2008年03月31日

吉田松陰 今日の一言 弥生

吉田松陰 今日の一言 弥生



 1日 『万巻の書を読むに非ざるよりは』
 2日 『女子を教戒せずんば』
 3日 『至誠神を感ず』
 4日 『自ら淬?して』
 5日 『道を楽しみ』
 6日 『志専らならずんば』
 7日 『心は公なり』
 8日 『学は人たる所以を学ぶなり』
 9日 『近き所を』
10日 『聖賢の貴ぶ所は』
11日 『境逆なる者は』
12日 『経書を読むの第一義は』
13日 『永久の良図を』
14日 『人を信ずるに失するとも』
15日 『浩然の気』
16日 『浩然の気』
17日 『事務を以って世上話となす者』
18日 『盛強を勉めずして』
19日 『君子は交わり絶ちて悪声を出さず』
20日 『心なり』
21日 『天を怨み人を咎むる所なし』
22日 『百人千人万人に傑出せん』
23日 『妄りに人の師となるべからず』
24日 
25日 『平日に議論して』
26日 『情の至極は』
27日 『己れを修め実を尽す』
28日 『深憂とすべきは』
29日 『恥の一字』
30日 『人の罪』
31日 『目にあり』

   
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はじめに志ありき 1,680 円
   
烈々たる日本人 879 円
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生存からの離脱ー吉田松陰 1,365 円
吉田松陰の予言 1,680 円  

2008年03月31日

篤姫 宮崎あおい 第13回

篤姫 宮崎あおい 第11回   『七夕の再会』 

徳川将軍家の御台所になるべく、篤姫は、まずは船で大坂に向かう。
荒い波にもまれ激しい船酔いに苦しむなかで、篤姫と幾島は、お互いの絆をさらに深めあっていく。

途中、京都の近衛忠熙に挨拶をし、そこで幾島は、家祥は公家の娘を正室にするという噂があると老女・村岡から聞き、大いに驚くのである。
ようやく江戸に着いた篤姫らは薩摩藩邸に入るが、島津斉彬の正室であり形式上は篤姫の母となった英姫と会えない日々が続く。
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さて、江戸城では、斉昭が、篤姫を大奥に入れることに反対を示し、老中・阿部正弘らを困らせていた。
一方、薩摩では、肝付尚五郎が江戸行きを志願するのだが、斉彬に選ばれ江戸へ向かうことになったのは西郷吉之助であった。
尚五郎は意気消沈するが、お近から、薩摩でしか出来ないことをすべきではないかと励まされる。

とうとう篤姫は、英姫との対面がかなう。しかし、英姫は、篤姫ごときが御台所になれるわけがなく、すべては斉彬の妄想だと冷たく言い放つのであった……。幾島は、事の真相を突き止めようと決意する。




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2008年03月31日

吉田松陰 目にあり

吉田松陰一日一言―魂を鼓舞する感奮語録吉田松陰一日一言―魂を鼓舞する感奮語録
(2006/12)
川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『目にあり』

人の精神は目にあり。
故に人を観るは目に於いてす


人の精神は目にあらわれる。
だから人を見るときは目を見るのだ。

目は口ほどにものを言うとはよく言ったもので、やはり気は目にあらわれるのものである。

眼力の鋭い人、目の輝きのある人はやはり迫力を感じるし、目が死んでる人はやはり何をやってもダメである。  

2008年03月30日

吉田松陰 人の罪

吉田松陰一日一言―魂を鼓舞する感奮語録吉田松陰一日一言―魂を鼓舞する感奮語録
(2006/12)
川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『人の罪』


成し難きものは事なり、失い易きものは機なり。
機来たり事を開きて成すは能わず、坐して之を失うものは人の罪なり



なし遂げることが難しいのは事業である。
失いやすいのは機会である。機会が来て、事業を始めても成し遂げることが出来ず、何もせずにこの機会を失ってしまうのは、人の罪である。  

