2008年07月06日
土佐藩の志士達
土佐藩の志士達
○ 吉村寅太郎---土佐の四天王
○ 岡田以蔵---人斬りの人生
○ 土方久元---薩長同盟の尽力者
○ 田中光顕---陸援隊副隊長
○ 後藤象二郎---土佐の舵取り
○ 橋本鉄猪---我ら王臣
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2008年07月05日
橋本鉄猪 我らは王臣
岩倉具視を中岡に紹介した男 橋本鉄猪。
橋本鉄猪は1835年(天保6年)高岡郡佐川郷の深尾家家臣橋本喜問太の長男として生まれる。名を有蔵。のち変名で大橋慎三と名乗る。

1861年(文久元年)武市瑞山により土佐勤王党が結成されると鉄猪は139番目に加盟しています。
加盟に関しての時期は詳しくは分からないが、高知城下から島村寿之助が加盟連名書を佐川へ持ち込んだ時に同郷の井原応輔らと共に加盟したのではないかと思われる。
鉄猪は勤王党に加盟した頃に一度脱藩を企てましたが、武市瑞山に説得されて脱藩を中止している。
1862年(文久2年)の姉小路公知暗殺事件の時には上洛して刺客の探索に尽力した。
1863年(文久3年)8.18の政変が起こると時勢は尊攘派排除の動きが強くなり、土佐においても土佐勤王党への弾圧が開始されると佐川郷の勤王党員は家老深尾鼎により親類預けなどの謹慎処分を受け、鉄猪も勤事控自宅謹慎となっています。
その後、1864年(元治元年)禁門の変が起こると、鉄猪は8月14日浜田辰弥、那須盛馬、井原応輔、池大六と共に脱藩したのです。
鉄猪らは長州三田尻の招賢閣に入る。
しかしこの頃の長州藩は藩論確立や幕府の長州征伐の情報も入っており混乱していました。
禁門の変により、久坂玄瑞や入江九一、寺島忠三郎など主だった者は討死にしており、桂小五郎も行方知れずになっていた。
そこで橋本鉄猪らは大坂に出ることにするのです。
目的は集結する幕府軍を混乱させる為に大坂城を焼き討ちする計画に加わる為でした。
しかしこの計画は新撰組により感づかれ、1865年(元治2年)鉄猪らは新撰組の急襲を受け、大和国十津川郷に逃れ、この時に名前を大橋慎三と改名しています。
その後、橋本鉄猪は京へ戻ります。
鉄猪は1866年(慶応2年)どんな経緯かは分かりませんが、入京して岩倉具視と面会しています。
このときに岩倉の見識の高さに驚き、心酔した鉄猪は中岡慎太郎を岩倉に紹介します。
これが王政復古の大号令に繋がっていくのです。
中岡は坂本龍馬を岩倉に紹介し、時代は次第にある方向性を見つけ出していきます。
1867年(慶応3年)陸援隊が結成されると、橋本鉄猪は田中光顕と共に陸援隊の副長となります。
そんな中あの悲劇が起こります。
近江屋襲撃事件。坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺されたあとは陸援隊の隊務を処理しています。
12月8日には中岡が生前より長州藩士 伊藤俊輔らと計画していた鷲尾隆聚を擁して紀州高野山で挙兵する作戦を陸援隊として実行する。
これには岩倉具視や中山忠能らも賛同しており、鉄猪は参謀として活躍します。
そして大政奉還後の徳川家の辞官問題で鳥羽伏見の戦いがはじまり、鉄猪ら陸援隊士は京都の朝廷軍と相応して紀州や大坂の幕府軍を牽制するなどの活躍を見せます。
維新後の鉄猪は政府に出仕して諸官を歴任しています。
しかし、鉄猪は1872年(明治5年)6月2日に急病により病没しています。
橋本鉄猪 享年38歳でした。
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橋本鉄猪は1835年(天保6年)高岡郡佐川郷の深尾家家臣橋本喜問太の長男として生まれる。名を有蔵。のち変名で大橋慎三と名乗る。

1861年(文久元年)武市瑞山により土佐勤王党が結成されると鉄猪は139番目に加盟しています。
加盟に関しての時期は詳しくは分からないが、高知城下から島村寿之助が加盟連名書を佐川へ持ち込んだ時に同郷の井原応輔らと共に加盟したのではないかと思われる。
鉄猪は勤王党に加盟した頃に一度脱藩を企てましたが、武市瑞山に説得されて脱藩を中止している。
1862年(文久2年)の姉小路公知暗殺事件の時には上洛して刺客の探索に尽力した。
1863年(文久3年)8.18の政変が起こると時勢は尊攘派排除の動きが強くなり、土佐においても土佐勤王党への弾圧が開始されると佐川郷の勤王党員は家老深尾鼎により親類預けなどの謹慎処分を受け、鉄猪も勤事控自宅謹慎となっています。
その後、1864年(元治元年)禁門の変が起こると、鉄猪は8月14日浜田辰弥、那須盛馬、井原応輔、池大六と共に脱藩したのです。
鉄猪らは長州三田尻の招賢閣に入る。
しかしこの頃の長州藩は藩論確立や幕府の長州征伐の情報も入っており混乱していました。
禁門の変により、久坂玄瑞や入江九一、寺島忠三郎など主だった者は討死にしており、桂小五郎も行方知れずになっていた。
そこで橋本鉄猪らは大坂に出ることにするのです。
目的は集結する幕府軍を混乱させる為に大坂城を焼き討ちする計画に加わる為でした。
しかしこの計画は新撰組により感づかれ、1865年(元治2年)鉄猪らは新撰組の急襲を受け、大和国十津川郷に逃れ、この時に名前を大橋慎三と改名しています。
その後、橋本鉄猪は京へ戻ります。
鉄猪は1866年(慶応2年)どんな経緯かは分かりませんが、入京して岩倉具視と面会しています。
このときに岩倉の見識の高さに驚き、心酔した鉄猪は中岡慎太郎を岩倉に紹介します。
これが王政復古の大号令に繋がっていくのです。
中岡は坂本龍馬を岩倉に紹介し、時代は次第にある方向性を見つけ出していきます。
1867年(慶応3年)陸援隊が結成されると、橋本鉄猪は田中光顕と共に陸援隊の副長となります。
そんな中あの悲劇が起こります。
近江屋襲撃事件。坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺されたあとは陸援隊の隊務を処理しています。
12月8日には中岡が生前より長州藩士 伊藤俊輔らと計画していた鷲尾隆聚を擁して紀州高野山で挙兵する作戦を陸援隊として実行する。
これには岩倉具視や中山忠能らも賛同しており、鉄猪は参謀として活躍します。
