を擁立する一派の中心人物として活躍し、斉昭の第9代藩主への襲封を成功させる手助けをしている。
斉昭の襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進、1840年(天保11年)には側用人として藩政改革に当たるなど、藩主斉昭の絶大な信用を得て、水戸藩の天保改革の中心人物として藩政改革を推進するなど、その政治手腕は他藩にも聞こえるようになりる。
しかし、斉昭が1844年(弘化元年)に鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などを罪に問われて、幕命により家督を嫡男の徳川慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられると、当然の如く東湖も藩政から失脚し、禄を剥奪される。
その後、水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握って専横を行なうが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって1846年(弘化3年)に謹慎を解除されるとそれまでの責を問われ江戸屋敷に幽閉、翌年謹慎処分となる。
1849年(嘉永2年)徳川斉昭が藩政関与が許されると、東湖の罪も許され水戸に戻ることが出来た。
そして3年後の1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航し、時代が激震をすると、幕府は徳川斉昭が海防参与として幕政に参画させ、それに伴い藤田東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。
1854年(安政元年)には側用人に復帰している。
徳川斉昭には側近・戸田忠太夫がおり、東湖と共に、 「水戸の両田」と並び称せられ、全国の藩士・志士達から絶大な信頼と輿望を一身に集めました。
各藩の志ある若者達は、江戸に来た際には必ずと言って良いほど、東湖の元を訪れ、その薫陶を受けていったのです。
また東湖は他藩士との交流を通して尊皇攘夷思想を広め、東に水戸藩ありと言われるほどの力をもっていた。
ペリーの来航以後彷徨う幕政の中、水戸学を学んだ藤田東湖の思想は「尊皇攘夷」であった。
水戸学と水戸藩はこの思想の魁となったため、その行動も過激になっていく。
1855年(安政2年)江戸を大激震が襲う。安政の大地震である。
そのとき東湖は、小石川の水戸藩邸内の自宅いました。
東湖自身は何とか危機を脱し、屋敷の庭へと逃れることが出来ましたが、母が脱出できずに閉じ込められてしまいました。
東湖は母を救出するために屋敷内に立ち戻るのです。
その戻った東湖の頭上に大きな梁が落ちてきます。東湖は母をかばって自らが梁の下敷きとなり、体全身で大きな梁を受け止め、母を脱出させた後、ついに力尽きて圧死してしまうのです。
藤田東湖 享年50歳。
水戸藩にとってこれはとてつもない損失でした。
東湖を亡くした水戸藩は、歴史が示している通り、藩内で内部抗争を繰り返し、血の粛清が吹き荒れ、維新を迎えた頃には、ほとんど有為な人材が残っていないかったのです。
これを見ても、東湖の死は、その後の水戸藩の歴史を運命付けたとも言えましょう。
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2008年04月25日
吉田松陰 学というものは
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吉田松陰 今日の一言
『かくすれば』
凡そ学問の道死して後巳む。
若し未だ死せずして半途にして先ず廃すれば、前項皆棄つるものなり。
学というものは進まざれば必ず退く。故に日に進み、月に漸み、遂には死すとも悔ゆることなくして、始めて学と言うべし
大体、学問というものは死ぬまで継続すべきである。
もしも死んでもいないのに、途中でやめてしまえば、それまでの努力して得たものが全て棄ててしまったことになる。
学問というものは、進まなければ、必ず後退するものである。
だから日に進み、月に進み、その結果、死ぬとしても後悔する事がないようになってこそ、初めて学問ということができる。
タグ :吉田松陰
2008年04月24日
吉田松陰 かくすれば
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吉田松陰 今日の一言
『かくすれば』
かくすればかくなるものとしりながら、やむにやまれぬやまとだましい
このようなことをすれば、このようになるということは知ってはいた。
しかし、それでもやらねばならなかったのは私の大和魂ゆえである。