2008年03月29日

瀕死の重傷 井上聞多

4カ国艦隊の彷徨が火を噴いて3日。
井上聞多があれほど開戦してはならないといっていたにもかかわらず、強行に外国との開戦に踏み切った長州藩。

京都では禁門の変にて大敗し、幕府は第1次長州征伐を発令。
このことにより長州は前面に幕府軍、背後の海からは外国艦隊と言う状態になっていた。

つい先日まで開戦を唱えていた者たちはここに来て「このままでは国が滅びてしまうから、和議をしよう。和議をして、幕府の征討軍にあたらなければならぬ」と外国艦隊との和議を主張し始める。

長州藩家老たちは井上に和議交渉をやるように求めます。
しかし、井上にしてみれば遠くイギリスから危機を聞きつけ帰ってきたのに、人の言うことも聞かずに開戦すれば、わずか3日経つか経たぬ間に和議をしろとは何事だと憤慨します。
当然のことです。
井上はこれに応じようとはしませんでしたが、世子 毛利定弘高杉晋作に諭されなんとか和議交渉に臨みます。

井上、伊藤俊輔らの甲斐もあり和平協定は結ばれ一先ずは安心です。

しかし井上達にはさらなる試練が待っていました。
背後の外国艦隊の脅威はなくなっても、幕府軍は着々と進んできます。
長州藩内では意見が2つに分かれていました。
幕府に対して恭順の意を表し、謝罪することによって毛利家の安泰をはかるという保守派(「俗論派」)と、外に対しては恭順を装いながら、藩内では武備を充実させて幕府軍の攻撃に備えるという武備恭順派(「正義派」)の二派が真っ向から対立していたのです。

井上は山口の政事堂で君前会議で尊王の素志を貫徹し藩の危急を救う道は「武備恭順」以外にないと激しく論駁し、ついに毛利敬親の採決を「武備恭順」に導いてしまいます。

その君前会議後、井上聞多が政事堂を退出したのは午後8時ごろ、家に向かう井上は数人の者に襲われます。
背中、腹など体中を斬りつけられて、全身傷だらけの重症です。
それでも井上は夢中で逃げて芋畑に身を隠し、敵の追跡を逃れ、近くの百姓家に助けを求めます。
おびただしい鮮血と泥にまみれた井上を、百姓は井上の兄・五郎三郎の家まで運びました。

井上聞多はもう虫の息でした。
これを見た兄は介錯をして楽にしてやろうとしますが、母がこれを諌め、とにかく医者を呼び出来るだけのことをしようと言い医者を呼ぶことにします。

この一大事に駆けつけたのは井上と親しい漢方医 所郁太郎でした。
所はすぐに焼酎で傷口を洗浄し、小さな畳張りを使って次々と傷口を縫合していきます。
手術が終わったのは夜も明けるころだったようです。

一命を取り留めた井上はしばらく養生と藩の監視下におかれることなります。
長州は再び俗論党が台頭していたからです。

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Posted by 左近将監 at 13:58Comments(0)TrackBack(0)井上聞多

2008年03月29日

吉田松陰 恥の一字

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(2006/12)
川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『恥の一字』


恥の一字を以って人を激励す。
恥の一字孟子喫緊の語、故に曰く「人以って恥じなかるべからず」、又曰く「恥の人に於けるや大なり」と。
 


恥という字をもって人を励まし、気持ちを引き立たせる。
「恥」という一字は、孟子が最も重要視した言葉である。だから「人は恥じるという心がなければならない」といい、また、「恥ということは、人にとって大変大切なものである」というのである。  

2008年03月28日

イギリス留学 井上聞多

長州の剛直児 井上聞多
黒田内閣で農商務大臣を務め、第二次伊藤博文内閣では内務大臣など、数々の要職を歴任した。従一位大勲位侯爵、元老。

長州藩士・井上五郎三郎光享の次男として、周防国湯田村に生まれ、幼名は勇吉、通称を聞多。
志道慎平の養嗣子となるも、のち井上家に復籍。

藩校・明倫館に入学し、次第に蘭学に興味を抱くようになる。江戸に出て岩屋玄蔵江川太郎左衛門に蘭学を学びぶようになると外国文化に興味を持つようになっていた。

1853年のペリーの浦賀来航以来、勃興した尊皇攘夷運動に共鳴し、攘夷実行には海軍興隆が不可欠との見解を藩に進言、聞き入れられ海軍学修行を命じられ、更にイギリス軍艦の買取交渉などにも当たりました。