そして大政奉還後の徳川家の辞官問題で鳥羽伏見の戦いがはじまり、鉄猪ら陸援隊士は京都の朝廷軍と相応して紀州や大坂の幕府軍を牽制するなどの活躍を見せます。
維新後の鉄猪は政府に出仕して諸官を歴任しています。
しかし、鉄猪は1872年(明治5年)6月2日に急病により病没しています。
橋本鉄猪 享年38歳でした。
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2008年06月06日
後藤象二郎 土佐の舵取り
土佐藩の高知城下にて上士 後藤助右衛門の長男として生まれた後藤象二郎。
将来共に土佐を背負い活躍する板垣退助とは幼い頃からの知り合いであり、後藤の姉の夫で、義理の叔父である吉田東洋の塾で板垣らと共に学んでいる。
土佐には独特の身分差別があり、上士と郷士の差は激しかった。

後籐たち上士はその傲慢な態度から郷士達の目の仇にされていたのだ。
無理もない話しである。
1858年(安政5年)より、吉田東洋の進言もあって、幡多郡奉行、1861年(文久元年)には御近習目付、その後は普請奉行として土佐藩政で活躍するのだが、翌1862年(文久2年)に吉田東洋が土佐勤王党の刺客、那須信吾、大石団蔵らに暗殺されることにより、土佐藩は尊王攘夷へと流れていくことで、拠り所を失った後藤は失脚するのである。
しかし、1863年(文久3年)8・18の政変により尊王攘夷の急先鋒の長州藩が失脚すると、時代は再び公武合体へと傾く。
安政の大獄での謹慎を解かれて藩政を掌握した前藩主山内容堂は土佐勤王党の弾圧を行うようになる。
後藤もこれにより役職を得て、また前藩主山内容堂の信頼を得たのもこの頃だと思われる。
この年に、江戸の開成所にて蘭学や航海術、また当時はやり始めた英学も習っている 。
元治元年(1864年)に、大監察に昇進した。後藤達は叔父・吉田東洋の仇とばかりに土佐勤王党を責める。
武市は投獄され、拷問こそ受けなかったが他の志士達が拷問を受けて遂に自白し、武市は切腹となる。
この武市の死により、土佐勤王党は事実上消滅した。土佐は完全に公武合体に統一された。
その後後藤象二郎は参政として藩の実権を握るようになります。
後藤は殖産興業の機関として開成館を設立。自ら総裁として中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに上海に買い付けに出向くなどしました。さらに長崎に開成館の出張所として土佐商会を建設し、岩崎弥太郎を責任者として置きます。
この頃後藤は、土佐藩の文明的な遅れや財政難などの危機を感じていました。
時代は薩摩、長州が同盟したことにより倒幕に大きく傾いており、幕府の存亡も危うくなっていたときです。
公武合体など夢のような話になってきていたのです。
1867年(慶応3年)後藤は公武合体論から意見を変え、長崎にて有名な坂本龍馬との会談を行うことを決意します。
後藤から見れば龍馬は、師であり時代の最先端を行くものでした。
しかし叔父である吉田東洋の仇・武市の同胞、龍馬から見れば武市端山をはじめ多くの郷士達を死に追いやった張本人であったが、龍馬も後藤とも過去の因縁を忘れ、手を握ったのである。
会談後、帰国した後藤は龍馬が最初に提案したと言われている船中八策に基づき、前藩主・容堂に対し将軍・徳川慶喜に大政奉還させるよう進言する。
徳川の勢力を温存したまま天皇を中心とした国家づくりを目指すと同時に、山内家にも恩義を感じていた後藤はさっそく山内容堂にこれを提案。容堂から将軍徳川慶喜に大政奉還させるよう進言します。
そして見事1867年(慶応3年)大政奉還となる。
後藤象二郎はその功績を認められ目覚しい昇進を見せます。
しかし後藤の協力者であった坂本龍馬は中岡慎太郎とともに何者かに暗殺。また、土佐藩の独走を許すはずのない薩長の勢力は、幕府側との戦いである戊辰戦争へと踏み切っていくのです。
後藤は坂本の大政奉還策を容堂に進言し、土佐藩の藩論として慶喜に受け入れさせる事に成功した。
だが、大政奉還策を容堂に進言する時に、階級主義で郷士嫌いの容堂に、郷士である坂本の立案である事を伝えれば、拒絶される事は目に見えていたとは言え、坂本の案である旨を述べなかった事から坂本の業績を横取りしたという汚名も蒙ってしまっている。それでも、坂本と容堂、そして将軍・慶喜とのパイプ役を担い、それが明治維新への原動力となった事を考えれば、後藤の行動は十分に評価されてしかるべきであろう。その反面、会津では今でも板垣と後藤は長州藩と並び、忌み嫌われている事実もある。
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将来共に土佐を背負い活躍する板垣退助とは幼い頃からの知り合いであり、後藤の姉の夫で、義理の叔父である吉田東洋の塾で板垣らと共に学んでいる。
土佐には独特の身分差別があり、上士と郷士の差は激しかった。

後籐たち上士はその傲慢な態度から郷士達の目の仇にされていたのだ。
無理もない話しである。
1858年(安政5年)より、吉田東洋の進言もあって、幡多郡奉行、1861年(文久元年)には御近習目付、その後は普請奉行として土佐藩政で活躍するのだが、翌1862年(文久2年)に吉田東洋が土佐勤王党の刺客、那須信吾、大石団蔵らに暗殺されることにより、土佐藩は尊王攘夷へと流れていくことで、拠り所を失った後藤は失脚するのである。
しかし、1863年(文久3年)8・18の政変により尊王攘夷の急先鋒の長州藩が失脚すると、時代は再び公武合体へと傾く。
安政の大獄での謹慎を解かれて藩政を掌握した前藩主山内容堂は土佐勤王党の弾圧を行うようになる。
後藤もこれにより役職を得て、また前藩主山内容堂の信頼を得たのもこの頃だと思われる。
この年に、江戸の開成所にて蘭学や航海術、また当時はやり始めた英学も習っている 。
元治元年(1864年)に、大監察に昇進した。後藤達は叔父・吉田東洋の仇とばかりに土佐勤王党を責める。
武市は投獄され、拷問こそ受けなかったが他の志士達が拷問を受けて遂に自白し、武市は切腹となる。
この武市の死により、土佐勤王党は事実上消滅した。土佐は完全に公武合体に統一された。
その後後藤象二郎は参政として藩の実権を握るようになります。
