2008年01月31日
吉田松陰 今日の一言 睦月
吉田松陰 今日の一言 睦月
1日 『人の禽獣に異なる所以』
2日 『独り身之に坐せん』
3日 『何か心得になるほんなりとも』
4日 『孜々として』
5日 『覚悟を失わず』
6日 『大人を以って』
7日 『読書の功は』
8日 『天下の大患は』
9日 『学を為すの要』
10日 『父父たり子子たり』
11日 『真に道に志す者』
12日 『我が志を行わんのみ』
13日 『父母を不是と思わぬは』
14日 『志立たば』
15日 『素志は終には摧けず』
16日 『心定めや』
17日 『死して後已む』
18日 『志を以って』
19日 『志しを立てざるべからず』
20日 『古人今人異なるなし』
21日 『恩を受けて忘れたらん者は』
22日 『学びの道たる』
23日 『武士を以ってすべし』
24日 『有志の士』
25日 『遊優の暇なし』
26日 『少挫折を以って』
27日 『能はざるに非ざるなり』
28日 『其れ徳のみ』
29日 『武士たる者は』
30日 『備わらんことを一人に求むるなかれ』
1日 『人の禽獣に異なる所以』
2日 『独り身之に坐せん』
3日 『何か心得になるほんなりとも』
4日 『孜々として』
5日 『覚悟を失わず』
6日 『大人を以って』
7日 『読書の功は』
8日 『天下の大患は』
9日 『学を為すの要』
10日 『父父たり子子たり』
11日 『真に道に志す者』
12日 『我が志を行わんのみ』
13日 『父母を不是と思わぬは』
14日 『志立たば』
15日 『素志は終には摧けず』
16日 『心定めや』
17日 『死して後已む』
18日 『志を以って』
19日 『志しを立てざるべからず』
20日 『古人今人異なるなし』
21日 『恩を受けて忘れたらん者は』
22日 『学びの道たる』
23日 『武士を以ってすべし』
24日 『有志の士』
25日 『遊優の暇なし』
26日 『少挫折を以って』
27日 『能はざるに非ざるなり』
28日 『其れ徳のみ』
29日 『武士たる者は』
30日 『備わらんことを一人に求むるなかれ』
2008年01月30日
吉田松陰 備わらんことを
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吉田松陰 今日の一言
『備わらんことを一人に求むるなかれ』
備わらんことを一人に求むることなかれ。
古語でも「庸謹の士を得るは易く、奇傑の士を得るは難し」と云へり。
小過を以って人を棄てては、大才は決して得べからず。
如何なる善政良法も、賢才の人あつて是れを行はざれば、行はるるものに非ず。
あらゆる能力が備わっていることを、1人の人に求めてはいけない。
昔の言葉にも「平凡で慎み深い人を得るのは簡単だが、すぐれて傑出した人を得るのは難しい」といっている。
ちょっとした失敗を理由に人を見捨てていては、素晴しい才能をもった人は決して得ることはできない。
どんなによい政治や方法であっても、立派な才能のある人がこれを実施するのでなければ決してよく行われるものではない。
ちょっとの失敗を咎めていてはいけない。
前にも言ったが、成功は失敗の延長線上にあるのである。
素晴しい政策や方法があってもこれを行う人が、立派な才能を持った人でなければいい政策も無駄になってしまう。
現代の政治が最たるものですね。
今現在国民のみなさんは政治家に嫌気がさしてる人が多いのでは?
そんな政治家たちが行う政治にみなさんは信用してますか?