1862年(文久2年)の江戸遊学中には高杉晋作久坂玄瑞らとともにイギリス公使館の焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践し、このときは火付け役を担当している。

基本的に井上は松下村塾生ではない。ただし、松陰の門下生と多くの交流を持ち、時勢の兼ね合いも合ったのだろう次第に攘夷運動に傾倒している。
そんな中、久坂から佐久間象山の武備充実論を聞かされると、たちまち洋行を志し、長州藩執政の周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願する。
長州藩もこれを承認し、井上聞多伊藤俊輔山尾庸三野村弥吉遠藤謹助ら5人とイギリスへ留学することになった。
このとき、井上は密航という犯禁の罪が養家先に及ぶ事を恐れ志道家を離別している。

こうして井上は5月12日、ガワー総領事の斡旋でジャーディン・マセソン社の船で横浜を出港し、上海に向かう。
上海についた伊藤らに「お前達は何のために洋行するのか?」と聞くと、「海軍を研究する」と言おうとして「ネイヴィー」とすべきところを間違って「ネビゲーション」の一言を発してしまった者がいたために、この言葉を「ナビゲーション=航海術」と理解され、ロンドンまでの旅程は、“航海術を学ぶ”ということと理解されていたので、水夫と同格の扱いで非常に困苦し、日本人を「ジャニー」と呼び軽蔑されていたと感じている。便所は船体から張り出した横木につかまって用をたす方式であったから、嵐の時には身体を縄で縛って危険から保護した。さらに伊藤は下痢で苦しんだため、「実にその困難の状は筆舌の能く尽す所でなかった」という。

なんとかイギリスに到着した井上達はイギリスにて国力の違い、文化の違いを目の当たりにし、このままでは日本は勝てないと判断すると、次第に考えを開国論に転じていきました。

そんなある日、井上の耳にとんでもない知らせが舞い込む。
長州藩の外国船砲撃事件に関し、4カ国が長州を攻撃すると言う知らせだった。
この知らせを受け井上と伊藤は直ちに帰国を決意する。

井上は「国家に対する憂いの思いは、国内に居る時よりも寧ろ海外に在る時が切実なのを覚えた。例えば藩主は今如何に憂慮して居られるだろうか、同志の士は如何に行動しつつあるか、或いは彼らは攘夷の為に戦死したのでは無かろうか、或いは敗戦の結果土地割譲の窮地に陥ったのでは無かろうかなど、、」と言っている。

こうして横浜に戻ってきた伊藤と井上はイギリス公使館に自分達が長州藩に帰って藩論を一変したいと説明し、停戦講和を願った。
英国公使は、他の3国も了解したから藩に帰って尽力して欲しいと、藩主あての公使からの書簡を手渡された。書簡に対する返答は到着から12日後となっていた。

急ぎ長州へ戻り、藩庁に赴くと 、「幾百艘の軍艦が来襲しても死力を尽くして防戦する」という藩の方針が決定しているということだった。
井上は伊藤とともに海外の情勢を説き攘夷が無謀なこと、開国の必要性を訴え、御前会議にて藩の重役達の前で西洋事情を話したが理解されず、西洋文明を説明しても「ホラを吹くにも程がある」と嘲笑される始末。
挙句の果てには攘夷論者からは命を狙われるなど意識のギャップに、井上と伊藤は隔靴掻痒の思いであった。

結局、井上聞多伊藤俊輔の奔走虚しく、8月4日4カ国艦隊の咆哮が一斉に火を噴くことになる。

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MONTA 聞多MONTA 聞多
(2001/08)
麻田 公輔

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Posted by 左近将監 at 16:41Comments(0)TrackBack(0)井上聞多

2008年03月28日

吉田松陰 深憂とすべきは

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(2006/12)
川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『深憂とすべきは』