後藤は殖産興業の機関として開成館を設立。自ら総裁として中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに上海に買い付けに出向くなどしました。さらに長崎に開成館の出張所として土佐商会を建設し、岩崎弥太郎を責任者として置きます。
この頃後藤は、土佐藩の文明的な遅れや財政難などの危機を感じていました。
時代は薩摩、長州が同盟したことにより倒幕に大きく傾いており、幕府の存亡も危うくなっていたときです。
公武合体など夢のような話になってきていたのです。
1867年(慶応3年)後藤は公武合体論から意見を変え、長崎にて有名な坂本龍馬との会談を行うことを決意します。
後藤から見れば龍馬は、師であり時代の最先端を行くものでした。
しかし叔父である吉田東洋の仇・武市の同胞、龍馬から見れば武市端山をはじめ多くの郷士達を死に追いやった張本人であったが、龍馬も後藤とも過去の因縁を忘れ、手を握ったのである。
会談後、帰国した後藤は龍馬が最初に提案したと言われている船中八策に基づき、前藩主・容堂に対し将軍・徳川慶喜に大政奉還させるよう進言する。
徳川の勢力を温存したまま天皇を中心とした国家づくりを目指すと同時に、山内家にも恩義を感じていた後藤はさっそく山内容堂にこれを提案。容堂から将軍徳川慶喜に大政奉還させるよう進言します。
そして見事1867年(慶応3年)大政奉還となる。
後藤象二郎はその功績を認められ目覚しい昇進を見せます。
しかし後藤の協力者であった坂本龍馬は中岡慎太郎とともに何者かに暗殺。また、土佐藩の独走を許すはずのない薩長の勢力は、幕府側との戦いである戊辰戦争へと踏み切っていくのです。
後藤は坂本の大政奉還策を容堂に進言し、土佐藩の藩論として慶喜に受け入れさせる事に成功した。
だが、大政奉還策を容堂に進言する時に、階級主義で郷士嫌いの容堂に、郷士である坂本の立案である事を伝えれば、拒絶される事は目に見えていたとは言え、坂本の案である旨を述べなかった事から坂本の業績を横取りしたという汚名も蒙ってしまっている。それでも、坂本と容堂、そして将軍・慶喜とのパイプ役を担い、それが明治維新への原動力となった事を考えれば、後藤の行動は十分に評価されてしかるべきであろう。その反面、会津では今でも板垣と後藤は長州藩と並び、忌み嫌われている事実もある。
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2008年05月19日
田中光顕 陸援隊副隊長
坂本龍馬、中岡慎太郎のサポート役で活躍した田中光顕。
田中光顕は1843年(天保14年)土佐藩の深尾鼎家臣 浜田金治充美の長男に生まれます。
最初は浜田辰弥、脱藩時に田中顕助と改名している。
顕助の父 浜田金治は父親が死ぬと弟の那須信吾を養育していたため、那須信吾はこの兄の恩に報いるために、兄の子である顕助をことのほか可愛がったようである。

顕助は成長すると城下に出て、武市道場に入門して武市半平太に師事します。
武市道場には叔父の那須信吾をはじめ、土佐各地より多くの子弟が集まっていた。
土佐の多くの志士達がそうであったように、顕助にとっても多大な影響を受けた場所であった。
そして顕助は武道だけではなく、河田小龍の墨雲洞へ入門していました。
この墨雲洞には近藤長次郎や土方久元、清岡道之助ら多くの逸材が通っており、顕助は城下へ出てよい環境で学べたといえます
1862年(文久2年)顕助は土佐勤王党に参加します。
このとき、時代は当に尊皇攘夷であり、土佐も土佐勤王党の那須信吾たちが、参政吉田東洋を暗殺したあとであった。
顕助は武市の下でこの時代の波に乗り志士としての活躍の場を求めていく。
しかし1863年(文久3年)京都にて8・18の政変が起こり、全国的に攘夷派が急速に力を弱めると、土佐藩の山内容堂も9月21日武市半平太を逮捕して土佐勤王党への弾圧を始めた。
このまま土佐に残留しても本望を遂げる事は難しいと判断した顕助は脱藩を決意する。
そして1864年(元治元年)8月14日 顕助は井原応輔、片岡利和、橋本鉄猪、池大六らと共に脱藩、仲間が多くいる長州藩に向けて落ちていく。
長州に入った顕助だったが、この時長州藩は禁門の変の敗北により、幕府軍の長州征伐を目の前にしていた。
顕助たちは大坂に集まる幕府軍を混乱させるために、大坂城を焼き討ちするという計画が立ち上がると大坂に潜伏します。
しかこの計画は新撰組み察知され、襲撃されてしまう。
顕助はいったん十津川へ逃げ込み、しばらく潜伏したのです。
十津川に潜伏していた顕助は、同じく土佐脱藩者である中岡慎太郎より坂本龍馬と成し遂げようとする薩長同盟構想を聞かされたのです。
これに賛同した顕助は、薩長同盟実現に向けて中岡慎太郎と共に奔走しはじめます。
薩摩藩が和解の使者として長州へ黒田了助を送り込むときには、池内蔵太らと共に長州へ同行しており、
1866年(慶応2年)1月21日、中岡や龍馬をはじめとする、顕助ら土佐脱藩者たちの必死の努力の元に薩長同盟は結ばれことになるのです
これにより倒幕へ勢いは加速していくことになります。
その後も中岡慎太郎や坂本龍馬と深い繋がりを持ち、1867年(慶応3年)陸援隊が結成されると副長として中岡を助けています。
陸援隊は土佐藩白川屋敷の敷地内に本部が置かれていました。
万事がこのまま順調に進むと思われていた矢先、とんでもないことが起こるのです。
慶応3年11月15日、龍馬の下宿先であった近江屋で龍馬と中岡が襲撃されたとの報が入ります。
この急報はすぐに陸援隊本部に伝えられ、顕助はすぐさま現場に駆けつけ、医師川村盈進を呼び手当てをさせています
しかし、龍馬は即死で、そして中岡は17日に没しました。
顕助は中岡を介抱しながら犯人の特徴などを聞き出し、それが今日残る暗殺犯人の証言となっているそうです。
このことで土佐は求心力を失い、時代の波から少し遅れをとるようになります。
中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の合戦時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍します。
