2008年07月26日
山岡鉄舟 高山陣屋跡にて
先週だが高山に涼をとりに行っていた。
さすがの高山も夏は暑い、が、大垣ほどではないようだ。
夜はけっこう快適だった。
高山は江戸時代初期には金森氏の領地だったが改易され、1692年から天領になっている。
そのため当然ながら江戸から役人が出向という形で赴任してくるのだが、その跡が高山の陣屋である。
その昔山岡鉄舟の父は高山に赴任していたので、ここであの山岡は幼少期を過ごしていたことになる。
「高山陣屋跡」は全国でただ一つの現存する陣屋の遺構として、国指定史跡になっている。
もちろん全体が残っているのではなく、役所と米蔵に門程度なんですけどね。
ここは始め高山藩の下屋敷だったが、天領になってからは飛騨地方の天領11万石を支配する代官や郡代の役所が置かれていた。
維新後は高山県庁や岐阜県事務所などに昭和40年代まで使われていた。

今では岐阜県内屈指の観光スポットである。
しかし鉄舟の象は、名物のみたらしだんご屋に隠れてひっそりとたたずんでいるだけであり、誰もが気にしないという状態であった。
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高山は江戸時代初期には金森氏の領地だったが改易され、1692年から天領になっている。
そのため当然ながら江戸から役人が出向という形で赴任してくるのだが、その跡が高山の陣屋である。
その昔山岡鉄舟の父は高山に赴任していたので、ここであの山岡は幼少期を過ごしていたことになる。
「高山陣屋跡」は全国でただ一つの現存する陣屋の遺構として、国指定史跡になっている。
もちろん全体が残っているのではなく、役所と米蔵に門程度なんですけどね。
ここは始め高山藩の下屋敷だったが、天領になってからは飛騨地方の天領11万石を支配する代官や郡代の役所が置かれていた。
維新後は高山県庁や岐阜県事務所などに昭和40年代まで使われていた。

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タグ :山岡鉄舟
2008年05月25日
中島三郎助 幕末の砲撃手
中島三郎助は1821年(文政4年)浦賀奉行所与力・中島清司の長男として浦賀に生まれる
三郎助は若い頃より勉学に励み、特に砲術を得意としたという。
また俳諧、和歌を父・清司より手ほどきを受けたと伝えられている。
1835年(天保6年)浦賀奉行与力見習となり、1837年(天保8年)のモリソン号事件で砲手を務め、褒美を受けている。
1849年(嘉永2年)には父の番代として、浦賀奉行与力に召抱えられることになる。
天然理心流・剣術目録、北辰一刀流・剣術目録など武士として剣術・槍術を備え、砲術に関しても諸流派の免許皆伝、更に大筒鋳造、砲台建設に至るまでの専門技術も備えたスペシャリストであった。
中島に一大仕事がおとずれる、それは1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航するのだ。
当時の浦賀奉行 戸田氏栄の副奉行と称して、通詞堀達之助を連れて、旗艦サスケハナに乗船した。
その後、浦賀奉行戸田氏栄ら重役に代わり、香山栄左衛門とともに米国使者の応対を勤めている。
アメリカ側の記録では、船体構造、搭載砲、蒸気機関を入念に調査したことから、密偵のようだと記されている。
ペリー帰国後、阿部正弘に提出した意見書で軍艦の建造と、蒸気船を含む艦隊の設置を主張し、1854年(嘉永7年)に完成した日本初の洋式軍艦鳳凰丸の製造掛の中心として活躍し、完成後はその副将に任命された。
1855年(安政2年)幕府が設立した長崎海軍伝習所に第一期生として入所、造船学・機関学・航海術を修め、帰府後、築地軍艦操練所教授方出役に任ぜらる。
1859年(安政6年)浦賀の長川を塞き止めて日本初のドライドックを建設、遣米使節に随行する咸臨丸の修理を行っている。
もともと喘息の持病があったようで、様々な職につくものの病に見舞われ、富士見宝蔵番格軍艦頭取出役に任ぜられたものの、再び病気となり、1866年(慶応2年)には出役御免、同年末には与力の職も、長男・中島恒太郎に譲っている。
しかし、三郎助の才能を眠らせておくわけには行かない幕府は、1867年(慶応3年)に再奉公を命じられ、軍艦組出役、小十人格軍艦役勤方を経て、両番上席軍艦役に進んだ。

1868年(慶応4年)戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁榎本武揚らと行動を共にして江戸品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に至った。