それが答えです。
いい国は、いい志から生まれるものなのでしょう。
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2008年01月29日
吉田松陰 武士たる者は
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吉田松陰 今日の一言
『武士たる者は』
敬は即ち備えなり。
武士道には是を覚悟という。
論語に「門を出でては大賓を見るが如し」と云う。
是れ敬を説くなり。
呉子に「門を出るより敵を見るが如くす」と云う。
是れ備えを説くなり。
並びに皆覚悟の道なり。
敬・備は怠の反対にて、怠はすなわち油断なり。
武士たる者は行住坐臥常に覚悟ありて油断なき如くすべしとなり。
敬とは備えることである。武士道ではこれを覚悟という。
論語に、家の門を出て他人に接するときには高貴の客人を見る時のように慎みなさいという。
これが敬が説いている。
呉子に、門を出たときから敵を見るようにしなさいという。
これは備えを説いている。
共に覚悟のあり方である。敬うことと備えることは怠ることの反対であり、怠ることはつまり油断である。
武士というものは、日常において起居動作において常に覚悟をし油断のないようにするべきである。
2008年01月29日
篤姫 宮崎あおい 第4回『名君怒る』
篤姫 第4回 『名君怒る』
お由羅騒動の末、ようやく藩主となった斉彬(高橋英樹)は薩摩に入り、様々な改革などに積極的に取り組む。
斉彬の就任と共に、すぐにも赦しがあると思われていた大久保(原田泰造)らに何の沙汰もなく、西郷ら若い藩士たちは苛立ち覚えはじめていた。
そんな中、於一(宮崎あおい)や尚五郎(瑛太)は、斉彬の側近・小松清猷(沢村一樹)を訪ね、斉彬の真意を問うのである。
しかし、清猷は斉彬を信じることが忠義の道と諭すが、於一はどうしても納得できない

そんな折、斉彬は島津家の分家をみな城に招き、一人ひとりに対面したいと言い出すのだ。
登城の日、斉彬に会った於一は清猷の制止を振り切り、なぜ大久保らに赦免がないのかと、斉彬に激しく問い詰めてしまう。
斉彬はそんな於一に興味を抱くのであった。
お由羅騒動の末、ようやく藩主となった斉彬(高橋英樹)は薩摩に入り、様々な改革などに積極的に取り組む。
斉彬の就任と共に、すぐにも赦しがあると思われていた大久保(原田泰造)らに何の沙汰もなく、西郷ら若い藩士たちは苛立ち覚えはじめていた。
そんな中、於一(宮崎あおい)や尚五郎(瑛太)は、斉彬の側近・小松清猷(沢村一樹)を訪ね、斉彬の真意を問うのである。
しかし、清猷は斉彬を信じることが忠義の道と諭すが、於一はどうしても納得できない

そんな折、斉彬は島津家の分家をみな城に招き、一人ひとりに対面したいと言い出すのだ。
登城の日、斉彬に会った於一は清猷の制止を振り切り、なぜ大久保らに赦免がないのかと、斉彬に激しく問い詰めてしまう。
斉彬はそんな於一に興味を抱くのであった。
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2008年01月28日
吉田松陰 其れ徳のみ
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吉田松陰 今日の一言
『其れ徳のみ』
士、達しては天下を兼ね善くして、窮しては其の身を独り善くす。
独善の志ありて、而してのち兼善の業あり。
窮達を貫きて而して志業を成すもの、其れ徳のみ。
武士は目指していた世界に到達した時には国家全体を善い方向に導き、逆に困窮しているときは我が身を正しくするものである。
まず、我が身を正す、という志しを果たして後、国家全体の善導をなすことが出来よう。
困難極まりない状態を耐え忍び志しを完遂させるもの、それは徳だけである。
まこと其の通りですね。
社会保険金の未納や、議員たちのプライベートの不始末さ、そんな議員たちが行っている政治で日本が善くなるわけがなく、先ずは自らの身を正し、律することにより社会の政に従事することが出来るのではないだろうか。
先般、大坂の府知事戦にて当選になった橋下弁護士も是非、自らの身を正すところからはじめていただきたいものである。
2008年01月28日
久坂玄瑞 早すぎる死
久坂玄瑞にとって激動の1863年(文久3年)。
尊攘思想を掲げ京を中心に独走する長州藩に大きな事変が起こる。
長州の朝廷政権独走を快く思わない薩摩と、同じく会津が、長州藩の京追放の一策を画策します。薩摩と長州は共に犬猿の仲であり、かつて薩摩藩士には長州によって京政界から落とされたという恥辱の念が残っていためでした。
この数日後に長州藩は他藩の浪士らと共に帝を大和へ連れ出し攘夷祈願をするよう働きかけ
ていた。その動きの根底にある真意を掴み、同時に今上の意思が攘夷では無い事を悟った薩