維新後は新政府に出仕。岩倉視察団で欧州を巡察した後、明治12年に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年(明治20)、子爵を授けられて華族に列する(1907年には伯爵に陞爵)。明治31年、宮内大臣に就任。
約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。
しかし明治42年、収賄疑惑で非難を浴びて同職の辞職、政界を引退した。
政界引退後は、高杉晋作の漢詩集「東行遺稿」の出版、高知県桂浜の坂本龍馬銅像の建設、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。
また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。
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田中光顕は1843年(天保14年)土佐藩の深尾鼎家臣 浜田金治充美の長男に生まれます。
最初は浜田辰弥、脱藩時に田中顕助と改名している。
顕助の父 浜田金治は父親が死ぬと弟の那須信吾を養育していたため、那須信吾はこの兄の恩に報いるために、兄の子である顕助をことのほか可愛がったようである。

顕助は成長すると城下に出て、武市道場に入門して武市半平太に師事します。
武市道場には叔父の那須信吾をはじめ、土佐各地より多くの子弟が集まっていた。
土佐の多くの志士達がそうであったように、顕助にとっても多大な影響を受けた場所であった。
そして顕助は武道だけではなく、河田小龍の墨雲洞へ入門していました。
この墨雲洞には近藤長次郎や土方久元、清岡道之助ら多くの逸材が通っており、顕助は城下へ出てよい環境で学べたといえます
1862年(文久2年)顕助は土佐勤王党に参加します。
このとき、時代は当に尊皇攘夷であり、土佐も土佐勤王党の那須信吾たちが、参政吉田東洋を暗殺したあとであった。
顕助は武市の下でこの時代の波に乗り志士としての活躍の場を求めていく。
しかし1863年(文久3年)京都にて8・18の政変が起こり、全国的に攘夷派が急速に力を弱めると、土佐藩の山内容堂も9月21日武市半平太を逮捕して土佐勤王党への弾圧を始めた。
このまま土佐に残留しても本望を遂げる事は難しいと判断した顕助は脱藩を決意する。
そして1864年(元治元年)8月14日 顕助は井原応輔、片岡利和、橋本鉄猪、池大六らと共に脱藩、仲間が多くいる長州藩に向けて落ちていく。
長州に入った顕助だったが、この時長州藩は禁門の変の敗北により、幕府軍の長州征伐を目の前にしていた。
顕助たちは大坂に集まる幕府軍を混乱させるために、大坂城を焼き討ちするという計画が立ち上がると大坂に潜伏します。
しかこの計画は新撰組み察知され、襲撃されてしまう。
顕助はいったん十津川へ逃げ込み、しばらく潜伏したのです。
十津川に潜伏していた顕助は、同じく土佐脱藩者である中岡慎太郎より坂本龍馬と成し遂げようとする薩長同盟構想を聞かされたのです。
これに賛同した顕助は、薩長同盟実現に向けて中岡慎太郎と共に奔走しはじめます。
薩摩藩が和解の使者として長州へ黒田了助を送り込むときには、池内蔵太らと共に長州へ同行しており、
1866年(慶応2年)1月21日、中岡や龍馬をはじめとする、顕助ら土佐脱藩者たちの必死の努力の元に薩長同盟は結ばれことになるのです
これにより倒幕へ勢いは加速していくことになります。
その後も中岡慎太郎や坂本龍馬と深い繋がりを持ち、1867年(慶応3年)陸援隊が結成されると副長として中岡を助けています。
陸援隊は土佐藩白川屋敷の敷地内に本部が置かれていました。
万事がこのまま順調に進むと思われていた矢先、とんでもないことが起こるのです。
慶応3年11月15日、龍馬の下宿先であった近江屋で龍馬と中岡が襲撃されたとの報が入ります。
この急報はすぐに陸援隊本部に伝えられ、顕助はすぐさま現場に駆けつけ、医師川村盈進を呼び手当てをさせています
しかし、龍馬は即死で、そして中岡は17日に没しました。
顕助は中岡を介抱しながら犯人の特徴などを聞き出し、それが今日残る暗殺犯人の証言となっているそうです。
このことで土佐は求心力を失い、時代の波から少し遅れをとるようになります。
中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の合戦時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍します。
維新後は新政府に出仕。岩倉視察団で欧州を巡察した後、明治12年に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年(明治20)、子爵を授けられて華族に列する(1907年には伯爵に陞爵)。明治31年、宮内大臣に就任。
約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。
しかし明治42年、収賄疑惑で非難を浴びて同職の辞職、政界を引退した。
政界引退後は、高杉晋作の漢詩集「東行遺稿」の出版、高知県桂浜の坂本龍馬銅像の建設、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。
また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。
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2008年05月17日
土方久元 薩長同盟の尽力者
坂本龍馬、中岡慎太郎とともに薩長同盟に尽力した土方久元。
土方は1833年(天保4年)土佐藩の上士の土方久用と母時子の長男として生まれる。
上士として江戸へ遊学し、儒者大橋訥庵の門に学び、尊王攘夷思想に傾倒する。
帰国後、武市瑞山らが結成した土佐勤王党に参加するのだが、なぜ上士の土方が郷士達中心の土佐勤王党に参加するようになったのかはよく分からない。
おそらく吉田東洋の改革路線に対して、それを不満に思う保守派層が存在したことである。土佐勤王党は過激な尊王攘夷の思想を掲げており、本来ならば正反対の立場にあるはずだったが、吉田東洋に対抗するという目的だったのかもしれない
