2008年02月29日
吉田松陰 今日の一言 如月
吉田松陰 今日の一言 如月
1日 『人材を聚むるは』
2日 『武士の嗜み』
3日 『小夜深けて』
4日 『上に賢を好むの実あらば』
5日 『心は小ならんことを欲し』
6日 『仁義同根』
7日 『心に類す』
8日 『自ら四時あり』
9日 『自ら四時あり』
10日 『先ず一身一家より』
11日 『心を竭し』
12日 『己を正すの学』
13日 『終身忘れざるなり』
14日 『尽く書を信ぜば』
15日 『千古一道』
16日 『磊々落々』
17日 『苟免を止む』
18日 『俗輩と同じかるべからず』
19日 『誠の字の外』
20日 『道義をのみ』
21日 『十分の得意は』
22日 『失い易き者は』
23日 『無情却って』
24日 『往を以って』
25日 『昼夜となく勉むべし』
26日 『人物を棄遺せざるの要術』
27日 『行を研き名を立てんと欲する者は』
28日 『己に在りて』
29日 『蒼天なきに非ず』

松風の人 1,680 円
吉田松陰名語録 1,680 円
吉田松陰起つ 1,890 円
はじめに志ありき 1,680 円

烈々たる日本人 879 円
吉田松陰 2,310 円
生存からの離脱ー吉田松陰 1,365 円
吉田松陰の予言 1,680 円
1日 『人材を聚むるは』
2日 『武士の嗜み』
3日 『小夜深けて』
4日 『上に賢を好むの実あらば』
5日 『心は小ならんことを欲し』
6日 『仁義同根』
7日 『心に類す』
8日 『自ら四時あり』
9日 『自ら四時あり』
10日 『先ず一身一家より』
11日 『心を竭し』
12日 『己を正すの学』
13日 『終身忘れざるなり』
14日 『尽く書を信ぜば』
15日 『千古一道』
16日 『磊々落々』
17日 『苟免を止む』
18日 『俗輩と同じかるべからず』
19日 『誠の字の外』
20日 『道義をのみ』
21日 『十分の得意は』
22日 『失い易き者は』
23日 『無情却って』
24日 『往を以って』
25日 『昼夜となく勉むべし』
26日 『人物を棄遺せざるの要術』
27日 『行を研き名を立てんと欲する者は』
28日 『己に在りて』
29日 『蒼天なきに非ず』
松風の人 1,680 円
吉田松陰名語録 1,680 円
吉田松陰起つ 1,890 円
はじめに志ありき 1,680 円
烈々たる日本人 879 円
吉田松陰 2,310 円
生存からの離脱ー吉田松陰 1,365 円
吉田松陰の予言 1,680 円
2008年02月29日
桂小五郎を救え
坂下門の変で老中 安藤襲撃した水戸藩浪士。
この襲撃に間に合わなかった者がいました。
水戸藩浪士・川辺左治右衛門です。
川辺は義挙に遅れたことは自分の失態であり、同志にたいして申しわけなく、切腹の場を借りたいと桂小五郎を訪ねて来たのです。
桂も長州藩邸で水戸藩浪士に自害でもされたら、水戸と長州の繋がりまで疑われると思い必死に自害を諌めます。
しかし、結局、川辺は自決してしまうのです。
このこと下手に隠してあとで漏れたらことはさらに厄介になると小五郎も考え、長州藩として川辺の自決を正直に届け出ていました。そして桂とたまたまその場(自決したあと)にいた伊藤俊輔は北町奉行所に拘束されたのでした。
桂にとって幸いだったのは、川辺とはまったく面識がなかったことです。
よって桂は正直に全然知らない男と言いはります。
本当のことですから奉行所のほうもなす術が無く、一旦、桂と伊藤を開放します。
幕府も諦めてはいなく、執拗な取調べが続きます。長州藩政府も幕府を憚って桂の有備館用掛の職を免じて監禁するのです。
これに対して有備館生たちが怒りました。
木梨平之進、野村弥吉ら27人が連名で、桂小五郎の監禁を解くよう幕府に周旋せよと、脅迫まがいの嘆願書を藩政府に提出。
桂をこのまま死なせはしないという危機感だったのでしょう。
吉田松陰の件もあり、桂を死なせたら長州藩全体の恥辱であると館生一同が立ち上がり奉行所の襲撃も辞さない覚悟を示していたのです。
長井雅楽も桂の救出に乗り出します。
長井は「水戸の攘夷派を説得できる人物は桂小五郎しかいない」という久世大和守ら4人の老中を説きました。
幕閣たちは、長井の航海遠略策によって引き続き朝廷を懐柔したいことっもあり、長井の提案に耳を傾けます。
これによって桂と伊藤は譴責処分を受けただけですみました。
その後も時代は荒く激しく動いていきます。
寺田屋事件が起こり、薩摩藩の同士討ちが繰り広げられます。
同じ頃、京都の長州藩邸には久坂玄瑞、佐世八十郎など、松陰門下生を中心とする約100人が武装して待機していました。
しかし寺田屋の事件を知り久坂らはやがて長井雅楽暗殺を企てることになります。
そんな中、5月12日 桂は江戸から京都へと向かいます。
この襲撃に間に合わなかった者がいました。
水戸藩浪士・川辺左治右衛門です。
川辺は義挙に遅れたことは自分の失態であり、同志にたいして申しわけなく、切腹の場を借りたいと桂小五郎を訪ねて来たのです。
桂も長州藩邸で水戸藩浪士に自害でもされたら、水戸と長州の繋がりまで疑われると思い必死に自害を諌めます。
しかし、結局、川辺は自決してしまうのです。
このこと下手に隠してあとで漏れたらことはさらに厄介になると小五郎も考え、長州藩として川辺の自決を正直に届け出ていました。そして桂とたまたまその場(自決したあと)にいた伊藤俊輔は北町奉行所に拘束されたのでした。
桂にとって幸いだったのは、川辺とはまったく面識がなかったことです。
よって桂は正直に全然知らない男と言いはります。
本当のことですから奉行所のほうもなす術が無く、一旦、桂と伊藤を開放します。
幕府も諦めてはいなく、執拗な取調べが続きます。長州藩政府も幕府を憚って桂の有備館用掛の職を免じて監禁するのです。
これに対して有備館生たちが怒りました。
木梨平之進、野村弥吉ら27人が連名で、桂小五郎の監禁を解くよう幕府に周旋せよと、脅迫まがいの嘆願書を藩政府に提出。
桂をこのまま死なせはしないという危機感だったのでしょう。
吉田松陰の件もあり、桂を死なせたら長州藩全体の恥辱であると館生一同が立ち上がり奉行所の襲撃も辞さない覚悟を示していたのです。
長井雅楽も桂の救出に乗り出します。
長井は「水戸の攘夷派を説得できる人物は桂小五郎しかいない」という久世大和守ら4人の老中を説きました。
幕閣たちは、長井の航海遠略策によって引き続き朝廷を懐柔したいことっもあり、長井の提案に耳を傾けます。
これによって桂と伊藤は譴責処分を受けただけですみました。
その後も時代は荒く激しく動いていきます。
寺田屋事件が起こり、薩摩藩の同士討ちが繰り広げられます。
同じ頃、京都の長州藩邸には久坂玄瑞、佐世八十郎など、松陰門下生を中心とする約100人が武装して待機していました。
しかし寺田屋の事件を知り久坂らはやがて長井雅楽暗殺を企てることになります。
そんな中、5月12日 桂は江戸から京都へと向かいます。
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2008年02月29日
吉田松陰 蒼天なきに非ず
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吉田松陰 今日の一言
『蒼天なきに非ず』
黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず。
黄色い霧が天地四方を閉じ込める、といっても、その上には青空がないわけではない。
何らかの事情で志がすべて閉ざされても、天の神様がいないわけでもない。
だから諦めずに踏みとどまり、やりぬくことが大事です。
きっと報われるときが来るはずです。
2008年02月28日
桂小五郎 水戸藩浪士たちとの義
さて桜田門外の変にて井伊直弼という最大の障害を取り除いた志士たちは活動を活発化させます。
長州藩士 松島剛蔵は桂小五郎を訪ねて水戸藩士との提携の重要性を説きました。
松陰の志を継ぐためには、水戸藩と結ぶほかないと松島は言い、水戸藩の西丸帯刀と桂小五郎を会談させます。
西丸は、この機に乗じて有為の大藩が幕府を忠諌し、尾張、水戸、越前諸侯の謹慎を解き、政治を刷新しなければならない。