2008年04月23日
その才知、鬼の如し 大村益次郎
あらためて長州藩士となった村田蔵六。
軍事教育や様々なことを長州藩の志士達にも教えていきます。
1863年(文久3)4月、長州藩は指揮をするのに萩では辺境地であったので不便だということから山口に藩府を移すこととしました。
萩にあった主な役所も順次山口へと移りました。この時山口移転に係る都市計画等に当たるため、村田は山口へと呼び戻されました。
そこで村田は、江戸の塾舎を閉鎖し山口へ帰ります。山口では白石にある普門寺を宿舎とし、諸生を集めて兵学を教授していくようになるのです。
そんなおりに8.18の政変が起こります。
これにより長州藩の順境は一転して逆境となり、長州藩は無実を天皇に訴えようとして、翌1864年(元治元)禁門の変を起こします。
結果は長州軍の大敗でした。なんとか逃げ延びてきた長州勢でしたがその痛手は大きく、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎、来島又兵衛など多くの優秀な人材を失ってしまったのです。
そしてその直後、長州はイギリス、アメリカ、フランス、オランダの4カ国連合艦隊と交戦(馬関戦争)。
ここでも国力の差、文化の差を見せ付けられながら和議を結ぶことになって行きます。
それと呼応するかのように幕府軍が攻めあがってくるのです。
第一次長州征伐は戦火を交えずに終わります。これにより長州藩内部は幕府へ恭順し保守派が政権を握りますが、高杉晋作、井上聞多などの急進派が勢いを盛り返し政権を奪取すると、高杉らは西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手していきます。
村田にその指導を要請します。村田は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名し、明倫館兵学寮総官・教授として歩・騎・砲兵士官教育を行うようになる。
大村は山口では普門寺を宿舎とし、西洋兵術書を翻訳したばかりでなく、それを現状に即し実戦に役立つようわかりやすく書き改めた。さらにその教え方も無駄がなく的確であった。
大村の勧める西洋軍備とは軽装で動きやすく集団で戦うものであったという。
1866年(慶応2年)、幕府は第二次長州征伐を号令、6月に戦闘が開始される。
これには薩摩藩などの有力藩が参加しておらず長州にとっては今までの不満の爆発どころでもあったのだろう。
戦意を欠いていた幕府軍は近代兵器で武装した長州藩兵の激しい抗戦にあって至るところで敗北を続ける。
大村は石州口方面の指揮を担当し、その才能は遺憾なく発揮され、優れた戦術により幕府側をことごとく撃破し、中立的立場を取った津和野藩を通過して浜田まで進撃。
浜田城を陥落させる。
長州藩の旧知で蘭学者の青木周弼は大村を評して「その才知、鬼の如し」と語った。
他の戦線でも長州藩は優勢に戦いを進め、大坂城にいた将軍 徳川家茂が病死したため幕府は兵を引き、長州藩の事実上の勝利のもとに停戦した。
この戦いでは大村は非常に活躍し、幕府軍の勝海舟も「村田蔵六がいてはとても敵うはずはなし」と言ったという。
大村益次郎にとって初めての実戦だったのだが、陣中に兵書を携え時間さえあれば諸生にこれを読んで実戦と対比させて、作戦の絶大な戦果を実際に見ることでこれを直に覚えさせようとしたらしい。
大村のその腕は嘆賞され、兵たちも大村の見る目が変わったということでした。
その後、戊辰戦争の際にも彰義隊、大鳥圭介・土方歳三の軍、榎本武揚海軍らを退け、日本を明治の波へと押し出しました。
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軍事教育や様々なことを長州藩の志士達にも教えていきます。
1863年(文久3)4月、長州藩は指揮をするのに萩では辺境地であったので不便だということから山口に藩府を移すこととしました。
萩にあった主な役所も順次山口へと移りました。この時山口移転に係る都市計画等に当たるため、村田は山口へと呼び戻されました。
そこで村田は、江戸の塾舎を閉鎖し山口へ帰ります。山口では白石にある普門寺を宿舎とし、諸生を集めて兵学を教授していくようになるのです。
そんなおりに8.18の政変が起こります。
これにより長州藩の順境は一転して逆境となり、長州藩は無実を天皇に訴えようとして、翌1864年(元治元)禁門の変を起こします。
結果は長州軍の大敗でした。なんとか逃げ延びてきた長州勢でしたがその痛手は大きく、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎、来島又兵衛など多くの優秀な人材を失ってしまったのです。