1863年(文久3年)以後は藩命により京都へ上り、尊攘派の牙城であった長州藩はじめ諸藩の勤王の志士と交流するようになる。
やがて過激派公家三条実美の知己を得て、徴士学習院出仕を命ぜられたが、8・18の政変により、長州藩と三条らは失脚し京から追放されてしまう。
土方は「七卿落ち」に従い、三条や沢宣嘉らとともに長州へ向かっている。
幕府による第一次長州征伐の際には、三条らとともに九州へ渡海し、太宰府に逃れる。
親長州の土佐浪士 中岡慎太郎・田中光顕や坂本龍馬らとも連係し、薩長同盟の仲介に尽力。
東奔西走の日々を送っている。元々が上士なので、ひょっとすると龍馬や中岡よりも桂や、西郷達とはスムーズに話が出来ていたのかもしれない。
馬関において木戸孝允と西郷隆盛の会談を周旋するが、西郷のドタキャンにより実現せず、また振り出しに戻ってしまう。
その後も龍馬。中岡とともに薩長同盟に向けて薩摩、長州、京を行ったり来たりを繰り返している。
本当に休む暇もないくらいの日々だったであろう。
こうした地道な努力の結果、1866年(慶応2年)1月21日京都薩摩藩邸で龍馬を介して西郷隆盛、薩摩藩家老の小松帯刀と長州藩の木戸孝允が倒幕運動に協力する6か条の同盟が成立した。
明治維新成った後は新政府に仕え、明治元年(1868年)には東京府判事、ついで鎮将府弁事に任命される。その後、宮内少輔、内務大輔、太政官内閣書記官長、侍補、宮中顧問官、元老院議官などを歴任。
明治18年(1885年)の内閣制度発足に際しては第1次伊藤内閣の農商務大臣として入閣。ついで宮内大臣に転じ、以後11年に渡って職務にあたる。
龍馬や中岡の影に隠れて目立ちはしなかったが、土方の担った役割は大きく、維新後の土方の役割を見ればそれは納得できることであろう。
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土方は1833年(天保4年)土佐藩の上士の土方久用と母時子の長男として生まれる。
上士として江戸へ遊学し、儒者大橋訥庵の門に学び、尊王攘夷思想に傾倒する。
帰国後、武市瑞山らが結成した土佐勤王党に参加するのだが、なぜ上士の土方が郷士達中心の土佐勤王党に参加するようになったのかはよく分からない。
おそらく吉田東洋の改革路線に対して、それを不満に思う保守派層が存在したことである。土佐勤王党は過激な尊王攘夷の思想を掲げており、本来ならば正反対の立場にあるはずだったが、吉田東洋に対抗するという目的だったのかもしれない
1863年(文久3年)以後は藩命により京都へ上り、尊攘派の牙城であった長州藩はじめ諸藩の勤王の志士と交流するようになる。
やがて過激派公家三条実美の知己を得て、徴士学習院出仕を命ぜられたが、8・18の政変により、長州藩と三条らは失脚し京から追放されてしまう。
土方は「七卿落ち」に従い、三条や沢宣嘉らとともに長州へ向かっている。
幕府による第一次長州征伐の際には、三条らとともに九州へ渡海し、太宰府に逃れる。
親長州の土佐浪士 中岡慎太郎・田中光顕や坂本龍馬らとも連係し、薩長同盟の仲介に尽力。
東奔西走の日々を送っている。元々が上士なので、ひょっとすると龍馬や中岡よりも桂や、西郷達とはスムーズに話が出来ていたのかもしれない。
馬関において木戸孝允と西郷隆盛の会談を周旋するが、西郷のドタキャンにより実現せず、また振り出しに戻ってしまう。
その後も龍馬。中岡とともに薩長同盟に向けて薩摩、長州、京を行ったり来たりを繰り返している。
本当に休む暇もないくらいの日々だったであろう。
こうした地道な努力の結果、1866年(慶応2年)1月21日京都薩摩藩邸で龍馬を介して西郷隆盛、薩摩藩家老の小松帯刀と長州藩の木戸孝允が倒幕運動に協力する6か条の同盟が成立した。
明治維新成った後は新政府に仕え、明治元年(1868年)には東京府判事、ついで鎮将府弁事に任命される。その後、宮内少輔、内務大輔、太政官内閣書記官長、侍補、宮中顧問官、元老院議官などを歴任。
明治18年(1885年)の内閣制度発足に際しては第1次伊藤内閣の農商務大臣として入閣。ついで宮内大臣に転じ、以後11年に渡って職務にあたる。
龍馬や中岡の影に隠れて目立ちはしなかったが、土方の担った役割は大きく、維新後の土方の役割を見ればそれは納得できることであろう。
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2008年05月09日
人斬りの人生 岡田以蔵
幕末の人斬り 岡田以蔵。
以蔵は1838年土佐藩 郷士 岡田義平の長男として生まれる。
嘉永元年、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のために父義平が藩の足軽として徴募され、そのまま城下の七軒町に住むようになり、以蔵自身はこの足軽の身分を継いでいる。
当時の土佐では身分による差別が激しく、郷士の身分をお金で買うことはなどは珍しいことではありませんでした。
以蔵の身分は郷士ではなく足軽でした。以蔵の父の思惑で、以蔵は足軽の身分を、以蔵の弟が郷士の身分を継いだのです。

以蔵は武市瑞山に師事し、小野派一刀流剣術を学ぶようになります。
以蔵の人生を決定的なものとする武市との出会いはここから始まりました。
もともと剣の腕はかなりのものだったようで、武市のところに来てからもその腕は益々磨きがかかっていきました。
その後、武市に従い江戸に出てると以蔵もこれにともない江戸に出てる。
江戸においては鏡心明智流の名門である桃井春蔵の道場・士学館で学ぶ。
このころに坂本龍馬とも出会い懇意になっている。
1860年(万延元年)、武市に従って中国、九州で武術修行にでると、また以蔵はこれに従い九州を武術修行する。
以蔵は豊後岡藩に立ち寄り、以蔵は堀加持右衛門の道場で翌文久元年3月まで修行をおこない、その後江戸に入っています。
そのころ1861年(文久元年)武市は土佐勤王党を結成する。
時代の波に乗る尊攘派は過激な行動を各地で展開することになる。
土佐藩においても、土佐勤王党の那須信吾らにより、参政吉田東洋暗殺をする。
翌年、1862年(文久2年)土佐に戻ってきた以蔵は土佐勤王党に参加するのだ。
この土佐勤王党加盟後、以蔵は暗殺の日々を繰り返すようになる。
以蔵は本当に人斬りをしたかったのだろうか?