摩・会津藩は直ちに公卿らに働きかけ、やがて帝を介し、長州藩の御門警備の解除と、長州系公卿の禁足を命じる勅を出す。
何も知らぬ長州藩は、事態に驚きつつも汚名を被るを良しとせず、涙を飲みながら風雨の中、帰藩していく。禁門の政変といい、また8月18日に起こったので8.18の政変とも云う。
長州に帰った久坂は来島又兵衛や真木和泉らなどの主戦論者の説得に努めることとなるが、
1864年(元治元)6月15日、新撰組による池田屋事件が起こると長州藩は京進発論へ傾く。
長州は軍を出動させ、瀬戸内の海路を通り大阪を経由し京へ向けて進むのである。
当然ながら兵を率いての入京は許されるはずもなく、朝廷の拒否に対し、久坂は何度も歎願の証書を送っていた。
相手は朝廷である、逆賊の汚名を被れば元も子もない、あくまで慎重に対処し和を持って望んでいた久坂であったが、真木、来島ら強硬派に押されて遂には進撃を余儀なくされるのだ。
山崎天王山を任かされた久坂は、最期まで交戦に反対する姿勢を示し、砲弾の飛び交う市中を、長州藩主の冤罪を歎願してきた関白・鷹司卿の邸宅へ進入する。
久坂は此度の戦に及ぶに至る経緯とこれまでの歎願に記してきた藩の冤罪を卿に涙ながらに上奏願い訴えるが、禁裏に発砲したという事実から拒絶され、鷹司卿に逃げられてしまう。
久坂は邸内に迫る敵に対し、やむ得ず応戦するが、邸宅は激しい砲撃により燃え始め、久坂自身も流れ弾によって負傷してしまうのだ。
もはやこれまでと自ら悟ると、傍に居た入江九一に後事を託し、久坂は同じ松下村塾塾生である寺島中三郎と共に自刃することになる。
久坂玄瑞、享年25歳。あまりにも早過ぎる死であった。

後年、長州藩の志士たちの墓所を京都霊山に営んだ際、久坂、寺島の遺骨も移し、久坂の分骨の墓は萩東光寺にある杉家墓所へも営まれている。
明治21年には、久坂のかつての同志達の手によって靖国神社へ合祀せられ、更に2年後、明治24年4月特旨を以って正四位を贈られているのである。
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尊攘思想を掲げ京を中心に独走する長州藩に大きな事変が起こる。
長州の朝廷政権独走を快く思わない薩摩と、同じく会津が、長州藩の京追放の一策を画策します。薩摩と長州は共に犬猿の仲であり、かつて薩摩藩士には長州によって京政界から落とされたという恥辱の念が残っていためでした。
この数日後に長州藩は他藩の浪士らと共に帝を大和へ連れ出し攘夷祈願をするよう働きかけ
ていた。その動きの根底にある真意を掴み、同時に今上の意思が攘夷では無い事を悟った薩
摩・会津藩は直ちに公卿らに働きかけ、やがて帝を介し、長州藩の御門警備の解除と、長州系公卿の禁足を命じる勅を出す。
何も知らぬ長州藩は、事態に驚きつつも汚名を被るを良しとせず、涙を飲みながら風雨の中、帰藩していく。禁門の政変といい、また8月18日に起こったので8.18の政変とも云う。
長州に帰った久坂は来島又兵衛や真木和泉らなどの主戦論者の説得に努めることとなるが、
1864年(元治元)6月15日、新撰組による池田屋事件が起こると長州藩は京進発論へ傾く。
長州は軍を出動させ、瀬戸内の海路を通り大阪を経由し京へ向けて進むのである。
当然ながら兵を率いての入京は許されるはずもなく、朝廷の拒否に対し、久坂は何度も歎願の証書を送っていた。
相手は朝廷である、逆賊の汚名を被れば元も子もない、あくまで慎重に対処し和を持って望んでいた久坂であったが、真木、来島ら強硬派に押されて遂には進撃を余儀なくされるのだ。
山崎天王山を任かされた久坂は、最期まで交戦に反対する姿勢を示し、砲弾の飛び交う市中を、長州藩主の冤罪を歎願してきた関白・鷹司卿の邸宅へ進入する。
久坂は此度の戦に及ぶに至る経緯とこれまでの歎願に記してきた藩の冤罪を卿に涙ながらに上奏願い訴えるが、禁裏に発砲したという事実から拒絶され、鷹司卿に逃げられてしまう。
久坂は邸内に迫る敵に対し、やむ得ず応戦するが、邸宅は激しい砲撃により燃え始め、久坂自身も流れ弾によって負傷してしまうのだ。
もはやこれまでと自ら悟ると、傍に居た入江九一に後事を託し、久坂は同じ松下村塾塾生である寺島中三郎と共に自刃することになる。
久坂玄瑞、享年25歳。あまりにも早過ぎる死であった。

後年、長州藩の志士たちの墓所を京都霊山に営んだ際、久坂、寺島の遺骨も移し、久坂の分骨の墓は萩東光寺にある杉家墓所へも営まれている。
明治21年には、久坂のかつての同志達の手によって靖国神社へ合祀せられ、更に2年後、明治24年4月特旨を以って正四位を贈られているのである。
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2008年01月27日
吉田松陰 能はざるに
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吉田松陰 今日の一言
『能はざるに非ざるなり』
能はざるに非ざるなり、為さざるなり。