そこで役割が二つある。一方は桜田につぐ激発をやって天下を破り、もう一つは尊攘の大義を打ち立てて、天下のことを成す。と説き桂に対して、「破ると成すと、貴殿の所存ではいずれが難きか」と聞きます。
桂は「破るは難い」と答え、これに対し西丸は「しからば我等が、その難きをとる」と。
「丙辰丸の盟約」の締結です。
これにより桂は倒幕の第1歩を歩み始めたのです。
水戸藩士たちとの密約について、小五郎はまだ久坂にも高杉にも話していませんでした。
桂はまず、藩の重臣たちを説き雄藩連合を拡大していき、無駄な犠牲者を出さないようにしたいと考えていました。
そのために、長州の周布政之助、長井雅楽を説得しなければなりませんでした。
周布政之助は帰藩した松島剛蔵が説得し盟約の受諾をしました。
しかし、長井雅楽はロシア、イギリスがこぞって日本上陸をしようとしている現実をみて「航海遠略策」を唱えます。
この策に藩も賛同し長井雅楽は朝廷と幕府のあいだを周旋する任務を与えられるのです。
おどろいた桂は、なんとかして「航海遠略策」を撤回させねばならぬと水戸藩の美濃部又五郎と長井とを対面させようとしたのです。
同じ頃久坂玄瑞も長井雅楽の「航海遠略策」に反対しており、江戸に着いた長井をつかまえ延々と議論を重ねていました。
桂の努力の甲斐もあり長州藩直目付・長井雅楽と水戸藩側用人・美濃部又五郎との会見が、小五郎の手引きで実現したのです。桜田藩邸での2人の会見には周布政之助も同席しました。
会見後、長井は京に向かいます。
残った周布政之助はその後も水戸藩士らと会談を繰り返し周布はすでに小五郎らの意見に賛同し、水長の密約を支援する決意を固めていました。
同じ頃和宮の降嫁が10月に内定されたという情報が伝わると、まず久坂玄瑞が行動を起します。
そのときには高杉晋作も東北遊学から戻り江戸に来ていました。
久坂は「要駕策」を行おうとしていたのです。
桂はこの過激の動きをいち早く察知していました。
なにしろ高杉が来ればなにかが起る、久坂と晋作が二人そろったのです。
桂は先ず晋作を切り離します。
幕府の上海航行の計画があり、晋作をこれに乗せることにするのです。
かねてより海外渡航を希望していた晋作はこれに賛同し「要駕策」から手を引きます。
晋作が抜けても、久坂玄瑞はまだ諦め切れませんでした。
周布の家にて何度も議論するのです。
結局、久坂に周布が折れ、久坂と一緒に伏見で藩主の行列を待ち受けることにしました。
2人の計画は結果的に失敗に終わります。
無断で江戸を離れたことを咎められて、2人とも帰国させられるのです。
水戸藩士たちも、血気に逸っていました。
老中 安藤信正を襲撃計画を実行しようとしていました。
「丙辰丸の盟約」によって同盟はしているにしても正式なものではないし、周布、久坂が萩にて謹慎中、長井も江戸に戻ってきているので、桂は時期尚早とし水戸の西丸帯刀に計画の延長を申し入れました。
しかし水戸藩も追い詰められており、計画は予定通り行うことでした。
1862年(文久2年)1月15日 朝、坂下門にて水戸浪士たち6人は襲撃をします。
安藤を背中から刺したものの致命傷にはならず、襲撃は失敗に終わります。
水戸浪士たちは尽く討死にします。
安藤は一命は取り留めたものの幕政から失脚、その姿を消します。
桂にも幕府からの疑いの目は向けられました。
以前より水戸藩士たちが出入りしていることは幕府にも知れており、目を付けられていたのです。
桂は奉行所に呼び出され尋問されるのです。
このあと桂と長州藩士たちの厚き人情が発揮されるのです。
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販売価格:2,992円 (税込)
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華やいだ香り。瓶を開けた瞬間から感じることが出来ます。そして口に含みますと、とにかく芳醇な味わいなのですが、大変口当たりが綺麗です。
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やさしく気品ある香りが楽しめます、黄麹らしいややフルーティーな雰囲気を感じさせます。
口に含みますと丁寧な仕込を実感させるように、本当に柔らかな口当たりです、その後口の中に香りと一緒にふんわりとした甘みを感じることができます。
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長州藩士 松島剛蔵は桂小五郎を訪ねて水戸藩士との提携の重要性を説きました。
松陰の志を継ぐためには、水戸藩と結ぶほかないと松島は言い、水戸藩の西丸帯刀と桂小五郎を会談させます。
西丸は、この機に乗じて有為の大藩が幕府を忠諌し、尾張、水戸、越前諸侯の謹慎を解き、政治を刷新しなければならない。
そこで役割が二つある。一方は桜田につぐ激発をやって天下を破り、もう一つは尊攘の大義を打ち立てて、天下のことを成す。と説き桂に対して、「破ると成すと、貴殿の所存ではいずれが難きか」と聞きます。
桂は「破るは難い」と答え、これに対し西丸は「しからば我等が、その難きをとる」と。
「丙辰丸の盟約」の締結です。
これにより桂は倒幕の第1歩を歩み始めたのです。
水戸藩士たちとの密約について、小五郎はまだ久坂にも高杉にも話していませんでした。
桂はまず、藩の重臣たちを説き雄藩連合を拡大していき、無駄な犠牲者を出さないようにしたいと考えていました。
そのために、長州の周布政之助、長井雅楽を説得しなければなりませんでした。
周布政之助は帰藩した松島剛蔵が説得し盟約の受諾をしました。
しかし、長井雅楽はロシア、イギリスがこぞって日本上陸をしようとしている現実をみて「航海遠略策」を唱えます。
この策に藩も賛同し長井雅楽は朝廷と幕府のあいだを周旋する任務を与えられるのです。
おどろいた桂は、なんとかして「航海遠略策」を撤回させねばならぬと水戸藩の美濃部又五郎と長井とを対面させようとしたのです。
同じ頃久坂玄瑞も長井雅楽の「航海遠略策」に反対しており、江戸に着いた長井をつかまえ延々と議論を重ねていました。
桂の努力の甲斐もあり長州藩直目付・長井雅楽と水戸藩側用人・美濃部又五郎との会見が、小五郎の手引きで実現したのです。桜田藩邸での2人の会見には周布政之助も同席しました。
会見後、長井は京に向かいます。
残った周布政之助はその後も水戸藩士らと会談を繰り返し周布はすでに小五郎らの意見に賛同し、水長の密約を支援する決意を固めていました。
同じ頃和宮の降嫁が10月に内定されたという情報が伝わると、まず久坂玄瑞が行動を起します。
そのときには高杉晋作も東北遊学から戻り江戸に来ていました。
久坂は「要駕策」を行おうとしていたのです。
桂はこの過激の動きをいち早く察知していました。
なにしろ高杉が来ればなにかが起る、久坂と晋作が二人そろったのです。
桂は先ず晋作を切り離します。
幕府の上海航行の計画があり、晋作をこれに乗せることにするのです。
かねてより海外渡航を希望していた晋作はこれに賛同し「要駕策」から手を引きます。
晋作が抜けても、久坂玄瑞はまだ諦め切れませんでした。
周布の家にて何度も議論するのです。
結局、久坂に周布が折れ、久坂と一緒に伏見で藩主の行列を待ち受けることにしました。
2人の計画は結果的に失敗に終わります。
無断で江戸を離れたことを咎められて、2人とも帰国させられるのです。
水戸藩士たちも、血気に逸っていました。
老中 安藤信正を襲撃計画を実行しようとしていました。
「丙辰丸の盟約」によって同盟はしているにしても正式なものではないし、周布、久坂が萩にて謹慎中、長井も江戸に戻ってきているので、桂は時期尚早とし水戸の西丸帯刀に計画の延長を申し入れました。
しかし水戸藩も追い詰められており、計画は予定通り行うことでした。
1862年(文久2年)1月15日 朝、坂下門にて水戸浪士たち6人は襲撃をします。
安藤を背中から刺したものの致命傷にはならず、襲撃は失敗に終わります。
水戸浪士たちは尽く討死にします。
安藤は一命は取り留めたものの幕政から失脚、その姿を消します。
桂にも幕府からの疑いの目は向けられました。