そしてその直後、長州はイギリス、アメリカ、フランス、オランダの4カ国連合艦隊と交戦(馬関戦争)。
ここでも国力の差、文化の差を見せ付けられながら和議を結ぶことになって行きます。
それと呼応するかのように幕府軍が攻めあがってくるのです。
第一次長州征伐は戦火を交えずに終わります。これにより長州藩内部は幕府へ恭順し保守派が政権を握りますが、高杉晋作、井上聞多などの急進派が勢いを盛り返し政権を奪取すると、高杉らは西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手していきます。
村田にその指導を要請します。村田は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名し、明倫館兵学寮総官・教授として歩・騎・砲兵士官教育を行うようになる。
大村は山口では普門寺を宿舎とし、西洋兵術書を翻訳したばかりでなく、それを現状に即し実戦に役立つようわかりやすく書き改めた。さらにその教え方も無駄がなく的確であった。
大村の勧める西洋軍備とは軽装で動きやすく集団で戦うものであったという。
1866年(慶応2年)、幕府は第二次長州征伐を号令、6月に戦闘が開始される。
これには薩摩藩などの有力藩が参加しておらず長州にとっては今までの不満の爆発どころでもあったのだろう。
戦意を欠いていた幕府軍は近代兵器で武装した長州藩兵の激しい抗戦にあって至るところで敗北を続ける。
大村は石州口方面の指揮を担当し、その才能は遺憾なく発揮され、優れた戦術により幕府側をことごとく撃破し、中立的立場を取った津和野藩を通過して浜田まで進撃。
浜田城を陥落させる。
長州藩の旧知で蘭学者の青木周弼は大村を評して「その才知、鬼の如し」と語った。
他の戦線でも長州藩は優勢に戦いを進め、大坂城にいた将軍 徳川家茂が病死したため幕府は兵を引き、長州藩の事実上の勝利のもとに停戦した。
この戦いでは大村は非常に活躍し、幕府軍の勝海舟も「村田蔵六がいてはとても敵うはずはなし」と言ったという。
大村益次郎にとって初めての実戦だったのだが、陣中に兵書を携え時間さえあれば諸生にこれを読んで実戦と対比させて、作戦の絶大な戦果を実際に見ることでこれを直に覚えさせようとしたらしい。
大村のその腕は嘆賞され、兵たちも大村の見る目が変わったということでした。
その後、戊辰戦争の際にも彰義隊、大鳥圭介・土方歳三の軍、榎本武揚海軍らを退け、日本を明治の波へと押し出しました。
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2008年04月23日
吉田松陰 事省くべく
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吉田松陰 今日の一言
『事省くべく』
事省くべく、事省いて而して志専らにすべし。
志専らならばすなわち奇策雄論往々将に得る所あらんとす。
くだらない世事は省略すべきである。
省略して、今抱いている志に専念すべきである。
専念すれば、奇抜な策略や素晴しい考えが、やがて思い浮かぶことであろう。
2008年04月22日
大村益次郎 長州の頭脳
長州藩の村医の村田孝益の長男として生まれた村田蔵六(大村益次郎)。

1842年(天保13年)防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年梅田の勧めで豊後国日田の広瀬淡窓の門下生となる。
1846年(弘化3年)には大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶことになり、適塾在籍の間に長崎で1年間遊学し、その後適塾の塾頭まで進んだ。
洪庵は当時全国に名声が聞こえていた蘭学の大家でした。その塾頭にまでなったのは村田の力量はかなりのものだったでしょう。
村田の同窓には、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉などをはじめ明治維新後新日本の建設に携わった人たちがいました。
1850年(嘉永3年)父親に請われて帰郷し、村医となって村田良庵と名乗ることになる。
翌年、琴子と結婚し、医者を開業しますが、口数が少なく無愛想で、村人が診てもらうと身体のしくみ等を何やら小難しい言葉でくどくどと説明したので「大阪で何の勉強したのやら」とあまり評判のよい医者ではなかったという。
このことから、村田は自分は医者に向いていないと判断、転じて蘭学により兵学を研究し、兵学者として身を立てようと決心しました。
1853年(嘉永6年)ペリーが来航すると諸国は広く異国の知識を求められるようになってきた。
そんなおり宇和島藩が村田の学識を知り、蘭学・兵学を教授してもらうために招くのです。