深憂とすべきは人心の正しかざるなり。
いやしくも人心だに正しければ、百死以って国守る、その間勝敗利鈍ありと云えども、未だ俄かに国家を失うに至らず。


深く憂うべきは、人々の心が正しくないことである。
仮にも、心さえ正しければ、全ての人が命をなげうち、国を守るであろう。
とすれば、その間に勝ち負け、また、出来不出来があったとしても、決して急速に国家が滅亡することはない。
きれい事ばかりで心のない政治家がおおいから世間を惑わし、取り繕うような政治しか出来ないのでしょうね。
幕末の志士のような気概があれば、真心があればどんな非難にも耐え世の中を善に変えてくれるであろうに・・・・  

2008年03月27日

伊藤俊輔 偉大なる桂小五郎の復帰

長崎にて潜伏していた伊藤俊輔でしたが、同じく長崎にて逃亡していた高杉晋作がこのまま朽ち果てるよりは俗論派と戦って死んだほうがいい、と決意し兵を揚げます。
伊藤俊輔も高杉に賛同し、力士隊を率いて決起し高杉らが挙兵して守旧派政権を倒し、2月初旬には正義派政権が誕生したのです。

ちょうどその頃、広戸甚助なる者が伊藤と村田蔵六を訪ねてきます。
広戸は出石で潜伏している桂からの手紙を携えてやってきたのです。新政権が誕生し、意気揚々としていたときだけにこの知らせは何よりの励みになったのでしょう。
桂の居場所が分かったので長州の現状などを説き早急に戻ってきてくれるように催促するのです。

それと同時に高杉、伊藤、井上は馬関の開港論者として、清末、長府両支藩の藩士らの怒りを買い、つけ狙われおり、三人は身の危険を感じ高杉は大阪へ奔り、井上は豊後別府に遁れ、伊藤は対馬に逃れる途中で長府の刺客に狙われ、茶店の娘お梅に助けられながら馬関の町内を転々としていました。

1865年(慶応元年)禁門の変後、行方不明になっていた桂小五郎は長州に戻ってきました。
戻っては見たもののそこには高杉達の姿がありません。
桂は急ぎ藩の体制を整え、同志たちを呼び戻します。
伊藤は紅屋の土蔵に隠れ潜んでいたときに、桂の潜伏先から馬関に帰ってきたという吉報を知り、翌朝、さっそく桂に会いにいきました。

「小五郎の帰国は長州藩にとって、大旱に雲霓を望むがごとき有様だった」と伊藤俊輔は当時のことを振り返っているくらい長州は八方塞の状態だったのです。

桂を迎えた長州は改進します。
伊藤はまず長崎へ赴きグラバーから商船一隻、砲艦二隻を買付け、その船で下関に帰還。
第2次長州征伐を前にしていたこともあり、長州は武器を欲しがっていました。
そこに坂本龍馬、中岡慎太郎らが薩長同盟の話を持ってきます。
1藩だけの倒幕は成し得ないとしていた桂は苦渋の決断で同盟に応じます。

長州は薩摩から武器を貰い、長州からは兵糧を薩摩に送るという形で話はまとまり、伊藤は井上聞多と武器を受け取りに再び長崎に向かうのです。
長崎にて薩摩の小松帯刀らから援助を貰い薩摩汽船「胡蝶丸」でミニエー銃四千丁、ゲーベル銃三千丁を三田尻に届けるのでした。

その後も伊藤は長崎、下関を行き来し、武器調達や戦艦調達に奔走していく。

薩長同盟後は薩摩藩士たちとも行動を共にし、村田新八と上海に汽船二隻購入の契約しに行ったりなどしている。
実際の倒幕の最前線には赴いたのかどうかは分からないが、後方支援の物資調達などに尽力をしている。
常に桂、高杉といった大物の傍らにおり、その姿を見ながら色々学んでいったのだろう。


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2008年03月27日

吉田松陰 己れを修め実を尽す

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(2006/12)
川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『己れを修め実を尽す』