以前より水戸藩士たちが出入りしていることは幕府にも知れており、目を付けられていたのです。
桂は奉行所に呼び出され尋問されるのです。
このあと桂と長州藩士たちの厚き人情が発揮されるのです。
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華やいだ香り。瓶を開けた瞬間から感じることが出来ます。そして口に含みますと、とにかく芳醇な味わいなのですが、大変口当たりが綺麗です。
天璋院 篤姫(あつひめ) 芋焼酎 25度1800ml

販売価格:2,730円 (税込)
やさしく気品ある香りが楽しめます、黄麹らしいややフルーティーな雰囲気を感じさせます。
口に含みますと丁寧な仕込を実感させるように、本当に柔らかな口当たりです、その後口の中に香りと一緒にふんわりとした甘みを感じることができます。
天誅 いも 米焼酎 25度 1800ml

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魔王の姉妹品です。
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2008年02月28日
吉田松陰 己に在りて
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吉田松陰 今日の一言
『己に在りて』
憂楽の変は己に在りて、物にあらんや。
憂えたり、楽しんだり、ということの原因は自分にあるのであって物にあるのではない。
そうなんです、どんなことでも自分の心しだいでは愉しくもなり、詰まらなくもなる。
ようは心なんです!
2008年02月27日
桂小五郎の決意
幕府によって捕らえられた吉田松陰は投獄される。(当然ですね・・・)
桂小五郎は松陰のために金子などを使い守衛や役人を買収し、松陰を解放させようと試みるが、事が事だけに不可能であった。
結局、松陰は萩にて蟄居の命が下る。
(ペリーや老中 阿部正弘の配慮があったと言われる)
その間にも桂は貪欲に知識を吸収していく。
下田奉行、中島三郎助から造船術を学び、戸田浦の船大工、高橋伝蔵を訪問したりとしていた。
1858年8月には桂は江戸藩邸の大検使役に任命されました。
簡単にいうと財務主任です。毎年銀250匁の機密費が支給され、通例では検使を務めてからこの役につきます。
これには松陰が周布政之助や直目付の清水図書に桂を熱心に推薦したことから異例の抜擢となったようです。
そのほかにも、この時期に松陰の推薦により多くの門下生が江戸、京都になどに派遣されていきます。
身動きが取れない自分の代わりに門下生たちが様々な情報とうをもたらしたのです。
しかし、1859年安政の大獄が起こります。
これにより、幕府より吉田松陰の護送命令が出るのです。松陰は萩から江戸に護送されるのだ。
そのころには桂は松陰の後押しもあり、長州藩においてかなりの立場になってきていた。
10月11日、藩命により桂は伊藤俊輔を連れて江戸に入っている。
入れ替わりで藩命にて江戸から萩へと高杉晋作が下るのだが、晋作は萩に下る前に、桂と会談している。おそらくは松陰のことについての話し合いだっただろう。
そうして晋作が萩へと戻っていく中、10月29日、吉田松陰は処刑される。
桂小五郎は伊藤俊輔と共に松陰の遺体を引き取りに行き、千住回向院に埋葬するのである。
この松陰の処刑は多くの長州藩志士の心に火をつけてしまった。
桂はその年一人の人物と出会っています。それは村田蔵六。
長州出身の医者で幕府講武所の教授を勤めていました。
桂は村田蔵六との交誼を深め、松陰の死後、桂は村田蔵六と共に長州を洋式軍術に変更していくのです。
1860年3月3日、「桜田門外の変」がおきます。
大老 井伊が暗殺されたことを尊攘志士たちは喜んだことはいうまでもありません。
桂もめずらしく興奮し、快挙であるといって事変を喜んでいます。
これにより、ひとまずは松陰の仇討ちはできました。
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桂小五郎は松陰のために金子などを使い守衛や役人を買収し、松陰を解放させようと試みるが、事が事だけに不可能であった。
結局、松陰は萩にて蟄居の命が下る。
(ペリーや老中 阿部正弘の配慮があったと言われる)
その間にも桂は貪欲に知識を吸収していく。
下田奉行、中島三郎助から造船術を学び、戸田浦の船大工、高橋伝蔵を訪問したりとしていた。
1858年8月には桂は江戸藩邸の大検使役に任命されました。
簡単にいうと財務主任です。毎年銀250匁の機密費が支給され、通例では検使を務めてからこの役につきます。
これには松陰が周布政之助や直目付の清水図書に桂を熱心に推薦したことから異例の抜擢となったようです。
そのほかにも、この時期に松陰の推薦により多くの門下生が江戸、京都になどに派遣されていきます。
身動きが取れない自分の代わりに門下生たちが様々な情報とうをもたらしたのです。
しかし、1859年安政の大獄が起こります。
これにより、幕府より吉田松陰の護送命令が出るのです。松陰は萩から江戸に護送されるのだ。
そのころには桂は松陰の後押しもあり、長州藩においてかなりの立場になってきていた。
10月11日、藩命により桂は伊藤俊輔を連れて江戸に入っている。
入れ替わりで藩命にて江戸から萩へと高杉晋作が下るのだが、晋作は萩に下る前に、桂と会談している。おそらくは松陰のことについての話し合いだっただろう。
そうして晋作が萩へと戻っていく中、10月29日、吉田松陰は処刑される。
桂小五郎は伊藤俊輔と共に松陰の遺体を引き取りに行き、千住回向院に埋葬するのである。
この松陰の処刑は多くの長州藩志士の心に火をつけてしまった。
桂はその年一人の人物と出会っています。それは村田蔵六。
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桂は村田蔵六との交誼を深め、松陰の死後、桂は村田蔵六と共に長州を洋式軍術に変更していくのです。
1860年3月3日、「桜田門外の変」がおきます。
大老 井伊が暗殺されたことを尊攘志士たちは喜んだことはいうまでもありません。
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2008年02月27日
吉田松陰 行を研き名を
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吉田松陰 今日の一言
『行を研き名を立てんと欲する者は』
古に曰く「閭巷の人、行を研き名を立てんと欲する者は、青雲の士に附するに非ずんば、悪んぞ能く後世に施さんや」と。
昔はこのようにいった。
「一般の人で行いをみがき、名を立てようと望む者は、立派な志のある人に付かなければ、どうして後世に名を残すような人物になれようか。なれはしない」と。
2008年02月26日
桂小五郎と吉田松陰
桂小五郎は実は松下村塾の門弟ではなかったことは先日も書いた。
桂は、17歳のときに藩校明倫館で山鹿流兵学教授であった吉田松陰と出逢っている。
松陰も3歳年下の桂の器量に対して見るところのある人物と評し懇意を深めているのは事実であり、藩校の先生と生徒と言う間柄でもあったので門弟になる。
吉田松陰は藩に内密で東北遊学した罪により、藩士の身分を剥奪されていました。
しかし藩主 毛利敬親は松陰の才を惜しみ、10年間の諸国遊学の許可を松陰に与えていました。
そんなわけで吉田松陰は江戸に来ていました。ですが、士籍がない松陰は藩邸におおっぴらに行くことができません。そこで小五郎に藩邸の様子を窺うように頼んだのです。
長州藩邸も松陰から学問を学びたいという藩士らがいて、出入も自由にできることになるのです。
そんな折のペリー艦隊の来航でした。
幕府は来春のペリー再来に備えて、品川台場の建設を決定、桂の師・斉藤弥九郎は兵学上師として現場に赴く事があったのでこれに同行すること頼むのです。
弥九郎は桂を自分の弁当持ちに化けさ同行させるのです。
桂は弥九郎をとおして江川太郎左衛門と知り合い、海岸の測量法や砲台について学ぶことになりました。