できないのではない、やろうとしないのである。
う〜〜〜ん、そのものズバリですね。
よく「え〜そんなの無理だよ」とか言ってる人いますよね。
無理なんじゃないんです。
やろうとしてないだけなんです。
無理という言葉で、やろうしない自分を慰めているだけで
決して無理じゃないんです。
まずはやってみて、ダメであればまた考えましょうよ。
時代はそうじゃないと変わりませんよ。
2008年01月27日
松下村塾 久坂玄瑞
久坂玄瑞は、高杉晋作や山県小輔、伊藤俊輔らと共に定期的に塾へ通い時勢の変動について語り合った。この松下村塾で、吉田利麿や入江九一らは、後にその英才振りから松門の
四天王とまで称されるようになるのだ。
久坂は師・松陰のススメで松陰の妹・文と結婚することとなる。
公私ともに松陰の門弟となった久坂はメキメキと才能を開花させていく。
しかし時代は久坂達が思うのとは反対の方向に動き始める。
安政の大獄がおこるのだ。橋本左内・梅田雲浜らが捕縛され、終には師の吉田松陰までもが江戸へ連衡されていってしまう。
江戸に着いた松陰は厳しい取調べのあと、処刑される。
松陰の死に久坂玄瑞は、師や多くの同志と呼べる人材を弾圧した幕府に激しい怒りを持つ様になり、高杉晋作と同様に倒幕の意思を固めることとなる。
長井雅楽の「航海遠略策」によって長州藩論が公武合体論に傾くと、同志と共に長井の弾劾書を藩に提出し、長州藩論の転換に尽力。同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使三条実美、姉小路公知らと共に江戸に入ると、高杉らと御楯組を結成、12月には品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行してしまうのだ。
文久3年、玄瑞は攘夷督促の勅旨と共に江戸へ向かう、幕府にその期限を5月10日と迫って帰藩。下関にて光明寺党という軍的組織を結成させる。
下関を通る一隻の外国商船を見つけると、大砲射撃により、外国商船を沈めてしまう。
その数ヶ月後に外国の正式な軍船による報復射撃を受け、一時馬関を制圧された。
玄瑞の夷荻嫌いは激しくかったと言い伝えられている。
過激派のようなものですね、偏った思想は時として人を過激な動きに変える典型的な例である。
そして、1863年(文久3年)は久坂にとって大変な年となる。
四天王とまで称されるようになるのだ。
久坂は師・松陰のススメで松陰の妹・文と結婚することとなる。
公私ともに松陰の門弟となった久坂はメキメキと才能を開花させていく。
しかし時代は久坂達が思うのとは反対の方向に動き始める。
安政の大獄がおこるのだ。橋本左内・梅田雲浜らが捕縛され、終には師の吉田松陰までもが江戸へ連衡されていってしまう。
江戸に着いた松陰は厳しい取調べのあと、処刑される。
松陰の死に久坂玄瑞は、師や多くの同志と呼べる人材を弾圧した幕府に激しい怒りを持つ様になり、高杉晋作と同様に倒幕の意思を固めることとなる。
長井雅楽の「航海遠略策」によって長州藩論が公武合体論に傾くと、同志と共に長井の弾劾書を藩に提出し、長州藩論の転換に尽力。同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使三条実美、姉小路公知らと共に江戸に入ると、高杉らと御楯組を結成、12月には品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行してしまうのだ。
文久3年、玄瑞は攘夷督促の勅旨と共に江戸へ向かう、幕府にその期限を5月10日と迫って帰藩。下関にて光明寺党という軍的組織を結成させる。
下関を通る一隻の外国商船を見つけると、大砲射撃により、外国商船を沈めてしまう。
その数ヶ月後に外国の正式な軍船による報復射撃を受け、一時馬関を制圧された。
玄瑞の夷荻嫌いは激しくかったと言い伝えられている。
過激派のようなものですね、偏った思想は時として人を過激な動きに変える典型的な例である。
そして、1863年(文久3年)は久坂にとって大変な年となる。
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2008年01月26日
吉田松陰 少挫折を以って
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吉田松陰 今日の一言
『少挫折を以って』
楠公の言に曰く、「勝敗は常なり、少挫折を以って其の志を変ずべからず」と。
楠木正成公が言うには、「勝敗は世の中のならいである。ちょっとした挫折でその志しを変えるべきではない」と。
まさにその言葉の如くですね。
失敗は成功のもと、失敗を恐れてしまうのは、いけません。
失敗したからといってウジウジしててもいけません。
ましてや、失敗したからといって、その志を変える事はもっといけないことです。
初志貫徹!