世間の毀誉は大抵其の実を得ざるものなり。
然るに謗を懼れ誉れを求むるの心あらば、心を用うる所皆外面にありて実事日に薄し。
故に君子の務めは己を修め実を尽すにあり。


世間が人を褒め、貶すことは大抵実態とはちがうものである。
それなのに、貶されることを恐れ、褒められたいとの気持ちがあれば、表面的なことばかりに心を遣うようになり、まごころを尽して生きようとの気持ちは日に日になくなっていく。
だから、心ある立派な人の努めは、自分の身を修め、真心を尽すことである。
ホントにそうですよね。
人は外面ばかりにとらわれて、肝心の真心を見失っている場合が多いです。
何をしても世間体を気にして、良心を生かせない。
回りを気にせずに良心の元に行動することが出来れば人はもっとになれるのだろう。  

2008年03月26日

吉田松陰 情の至極は

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(2006/12)
川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『情の至極は』

情の至極は理も亦至極せるものなり。 

情、心の極みは道理、人の行うべき正しい道の極みと一致するものである。
理性も感性も正しいと思う心は同じであり、人としてしてはいけないことはやはり同じなのである。

政治家達も詰まらぬ揚げ足ばかり摂り合っていないでいい加減政治をしたらどうなんでしょうかね。
傍から見ていたらただの権力争いにしか見えません。
とても国のためにしていることには思えないですね。


留魂の翼―憂国の吟遊詩人吉田松陰留魂の翼―憂国の吟遊詩人吉田松陰
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2008年03月26日

伊藤俊輔 志士の目覚め

松下村塾の門下生であり、初代内閣総理大臣の伊藤博文

周防国熊毛郡束荷村の農民・十蔵、琴子の長男として生まれ、幼名は利助、のち俊輔。
家は貧しく幼い頃より奉公に出る。


父が萩藩の中間水井武兵衛(後に伊藤直右衛門と改名)の養子となったことにより下級武士の身分を得ることになり、そのことで松下村塾で学ぶようになるのだ。
当然ながら松下村塾にて、久坂玄瑞高杉晋作入江九一吉田稔麿など多くの仲間と出会うことで尊皇攘夷運動に奔走することになる。

どういった経緯かは分からないが、桂小五郎と行動を共にするようになる。
1859年(安政6年)桂が江戸勤務を命じられると、桂は伊藤俊輔を共につれて江戸に赴くのである。
江戸に着いた伊藤を待っていたのはとても辛い師・吉田松陰の死でした。

安政の大獄により捕縛された吉田松陰は江戸に送られ10月29日斬首されます。
伊藤は桂と共に吉田松陰の遺体を引き取りに行き、千住回向院に埋葬します。
他の門下生同様に伊藤の心にも倒幕の意志が固まった瞬間でもありました。

1862年(文久2年)坂下門の変が起こり、これに失敗した水戸藩浪士の、川辺左治右衛門が長州藩邸にて自決したことにより、たまたまその場に居合わせた伊藤俊輔も幕府に拘束されることになりますが、幕府は桂のほうを重点的に調べ結局これといった因果関係が見つからないため為に釈放される。

桂と共に江戸から京へと向かった伊藤は今日にて久坂とともに公武合体論を主張する長州藩長井雅楽の暗殺を画策しますが失敗に終わり、このことで桂の義弟・来原良蔵が自決するという予想外のことがおきます。

伊藤は桂と良く行動を共にしていたので来原とも昵懇だったのでしょう。来原の遺骸を萩まで届けに行くのです。

その後また桂と共に江戸に戻って行くのですが、12月高杉晋作久坂玄瑞らとともにイギリス公使館焼き討ちに参加するのです。
慎重派の桂と行動派ともにはしていましたが、やはりそこは血気盛んな志士だったのでしょう高杉たちの過激な行動に惹かれて行きます。
12月21日、山尾庸三とともに、国学者・塙次郎加藤甲次郎を斬殺するという過激な行動をする。