桂は正式に江川塾に入門します。
ここで山野の戦法、海岸、船上の砲術など西洋銃陣を学んでいく。
そんなある日桂に松陰から話があるので来て欲しいという依頼が来る。
用件は別れでした。
このとき長崎にはロシア艦隊が来ており、松陰もその情報は入っていた。
「外夷に抗するためには外夷のことを知らねばならない」
そう考えていた松陰は長崎に行くことを決めるのです。
「密航するしかない」松陰はそう考えていたのです。
幕吏に密航と気づかれて捕まってしまうか、もし外国船に乗り込めたとしても、無事日本に戻ってこられる保証はありません。
師とも弟子とも最後の別れになるかもしれない。そう思ったら
松陰は最後に桂に会いたかったのでしょう。
しかし桂は姿を現しませんでした。
藩命によって大森・羽田の海岸調査に出向いていたのです。
松陰は「圭木(桂のこと)を待ちしも至らず、悵然たることこれを久しうし、決然袂を振って去る」と言って長崎へ旅たちます。
そんな決意の元長崎へと向かう松陰ですが、ロシア艦隊は松陰が長崎に来る前に出航してしまいます。
仕方なく松陰は江戸へ戻っていくのです。
そんな松陰の考え方は桂にも受け疲れており、来原良蔵と共に藩庁に堂々と渡航願いを提出したのです。外国を自分の目で見て、直接の情報を得たいそう考えていました。
ビックリしたのは長州藩庁です。
このことが公になればとんでもないことになります。
事態を有耶無耶にして揉み消します。
そうこうしていると1854年ペリーは再び来航してきます。
これを聞きつけた吉田松陰は米艦乗込みを決行します。
事態を聞かされた桂は松陰に一緒に連れって行ってもらうことを願い出ますが
「藩士である君が密航などしたら大変なことになる」と説き伏せられ断念しています。
結局密航は失敗に終わり、松陰は捕縛されるのでした。
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現在大変な人気になっておりまして品薄状態が続いております。 当店への入荷は、数ヶ月に一度になりますので入荷次第、メルマガにてお知らせいたしております。大変申し訳ございませんが、ご予約や入荷時期のお問合せなどは、承っておりません。(個別にご連絡なども一切お断りしております。)販売方法に関しましては、入荷の度に検討しております。より多くの皆様に平等にご購入していただけるように、抽選販売・セット販売・先着順販売・・・などにて販売しております。次回の入荷まで、今しばらくお待ちください 白玉酒造謹製 25度 1800ml 芋焼酎

百秀は白麹仕込みに添え麹を使用することにより、いも焼酎本来の旨みを引き出しつつも、いも焼酎独特の香りを和らげていますので、いも焼酎の香りが苦手な方から、長年いも焼酎を飲み続けてある方まで納得できる焼酎だと思います。 飲み方は、水割り・湯割りどちらも満足しました。。 大正9年、十数名の有志により創業を開始した日当山醸造さん。創業よりの製造技術、貯蔵管理の技が杜氏に引き継がれています。特選された米麹とさつまいもを主原料とし、大自然の霧島山系より湧き出る清麗な湧水を使用、醸造、麹造りからもろみの発酵・蒸留・熟成と美味しい焼酎造りに十分な時間と真心を注ぎ、本格焼酎の旨さを追求しています。
桂は、17歳のときに藩校明倫館で山鹿流兵学教授であった吉田松陰と出逢っている。
松陰も3歳年下の桂の器量に対して見るところのある人物と評し懇意を深めているのは事実であり、藩校の先生と生徒と言う間柄でもあったので門弟になる。
吉田松陰は藩に内密で東北遊学した罪により、藩士の身分を剥奪されていました。
しかし藩主 毛利敬親は松陰の才を惜しみ、10年間の諸国遊学の許可を松陰に与えていました。
そんなわけで吉田松陰は江戸に来ていました。ですが、士籍がない松陰は藩邸におおっぴらに行くことができません。そこで小五郎に藩邸の様子を窺うように頼んだのです。
長州藩邸も松陰から学問を学びたいという藩士らがいて、出入も自由にできることになるのです。
そんな折のペリー艦隊の来航でした。
幕府は来春のペリー再来に備えて、品川台場の建設を決定、桂の師・斉藤弥九郎は兵学上師として現場に赴く事があったのでこれに同行すること頼むのです。
弥九郎は桂を自分の弁当持ちに化けさ同行させるのです。
桂は弥九郎をとおして江川太郎左衛門と知り合い、海岸の測量法や砲台について学ぶことになりました。
桂は正式に江川塾に入門します。
ここで山野の戦法、海岸、船上の砲術など西洋銃陣を学んでいく。
そんなある日桂に松陰から話があるので来て欲しいという依頼が来る。
用件は別れでした。
このとき長崎にはロシア艦隊が来ており、松陰もその情報は入っていた。
「外夷に抗するためには外夷のことを知らねばならない」
そう考えていた松陰は長崎に行くことを決めるのです。
「密航するしかない」松陰はそう考えていたのです。
幕吏に密航と気づかれて捕まってしまうか、もし外国船に乗り込めたとしても、無事日本に戻ってこられる保証はありません。
師とも弟子とも最後の別れになるかもしれない。そう思ったら
松陰は最後に桂に会いたかったのでしょう。
しかし桂は姿を現しませんでした。
藩命によって大森・羽田の海岸調査に出向いていたのです。
松陰は「圭木(桂のこと)を待ちしも至らず、悵然たることこれを久しうし、決然袂を振って去る」と言って長崎へ旅たちます。
そんな決意の元長崎へと向かう松陰ですが、ロシア艦隊は松陰が長崎に来る前に出航してしまいます。
仕方なく松陰は江戸へ戻っていくのです。
そんな松陰の考え方は桂にも受け疲れており、来原良蔵と共に藩庁に堂々と渡航願いを提出したのです。外国を自分の目で見て、直接の情報を得たいそう考えていました。
ビックリしたのは長州藩庁です。
このことが公になればとんでもないことになります。
事態を有耶無耶にして揉み消します。
そうこうしていると1854年ペリーは再び来航してきます。
これを聞きつけた吉田松陰は米艦乗込みを決行します。
事態を聞かされた桂は松陰に一緒に連れって行ってもらうことを願い出ますが
「藩士である君が密航などしたら大変なことになる」と説き伏せられ断念しています。
結局密航は失敗に終わり、松陰は捕縛されるのでした。
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2008年02月26日
吉田松陰 人物を棄遺せざる
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吉田松陰 今日の一言
『人物を棄遺せざるの要術』
人賢愚ありと雖も、各々一二の才能なきはなし、湊合して大成する時は必ず全備する所なり。
人物を棄遺せざるの要術、是れより外復たあることなし。
人には賢い人、愚かな人がいるが、それぞれに一つや二つの才能がない人はいない。
それらを総合してまとめれば必ず完璧に近い人物多なるであろう。
これは実際に私が(松陰)人を教えてきて経験してきたものである。
絶対に人を見捨てないという大切な手段はこれより他にない。
2008年02月25日
吉田松陰 昼夜となく
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吉田松陰 今日の一言
『昼夜となく勉むべし』
「声聞情に過ぎるは、君子之を恥ず」と。
是れ実行実徳なくして虚声虚聞ある者は、或いは一人を惑わし、一時を眩ますべけれども、終には天下後世の公論を免れざることなれば、君子は行を積み徳を累ねることを、源泉の如くに昼夜となく勤むべしとなり。
「評判が実態より高ければ、立派な心ある人はこれを恥じる」という。
実際の立派な行動や人徳が無いのにそれ以上の名声や評判がある者は、1人の人間を惑わしたり、一時的にごまかすことはできよう。
しかし、結局は世間や後世の人の公平な批評は逃れることは出来ない。
とすれば、立派な心ある人は、源泉から絶えず流れ出る水の如く、一瞬たりとも怠らず、行いを正しく、人としての徳を積み重ねる努力をしなければならない、と言う意味である。
その場限りのごまかしは効かないということでしょう。
必ず後々に、ちゃんとした審判が下されます。
日々精進、日々努力これが必要なんです!