箱館政権下では箱館奉行並を勤め、戦時は本陣前衛の千代ヶ岡陣屋を守備し陣屋隊長として奮戦、箱館市中が新政府軍に占領されたため新政府軍より降伏勧告を受けるもこれを拒否。
徹底抗戦を主張する。本陣五稜郭降伏2日前の1869年(明治2年)長男恒太郎・次男英次郎・腹心の柴田伸助と共に戦死。中島三郎助 享年49歳。
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三郎助は若い頃より勉学に励み、特に砲術を得意としたという。
また俳諧、和歌を父・清司より手ほどきを受けたと伝えられている。
1835年(天保6年)浦賀奉行与力見習となり、1837年(天保8年)のモリソン号事件で砲手を務め、褒美を受けている。
1849年(嘉永2年)には父の番代として、浦賀奉行与力に召抱えられることになる。
天然理心流・剣術目録、北辰一刀流・剣術目録など武士として剣術・槍術を備え、砲術に関しても諸流派の免許皆伝、更に大筒鋳造、砲台建設に至るまでの専門技術も備えたスペシャリストであった。
中島に一大仕事がおとずれる、それは1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航するのだ。
当時の浦賀奉行 戸田氏栄の副奉行と称して、通詞堀達之助を連れて、旗艦サスケハナに乗船した。
その後、浦賀奉行戸田氏栄ら重役に代わり、香山栄左衛門とともに米国使者の応対を勤めている。
アメリカ側の記録では、船体構造、搭載砲、蒸気機関を入念に調査したことから、密偵のようだと記されている。
ペリー帰国後、阿部正弘に提出した意見書で軍艦の建造と、蒸気船を含む艦隊の設置を主張し、1854年(嘉永7年)に完成した日本初の洋式軍艦鳳凰丸の製造掛の中心として活躍し、完成後はその副将に任命された。
1855年(安政2年)幕府が設立した長崎海軍伝習所に第一期生として入所、造船学・機関学・航海術を修め、帰府後、築地軍艦操練所教授方出役に任ぜらる。
1859年(安政6年)浦賀の長川を塞き止めて日本初のドライドックを建設、遣米使節に随行する咸臨丸の修理を行っている。
もともと喘息の持病があったようで、様々な職につくものの病に見舞われ、富士見宝蔵番格軍艦頭取出役に任ぜられたものの、再び病気となり、1866年(慶応2年)には出役御免、同年末には与力の職も、長男・中島恒太郎に譲っている。
しかし、三郎助の才能を眠らせておくわけには行かない幕府は、1867年(慶応3年)に再奉公を命じられ、軍艦組出役、小十人格軍艦役勤方を経て、両番上席軍艦役に進んだ。

1868年(慶応4年)戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁榎本武揚らと行動を共にして江戸品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に至った。
箱館政権下では箱館奉行並を勤め、戦時は本陣前衛の千代ヶ岡陣屋を守備し陣屋隊長として奮戦、箱館市中が新政府軍に占領されたため新政府軍より降伏勧告を受けるもこれを拒否。
徹底抗戦を主張する。本陣五稜郭降伏2日前の1869年(明治2年)長男恒太郎・次男英次郎・腹心の柴田伸助と共に戦死。中島三郎助 享年49歳。
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2008年05月23日
苦悩の老中 阿部正弘
幕末の一番難しいときに老中筆頭になっていた阿部正弘。
阿部に対する評価はまちまちで、内政・外交の姿勢から「優柔不断」あるいは「八方美人」な指導者として見られ、低い評価をされがちであった。

実際、1853年(嘉永6年)のペリー艦隊来航から1854年(嘉永7年)日米和親条約締結に至るまで1年余りの猶予があったが、朝廷から全国の外様大名まで幅広く意見を募った挙句、何ら対策を打ち出せず時間の引き延ばしを図ろうとするなど、老中としてリーダーシップを発揮しようとする姿勢は見られないと言われている。
しかし、これは阿部個人の資質の問題ではなく、幕府の体質と当時の日本の文化文明の違いといえるものではなだろうか。
阿部の前に老中であった水野忠邦は強硬路線に反発を受け失脚しているし、後に阿部の方針を否定していた井伊直弼は幕閣どころか朝廷や国内各層の反感をも買って国内を混乱に陥れている。
こうした事を考えると、阿部の協調路線は幕政を円滑に運営する方策であった、しかし幕府の威光よりも混乱回避を優先した姿勢は「幕府を亡ぼす者は阿部伊勢守なり」と言われるようになり、評価としては、よく言えば柔軟な人であり、悪く言えば主体性のない人だと思われる。
しかしこの激動の時代にはやはり阿部のような広く意見を求める政策は適していたのではないだろうか。