村田最初の仕事は、軍備と軍器に関する翻訳書を作り、その講義をすることでした。
また生理学書によって人体の形質臓器の講義なども行ったそうです。
そんな中、長崎へ二宮敬作を連れて赴いて軍艦製造の研究を行った。
宇和島にもどった村田は提灯屋の前原巧山とともに洋式軍艦の雛形を製造する。
ちょうどこの頃村田蔵六と改名している。
1856年(安政3年)宇和島藩の藩主伊達宗城の参勤に従い江戸に行った村田は、麹町の新道一番町に家を求め、門人である金沢藩士安達幸之助の斡旋と伊達家の援助により学塾を開くことになる。塾の名を「鳩居堂」といい、蘭学・兵学・医学を教えていた。
村田の塾は大変な人気だったらしく、全国から生徒が集まってきており、そのウワサを聞いた幕府は講武所教授として招いた。時に1857年(安政4年)である。
宇和島藩や幕府、そして金沢藩に重用せられていた村田ですが、長州藩出身者にもかかわらず、このような優れた逸材が長州藩と関与していないことを遺憾に思った周布政之助、青木周弼は、村田を長州藩に召しかかえる運動を行います。
1860年(万延元)村田は長州藩士になります。それは、従来どおり幕府や宇和島藩、金沢藩の用務も行うという約束付きのものでした。
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1842年(天保13年)防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年梅田の勧めで豊後国日田の広瀬淡窓の門下生となる。
1846年(弘化3年)には大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶことになり、適塾在籍の間に長崎で1年間遊学し、その後適塾の塾頭まで進んだ。
洪庵は当時全国に名声が聞こえていた蘭学の大家でした。その塾頭にまでなったのは村田の力量はかなりのものだったでしょう。
村田の同窓には、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉などをはじめ明治維新後新日本の建設に携わった人たちがいました。
1850年(嘉永3年)父親に請われて帰郷し、村医となって村田良庵と名乗ることになる。
翌年、琴子と結婚し、医者を開業しますが、口数が少なく無愛想で、村人が診てもらうと身体のしくみ等を何やら小難しい言葉でくどくどと説明したので「大阪で何の勉強したのやら」とあまり評判のよい医者ではなかったという。
このことから、村田は自分は医者に向いていないと判断、転じて蘭学により兵学を研究し、兵学者として身を立てようと決心しました。
1853年(嘉永6年)ペリーが来航すると諸国は広く異国の知識を求められるようになってきた。
そんなおり宇和島藩が村田の学識を知り、蘭学・兵学を教授してもらうために招くのです。
村田最初の仕事は、軍備と軍器に関する翻訳書を作り、その講義をすることでした。
また生理学書によって人体の形質臓器の講義なども行ったそうです。
そんな中、長崎へ二宮敬作を連れて赴いて軍艦製造の研究を行った。
宇和島にもどった村田は提灯屋の前原巧山とともに洋式軍艦の雛形を製造する。
ちょうどこの頃村田蔵六と改名している。
1856年(安政3年)宇和島藩の藩主伊達宗城の参勤に従い江戸に行った村田は、麹町の新道一番町に家を求め、門人である金沢藩士安達幸之助の斡旋と伊達家の援助により学塾を開くことになる。塾の名を「鳩居堂」といい、蘭学・兵学・医学を教えていた。
村田の塾は大変な人気だったらしく、全国から生徒が集まってきており、そのウワサを聞いた幕府は講武所教授として招いた。時に1857年(安政4年)である。
宇和島藩や幕府、そして金沢藩に重用せられていた村田ですが、長州藩出身者にもかかわらず、このような優れた逸材が長州藩と関与していないことを遺憾に思った周布政之助、青木周弼は、村田を長州藩に召しかかえる運動を行います。
1860年(万延元)村田は長州藩士になります。それは、従来どおり幕府や宇和島藩、金沢藩の用務も行うという約束付きのものでした。
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2008年04月22日
吉田松陰 勇なくんば
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吉田松陰 今日の一言
『勇なくんば』
人いやしくも勇なくんば、仁智並びに用をなさざるなり。
人は真の勇気というものがなければ、慈しみ、思いやりの心や物事を理解し、是非・善悪を弁別する心を持っていたとしても、何の役にも立たない。
考えや思っていても行動に移す勇気が必要。
思ってたんだけどなぁ〜では思ってないのと同じである。
であるなら、実行すべし!