貫き通すことが大事ですね。
2008年01月26日
防長第一流の人物 久坂玄瑞
高杉晋作の親友で松下村塾きっての秀才、久坂玄瑞。
1840年(天保11)長門国萩平安古八軒屋に住む藩医・久坂家の三男として誕生する。
名を秀三郎という。
7歳の頃、吉松淳蔵の私塾へ通っていた久坂は、ここで後に盟友となる高杉晋作と出会うのだ。
親友と言われる大楽源太郎もここで学問を学んでいたらしい。
久坂はやがて藩校明倫館へ入門、大いに学問に励み城下では評判の秀才とウワサされる様になっていた。この年母が病で亡くなり、悲嘆に暮れる久坂にさらなる試練が降りかかる。
兄・玄機は病死してしまうのだ。
妻・息子の突然の死に落胆した父・良廸は、すっかり衰弱し後を追うように逝く。
相次ぐ家族の死により、幼い久坂が久坂家の若き当主として家督を継ぐことになってしまった。久坂が15歳のことである。
この時から、久坂は秀三郎という幼名を改め、玄瑞という藩医としての名へと改名するのである。
1856年(安政3)、九州へ遊学した際に肥後藩で、宮部鼎蔵と対談し、そこで吉田松陰の話を聞くことになる。長州へ帰った久坂は松陰に手紙を書く。何度かの書面による討論が続き、やがて玄瑞は松陰が彼の才を試していた事を知ると、己のの小さきを恥じそれ以上の反論は出来なくなった。
その後、僧・月性の薦めにより、久坂は松下村塾の門を叩くのだ。
松下村塾の双璧と言われた久坂玄瑞のはじまりである。
松陰は玄瑞の来訪を喜び『防長第一流の人物』と評した。
ここから久坂の人生は大きく動き出すのである。

眼下の火
激動の幕末時代にひとりの青年がいた。両親も兄も失い、さいなまれない孤独な生活の中で、長州藩主・毛利敬親の許可願いを得て、九州遊学に旅たつ。しかし彼に付きまとうのは、未完の志をせきたてる摩訶不思議な白鳥や金色の目をした狸。それは萩城に隣接する、指月山にある池の主・竜であったのか。今もその池から竜が昇りたつという。主人公は竜と出会い、一枚のウロコを得た。それを手にすると寛永通宝に変化した。彼はそれをふところに入れて西に旅立つ。そして…。幕末・長州の青年医師、久坂玄瑞をモデルにした作品。萩城の池に住む竜が火の志をうながす。


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1840年(天保11)長門国萩平安古八軒屋に住む藩医・久坂家の三男として誕生する。
名を秀三郎という。
7歳の頃、吉松淳蔵の私塾へ通っていた久坂は、ここで後に盟友となる高杉晋作と出会うのだ。
親友と言われる大楽源太郎もここで学問を学んでいたらしい。
久坂はやがて藩校明倫館へ入門、大いに学問に励み城下では評判の秀才とウワサされる様になっていた。この年母が病で亡くなり、悲嘆に暮れる久坂にさらなる試練が降りかかる。
兄・玄機は病死してしまうのだ。
妻・息子の突然の死に落胆した父・良廸は、すっかり衰弱し後を追うように逝く。
相次ぐ家族の死により、幼い久坂が久坂家の若き当主として家督を継ぐことになってしまった。久坂が15歳のことである。
この時から、久坂は秀三郎という幼名を改め、玄瑞という藩医としての名へと改名するのである。
1856年(安政3)、九州へ遊学した際に肥後藩で、宮部鼎蔵と対談し、そこで吉田松陰の話を聞くことになる。長州へ帰った久坂は松陰に手紙を書く。何度かの書面による討論が続き、やがて玄瑞は松陰が彼の才を試していた事を知ると、己のの小さきを恥じそれ以上の反論は出来なくなった。
その後、僧・月性の薦めにより、久坂は松下村塾の門を叩くのだ。
松下村塾の双璧と言われた久坂玄瑞のはじまりである。
松陰は玄瑞の来訪を喜び『防長第一流の人物』と評した。
ここから久坂の人生は大きく動き出すのである。
眼下の火