そんな阿部正弘は1819年(文政2年)第5代備後福山藩主・阿部正精の6男として生まれた。
兄の阿部正寧が第6代藩主を継ぐが、病に伏せがちだったため、1836年(天保7年)兄に代わり第7代藩主に就任することになる。
1843年(天保14年)25歳で老中となり、水野忠邦が天保の改革の挫折により2度の失脚のたため、老中首座となる。
幕政において、1845年(弘化2年)から海岸防禦御用掛を設置して外交・国防問題に当たらせた。
また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震など大胆な人事登用を行っていった。
そんな中とんでもない知らせが阿倍のもとに知らされる。
1853年(嘉永6年)マシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。
ペリーは江戸幕府に対し開国と通商を求め、期限を1年としていったん帰国していく。
阿部はこの国難を乗り切るため朝廷を始め外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募ったが、結局有効な対策を打ち出せず時間だけが経過していった。
そうこうしていると長崎にロシアのプチャーチン艦隊も来航して通商を求めてきた。
阿部は松平春嶽や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命。これが諸大名の幕政へ介入する原因となり、結果的に幕府の権威を弱めることに繋がっていく。
もはやこの時点で幕府は自力で問題を解決できる力がなかったのかもしれない。
なお阿部は異国船打払令の復活を度々諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。
結局、積極的な政策を見出せないまま、事態を穏便にまとめる形で、翌、1854年(嘉永7年)ペリーの再来により日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げた。
これを不満に思う諸藩や志士達は激しい行動に出始める。
1855年(安政2年)攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の老中 松平乗全と松平忠優の両名を罷免したことが、井伊直弼らの怒りをかい、孤立を恐れた阿部は開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。
こうした中、阿部は江川英龍、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や洋学所、長崎海軍伝習所などを創設した。
また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革に取り組んだ。
結果的には倒幕の志士達を育てるような形も見受けられるが、これも時代の流れであったのだろう。
阿部自身が悪いわけではない。
1857年(安政4年)阿部は老中在任のまま急死してしまう。
長年の心労が原因だったのかもしれない。
阿部正弘 享年39歳。時代に流されていった人だった。
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阿部に対する評価はまちまちで、内政・外交の姿勢から「優柔不断」あるいは「八方美人」な指導者として見られ、低い評価をされがちであった。

実際、1853年(嘉永6年)のペリー艦隊来航から1854年(嘉永7年)日米和親条約締結に至るまで1年余りの猶予があったが、朝廷から全国の外様大名まで幅広く意見を募った挙句、何ら対策を打ち出せず時間の引き延ばしを図ろうとするなど、老中としてリーダーシップを発揮しようとする姿勢は見られないと言われている。
しかし、これは阿部個人の資質の問題ではなく、幕府の体質と当時の日本の文化文明の違いといえるものではなだろうか。
阿部の前に老中であった水野忠邦は強硬路線に反発を受け失脚しているし、後に阿部の方針を否定していた井伊直弼は幕閣どころか朝廷や国内各層の反感をも買って国内を混乱に陥れている。
こうした事を考えると、阿部の協調路線は幕政を円滑に運営する方策であった、しかし幕府の威光よりも混乱回避を優先した姿勢は「幕府を亡ぼす者は阿部伊勢守なり」と言われるようになり、評価としては、よく言えば柔軟な人であり、悪く言えば主体性のない人だと思われる。
しかしこの激動の時代にはやはり阿部のような広く意見を求める政策は適していたのではないだろうか。
そんな阿部正弘は1819年(文政2年)第5代備後福山藩主・阿部正精の6男として生まれた。