以蔵の他にも人斬りの多くは、そこに自分の存在価値を見出したのだろう。
また周りの人間も汚れ役を進んでやる者もいなかっただろうから、必然的に教養のない者などがそうなってしまっていたのではないだろうか。
以蔵も人を斬る事によって評価される自分に酔いしれていたのかもしれない。
以蔵は先ず最初に吉田東洋暗殺の下手人を捜していた下横目の井上佐市郎を暗殺。
閏8月19日 人斬りは人斬りを知る?のか薩摩の人斬り新兵衛こと田中新兵衛と出会い意気投合する。
意気投合した二人は早速翌日20日、本間精一郎を暗殺する。
以蔵は22日には宇郷玄蕃を暗殺、29日に猿の文吉を暗殺と連日人を斬っていく。
そして9月23日再び田中新兵衛と共に、渡辺金三郎・大河原重蔵・森孫六・上田助之丞暗殺。
明けて1863年(文久3年)岡田以蔵は坂本龍馬と共に大阪へ向かいます。
大阪に着いた以蔵は池内大学を暗殺。
そんな以蔵の姿を見て坂本龍馬何かを感じたのでしょうか。
龍馬は以蔵を師・勝海舟に引き合わせ、身辺警護を依頼するのです。
ある日勝が夜、市中を歩いていたら、丁度寺町通りで三人の壮士がいきなり前へあらわれて、ものもいわず切り付けた。
驚いて後へ避けたところ、勝の側にいた岡田以蔵が、いそぎ長刀をひき抜いて一人の壮士を真っ二つに斬った。
そして一喝すると、後の二人は勢いに辟易して何処ともなく逃げていった。
勝自身もやっとの事で虎口を遁れ、以蔵の早業には感心したようだった。
後日勝は以蔵に向って
「君は人を殺すことをたのしんではいけない。先日のような挙動は改めたがよかろう」と忠告すると
以蔵は「しかし、先生それでもあの時、私が居なかったら先生の首は既に飛んでしまっていたぜよ!」といったという。
これにはさすがの勝も一言もなかったということだ。
しかしそんな暗殺の日々も長くは続かなかった。
8.18の政変で長州藩をはじめ尊攘派が急速に勢いをなくすと、土佐勤王党も失速。
武市は土佐に呼び戻されると以蔵は土井鉄蔵と名を変え、一人京都に潜伏した。
しかし元治元年六月頃、幕吏に捕えられ入墨のうえ京洛追放、と同時に土佐藩吏に捕われ国もとへ搬送される。
土佐藩では吉田東洋暗殺・京洛における一連の暗殺について土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられ、上士格の武市瑞山を除いて厳しい拷問を受けた。
以蔵の捕縛を知った武市は彼の自白によって他の同志が危険に晒されるのを恐れ、自分に心酔した牢役人を通じて以蔵に毒を盛ろうとしたとさえ言われている。
武市は性根の弱い以蔵が拷問に簡単に屈してしまうと心配したとか、以蔵が軽輩故に他の同士より一層激しく耐え難い拷問に遭うであろうと予想した、また、毒を送られた以蔵はそれを毒とは知らずに服んだが死なず拷問に屈して白状したとか、毒を見破って憤りのあまり自白に及んだなどと様々に解釈されている。
以蔵も過酷な拷問に耐えたが、遂に全てを白状し、慶応元年五月十一日に打ち首、晒し首となった。
辞世の句は「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき」。
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以蔵は死なずPrice798 円
図解幕末剣豪伝Price1,050 円
逃げた以蔵Price619 円
人斬りの業Price1,890 円
以蔵は1838年土佐藩 郷士 岡田義平の長男として生まれる。
嘉永元年、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のために父義平が藩の足軽として徴募され、そのまま城下の七軒町に住むようになり、以蔵自身はこの足軽の身分を継いでいる。
当時の土佐では身分による差別が激しく、郷士の身分をお金で買うことはなどは珍しいことではありませんでした。
以蔵の身分は郷士ではなく足軽でした。以蔵の父の思惑で、以蔵は足軽の身分を、以蔵の弟が郷士の身分を継いだのです。

以蔵は武市瑞山に師事し、小野派一刀流剣術を学ぶようになります。
以蔵の人生を決定的なものとする武市との出会いはここから始まりました。
もともと剣の腕はかなりのものだったようで、武市のところに来てからもその腕は益々磨きがかかっていきました。
その後、武市に従い江戸に出てると以蔵もこれにともない江戸に出てる。
江戸においては鏡心明智流の名門である桃井春蔵の道場・士学館で学ぶ。
このころに坂本龍馬とも出会い懇意になっている。
1860年(万延元年)、武市に従って中国、九州で武術修行にでると、また以蔵はこれに従い九州を武術修行する。
以蔵は豊後岡藩に立ち寄り、以蔵は堀加持右衛門の道場で翌文久元年3月まで修行をおこない、その後江戸に入っています。
そのころ1861年(文久元年)武市は土佐勤王党を結成する。
時代の波に乗る尊攘派は過激な行動を各地で展開することになる。
土佐藩においても、土佐勤王党の那須信吾らにより、参政吉田東洋暗殺をする。
翌年、1862年(文久2年)土佐に戻ってきた以蔵は土佐勤王党に参加するのだ。
この土佐勤王党加盟後、以蔵は暗殺の日々を繰り返すようになる。
以蔵は本当に人斬りをしたかったのだろうか?
以蔵の他にも人斬りの多くは、そこに自分の存在価値を見出したのだろう。
また周りの人間も汚れ役を進んでやる者もいなかっただろうから、必然的に教養のない者などがそうなってしまっていたのではないだろうか。
以蔵も人を斬る事によって評価される自分に酔いしれていたのかもしれない。
以蔵は先ず最初に吉田東洋暗殺の下手人を捜していた下横目の井上佐市郎を暗殺。
閏8月19日 人斬りは人斬りを知る?のか薩摩の人斬り新兵衛こと田中新兵衛と出会い意気投合する。
意気投合した二人は早速翌日20日、本間精一郎を暗殺する。
以蔵は22日には宇郷玄蕃を暗殺、29日に猿の文吉を暗殺と連日人を斬っていく。
そして9月23日再び田中新兵衛と共に、渡辺金三郎・大河原重蔵・森孫六・上田助之丞暗殺。
明けて1863年(文久3年)岡田以蔵は坂本龍馬と共に大阪へ向かいます。
大阪に着いた以蔵は池内大学を暗殺。
そんな以蔵の姿を見て坂本龍馬何かを感じたのでしょうか。
龍馬は以蔵を師・勝海舟に引き合わせ、身辺警護を依頼するのです。
ある日勝が夜、市中を歩いていたら、丁度寺町通りで三人の壮士がいきなり前へあらわれて、ものもいわず切り付けた。
驚いて後へ避けたところ、勝の側にいた岡田以蔵が、いそぎ長刀をひき抜いて一人の壮士を真っ二つに斬った。
そして一喝すると、後の二人は勢いに辟易して何処ともなく逃げていった。
勝自身もやっとの事で虎口を遁れ、以蔵の早業には感心したようだった。
後日勝は以蔵に向って