激動の幕末時代にひとりの青年がいた。両親も兄も失い、さいなまれない孤独な生活の中で、長州藩主・毛利敬親の許可願いを得て、九州遊学に旅たつ。しかし彼に付きまとうのは、未完の志をせきたてる摩訶不思議な白鳥や金色の目をした狸。それは萩城に隣接する、指月山にある池の主・竜であったのか。今もその池から竜が昇りたつという。主人公は竜と出会い、一枚のウロコを得た。それを手にすると寛永通宝に変化した。彼はそれをふところに入れて西に旅立つ。そして…。幕末・長州の青年医師、久坂玄瑞をモデルにした作品。萩城の池に住む竜が火の志をうながす。
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2008年01月25日
吉田松陰 遊優の暇なし
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『遊優の暇なし』
花、たけなわなればすなわち落ち、日、中すればすなわち傾く。
人、壮なればすなわち老ゆ。百年の間、黽勉の急ありて遊優の暇なし。
花は満開になればやがて枯れ、日は南中を迎えればやがて陰りはじめる。
人も壮年を迎えればやがて年老いていく。
百年の間、必死で勉強すべきであり、ゆっくりくつろいでいる暇などない。
人は時間の中で生きているものです。
限られた時の中、一生懸命に学ぶことが大事なんでしょうね。
年老いてからでは出来ぬことがあるのならば、今、暇を削ってでもやらねばならないのだろう。
成功した人達と、凡人の差はそこなんでしょうね。
2008年01月24日
吉田松陰 有志の士
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吉田松陰 今日の一言
『有志の士』
有志の士は観るところあれば、すなわち必ず感ずる所あり。
志を持っている人は、何かを目にしたら、必ず心中に感じるものがある。
世の中には色んな成功に向けての本や、言葉がある。
しかし、どんな良い本でも、どんな良い言葉でも志のない者には何の役にも立たないです。
馬の耳に念仏、猫に小判。
響かないのです、心に必するものがなければ返ってきません。
それは何か?
志です。
高杉晋作が奇兵隊を作ったおりも、志しを持っていれば誰でもが日本を変えられるとし、農民、商人、武士分け隔てなく集めました。
何事も志1つ。
2008年01月23日
吉田松陰 武士を以って
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吉田松陰 今日の一言
『武士を以ってすべし』
吾の自ら処るは当に学者を以ってすべし。
謂う所の学なるものは書を読み詩を作るの謂うに非ず。
身の職を尽くして世用に供するのみ。
また当に武士を以ってすべし。
謂う所の武なるものは粗暴の謂いに非ず。
君に仕えて生をおもわざるのみ。
私は学者でありたい。学とは本を読み、詩を作るということではない。
自分の職分を尽くし世の中に有益なものを提供するだけである。
また、武士でもありたい。
武というものは荒々しいという意味ではない。主人に仕えるとき、生きるということを考えないことである。
何事もその本筋を見なさいということなのだろうか?
表面にとらわれず、その本質を見ることが大事なのであろう。
2008年01月22日
吉田松陰 学びの道たる
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吉田松陰 今日の一言
『学びの道たる』
蓋し学びの道たる、己が才能をひけらかして人を屈する所以にあらず。
人を教育して同じく善に帰せんと欲する所以なり。
学問とは自分の才能を見せびらかして人を従わせるためのものではない。
人を教育して、一緒によき人になろうとすることである。
驕り高ぶることなく常に謙虚で学ぶ姿勢が大事ですね。
何のために学ぶか?