兄の阿部正寧が第6代藩主を継ぐが、病に伏せがちだったため、1836年(天保7年)兄に代わり第7代藩主に就任することになる。
1843年(天保14年)25歳で老中となり、水野忠邦が天保の改革の挫折により2度の失脚のたため、老中首座となる。
幕政において、1845年(弘化2年)から海岸防禦御用掛を設置して外交・国防問題に当たらせた。
また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震など大胆な人事登用を行っていった。
そんな中とんでもない知らせが阿倍のもとに知らされる。
1853年(嘉永6年)マシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。
ペリーは江戸幕府に対し開国と通商を求め、期限を1年としていったん帰国していく。
阿部はこの国難を乗り切るため朝廷を始め外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募ったが、結局有効な対策を打ち出せず時間だけが経過していった。
そうこうしていると長崎にロシアのプチャーチン艦隊も来航して通商を求めてきた。
阿部は松平春嶽や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命。これが諸大名の幕政へ介入する原因となり、結果的に幕府の権威を弱めることに繋がっていく。
もはやこの時点で幕府は自力で問題を解決できる力がなかったのかもしれない。
なお阿部は異国船打払令の復活を度々諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。
結局、積極的な政策を見出せないまま、事態を穏便にまとめる形で、翌、1854年(嘉永7年)ペリーの再来により日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げた。
これを不満に思う諸藩や志士達は激しい行動に出始める。
1855年(安政2年)攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の老中 松平乗全と松平忠優の両名を罷免したことが、井伊直弼らの怒りをかい、孤立を恐れた阿部は開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。
こうした中、阿部は江川英龍、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や洋学所、長崎海軍伝習所などを創設した。
また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革に取り組んだ。
結果的には倒幕の志士達を育てるような形も見受けられるが、これも時代の流れであったのだろう。
阿部自身が悪いわけではない。
1857年(安政4年)阿部は老中在任のまま急死してしまう。
長年の心労が原因だったのかもしれない。
阿部正弘 享年39歳。時代に流されていった人だった。
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2008年04月28日
江川太郎左衛門 世直し江川大明神
幕末に多くの志士達が学んだ江川太郎左衛門の砲術。
江川英龍は1801年(享和元) 父江川英毅の次男として韮山で生まれる。
江川家は鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄である。代々の当主は太郎左衛門を名乗り、江戸時代には伊豆韮山代官として天領の民政に従事していた。

江戸に出て、神田の神道無念流、岡田十松道場に入門し剣術を学ぶ一方、兄弟子の斎藤弥九郎と懇意になり代官地の領内を隠密に歩き回ったりしている。
1821年(文政4年)兄の江川英虎が病死してしまう。このたため英龍は嫡子となり、江川家を継ぐことになるのだ。
1835年(天保6年)英龍が35歳のとき父・英毅が死去する。これにより英龍は代官職を継ぐ。
父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した政治を行っていたので、英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行った。
また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した。こうした領民を思った英竜の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛したという。
江川英龍が代官職を継嗣してからは異国の船がしばしば現れ、幕府も異国船打払令を制定していた。
江川としても代官としての管轄区域には伊豆・相模沿岸の太平洋から江戸湾への入り口に当たる海防上重要な地域が含まれており、この問題に大きな関心と危機感を持っていた。
ちょうどそのころ川路聖謨・羽倉簡堂の紹介で江川は渡辺崋山・高野長英ら尚歯会の人物と出会うことになる。
渡辺崋山らは海防問題を改革する必要性を主張。
ところが当時の状況を見れば肝心の沿岸備砲は旧式ばかりで、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わるものしかなく、尚歯会は洋学知識の積極的な導入を図っていく。
江川は積極的に知識の吸収を行った。
そうした中、江川と同様に海防問題を抱える崋山は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かすことを考える。
しかし、幕府内の蘭学を嫌う鳥居耀蔵ら保守勢力がこの動きを不服とし、鳥居は過去に江川英龍と東京湾岸の測量手法を巡って争った際に、崋山の人脈と知識を借りた英龍に敗れ、老中・水野忠邦に叱責された経緯があり、職務上の同僚で目の上のたんこぶである英龍、そして渡辺崋山らが気に入らなかった。
1839年(天保10年)鳥居は冤罪をでっち上げ、渡辺崋山・高野長英らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやる。
しかし江川英龍に関しては江川を高く評価する水野忠邦に庇われ、罪に落とされなかったのだ。
その後、江川は崋山らの遺志を継いで長崎へと赴いて高島に弟子入りし、近代砲術を学ぶとともに幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。
これが実現し、江川は水野より正式な幕命として高島秋帆への弟子入りを認められることになり、以後は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育していく。
江川の門を叩いた人物には佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎などが多くの志士達が彼の門下で学んでいる。
水野忠邦が失脚した後に老中となった阿部正弘にも評価され、彼の命で台場を作成。
同様に反射炉も作り、銃砲製作も行った。また、造船技術の向上にも力を注ぎ、さらに近代的装備による農兵軍の組織を企図したが、その途上で江川は病死してしまう。
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江川英龍は1801年(享和元) 父江川英毅の次男として韮山で生まれる。
江川家は鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄である。代々の当主は太郎左衛門を名乗り、江戸時代には伊豆韮山代官として天領の民政に従事していた。

江戸に出て、神田の神道無念流、岡田十松道場に入門し剣術を学ぶ一方、兄弟子の斎藤弥九郎と懇意になり代官地の領内を隠密に歩き回ったりしている。
1821年(文政4年)兄の江川英虎が病死してしまう。このたため英龍は嫡子となり、江川家を継ぐことになるのだ。
1835年(天保6年)英龍が35歳のとき父・英毅が死去する。これにより英龍は代官職を継ぐ。
父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した政治を行っていたので、英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行った。
また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した。こうした領民を思った英竜の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛したという。
江川英龍が代官職を継嗣してからは異国の船がしばしば現れ、幕府も異国船打払令を制定していた。
江川としても代官としての管轄区域には伊豆・相模沿岸の太平洋から江戸湾への入り口に当たる海防上重要な地域が含まれており、この問題に大きな関心と危機感を持っていた。
ちょうどそのころ川路聖謨・羽倉簡堂の紹介で江川は渡辺崋山・高野長英ら尚歯会の人物と出会うことになる。
渡辺崋山らは海防問題を改革する必要性を主張。
ところが当時の状況を見れば肝心の沿岸備砲は旧式ばかりで、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わるものしかなく、尚歯会は洋学知識の積極的な導入を図っていく。