翌1863年(文久3年)伊藤は同じ松下村塾の門下生・入江九一の妹を娶り、その後すぐに士分として取り立てられる。

5月には桂の後押しもあり、幕府に内密で藩からの許可も貰い、井上聞多遠藤謹助山尾庸三野村弥吉らと共にイギリスに留学の旅に出るのである。

イギリスにて文化の違いや国力の違いを痛感した伊藤俊輔は四国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上聞多とともに急ぎ帰国、山口政治堂に入り攘夷戦争の中止を懇願するのだ。

二人の説得も虚しく伊藤らを外国のスパイ扱いにして、二人を斬るべし、と激昂する者もいて、不穏な空気が藩内を満たしはじめていました。
こうした空気を一掃するため、6月30日、藩政府は改めて攘夷の布告を発して、決戦の覚悟します。

そのころ長州の主力部隊は京に向けて進軍しており萩には戦えるだけの戦力はありませんでした。
藩政府は伊藤、井上両名に4カ国との執り成しを頼みますが、そんな虫のいい話は4カ国も認めることはなく、京にいる桂に相談をしに向かっていた伊藤の下に品川弥二郎より長州軍が大敗し長州追討令が出された事が知らされます。

伊藤は急ぎ萩に戻ります。京において久坂、入江、吉田など主力の仲間がすべて戦死してしまったこと、頼みの桂も行方知れずになっていること等、すべてが暗転していました。
萩において頼みの綱は高杉晋作のみです。

8月4日、4カ国艦隊の砲撃が一斉に火を噴きます。
長州軍も応戦し頑張りますが、火力の差、兵力の差は埋めることが出来ません。
開戦まもなくして長州藩は和議を決意します。
このままでは長州藩が壊滅状態になってしまう危険もありました。

しかし藩内の攘夷派はそんな状況でも納得が出来ません。
和議を提案する伊藤、高杉の命を狙う者も出る始末だったため両名は雲隠れしてしまいます。

こうして伊藤俊輔は高杉と共に長崎に逃亡ししばらく身を隠すことになるのです。

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2008年03月25日

吉田松陰 平日に議論して

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川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『平日に議論して』

宜しく平日に議論して、時に臨みて誤ることなかれ。 

何もない平穏無事なときに議論しておくべきである。
いざという時に臨んで、判断を間違えることのないように。  

2008年03月24日

武市瑞山 三文字切り

土佐の多くの郷士に慕われた武市半平太土佐勤王党を結成する。
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結成した翌年、1862年(文久2年)武市は土佐藩主 山内豊範への進言を退け、公武合体派の土佐藩 参政の吉田東洋暗殺を計画する。

土佐における上士と郷士の身分差別はかなりひどく、多くの郷士達の恨みの矛先にもなっていたのかもしれないが、武市自身も藩政の中で虐げられたところもあったのではないだろうか。

実行犯に選ばれたのは土佐勤王党の、那須信吾大石団蔵安岡嘉助であった。
吉田東洋暗殺後、武市は東洋派重臣を要職からはずし、新たに要職に就いた守旧派を傀儡として藩政の実権を掌握していくことになる。

ついで藩主山内豊範を擁して入京し、他藩応接役として諸藩の有志と交わり、幕府に対して攘夷実行を命じる勅使を江戸に派遣するための朝廷工作に奔走する。

これらの動きが功を奏し、朝廷が攘夷の朝議を決した際、一橋慶喜がこれをくつがえそうと入京を画策したが、武市は、裏工作により、これを一時妨害することに成功している。
また、京における武市は数々の佐幕派暗殺を指示。
天誅、斬奸と称して、刺客を放ち、政敵を暗殺させていく。武市の下で岡田以蔵、薩摩藩の田中新兵衛が暗殺を繰り広げていき、土佐の吉田東洋の暗殺以後、暗殺のたびに自分自身の理想に近づいていくことに充実感もあったのではないだろうか。

攘夷督促の勅使三条実美姉小路公知の東下にあたっては、姉小路の雑掌となり、柳川左門と変名して10月に京都を出発した。
このころが武市瑞山土佐勤王党の最も華やかな活躍時代で、武市は年末に留守居組に列せられて上士格に進み、1863年(文久3年)京都留守居役となった。