それは人を支配するためではなく、ともに世の中のために役立つ人に成らんとすることが大事なのでしょうね。
2008年01月22日
西郷隆盛 勝海舟との会談
鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を破った東征軍は西郷隆盛を総大将に、勢いに乗り関東を目指し進軍していた。
これに対し部下を見捨てて江戸に逃げ帰り、新政府軍との徹底抗戦を主張する小栗上野介たちの意見を退け、さっさと蟄居してしまった徳川慶喜。
徳川慶喜の蟄居により幕府の後事を任された勝海舟。
勝の心は「チッ、最後に面倒なことだけ押し付けやがって・・・ 」ってな気持ちだったのでしょうか?
神戸海軍操練所に倒幕の者がいたことにより勝はしばらく蟄居させられていたのである。
そこに来て今度はやばくなってきたから、「お前なんとかしろ」状態で任されている。
勝に抵抗していたといわれる小栗上野介もこの頃には居なく、幕政は完全に瓦解していたときである。
そんな勝は東征してくる新政府軍に使者を送ることから始まった。
幕府倒壊となったいま、いかに血を流さすに時代を変え、列国の属国になることを避けるのかが大事であった。
勝の使者、山岡鉄太郎は駿府において「東征大総督府下参謀」となっていた西郷隆盛に会う。
そして江戸に入って来た西郷は薩摩藩邸において勝海舟と会談するのである。
1864年(元治元年)以来の再会である。
また翌日も会談は続き、話し合いの末
西郷は「委細承知知致した。しかしながら、これは拙者の一存にも計らひ難いから、今より総督府へ出掛けて相談した上で、なにぶんの御返答を致さう。が、それまでのところ、ともかくも明日の進撃だけは、中止させておきませう」と言い、これによって江戸は戦火から免れることになったのです。
これには天璋院篤姫や皇女和宮も徳川家の助命嘆願をしていることも若干影響はしているのだろう。
当時の巨大都市江戸。
この江戸を焼け野原にしてしまっては新政府が樹立したときに、列国に立ち向かうだけの経済力を養うことは出来ず、ましてや無駄に多くの血を流してしまっては、まさに列国の思う壺であるという勝と西郷の利害関係は一致し、日本におけるこの難局を乗越えることが出来たのだ。
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勝の心は「チッ、最後に面倒なことだけ押し付けやがって・・・ 」ってな気持ちだったのでしょうか?
神戸海軍操練所に倒幕の者がいたことにより勝はしばらく蟄居させられていたのである。
そこに来て今度はやばくなってきたから、「お前なんとかしろ」状態で任されている。
勝に抵抗していたといわれる小栗上野介もこの頃には居なく、幕政は完全に瓦解していたときである。
そんな勝は東征してくる新政府軍に使者を送ることから始まった。
幕府倒壊となったいま、いかに血を流さすに時代を変え、列国の属国になることを避けるのかが大事であった。
勝の使者、山岡鉄太郎は駿府において「東征大総督府下参謀」となっていた西郷隆盛に会う。
そして江戸に入って来た西郷は薩摩藩邸において勝海舟と会談するのである。
1864年(元治元年)以来の再会である。
また翌日も会談は続き、話し合いの末
西郷は「委細承知知致した。しかしながら、これは拙者の一存にも計らひ難いから、今より総督府へ出掛けて相談した上で、なにぶんの御返答を致さう。が、それまでのところ、ともかくも明日の進撃だけは、中止させておきませう」と言い、これによって江戸は戦火から免れることになったのです。
これには天璋院篤姫や皇女和宮も徳川家の助命嘆願をしていることも若干影響はしているのだろう。
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2008年01月21日
吉田松陰 恩を受けて
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吉田松陰 今日の一言
『恩を受けて忘れたらん者は』
功なくして食み、恩を受けて忘れたらん者は、天地間に容るべからず。
功績もないのに報酬を受け、恩を受けてもそれを忘れる、そのような者は許されるものではない。
言われなくても当たり前のことなんですが、それさえが出来ないのが今の日本なのかもしれないですな。
昭和初期のような隣人間の付き合いも希薄ですし、求めていない人もいます。
しかし、人とのふれ合いの中で感謝の心や、慈悲の心を学ぶような気がします。
己を省みて日々生活を送る。
これからも続けていけるといいです。
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2008年01月21日