「君は人を殺すことをたのしんではいけない。先日のような挙動は改めたがよかろう」と忠告すると
以蔵は「しかし、先生それでもあの時、私が居なかったら先生の首は既に飛んでしまっていたぜよ!」といったという。
これにはさすがの勝も一言もなかったということだ。
しかしそんな暗殺の日々も長くは続かなかった。
8.18の政変で長州藩をはじめ尊攘派が急速に勢いをなくすと、土佐勤王党も失速。
武市は土佐に呼び戻されると以蔵は土井鉄蔵と名を変え、一人京都に潜伏した。
しかし元治元年六月頃、幕吏に捕えられ入墨のうえ京洛追放、と同時に土佐藩吏に捕われ国もとへ搬送される。
土佐藩では吉田東洋暗殺・京洛における一連の暗殺について土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられ、上士格の武市瑞山を除いて厳しい拷問を受けた。
以蔵の捕縛を知った武市は彼の自白によって他の同志が危険に晒されるのを恐れ、自分に心酔した牢役人を通じて以蔵に毒を盛ろうとしたとさえ言われている。
武市は性根の弱い以蔵が拷問に簡単に屈してしまうと心配したとか、以蔵が軽輩故に他の同士より一層激しく耐え難い拷問に遭うであろうと予想した、また、毒を送られた以蔵はそれを毒とは知らずに服んだが死なず拷問に屈して白状したとか、毒を見破って憤りのあまり自白に及んだなどと様々に解釈されている。
以蔵も過酷な拷問に耐えたが、遂に全てを白状し、慶応元年五月十一日に打ち首、晒し首となった。
辞世の句は「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき」。
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2008年05月03日
吉村虎太郎 土佐の四天王
土佐の四天王の一人 吉村虎太郎は土佐藩の庄屋、吉村太平の長男として生まれる。
12歳のときに父の跡を継いで北川村庄屋となる。

後に須崎郷浦庄屋となり、転村の庄屋広田家の娘お明と結婚し、郡役人の間崎哲馬に学問を学び。
また城下に出て武市半平太に剣術を学びことによって、尊攘思想に傾倒するようになっていった。
1857年(安政4年)藩の下役人に呼び捨てにされたことを憤り、他の大庄屋と連名で訴状を提出する騒ぎを起こす。
この事件のために下分村に転任させられている。
1861年(文久元年)武市半平太が土佐勤王党を結成するとこれに加盟し、翌1862年には武市の命で長州へ赴き久坂玄瑞に武市の手紙を渡した。
それから九州へ渡って筑前国の平野国臣と出会い、平野から薩摩藩 島津久光の率兵上京とこれに合わせた浪士たちによる挙兵計画を聞く。
これを聞いた吉村は急ぎ土佐へ戻り、土佐勤王党も脱藩して参加することを説くが、武市の考えは挙藩勤王であり、これを許さなかったため、やむなく、吉村は少数の同志を説いて脱藩を決行する。
この時、藩境の誰何が厳重であったために、吉村は武具を調えて馬に乗り、薩摩への使者であると偽って堂々と関所を押し通ったという。
吉村の脱藩後にしばらくして坂本龍馬、宮地宜蔵らが次々と脱藩している。
吉村は宮地宜蔵とともに長州の久坂玄瑞を頼り、海路大坂へ入り、長州藩邸で越後国の志士 本間精一郎と合流。
上方には平野国臣、真木和泉、清河八郎、藤本鉄石ら有力な浪士たちが集結して、島津久光の上洛を待ちわびていた。
平野らは久光の上洛を倒幕挙兵のためのものと勝手に考えていたが、久光の真意は全く異なり公武合体であったため、浪士の動きを知った久光は驚き、鎮撫を命じる。
だが、これを不満に思う薩摩藩士 有馬新七は過激派藩士と浪士だけで挙兵を決行することを計画するが、これが島津久光に漏れ、大久保一蔵らの説得工作も失敗、4月23日には久光は伏見の寺田屋を同じ誠忠組に襲撃させて有馬ら過激尊攘派藩士の粛清をした。世に言う寺田屋事件である。
翌日、吉村と宮地は捕えられ薩摩藩邸に誘致された。
30日に身柄は土佐藩に引き渡されて、国元へ送還され、船中で吉村は挙兵の手始めは諸侯ではなく、浪士の任である旨の書取を残している。
土佐に戻った吉村は8ヶ月間、禁獄されるが、やがて政情が尊攘派に傾いてくると、諸藩で安政の大獄、寺田屋事件の関係者などの赦免が行われるに伴い、間崎哲馬らの斡旋もあって吉村らも釈放されることとなった。
1863年吉村虎太郎は藩から自費遊学の許可を得て京へ上る。
ちょうどこの時に京都では足利三代木像梟首事件が起き、犯人として平田国学門人らが捕縛されていた。
吉村は山県小輔、入江九一とともに学習院に犯人の赦免嘆願書を提出している。
そして将軍徳川家茂が上洛し、朝廷から5月10日をもって攘夷決行をするよう約束させられる。
そして5月10日、長州藩は攘夷を実行して関門海峡を通過する外国船を砲撃、この長州藩の攘夷決行には侍従中山忠光が参加しており、中山の京都出奔は吉村が手引きしているのだ。
6月、米仏艦隊が来襲し、長州藩は敗退。吉村は松本奎堂、池内蔵太ら浪士とともに長州へ下り、藩主毛利慶親、世子定広に謁見して、上京を説いている。
吉村ら浪士たちは諸方を斡旋ののち京都へ戻っていく。
8月13日、三条実美ら攘夷派公卿が画策して大和行幸の詔が発せられ、孝明天皇が神武天皇陵に参拝し、攘夷親征を行うという内容で久留米の志士真木和泉の献策によるものだった。
吉村は松本奎堂、藤本鉄石ら同志とともに大和行幸の先駆けとして大和国で倒幕の義兵を挙げることを計画する。
吉村虎太郎は、侍従職を解かれ謹慎させられていた中山忠光を連れ出し、吉村、池内ら同志39人が方広寺に集結して忠光を大将に戴き京都を出立した。
一行は大坂から海路堺に向かい、一同は船中で髪を切って決意を表し、天誅組と称するようになるのだ。
天誅組は堺から河内国に入り、狭山藩に銃器武具を献上させると大和国へ進み、五条代官所を襲撃して代官鈴木源内の首を斬り、討幕の兵を挙げる。
五条天領を「天朝直轄地」とすると布告し、「御政府」を称し、中山忠光を主将、吉村、松本、藤本を総裁とする職制を定めた。
三条実美は天誅組のこの過激な行動を危惧し自重を促そうと平野国臣を遣わしたが、天誅組の挙兵の直後に8.18の政変が起こり政局は一変。
三条ら尊攘派公卿は失脚、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされたため、大和行幸の詔は偽勅とされることになってしまう。
挙兵の目的だった大和行幸もなくなり、天誅組は完全に孤立してしまった。
幕府の討伐軍に対抗するために吉村らは十津川郷士を募兵して1000人の兵をかき集めたのだ。
天誅組は兵糧の差出を拒絶した高取藩に激怒、高取城を攻撃するものの、所詮は烏合の衆に過ぎず、少数の高取藩兵の砲銃撃を受けるとたちまち敗走。