江川は積極的に知識の吸収を行った。
そうした中、江川と同様に海防問題を抱える崋山は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かすことを考える。
しかし、幕府内の蘭学を嫌う鳥居耀蔵ら保守勢力がこの動きを不服とし、鳥居は過去に江川英龍と東京湾岸の測量手法を巡って争った際に、崋山の人脈と知識を借りた英龍に敗れ、老中・水野忠邦に叱責された経緯があり、職務上の同僚で目の上のたんこぶである英龍、そして渡辺崋山らが気に入らなかった。
1839年(天保10年)鳥居は冤罪をでっち上げ、渡辺崋山・高野長英らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやる。
しかし江川英龍に関しては江川を高く評価する水野忠邦に庇われ、罪に落とされなかったのだ。
その後、江川は崋山らの遺志を継いで長崎へと赴いて高島に弟子入りし、近代砲術を学ぶとともに幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。
これが実現し、江川は水野より正式な幕命として高島秋帆への弟子入りを認められることになり、以後は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育していく。
江川の門を叩いた人物には佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎などが多くの志士達が彼の門下で学んでいる。
水野忠邦が失脚した後に老中となった阿部正弘にも評価され、彼の命で台場を作成。
同様に反射炉も作り、銃砲製作も行った。また、造船技術の向上にも力を注ぎ、さらに近代的装備による農兵軍の組織を企図したが、その途上で江川は病死してしまう。
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2008年04月18日
山岡鉄舟の赤誠
1868年(慶応4年)1月鳥羽・伏見の戦いにおいて大敗を喫した幕府軍は迷走を始める。
まず徳川慶喜は、部下を見捨ててさっさと江戸に逃げ帰り、新政府軍との徹底抗戦を主張する小栗上野介たちの意見を退け、2月に勝海舟を陸軍総裁に、大久保一翁を会計総裁に起用。
この時点で慶喜は新政府軍への「恭順」の意思を固め、和平派の勝海舟たちに後を任せ、自らは蟄居してしまいます。
幕府軍総崩れにより、新政府軍は錦の御旗を押したて東上してくることになりました。
山岡鉄舟は寛永寺大慈院で謹慎中の将軍徳川慶喜の恭順の意を、駿府の官軍総督府の西郷隆盛へ伝える使者の役を担って、その行動の了解を得ようと幕府の要職にあった勝海舟に会いにいくのだ。

このときの山岡は勝に対し凛とした態度で臨み、勝もその姿をみて山岡ならこの大難をやってのけると確信した。
勝海舟は西郷隆盛への手紙を託し、「口上での談判は山岡おぬしに一任する。うまくやってくれよ」と言い、案内役に薩摩藩の益満休之助をつけて、送り出すことにした。
こうして1868年3月9日山岡は官軍の駐留する駿府に向かい、山岡は官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。
無事に西郷のもとに着いた山岡は早速、勝からの手紙を西郷に見せるのだった。
一読した西郷は降伏条件を提示するのである。
このとき、西郷が降伏条件として示したのは、
一「江戸城を明け渡すこと」・二「城中の人数を向島に移すこと」・三「軍艦を渡すこと」四「兵器を渡すこと」五「徳川慶喜を備前藩へあずけること」の五箇条であった。
山岡は条件をもっともだと思った。
しかし、徳川慶喜を備前藩へあずけるの一条は承服しかねた。
勝から「談判は山岡おぬしに一任する」という言葉を聞いていた山岡はこう言い放つ。
「立場が違って、もし西郷先生が私ならどのようにご返事なさいますか」
西郷はしばらく黙してしまった。
山岡はこのとき西郷の顔から目を離さず、キッと睨んでいたという。
西郷は山岡の主君を思う心に胸うたれ、我が身に変えても善処するといい、この一条を変えるのを承諾させたのだ。
こうして山岡鉄舟は江戸に戻っていき勝海舟に会談の報告し、勝もこの難問を処理した山岡を慰労した。
勝は「山岡氏沈勇にして、その識高く、よく君上の英意を演説して残す所なし。もっとも以って敬服するにた堪えたり」と山岡の捨て身の働きには心から感服せざるを得なかった。
江戸に入って来た官軍の西郷を勝は芝の愛宕山上に招待し江戸城下の有様を眺望させた。
このとき西郷は「さすが徳川公、良いお宝をお持ちだ」と語る。
勝が良い宝とは?と聞くと「山岡さんのことだ」と云う。