2008年04月21日
吉田松陰 決して言われぬなり
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吉田松陰 今日の一言
『決して言われぬなり』
各々その職の上において、天命時運ということは決して言われぬなり。
己が職を自ら廃し、これを時運天命に附せば、不忠不孝、不仁不義、皆時運天命になるなり。
それぞれの人が、自分の職務上のことについて、天によって定められた宿命であるとか、時の巡り合せであるなどということは、決していうことはできない。
自分の職務を自分で放棄し、これを時運や天命の責任というのであれば、不忠、不孝、不仁、不義などもみんな時運、天命となってしまう。
2008年04月21日
有馬新七
寺田屋で壮絶な死を遂げた有馬新七。
新七は薩摩藩の郷士・坂木四郎兵衛の子として生まれる。
父が城下士の有馬家の養子となったため、新七もそのまま城下士となった。
新七は元服した頃から真影流の剣術を学び、独学で山崎闇斎派の朱子学をも学んでいく。
文武両道の俊傑とうたわれていた。
1843年(天保14年)江戸にでて山口管山に学び、翌年には師の代講を勤めるようにもなっていた。
1856年(安政3年)師の進めもあり、京都にいき梅田雲浜と交流するようになる。
翌年の1857年(安政4年)には薩摩藩邸学問所教授に就任し、尊皇攘夷派の志士達と多く交流して水戸藩とともに井伊直弼暗殺(桜田門外の変)を謀ったが、自藩の同意を得られなかったため手を退き、結果的に水戸藩を裏切る形となってしまった。
その後も有馬新七は過激な尊皇攘夷活動を続け、1862年(文久2年)藩主 島津久光が兵を率いて上洛する。
しかし、ちょうどその頃、久留米藩士・真木和泉らが薩摩藩に倒幕の働きかけをしていたため、これは実は倒幕の兵であると深読みし勘違いするものが出てきました。これが、有馬新七たちだった。
この真木の元に久坂玄瑞、品川弥二郎、入江九一、山縣有朋、清河八郎など全国から3百近い者が京に集結していた。
しかし島津久光はむしろ公武合体を推し進めていました。
「久光公は上洛したが、一向に倒幕に乗り出す気配がない」と痺れを切らした有馬たちは、倒幕挙兵の先方たらんとし幕府寄りの公卿や京都所司代を襲おうと画策し、寺田屋へ集結。
この不穏な動きを察知した久光は、その計画を思いとどまらせようと奈良原喜八郎らを寺田屋に向かわせます。

寺田屋についた奈良原は思いとどまるよう久光の意を告げますが、有馬たちは聞き入れず斬り合いに発展。ここに凄惨な忠誠組同志同士の斬りあいが始まる。
斬りあう最中、有馬の刀が折れ素手で組み合っていると刺客の一人 道島五郎兵衛を壁に押し付け、橋口吉之丞に 「おいごと刺せ!」 と叫び壮絶な死を遂げている。
有馬新七享年38歳。文武両道の雄だったが、時代が変わる一足前に才能を発揮することもなく逝ってしまった。
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新七は薩摩藩の郷士・坂木四郎兵衛の子として生まれる。
父が城下士の有馬家の養子となったため、新七もそのまま城下士となった。
新七は元服した頃から真影流の剣術を学び、独学で山崎闇斎派の朱子学をも学んでいく。
文武両道の俊傑とうたわれていた。
1843年(天保14年)江戸にでて山口管山に学び、翌年には師の代講を勤めるようにもなっていた。