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2008年02月25日
篤姫 宮崎あおい 第8回
篤姫 宮崎あおい 第8回 『お姫様教育』
鶴丸城に入った於一は、堅苦しい城のしきたりに馴染むことが出来ない。
そのうちに奥女中たちには分家の娘と侮られ、辛い日々が続き、於一も投げやりな態度を示すようになる。
少しづつ気落ちし、元気が無くなっていくのである。
1853年ペリーが浦賀に来航してきた。
老中阿部正弘は苦悩する。島津斉彬も国力や軍備の増強を図ろうとする一方で、京都の近衛忠熙にある依頼をする。

そのころ気落ちしていた於一に手紙が届く。
焼き捨てたはずの菊本の於一宛の遺書であった。於一の栄達を願う菊本の言葉に、於一は心を改めようと決意するのであった。
そこに、近衛家から、於一の指南係として諸芸百般に通じる幾島がやってくるのである。



鶴丸城に入った於一は、堅苦しい城のしきたりに馴染むことが出来ない。
そのうちに奥女中たちには分家の娘と侮られ、辛い日々が続き、於一も投げやりな態度を示すようになる。
少しづつ気落ちし、元気が無くなっていくのである。
1853年ペリーが浦賀に来航してきた。
老中阿部正弘は苦悩する。島津斉彬も国力や軍備の増強を図ろうとする一方で、京都の近衛忠熙にある依頼をする。

そのころ気落ちしていた於一に手紙が届く。
焼き捨てたはずの菊本の於一宛の遺書であった。於一の栄達を願う菊本の言葉に、於一は心を改めようと決意するのであった。
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2008年02月24日
若き 桂小五郎
西郷隆盛、大久保利通とともに、維新の三傑として並び称せられる桂小五郎。
1833年8月11日萩藩医 和田昌景の長男として生まれている。
この和田家は毛利元就の七男毛利元政の血を引くという名家であった。
桂小五郎は長男であったが、病弱で長生きしないと思われていたため、長姉に婿養子文讓が入り跡をとっていたために、七歳で向かいの桂家の末期養子となり長州藩の大組士という武士の身分と秩禄を得ることとなる。
10歳に時に岡本権九郎が城下で開いた向南塾にて学び、14歳の時には藩校、明倫館に入学している。
17歳のときに藩校明倫館で山鹿流兵学教授であった吉田松陰と出逢い、師事してはいるが、桂小五郎はいわゆる私塾・松下村塾の門下生ではなかった。

嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を藩に許可され斎藤弥九郎に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門一年で練兵館塾頭となる。
藩命で帰国するまで5年間、練兵館の塾頭を務め、その間、剣豪の名を天下に轟かせることになる。
ここで北辰一刀流の坂本龍馬と試合をしたと言う記録も残っている。
1854年 ペリーが再度浦賀に来航する。桂はすぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など天領五カ国の代官である江川太郎左衛門に実地見学を申し入れ、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞する。
艦隊を見学した桂は刺激を受け、松陰の「下田踏海」に際しては自ら積極的に協力を申し出るが、松陰から堅く制止され、結果的には幕府からの処罰を免れることができた。
桂の要望を断りながら、松陰は「下田踏海」に踏み切る、結果幕府に捕縛され萩へ送られることとなる。
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1833年8月11日萩藩医 和田昌景の長男として生まれている。
この和田家は毛利元就の七男毛利元政の血を引くという名家であった。
桂小五郎は長男であったが、病弱で長生きしないと思われていたため、長姉に婿養子文讓が入り跡をとっていたために、七歳で向かいの桂家の末期養子となり長州藩の大組士という武士の身分と秩禄を得ることとなる。
10歳に時に岡本権九郎が城下で開いた向南塾にて学び、14歳の時には藩校、明倫館に入学している。
17歳のときに藩校明倫館で山鹿流兵学教授であった吉田松陰と出逢い、師事してはいるが、桂小五郎はいわゆる私塾・松下村塾の門下生ではなかった。

嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を藩に許可され斎藤弥九郎に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門一年で練兵館塾頭となる。
藩命で帰国するまで5年間、練兵館の塾頭を務め、その間、剣豪の名を天下に轟かせることになる。
ここで北辰一刀流の坂本龍馬と試合をしたと言う記録も残っている。
1854年 ペリーが再度浦賀に来航する。桂はすぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など天領五カ国の代官である江川太郎左衛門に実地見学を申し入れ、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞する。
艦隊を見学した桂は刺激を受け、松陰の「下田踏海」に際しては自ら積極的に協力を申し出るが、松陰から堅く制止され、結果的には幕府からの処罰を免れることができた。
桂の要望を断りながら、松陰は「下田踏海」に踏み切る、結果幕府に捕縛され萩へ送られることとなる。
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2008年02月24日
吉田松陰 往を以って
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吉田松陰 今日の一言
『往を以って』
物固より一を以って百を知るべく往を以って来を知るべきものあり。
物事には、一を知って、百を理解すべきことがあり、また、過去のことから未来を予測すべきものがある。
過去の教訓は生かさねばならず、失敗を失敗のままに終わらせないためには、それが必要である。
また一を聞いて一しか理解できないようでは成長は無く、一つのことから多くを学ぶ姿勢が大事なのでしょうね。
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2008年02月23日
近江屋襲撃 中岡慎太郎逝く
中岡慎太郎は陸援隊を組織する一方、大政奉還に向かう龍馬と幾度も話をしていたのだろう。
この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。
中岡慎太郎は岩倉具視と三条実美と提携させ組織的にも倒幕へ向けてすすめていく。
しかし、龍馬も中岡もこのころには京都ではかなり目を付けられる存在になっており、元新撰組の伊東甲子太郎が「新撰組が狙っているから気を付けろ」と忠告をしに来ている。
見廻り組、新撰組、紀州藩士、京都は龍馬、中岡にとっては最も危険な場所になっていた。
そんな中、あの悲劇は起きる。
1867年11月15日、中岡は、新撰組につかまっている土佐の同士が釈放され、その身柄の引き取りについて京都河原町に下宿している谷守部を訪れに行きました。しかし、谷が不在だったため、近くの龍馬を訪れたとのです。