西郷は「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬといったような始末に困る人ですが、しかしあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合う訳には参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう」と言い褒めた。
1868年(慶応4年)3月14日勝海舟が、薩摩藩蔵屋敷を訪ね、東征軍参謀西郷隆盛と会談。
この会談によって東征軍の総攻撃は中止となり、江戸城の「無血開城」が実現する。
この会談の下地を作ったのは紛れもなく山岡鉄舟であり、その山岡を信用し全てを託した勝海舟の眼力もあり、そしてなにより西郷隆盛の将来を見通した目だったのだろう。
江戸は戦火を免れ、時代は明治へと向かっていくのであった。
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山岡鉄舟の武士道 Price740 円
幕末三舟伝 Price2,940 円
活人剣山岡鉄舟Price1,680 円
禅と武士道Price819 円
まず徳川慶喜は、部下を見捨ててさっさと江戸に逃げ帰り、新政府軍との徹底抗戦を主張する小栗上野介たちの意見を退け、2月に勝海舟を陸軍総裁に、大久保一翁を会計総裁に起用。
この時点で慶喜は新政府軍への「恭順」の意思を固め、和平派の勝海舟たちに後を任せ、自らは蟄居してしまいます。
幕府軍総崩れにより、新政府軍は錦の御旗を押したて東上してくることになりました。
山岡鉄舟は寛永寺大慈院で謹慎中の将軍徳川慶喜の恭順の意を、駿府の官軍総督府の西郷隆盛へ伝える使者の役を担って、その行動の了解を得ようと幕府の要職にあった勝海舟に会いにいくのだ。

このときの山岡は勝に対し凛とした態度で臨み、勝もその姿をみて山岡ならこの大難をやってのけると確信した。
勝海舟は西郷隆盛への手紙を託し、「口上での談判は山岡おぬしに一任する。うまくやってくれよ」と言い、案内役に薩摩藩の益満休之助をつけて、送り出すことにした。
こうして1868年3月9日山岡は官軍の駐留する駿府に向かい、山岡は官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。
無事に西郷のもとに着いた山岡は早速、勝からの手紙を西郷に見せるのだった。
一読した西郷は降伏条件を提示するのである。
このとき、西郷が降伏条件として示したのは、
一「江戸城を明け渡すこと」・二「城中の人数を向島に移すこと」・三「軍艦を渡すこと」四「兵器を渡すこと」五「徳川慶喜を備前藩へあずけること」の五箇条であった。
山岡は条件をもっともだと思った。
しかし、徳川慶喜を備前藩へあずけるの一条は承服しかねた。
勝から「談判は山岡おぬしに一任する」という言葉を聞いていた山岡はこう言い放つ。
「立場が違って、もし西郷先生が私ならどのようにご返事なさいますか」
西郷はしばらく黙してしまった。
山岡はこのとき西郷の顔から目を離さず、キッと睨んでいたという。
西郷は山岡の主君を思う心に胸うたれ、我が身に変えても善処するといい、この一条を変えるのを承諾させたのだ。
こうして山岡鉄舟は江戸に戻っていき勝海舟に会談の報告し、勝もこの難問を処理した山岡を慰労した。
勝は「山岡氏沈勇にして、その識高く、よく君上の英意を演説して残す所なし。もっとも以って敬服するにた堪えたり」と山岡の捨て身の働きには心から感服せざるを得なかった。
江戸に入って来た官軍の西郷を勝は芝の愛宕山上に招待し江戸城下の有様を眺望させた。
このとき西郷は「さすが徳川公、良いお宝をお持ちだ」と語る。
勝が良い宝とは?と聞くと「山岡さんのことだ」と云う。
西郷は「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬといったような始末に困る人ですが、しかしあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合う訳には参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう」と言い褒めた。
1868年(慶応4年)3月14日勝海舟が、薩摩藩蔵屋敷を訪ね、東征軍参謀西郷隆盛と会談。
この会談によって東征軍の総攻撃は中止となり、江戸城の「無血開城」が実現する。
この会談の下地を作ったのは紛れもなく山岡鉄舟であり、その山岡を信用し全てを託した勝海舟の眼力もあり、そしてなにより西郷隆盛の将来を見通した目だったのだろう。
江戸は戦火を免れ、時代は明治へと向かっていくのであった。
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2008年04月17日