篤姫 宮崎あおい 第3回『薩摩分裂』
篤姫 第3回 『薩摩分裂』

題名の通りお由羅騒動の話ですね。
島津斉興とその側室 お由羅。島津斉彬を藩主にさせたくない島津斉興は島津久光(忠教)を藩主にしようとしますが、それに反対する藩士達を処罰していきます。
於一(宮崎あおい)は、藩の政治がどうなっているのかとても興味をもつが、父 忠剛は子どもが知るべきことではないと一喝されます。
しかし、気になる於一はこのお家騒動に巻き込まれ謹慎処分となっている、大久保正助(原田泰造)に生活が困っているだろうからと、今和泉家の厨房から鰹や鯛などを持ち出しては正助に届けるのだ。
そうこうしている内にこのお由羅騒動は幕府にも知られ、老中 阿部正弘により、島津斉興は隠居させられるのだ。
こうして島津斉彬はようやく藩主となり、薩摩入りをすることとなる。
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2008年01月20日
篤姫の嘆願書と江戸城無血開城
鳥羽伏見の戦いで大勝利を得た新政府軍は「錦の御旗」を押し立てて江戸へと向かいます。
そんな中、江戸城内では一足先に逃げ帰った将軍 徳川慶喜は後事を幕臣の勝海舟に託し、自らは上野寛永寺の塔頭大慈院に入り、蟄居謹慎の生活に入ってしまいます。
徳川の命運危うしと思った13代家定の側・天璋院篤姫、14代家茂将軍の側・皇女和宮はそれぞれに徳川助命嘆願をするのです。
まず、篤姫は幸いにも江戸に向かってくる総大将が薩摩の西郷隆盛だったこともあり新政府軍「東征大総督府下参謀」西郷隆盛に嘆願書を届けます。
そして和宮は公家出身でしたので朝廷に対し嘆願書を届けさせたそうです。
同じように後事を任された勝海舟も面識のある西郷に対し幕臣の山岡鉄太郎を遣わします。
篤姫から西郷に宛てられた手紙はどんな内容のものだったのでしょうか
結局は勝海舟と西郷の話し合いにより江戸城無血開城へとなって行きます。
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2008年01月20日
吉田松陰 古人今人異なるなし
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吉田松陰 今日の一言
『古人今人異なるなし』
余常に謂う、古人今人異なるなし。
俗人の癖として、古人と云えば神か鬼か天人かにて、今人とは天壌の隔絶をなせる如き者と思う。
是れ、自暴自棄の極みにて、与に堯舜の道に入るべからずとは此の人なり。
私は常に「昔の心ある立派な人も、今の私たちとなんら変わりはない」と言っている。
つまらない人間の癖として、昔の立派な人といえば、神か鬼か、天の上の人かと見なし、今の私達とは天と地ほどに大きな違いがあると思っている、
これは自分をダメなものと思い込み将来を考えない、投げやりな態度の極みである。
共に手を携えて堯帝や舜帝の道に入ることが出来ない人とはこういう人である。
確かにそうなんですよね、どうしても昔の偉人たちは自分たちとは違う存在に感じてしまう。
でも本当はそんな偉人たちも、最初は私たちと同じところからスタートしているんです。
だから物怖じせず自分を信じて進まなくてはいけないのでしょうね。
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2008年01月19日
吉田松陰 志をたて
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吉田松陰 今日の一言
『志しを立てざるべからず』
道の精なると精ならざると、業の成ると成らざるとは、志の立つと立たざるとに在るのみ。
故に士たる者はその志をたてざるべからず。
それ志の在る所、気もまた従う。
志気のあるところ、遠くして至るべからざるなく、難くして為すべからざるものなし。
人としての生き方が正しく優れているかそうでないか、また、仕事や勉強などがうまくいくかいかないか、心に目指すところがちゃんと定まっているかいないか、つまり志があるか否かによる。だから、武士たる者は志を立てない訳にはいかない。
志があれば、やる気もそれに従うものである。
志とやる気があれば目標が大きくてもかならず成し遂げることが出来る。
吉田松陰の一貫して言っていることは『志』である。
どんなことも『志』さえしっかりしていれば成しえないものはない。
受験シーズンになってきたが、受験生には特に大事なことですよね。
最後は己を信じ、合格するんだという志とやる気があれば必ず結果はついてきますよね。
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