倒幕まであと僅かに迫ったいたことと、龍馬の無血で政権を変える方針など、両者は若干の方向性が違っていたこともあり、話は盛り上がっていた。
そのうちお腹が空いたので、岡本健三郎に「軍鶏」を買いにいかせる。
これと入れ替わるように、「十津川郷士」を名乗る人間が龍馬を訪れる。
当時十津川郷士は陸援隊にも関与しており、龍馬とも懇意だったため、籐吉は信用してこの者を中に入れてしまうのだ。
2階へ案内しようとする籐吉を背後から斬りつけ、2階の龍馬の部屋へと流れ込む侵入者。
3人の資格が龍馬・慎太郎に襲い掛かる。
両名共に刀を抜くまもなく斬りつけられるのだ。
龍馬は額を斬られほぼ即死状態、慎太郎も後頭部をやられ重症だった。
瀕死の龍馬は中岡に声をかける
「石川大丈夫か?わしはダメじゃ、額をやられちょる・・・・」と。
事態を聞き駆けつける陸援隊士・田中顕助、慎太郎を連れ出し看病するが、2日後に中岡慎太郎はこの世を去る。享年29歳 まだまだすべきことを残して先に逝ってしまった。
慎太郎が死ぬ間際、同士に「岩倉卿に伝えてください。王政復古のことは貴下の力による!」と訴え、最後の最後まで今後の日本のことを憂いていた。
慎太郎の絶命をきいた岩倉具視は「自分は片腕をもがれた」と声を上げて泣いたと言われています。
「今日賎しいものが、明日には貴いかもしれない。小人か君子かは、人の心の中にある」という言葉を残している。
これは当に中岡慎太郎自身の心であろう。
北川村にて村人のために奔走した日々から初まり、常に心の中に義を持ち続けた人だった。
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龍馬、原点消ゆ。Price2,415 円
京都に遊ぶ Price2,940 円

九州焼酎ネットは、鹿児島、宮崎を中心とした九州各地の蔵元より集めた本格焼酎(乙類)を二百種類以上取り揃え、地元でしか入手できない隠れた限定酒や、焼酎ブームで人気の幻、プレミアム銘柄まで、蔵元希望価格の正価販売通販できる焼酎専門店です。


この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。
中岡慎太郎は岩倉具視と三条実美と提携させ組織的にも倒幕へ向けてすすめていく。
しかし、龍馬も中岡もこのころには京都ではかなり目を付けられる存在になっており、元新撰組の伊東甲子太郎が「新撰組が狙っているから気を付けろ」と忠告をしに来ている。
見廻り組、新撰組、紀州藩士、京都は龍馬、中岡にとっては最も危険な場所になっていた。
そんな中、あの悲劇は起きる。
1867年11月15日、中岡は、新撰組につかまっている土佐の同士が釈放され、その身柄の引き取りについて京都河原町に下宿している谷守部を訪れに行きました。しかし、谷が不在だったため、近くの龍馬を訪れたとのです。
倒幕まであと僅かに迫ったいたことと、龍馬の無血で政権を変える方針など、両者は若干の方向性が違っていたこともあり、話は盛り上がっていた。
そのうちお腹が空いたので、岡本健三郎に「軍鶏」を買いにいかせる。
これと入れ替わるように、「十津川郷士」を名乗る人間が龍馬を訪れる。
当時十津川郷士は陸援隊にも関与しており、龍馬とも懇意だったため、籐吉は信用してこの者を中に入れてしまうのだ。
2階へ案内しようとする籐吉を背後から斬りつけ、2階の龍馬の部屋へと流れ込む侵入者。
3人の資格が龍馬・慎太郎に襲い掛かる。
両名共に刀を抜くまもなく斬りつけられるのだ。
龍馬は額を斬られほぼ即死状態、慎太郎も後頭部をやられ重症だった。
瀕死の龍馬は中岡に声をかける
「石川大丈夫か?わしはダメじゃ、額をやられちょる・・・・」と。
事態を聞き駆けつける陸援隊士・田中顕助、慎太郎を連れ出し看病するが、2日後に中岡慎太郎はこの世を去る。享年29歳 まだまだすべきことを残して先に逝ってしまった。
慎太郎が死ぬ間際、同士に「岩倉卿に伝えてください。王政復古のことは貴下の力による!」と訴え、最後の最後まで今後の日本のことを憂いていた。
慎太郎の絶命をきいた岩倉具視は「自分は片腕をもがれた」と声を上げて泣いたと言われています。
「今日賎しいものが、明日には貴いかもしれない。小人か君子かは、人の心の中にある」という言葉を残している。
これは当に中岡慎太郎自身の心であろう。
北川村にて村人のために奔走した日々から初まり、常に心の中に義を持ち続けた人だった。
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2008年02月23日
吉田松陰 無情却って
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吉田松陰 今日の一言
『無情却って』
無情却って情けあり。
無情、情けがないように見える中にこそ、逆に情けがある。
冷たく感じるかもしれないが、それは敢えてその人のためを思っていることもある。
優しい言葉を投げかける人が本当に情のある人ではないのだ。
親身に思えば時にはキツイ一言も言わねばならぬ。
そのような意味なのだろう。
2008年02月22日
吉田松陰 失い易き者は
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吉田松陰 今日の一言
『失い易き者は』
得難くして失い易き者は時なり。
得ることが難しくて、失いやすいものは時間である。
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2008年02月22日
陸援隊じゃ 中岡慎太郎
1866年1月21日薩長同盟を締結させた中岡慎太郎と坂本龍馬。
1月24日龍馬が寺田屋で襲撃をされる。
寺田屋のお龍の気転で難を免れた龍馬だったが負傷した体を癒し介抱していたお龍と結婚することになる。
2月29日、媒酌人は中岡慎太郎であった。
中岡、龍馬のほんの僅かな平和な時間だっただろう。
そして3月中岡、龍馬、お龍、三吉慎蔵は薩摩藩の船で薩摩に向かう。
途中、下関にて中岡、三吉は下船している。
この船の中、中岡は次なる展開を構想する。
それは長州、薩摩にもう1枚両藩の独走を止め、さらに強い倒幕の絆をつくるには、強力な藩が必要だと考える。
中岡慎太郎が目をつけたのが・・・・土佐であった。
1867年、中岡は早速行動する。
まず、乾退助と会談する。
このころには乾はすっかり勤王思想に目覚めており、密かに活動をしていた。
そこに中岡慎太郎からの話しを聞き、乾はこれに乗るのだ。
乾は後藤象二郎を説得、土佐を勤王へと進めさせる一方、龍馬達と手を結ぶことを勧める。
後藤としても薩摩、長州に後れを取り戻したかったこともあり、両者は会談することになる。
1月13日 坂本龍馬 長崎清風邸で後藤象二郎と会見。
これにより土佐藩は龍馬、中岡の脱藩の罪をゆるし、龍馬の亀山社中と土佐藩の土佐商会を合わせ海援隊を発足、隊長を坂本龍馬とした。
5月21日 中岡慎太郎は乾退助 西郷隆盛、小松帯刀と倒幕決行を会談し、薩土密約を結ばせる。
これを受け6月 9日 坂本龍馬は、土佐藩船「夕顔丸」に後藤象二郎と乗船し京へとむかうのだ。この船中で龍馬は「船中八策」を後藤に提示する。
この「船中八策」は幕府と討幕派との武力衝突を避ける可能性を提示していた。
また、この文書は「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書だった。
6月22日 京三本木料亭にて薩摩藩、西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、乾退助、福岡孝悌が会談し薩土盟約を結ぶのだ。