江戸城無血開城の立役者 山岡鉄舟
山岡鉄舟は1836年(天保7年)江戸の本所に御蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として生まれる。

9歳の頃より久須美閑適斎より神陰流剣術を学び、1845年(弘化2年)飛騨郡代となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過ごすこととなる。
弘法大師流入木道51世の岩佐一亭に書を学び、15歳に52世を受け継ぎ、一楽斎と号すことになるのだ。
また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶが、1852年(嘉永5年)に父の死に伴い、江戸へ戻ると、井上清虎の援助により講武所に入り、千葉周作らに剣術を学ぶ。
また同時期、山岡静山に槍術を学んでいる。
静山が急死すると、静山の弟・高橋泥舟らに望まれて山岡家の養子となり、静山の妹・英子と結婚し山岡家をつぐことになる。
写真を見ても分かるように山岡鉄舟は身長六尺二寸(188センチ)、体重二十八貫(105キロ)と当時としては並外れた体格であった。
1857年(安政4年)清河八郎らとともに尊王攘夷を標榜する山岡達は「国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない」という意味をこめた「虎尾の会」をを結成する。
集まったのは直参旗本の山岡のほかに、松岡万、薩摩藩士の伊牟田尚平、益満休之助をはじめ15名であった。
目的は尊皇攘夷ただ一つだった。
しかし翌1858年(安政5年)大老井伊直弼は「日米修好通商条約」調印してしまう。
これに反対した吉田松陰・橋本佐内らを安政の大獄により処刑していってしまうのである。
1863年(文久3年)山岡鉄舟は浪士組(新撰組の前身)取締役となり、将軍徳川家茂の先供として上洛するのだが、間もなく清河八郎の動きに異変を感じた幕府は浪士組を呼び戻し、清河は幕府の刺客・佐々木只三郎、窪田泉太郎などに暗殺されてしまう。
清河暗殺後、山岡は謹慎処分となり、浪士組は新徴組として再組織されることになる。
浪士組みの中で京に残留を願い出たものが近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らであった。
芹沢らは壬生浪士組となり、のちの新撰組と発展していくことになる。
この頃、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする。
時代は倒幕への勢いは増していく中山岡にはさらなる仕事が待っていた。
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9歳の頃より久須美閑適斎より神陰流剣術を学び、1845年(弘化2年)飛騨郡代となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過ごすこととなる。
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また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶが、1852年(嘉永5年)に父の死に伴い、江戸へ戻ると、井上清虎の援助により講武所に入り、千葉周作らに剣術を学ぶ。
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静山が急死すると、静山の弟・高橋泥舟らに望まれて山岡家の養子となり、静山の妹・英子と結婚し山岡家をつぐことになる。
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集まったのは直参旗本の山岡のほかに、松岡万、薩摩藩士の伊牟田尚平、益満休之助をはじめ15名であった。
目的は尊皇攘夷ただ一つだった。
しかし翌1858年(安政5年)大老井伊直弼は「日米修好通商条約」調印してしまう。
これに反対した吉田松陰・橋本佐内らを安政の大獄により処刑していってしまうのである。
1863年(文久3年)山岡鉄舟は浪士組(新撰組の前身)取締役となり、将軍徳川家茂の先供として上洛するのだが、間もなく清河八郎の動きに異変を感じた幕府は浪士組を呼び戻し、清河は幕府の刺客・佐々木只三郎、窪田泉太郎などに暗殺されてしまう。
清河暗殺後、山岡は謹慎処分となり、浪士組は新徴組として再組織されることになる。
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