しかし、そんな時代も長くは続かなかった。
1863年(文久3年)8月18日、会津藩と薩摩藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が中央政界で失脚すると事態は一転する。

勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握るようになる。
これは土佐藩でも同じように時勢に流されていく。公武合体派の前藩主で老公と呼ばれた山内容堂の影響力が再び増すこととなる。

土佐に帰国していた武市は、側近の平井収二郎間崎哲馬弘瀬健太が青蓮院宮の令旨を盾に藩政改革を断行しようとしたことを理由に捕縛され、切腹を命じられていく姿を見ながら時代の変化に苦悩する日々を費やしていく。

そんな武市だったが、遂には武市自身にも捕縛命令が下りる。
9月に逮捕、投獄され、獄中闘争のなか、まだ捕まっていない同志を思い、吉田東洋暗殺も否定し続けた。
岡田以蔵が捕まると、武市は岡田以蔵が京でのあるゆることを自白する前に毒殺しようとするが失敗し、これに対し以蔵が怒りすべてを自白していくことになる。

岡田以蔵の自白により武市瑞山の罪状はおおむね決定するが、それでも武市は東洋暗殺を否定していたが、1865年(慶応元年)閏5月11日「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹を命ぜられる。

切腹に際し、武市は三文字の切腹を成し遂げて、武士の気概を見せつけた。
享年36歳。
このことが土佐藩を薩摩、長州に遅れをとる要因となったことはいうまでもない。
維新後、山内容堂は武市を殺してしまったことを何度も悔き、後藤、板垣は妻・富子に対し、武市を切腹させたのは間違っていたと頭を下げたという。

辞世の句は
ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり

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『武市半平太―ある草莽の実像』批判―併せて我が国史壇批判『武市半平太―ある草莽の実像』批判―併せて我が国史壇批判
(2003/12)
横田 達雄

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Posted by 左近将監 at 11:57Comments(1)TrackBack(0)武市瑞山

2008年03月23日

吉田松陰 妄りに人の師となるべからず

吉田松陰一日一言―魂を鼓舞する感奮語録吉田松陰一日一言―魂を鼓舞する感奮語録
(2006/12)
川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『妄りに人の師となるべからず』


師道を興さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。
必ず真に教うべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし。
 


師道を興そうとするのであれば、簡単な気持ちで人の師になるべきではなく、人を師とするべきではない。
本当に教えるべきことがあって初めて師となり、また、本当に学ぶべきことがあっても初めて師とするべきである。  

2008年03月22日

吉田松陰 百人千人万人に傑出せん

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(2006/12)
川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『百人千人万人に傑出せん』

今、常人の通情を察するに、善を好み悪を憎むは固よりなれども、大抵十人並の人とならんと思う迄にて、百人千人万人に傑出せんと思う者更に少なし。 

今、一般の人々の気持ちを推測すると、善いことを好み悪事を憎むことは当然ではあるが、大抵人並みの人になれればいいと思っているだけである。
百人、千人、万人の中で、飛びぬけてすぐれた人物になろうと思っている人は、誠に少ない。  

2008年03月22日

土佐勤王党の盟主 武市瑞山

土佐勤王党の盟主 武市瑞山

通称は半平太、武市半平太である。

土佐国 武市家に生まれる。武市家はもともと土地の豪農であったが白札に昇格したことにより身分としては郷士だが、当主は上士に準ずるといったあつかいであった。

坂本龍馬とは遠縁にあたるようで、幼い頃より面識があったのではないだろうか。

文武に秀でていた半平太は郷士の間でも信頼と人望は厚く、1849年(嘉永2年)に土佐城下の新町で剣術道場を開くと、ウワサを聞きつけて門下生はあっという間に集まっていたと言う。
門下生の中には中岡慎太郎岡田以蔵等もおり、後の土佐勤王党の母体となっていく。