慎太郎は「議論周旋も結構だが、近日中に必ず薩長による開戦になるのだから、武器をとって戦う覚悟がなければ空論に終わる」として京都にて龍馬の海援隊と同じく、土佐藩の補助をうけ陸援隊を発足させる。
隊士の中には田中顕助、木村弁ノ進らの名前があり、倒幕間近の風潮もあり血気盛んだった、そのころ、先の龍馬の提案した船中八策を後藤は土佐の山内容堂に進言。
容堂もこれを取り入れ、時代は大政奉還へと動きはじめだしていた。
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1月24日龍馬が寺田屋で襲撃をされる。
寺田屋のお龍の気転で難を免れた龍馬だったが負傷した体を癒し介抱していたお龍と結婚することになる。
2月29日、媒酌人は中岡慎太郎であった。
中岡、龍馬のほんの僅かな平和な時間だっただろう。
そして3月中岡、龍馬、お龍、三吉慎蔵は薩摩藩の船で薩摩に向かう。
途中、下関にて中岡、三吉は下船している。
この船の中、中岡は次なる展開を構想する。
それは長州、薩摩にもう1枚両藩の独走を止め、さらに強い倒幕の絆をつくるには、強力な藩が必要だと考える。
中岡慎太郎が目をつけたのが・・・・土佐であった。
1867年、中岡は早速行動する。
まず、乾退助と会談する。
このころには乾はすっかり勤王思想に目覚めており、密かに活動をしていた。
そこに中岡慎太郎からの話しを聞き、乾はこれに乗るのだ。
乾は後藤象二郎を説得、土佐を勤王へと進めさせる一方、龍馬達と手を結ぶことを勧める。
後藤としても薩摩、長州に後れを取り戻したかったこともあり、両者は会談することになる。
1月13日 坂本龍馬 長崎清風邸で後藤象二郎と会見。
これにより土佐藩は龍馬、中岡の脱藩の罪をゆるし、龍馬の亀山社中と土佐藩の土佐商会を合わせ海援隊を発足、隊長を坂本龍馬とした。
5月21日 中岡慎太郎は乾退助 西郷隆盛、小松帯刀と倒幕決行を会談し、薩土密約を結ばせる。
これを受け6月 9日 坂本龍馬は、土佐藩船「夕顔丸」に後藤象二郎と乗船し京へとむかうのだ。この船中で龍馬は「船中八策」を後藤に提示する。
この「船中八策」は幕府と討幕派との武力衝突を避ける可能性を提示していた。
また、この文書は「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書だった。
6月22日 京三本木料亭にて薩摩藩、西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、乾退助、福岡孝悌が会談し薩土盟約を結ぶのだ。
慎太郎は「議論周旋も結構だが、近日中に必ず薩長による開戦になるのだから、武器をとって戦う覚悟がなければ空論に終わる」として京都にて龍馬の海援隊と同じく、土佐藩の補助をうけ陸援隊を発足させる。
隊士の中には田中顕助、木村弁ノ進らの名前があり、倒幕間近の風潮もあり血気盛んだった、そのころ、先の龍馬の提案した船中八策を後藤は土佐の山内容堂に進言。
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中岡慎太郎、坂本龍馬の歩いた道を尋ねてみませんか?
2008年02月21日
中岡慎太郎 薩長同盟締結に向けて
薩摩と長州の会談は順調に下関でおこなわれるはずであった。
中岡慎太郎と西郷隆盛を乗せた船は順調に航海をしていた。
しかし、京都の大久保利通から一刻も早く上京してほしいとの手紙が西郷の元に届く。
急遽第2次長州征伐の勅許を阻むのが先決であるとして、西郷は中岡を佐賀で下船させ、京都へ向うのだ。
西郷の到着を下関にて待っていた坂本龍馬と桂小五郎の前に現れたのは中岡慎太郎ただ一人だけであった。
これにはさすがに桂も怒った。
当然である、それまで「薩賊会奸」と言って嫌ってきた薩摩藩と手を結ぶにあたりどれだけ苦渋を舐めてきたことか・・・・桂の心情を思うと理解できる。
龍馬の「西郷はどうした?」の問いに中岡は
「西郷は幕府が2度目の長州征伐をするというのは無謀もはなはだしい。前の長州征伐の時には、わが薩摩も出兵はしたけれども今度は出兵するにあたらない。ついては木戸との会談も大事だが、このことが大事であるからあらかじめ朝議を固めておかねばならぬ。 一刻もじっとしておられぬ。 早々京都へ上らねばならぬ」と言って京へ向かったがじゃ・・・・
中岡は桂に詫びると、桂は中岡の立場を思い、「今後は薩摩からわが藩へ使者をよこしてほしい。」と言った。
薩摩、長州両藩共に対面ばかりを気にしていた。
気落ちしてばかりもいられない中岡慎太郎と龍馬は再び動く。
京都の薩摩藩邸の赴き西郷に会うのだ、そして懇々と説きつめて西郷を説得する。
そして西郷と共に薩摩に向かうのだ。
ここで龍馬は面白い案を提供するのだ。それは当時第2次長州征伐を前に武器弾薬に悩んでいた長州藩に薩摩が武器弾薬を提供する。
当然、長州は拒否をするだろうが、同じく兵糧に困っていた薩摩藩に長州から米を引き換えに渡せば両藩共に対面を保てる。というのだ。
龍馬はこの双方の利益となる取引をもって両藩の和解を図ろうと考えたのである。
これには薩摩の小松帯刀も西郷も快く承諾し、長州の桂も快諾した。
7月には長州の伊藤俊輔と井上聞多が長崎に訪れ、薩摩藩邸にて小松帯刀に会い、様式銃7千挺を買い付け、薩摩藩の船で下関に運びこんだ。
武器調達に尽力してくれた薩摩に恩を感じ、長州は米を調達してくれたので、薩摩は使者として、黒田清隆らを長州に赴かせ、米は長州から薩摩へと運ばれた。
しかしこの米は西郷が「もうすぐ第2次長州征伐が始まりそうで長州も大変だろうから、米は長州へ返す」と余計な気遣いをした。
桂も「一度差し出した米じゃ受け取れん。もしかしたら薩摩は長州の米は食いたくないのか?」となったため、龍馬の亀山社中がこの米を貰うことになる。
米を受け取りに来た黒田清隆に龍馬は「王政復古の大目的を達せんには、薩長の間を和解し、二藩連合して天下に率先せざるべからず」と熱弁し、黒田も龍馬を交え、桂や高杉晋作と話を詰めようとした。
しかし、桂は先の西郷のスッポカシの件もあり、乗り気ではない。
そこであの過激な高杉晋作が説得をするのだ。
「桂さん、長州1藩の力じゃどうもできん。先の馬関での戦で分かったじゃろ?ここは苦しくても薩摩と手を結び、この日の本を守らねばならんぞ。今ならまだ長州に味方してくれる他藩もある。今のうちに薩摩と手を結んで他藩も引き込むんじゃ」
晋作をはじめ龍馬、井上聞多も再三説得し、ついに桂は「公命下るに至る、よって余(木戸)恥を忍び意を決し」とし上京をする。(このころ藩命により桂から木戸へ名を変える)
1866年(慶応2年)1月8日、木戸は京都へ入り、薩摩藩家老・小松帯刀の屋敷で西郷に会った。
ところが連日宴会で互いに国事、天下の形勢を論じ合い、肝心の同盟の話には一切触れず終いだった。
1週間遅れで京都に入った龍馬は当然もう同盟が成していると思い薩摩藩邸にいくと、まだ同盟を結んでいない旨を聞かされる。
驚いた龍馬は長州藩邸の桂を訪ねた。
「天下のために連合を周旋し、両藩の要人を会わせたのにくだらない感情におぼれて意地を張り合うとは何事じゃ!」といい。
桂は
「今、苦境にあえぐ長州が薩摩に低頭してまで危険に引きずり込むことができましょうや。薩摩が自ら手をさしのべてくれてこそ、我らは救いを乞いもしよう。このまま長州は滅びてもよいのです。薩摩が生き残って幕府を討ってくれるなら、我々に憾みはないでありましょう」と説いた。