1856年(安政3年)師の進めもあり、京都にいき梅田雲浜と交流するようになる。
翌年の1857年(安政4年)には薩摩藩邸学問所教授に就任し、尊皇攘夷派の志士達と多く交流して水戸藩とともに井伊直弼暗殺(桜田門外の変)を謀ったが、自藩の同意を得られなかったため手を退き、結果的に水戸藩を裏切る形となってしまった。
その後も有馬新七は過激な尊皇攘夷活動を続け、1862年(文久2年)藩主 島津久光が兵を率いて上洛する。
しかし、ちょうどその頃、久留米藩士・真木和泉らが薩摩藩に倒幕の働きかけをしていたため、これは実は倒幕の兵であると深読みし勘違いするものが出てきました。これが、有馬新七たちだった。
この真木の元に久坂玄瑞、品川弥二郎、入江九一、山縣有朋、清河八郎など全国から3百近い者が京に集結していた。
しかし島津久光はむしろ公武合体を推し進めていました。
「久光公は上洛したが、一向に倒幕に乗り出す気配がない」と痺れを切らした有馬たちは、倒幕挙兵の先方たらんとし幕府寄りの公卿や京都所司代を襲おうと画策し、寺田屋へ集結。
この不穏な動きを察知した久光は、その計画を思いとどまらせようと奈良原喜八郎らを寺田屋に向かわせます。

寺田屋についた奈良原は思いとどまるよう久光の意を告げますが、有馬たちは聞き入れず斬り合いに発展。ここに凄惨な忠誠組同志同士の斬りあいが始まる。
斬りあう最中、有馬の刀が折れ素手で組み合っていると刺客の一人 道島五郎兵衛を壁に押し付け、橋口吉之丞に 「おいごと刺せ!」 と叫び壮絶な死を遂げている。
有馬新七享年38歳。文武両道の雄だったが、時代が変わる一足前に才能を発揮することもなく逝ってしまった。
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2008年04月20日
吉田松陰 賢者の楽しむ所は
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吉田松陰 今日の一言
『賢者の楽しむ所は』
賢者の楽しむ所は道のみ、好む所は善のみ。
勢位利禄、一つも心に入ることなし。
心ある立派な人が楽しむのは、人としての正しい道だけである。
また、好むのは、善だけである。権威や地位、利益、俸禄などは一つとして心にかかることはない。
2008年04月19日
吉田松陰 武士の恥を知らざること
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吉田松陰 今日の一言
『武士の恥を知らざること』
君子は徳義なきを恥、小人は名誉なきを恥ず。
君子は才能なきを恥、小人は官禄なきを恥ず。
小人の恥ずるところは外見なり。君子の恥ずるところは内実なり。
そもそも恥じの一字は本邦武士の常言にして、恥を知らざる程恥なるはなしなし。
武士の恥を知らざること今日に至り極まれり。
心ある立派な人は、人として踏み行うべき義理の心が足らないことを恥じ、つまらない人は名誉がないことを恥じる。君子は才能がないことを恥じ、小人は官位や俸禄がないことを恥じる。
小人が恥じるのは外見である。
君子の恥じるには心の内面である。だいたい恥という一字は我が国の武士が常に口にする言葉である。恥を知らないとほど恥ずかしいことはない。
その武士たる者が恥を知らないこと、今日ほどひどい状態は未だかつてない。