1856年(安政3年)武市半平太は江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に学ぶ。ここでも才能を発揮し塾頭となる。
江戸滞在中に桂小五郎久坂玄瑞高杉晋作など尊皇攘夷派の長州藩士とも交流することで、その考えと思想に影響を受けている。

1861年(文久元年)一藩勤皇を掲げて坂本龍馬吉村寅太郎中岡慎太郎らの同士を集めて、江戸にて土佐勤王党を結成する。

半平太の人生が大きく動き始めた瞬間である。

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武市半平太伝―月と影と武市半平太伝―月と影と
(1997/03)
松岡 司

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Posted by 左近将監 at 18:25Comments(0)TrackBack(0)武市瑞山

2008年03月21日

吉田松陰 天を怨み人を咎むる所なし

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(2006/12)
川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『天を怨み人を咎むる所なし』

己を処するは貧賤の極まり、艱難の甚だしきと言えども、雍々是れに処り、一も天を怨み人を尤むるところなし。

自分自身に対する際、どんなに貧乏で身分が低くても、また、どんなに辛い状況であろうとも、穏やかの態度でいる。
決して、天を怨んだり、人を咎めたりする、ということはない。  

2008年03月21日

頼三樹三郎 反逆の四天王

反逆の四天王」の一人、頼三樹三郎
頼三樹三郎も、池内大学梅田雲浜梁川星巌らとともに要注意人物として幕府に目を付けられて安政の大獄で捕らえられてしまう。

1825年(文政8年)有名な儒学者・頼山陽の三男として京都三本木に生まれる。

父 頼山陽の死後、しばらく父の弟子の児玉旗山の塾に通うが、旗山が没すると、1840年(天保11年)には大坂に行き後藤松陰の塾に寄寓し、かたわら篠崎小竹に学んだ。
大坂に居るときに篠崎小竹を通じて幕府高官の羽倉簡堂と知り合い、1843年(天保14年)羽倉が江戸に戻るとき三樹三郎も一緒に江戸に赴いている。

江戸においては昌平黌に入学し学んでいるが、このとき、徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の石灯篭を破壊するという事件を起こして退学処分とされている。

三樹三郎は、このときすでに尊皇運動に感化されており、幕府の朝廷に対する軽視政策に異議を唱えていたのだろう。
過激な行動はその後も続いていく。

その後1846年(弘化3年)には東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親友となった。

1849年に京都に戻り、再び勤王の志士として活動をしはじめる。

それでも、母が存命している間は母の注意もあって自重していたが、やがて母も死没すると、家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだいくのだ。

1853年()ペリーが浦賀に来航すると一気に尊皇攘夷運動が高まりの兆しを見せ始める。
こうなると、おとなしく家の塾を指導していられるような性格ではない三樹三郎は尊王の大儀を唱えて幕政の非を唱え続けていく。
父の旧友である梁川星厳梅田雲浜らとともに有志公卿の間に入説。

1858年(安政5年)将軍継嗣問題について、一橋派と結んではげしく幕政を攻撃、一橋慶喜擁立を求めて朝廷に働きかけたため、ときの大老 井伊直弼の安政の大獄により、いち早く梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と並ぶ危険人物の一人と見なされて捕縛される。

捕らえられた頼三樹三郎は江戸の福山藩邸において幽閉され、幕府の激しい詰問を受ける。
福山藩主の侍講・石川和助は、たまたま父・頼山陽の弟子であったため石川は三樹三郎の助命嘆願に走るのだが、それも虚しく1859年江戸小塚原刑場で斬首されてしまうのだ。

頼三樹三郎 享年35歳。

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コメント:大ヒットシングル「そばにいるね 青山テルマ feat.SoulJa」、デビューシングル「ONE WAY」他全13曲収録予定の1stアルバムのリリースが決定。


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Posted by 左近将監 at 14:26Comments(0)TrackBack(0)尊王論者

2008年03月20日

吉田松陰 心なり

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(2006/12)
川口 雅昭

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吉田松陰 今日の一言


『心なり』


俗論の見る所は形たちの上なり。
君子の論ずる所は心なり。


一般の人が見るのは形である。
心ある立派な人が見るのは心である。