ようするに長州は薩摩の気持ちはありがたいが、滅びんとしている長州の巻き添えになってくれとは言えないというのだ。
龍馬はこの桂の言葉に感動し、薩摩藩邸に戻り、西郷、小松らに長州の胸のうちを語り、何とか薩摩から長州を助けてやってくれんかと説いた。
そして龍馬は「こげな小さな維持の張り合いをしちょる場合か!今までこの日の本の国のために死んでいった者たちは、ただの犬死になってしまうがか?」と訴えた。
ことのことにより、西郷は是非薩摩から長州に同盟をお願いしたいといい。
「薩摩は日本を救うために長州を全面的に援助する」という言葉が出た。
こうして1866年1月21日 中岡慎太郎、坂本龍馬の奔走の甲斐があり見事 薩長同盟は締結される。
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中岡慎太郎と西郷隆盛を乗せた船は順調に航海をしていた。
しかし、京都の大久保利通から一刻も早く上京してほしいとの手紙が西郷の元に届く。
急遽第2次長州征伐の勅許を阻むのが先決であるとして、西郷は中岡を佐賀で下船させ、京都へ向うのだ。
西郷の到着を下関にて待っていた坂本龍馬と桂小五郎の前に現れたのは中岡慎太郎ただ一人だけであった。
これにはさすがに桂も怒った。
当然である、それまで「薩賊会奸」と言って嫌ってきた薩摩藩と手を結ぶにあたりどれだけ苦渋を舐めてきたことか・・・・桂の心情を思うと理解できる。
龍馬の「西郷はどうした?」の問いに中岡は
「西郷は幕府が2度目の長州征伐をするというのは無謀もはなはだしい。前の長州征伐の時には、わが薩摩も出兵はしたけれども今度は出兵するにあたらない。ついては木戸との会談も大事だが、このことが大事であるからあらかじめ朝議を固めておかねばならぬ。 一刻もじっとしておられぬ。 早々京都へ上らねばならぬ」と言って京へ向かったがじゃ・・・・
中岡は桂に詫びると、桂は中岡の立場を思い、「今後は薩摩からわが藩へ使者をよこしてほしい。」と言った。
薩摩、長州両藩共に対面ばかりを気にしていた。
気落ちしてばかりもいられない中岡慎太郎と龍馬は再び動く。
京都の薩摩藩邸の赴き西郷に会うのだ、そして懇々と説きつめて西郷を説得する。
そして西郷と共に薩摩に向かうのだ。
ここで龍馬は面白い案を提供するのだ。それは当時第2次長州征伐を前に武器弾薬に悩んでいた長州藩に薩摩が武器弾薬を提供する。
当然、長州は拒否をするだろうが、同じく兵糧に困っていた薩摩藩に長州から米を引き換えに渡せば両藩共に対面を保てる。というのだ。
龍馬はこの双方の利益となる取引をもって両藩の和解を図ろうと考えたのである。
これには薩摩の小松帯刀も西郷も快く承諾し、長州の桂も快諾した。
7月には長州の伊藤俊輔と井上聞多が長崎に訪れ、薩摩藩邸にて小松帯刀に会い、様式銃7千挺を買い付け、薩摩藩の船で下関に運びこんだ。
武器調達に尽力してくれた薩摩に恩を感じ、長州は米を調達してくれたので、薩摩は使者として、黒田清隆らを長州に赴かせ、米は長州から薩摩へと運ばれた。
しかしこの米は西郷が「もうすぐ第2次長州征伐が始まりそうで長州も大変だろうから、米は長州へ返す」と余計な気遣いをした。
桂も「一度差し出した米じゃ受け取れん。もしかしたら薩摩は長州の米は食いたくないのか?」となったため、龍馬の亀山社中がこの米を貰うことになる。
米を受け取りに来た黒田清隆に龍馬は「王政復古の大目的を達せんには、薩長の間を和解し、二藩連合して天下に率先せざるべからず」と熱弁し、黒田も龍馬を交え、桂や高杉晋作と話を詰めようとした。
しかし、桂は先の西郷のスッポカシの件もあり、乗り気ではない。
そこであの過激な高杉晋作が説得をするのだ。
「桂さん、長州1藩の力じゃどうもできん。先の馬関での戦で分かったじゃろ?ここは苦しくても薩摩と手を結び、この日の本を守らねばならんぞ。今ならまだ長州に味方してくれる他藩もある。今のうちに薩摩と手を結んで他藩も引き込むんじゃ」
晋作をはじめ龍馬、井上聞多も再三説得し、ついに桂は「公命下るに至る、よって余(木戸)恥を忍び意を決し」とし上京をする。(このころ藩命により桂から木戸へ名を変える)
1866年(慶応2年)1月8日、木戸は京都へ入り、薩摩藩家老・小松帯刀の屋敷で西郷に会った。
ところが連日宴会で互いに国事、天下の形勢を論じ合い、肝心の同盟の話には一切触れず終いだった。
1週間遅れで京都に入った龍馬は当然もう同盟が成していると思い薩摩藩邸にいくと、まだ同盟を結んでいない旨を聞かされる。
驚いた龍馬は長州藩邸の桂を訪ねた。
「天下のために連合を周旋し、両藩の要人を会わせたのにくだらない感情におぼれて意地を張り合うとは何事じゃ!」といい。
桂は
「今、苦境にあえぐ長州が薩摩に低頭してまで危険に引きずり込むことができましょうや。薩摩が自ら手をさしのべてくれてこそ、我らは救いを乞いもしよう。このまま長州は滅びてもよいのです。薩摩が生き残って幕府を討ってくれるなら、我々に憾みはないでありましょう」と説いた。
ようするに長州は薩摩の気持ちはありがたいが、滅びんとしている長州の巻き添えになってくれとは言えないというのだ。
龍馬はこの桂の言葉に感動し、薩摩藩邸に戻り、西郷、小松らに長州の胸のうちを語り、何とか薩摩から長州を助けてやってくれんかと説いた。
そして龍馬は「こげな小さな維持の張り合いをしちょる場合か!今までこの日の本の国のために死んでいった者たちは、ただの犬死になってしまうがか?」と訴えた。
ことのことにより、西郷は是非薩摩から長州に同盟をお願いしたいといい。
「薩摩は日本を救うために長州を全面的に援助する」という言葉が出た。
こうして1866年1月21日 中岡慎太郎、坂本龍馬の奔走の甲斐があり見事 薩長同盟は締結される。
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2008年02月21日
吉田松陰 十分の得意は
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吉田松陰 今日の一言
『十分の得意は』
天下の事何に依らず、十分の得意は甚だ難きことにて、千載一遇と申すべく候。
世の中のことは何であっても、全て自分の望み通りになると言うことは大変難しいことである。
千年の長い間に、わずかに1回しかないくらい、容易にその機会に会えない、というべきものである。
何事も時には妥協すべき点もあるということか。
すべてが思うように運べばいいのだが、確かに10の事を10叶えることは難しい。
なるべく近づけるように努力はするが結果に落胆する事無く、更なる精進をすればいいだけのことなのだろう。
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2008年02月20日
吉田松陰 道義をのみ
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吉田松陰 今日の一言
『道義をのみ』
命は人力人智の及ぶ所に非ず。
故に是れを天に帰し天命と言う。
天命なる上は天に任せ置きて人は只管道義をのみ守りさえすれば、死生窮達、順受素行、驚くにも恐るるにも及ばず。
宿命は人の力や知恵が及ぶところではない。
だから、この原因を天に任せ、天命と言うのである。
天命であるからには、それは全て天に任せ、人は一途に人として行うべき道を守りさえすればいいのである。
生死、困窮、栄達などを素直に受け入れ、我が身の分に応じて正しく生きておれば何も驚く
ことはなく、恐れることもない。








