2007年12月31日

年末ジャンボ宝くじ当選番号一覧

年末ジャンボ宝くじの当選番号一覧が発表された

ホントに当たった人はメッチャ幸せやなぁ〜〜

当然買わなきゃ当たらないのだが・・毎年買っていない[emoji:i-229]

理由は・・いつも忘れるのだ。気がつくと発売終了〜〜

あぁ〜〜今年も夢は見られそうにない。


年末ジャンボ宝くじ(第532回全国自治宝くじ)の当選番号一覧
第532回の年末ジャンボ宝くじの当選番号決定の様子が12時45分からNHKで生中継されており、先ほど終わりました。ネット上では午後5時過ぎから照会可能ですが、一足お先に書いておきます。…(続きを読む)


今年も終わりですよ。
早いものです。
今年のヒット商品ってこんなものありましたよ。
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Posted by 左近将監 at 15:18Comments(0)TrackBack(0)未分類

2007年12月26日

松下村塾 塾生達

さて吉田松陰が教えを説いた塾生達にはどんな人物たちがいたのだろうか。

松下村塾門下生達は尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる者など幕末・明治において大きな活躍を果たす。

そして塾生達だけにとどまらず、その教えを学んだ塾生達に感化された者達もでてくる。

坂本龍馬であり、中岡慎太郎たちである。

今後少しづつ、彼らについて勉強していきたい。

おもな塾生に久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎などがいる。

現在塾生名簿なるものは残っていないのですが、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れていたので中には浪人者もいたのではないだろうか。



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Posted by 左近将監 at 16:17Comments(0)TrackBack(0)吉田松陰

2007年12月22日

激動の時代へ 篤姫

吉田松陰の死により時代は激動の波に包まれていく。

大河ドラマの主役 「篤姫」 もその中の一人である。

薩摩藩の政略結婚にて江戸へと赴いた天璋院篤姫

来年の主役の彼女人生も複雑に絡まっていく。



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Posted by 左近将監 at 17:36Comments(0)TrackBack(0)篤姫

2007年12月19日

斬首。。吉田松陰の最後

安政6年(1859年)5月25日、吉田松陰は野山獄から籠に入れられ江戸に送られる。

吉田松陰が江戸に送られる理由は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜が萩で松陰に会った事を話したのが理由だったそうである。

幕府は松陰を危険分子と見なしたのである。


江戸幕府が松陰に詰問したのは、梅田雲浜との内容、京の御所に文書を置いたのかという点であった。
ここで松陰はとんでもないことを幕府に言ってしまう。
「間部詮勝要撃計画」を告白するのだ。
「間部詮勝要撃計画」とは長州にいるときに松下村塾の門下生に幕府・老中暗殺計画を立てたのである。これの計画を知った長州藩は松下村塾は閉校させ、松陰を野山獄に閉じ込めていたのである。

そんな折の江戸への護送、そして計画の告白。

幕府の態度から死を覚悟した松陰は、家族への「永訣の書」と門下生に向けた「留魂録」を記す。そして安政6年(1859年)10月27日、「死罪」が言い渡され、即日処刑。
吉田松陰、享年30歳という若さでした。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂


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Posted by 左近将監 at 13:41Comments(0)TrackBack(0)吉田松陰

2007年12月15日

松陰 投獄される。

結局、長州にて野山獄に投獄された吉田松陰は、獄中にて囚人達に「孟子」の講義を始める。
のちに、吉田松陰の主著となる「講孟余話」としてまとめられたるのがここでの講義である。


投獄されてから1年2か月後、自宅謹慎となり実家の杉家で預かりの身となる。

このときに親族・近隣の者を相手に「孟子」の講義を再開し、それが長州藩全体にウワサが広がり、世に有名な松下村塾が誕生することになる!
松下村塾は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れることにより、後の高杉晋作の奇兵隊などに影響を及ぼしていく。
塾生には、久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿入江九一伊藤博文山県有朋前原一誠品川弥二郎山田顕義野村靖など傑物ばかりである。


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Posted by 左近将監 at 13:24Comments(0)TrackBack(0)吉田松陰

2007年12月14日

黒船来航 黒ひげじゃないよ!

嘉永6年6月、浦賀湾に黒船が来航する。
ペリー提督率いるアメリカ合衆国東インド艦隊である。

浦賀湾にて黒船を観察した松陰は大きな衝撃を受ける。
 「このままでは日本は列国の属国になってしまう」 西洋列国から日本を守るためには西洋先進国を知ることであると判断した松陰は、海外渡航を決心するのである。


嘉永7年(1854年)1月、ペリーが再び来航すると、松陰の密航計画を知った長州藩・金子重之助は松陰と共に密航を企てる。
(松陰と師弟関係を結んだのは、金子重之助が一番最初らしい)。

しかし、アメリカ側は松陰たちの渡航を拒絶。松陰の密航計画は失敗に終わるのだ。

松陰と金子は自首し、その後、萩に送還、松陰は士分が入れられる野山獄、金子は岩倉獄へと投獄される。

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Posted by 左近将監 at 14:39Comments(0)TrackBack(0)吉田松陰

2007年12月13日

吉田松陰について

幕末動乱期、明治維新を打ち立てることになる多数の門下生を輩出したことで有名な「松下村塾」その「松下村塾」の師範 吉田松陰とはどんな人だったんでしょう。

吉田松陰
天保元年8月4日(1830年9月20日)〜安政6年10月27日(1859年11月21日)

長州藩の下級武士・杉百合之助の二男として生まれるが、松陰は幼くして吉田家へ養子に入ることとなる。
その吉田家は、長州藩の兵学師範(山鹿流兵学)の家柄であり、吉田大助は松陰の叔父であった。
まもなく吉田大助が急死してしまう。
そのため、松陰は6歳にして吉田家を継ぎ、藩校明倫館の兵学師範になるのである。
わずか6歳で兵学の師範なんてすごいですよね。
そこで、松陰の兵学教育にあたったのが、山鹿流免許皆伝であった玉木文之進であった。
この玉木文之進も松陰の叔父であった。

玉木文之進の薫陶を受けながら、松陰は成長していく。松陰が11歳のとき、藩主毛利敬親の前で講義する。
松陰は山鹿流『武教全書』戦法篇を朗々と講じ、その講義は藩主をはじめ居並ぶ重臣たちも目を見張るほどのものであったらしい。
その日から「松本村に天才あり」と松陰の名は萩城下に知れることになる。

吉田松陰が21歳の時、藩に九州遊学の希望を申し出、九州へ遊学のたびに出るのだが、このときに葉山佐内宮部鼎蔵など様々な人物に会い見識を深めていく。

その後、参勤交代に同行して江戸にも遊学し、佐久間象山に出会うことになる。
主に江戸では、宮部鼎蔵らと共に東北の勉学の旅を計画するが、藩からの許可が出ないため松陰は脱藩することとなる。

江戸に戻った後、脱藩の罪で萩に送還されるが、才を惜しんだ藩主 毛利敬親から10年間の国内遊学の許可が出て再び江戸へ舞い戻る。

そしてあの事件が起こったのである。

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Posted by 左近将監 at 19:30Comments(0)TrackBack(0)吉田松陰