敗戦に憤った吉村は24人の決死隊を編成して夜襲を図る。
決死隊は城に放火すべく乾草を背に松明を持って夜中間道を進むが、高取藩の斥候と遭遇し、吉村は敵に斬りかかるが下腹部に味方の誤射を受けて重傷を負い、決死隊はなすところなく撤退。
9月に入ると天誅組は周辺諸藩の大軍の攻撃を受けながら奮戦するが各地で敗退が続き。
遂には中山忠光を逆賊とする詔が下ると、十津川郷士も離反し、天誅組は脱出すべく山中を彷徨うが9月24日に吉野村で紀州・彦根藩兵と戦闘となり、主将の中山は辛うじて脱出するが、総裁の松本、藤本らほとんどがここで戦死するか捕縛され、天誅組は壊滅した。
傷が悪化して歩行困難となっていた吉村は一行から遅れ、駕籠に乗せられて運ばれていたが、27日に津藩兵に発見され射殺されてしまう。
吉村虎太郎 享年27歳。
辞世の句は「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」。
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12歳のときに父の跡を継いで北川村庄屋となる。

後に須崎郷浦庄屋となり、転村の庄屋広田家の娘お明と結婚し、郡役人の間崎哲馬に学問を学び。
また城下に出て武市半平太に剣術を学びことによって、尊攘思想に傾倒するようになっていった。
1857年(安政4年)藩の下役人に呼び捨てにされたことを憤り、他の大庄屋と連名で訴状を提出する騒ぎを起こす。
この事件のために下分村に転任させられている。
1861年(文久元年)武市半平太が土佐勤王党を結成するとこれに加盟し、翌1862年には武市の命で長州へ赴き久坂玄瑞に武市の手紙を渡した。
それから九州へ渡って筑前国の平野国臣と出会い、平野から薩摩藩 島津久光の率兵上京とこれに合わせた浪士たちによる挙兵計画を聞く。
これを聞いた吉村は急ぎ土佐へ戻り、土佐勤王党も脱藩して参加することを説くが、武市の考えは挙藩勤王であり、これを許さなかったため、やむなく、吉村は少数の同志を説いて脱藩を決行する。
この時、藩境の誰何が厳重であったために、吉村は武具を調えて馬に乗り、薩摩への使者であると偽って堂々と関所を押し通ったという。
吉村の脱藩後にしばらくして坂本龍馬、宮地宜蔵らが次々と脱藩している。
吉村は宮地宜蔵とともに長州の久坂玄瑞を頼り、海路大坂へ入り、長州藩邸で越後国の志士 本間精一郎と合流。
上方には平野国臣、真木和泉、清河八郎、藤本鉄石ら有力な浪士たちが集結して、島津久光の上洛を待ちわびていた。
平野らは久光の上洛を倒幕挙兵のためのものと勝手に考えていたが、久光の真意は全く異なり公武合体であったため、浪士の動きを知った久光は驚き、鎮撫を命じる。
だが、これを不満に思う薩摩藩士 有馬新七は過激派藩士と浪士だけで挙兵を決行することを計画するが、これが島津久光に漏れ、大久保一蔵らの説得工作も失敗、4月23日には久光は伏見の寺田屋を同じ誠忠組に襲撃させて有馬ら過激尊攘派藩士の粛清をした。世に言う寺田屋事件である。
翌日、吉村と宮地は捕えられ薩摩藩邸に誘致された。
30日に身柄は土佐藩に引き渡されて、国元へ送還され、船中で吉村は挙兵の手始めは諸侯ではなく、浪士の任である旨の書取を残している。
土佐に戻った吉村は8ヶ月間、禁獄されるが、やがて政情が尊攘派に傾いてくると、諸藩で安政の大獄、寺田屋事件の関係者などの赦免が行われるに伴い、間崎哲馬らの斡旋もあって吉村らも釈放されることとなった。
1863年吉村虎太郎は藩から自費遊学の許可を得て京へ上る。
ちょうどこの時に京都では足利三代木像梟首事件が起き、犯人として平田国学門人らが捕縛されていた。
吉村は山県小輔、入江九一とともに学習院に犯人の赦免嘆願書を提出している。
そして将軍徳川家茂が上洛し、朝廷から5月10日をもって攘夷決行をするよう約束させられる。
そして5月10日、長州藩は攘夷を実行して関門海峡を通過する外国船を砲撃、この長州藩の攘夷決行には侍従中山忠光が参加しており、中山の京都出奔は吉村が手引きしているのだ。
6月、米仏艦隊が来襲し、長州藩は敗退。吉村は松本奎堂、池内蔵太ら浪士とともに長州へ下り、藩主毛利慶親、世子定広に謁見して、上京を説いている。
吉村ら浪士たちは諸方を斡旋ののち京都へ戻っていく。
8月13日、三条実美ら攘夷派公卿が画策して大和行幸の詔が発せられ、孝明天皇が神武天皇陵に参拝し、攘夷親征を行うという内容で久留米の志士真木和泉の献策によるものだった。
吉村は松本奎堂、藤本鉄石ら同志とともに大和行幸の先駆けとして大和国で倒幕の義兵を挙げることを計画する。
吉村虎太郎は、侍従職を解かれ謹慎させられていた中山忠光を連れ出し、吉村、池内ら同志39人が方広寺に集結して忠光を大将に戴き京都を出立した。
一行は大坂から海路堺に向かい、一同は船中で髪を切って決意を表し、天誅組と称するようになるのだ。
天誅組は堺から河内国に入り、狭山藩に銃器武具を献上させると大和国へ進み、五条代官所を襲撃して代官鈴木源内の首を斬り、討幕の兵を挙げる。
五条天領を「天朝直轄地」とすると布告し、「御政府」を称し、中山忠光を主将、吉村、松本、藤本を総裁とする職制を定めた。
三条実美は天誅組のこの過激な行動を危惧し自重を促そうと平野国臣を遣わしたが、天誅組の挙兵の直後に8.18の政変が起こり政局は一変。
三条ら尊攘派公卿は失脚、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされたため、大和行幸の詔は偽勅とされることになってしまう。
挙兵の目的だった大和行幸もなくなり、天誅組は完全に孤立してしまった。
幕府の討伐軍に対抗するために吉村らは十津川郷士を募兵して1000人の兵をかき集めたのだ。
天誅組は兵糧の差出を拒絶した高取藩に激怒、高取城を攻撃するものの、所詮は烏合の衆に過ぎず、少数の高取藩兵の砲銃撃を受けるとたちまち敗走。
敗戦に憤った吉村は24人の決死隊を編成して夜襲を図る。
決死隊は城に放火すべく乾草を背に松明を持って夜中間道を進むが、高取藩の斥候と遭遇し、吉村は敵に斬りかかるが下腹部に味方の誤射を受けて重傷を負い、決死隊はなすところなく撤退。
9月に入ると天誅組は周辺諸藩の大軍の攻撃を受けながら奮戦するが各地で敗退が続き。
遂には中山忠光を逆賊とする詔が下ると、十津川郷士も離反し、天誅組は脱出すべく山中を彷徨うが9月24日に吉野村で紀州・彦根藩兵と戦闘となり、主将の中山は辛うじて脱出するが、総裁の松本、藤本らほとんどがここで戦死するか捕縛され、天誅組は壊滅した。
傷が悪化して歩行困難となっていた吉村は一行から遅れ、駕籠に乗せられて運ばれていたが、27日に津藩兵に発見され射殺されてしまう。
吉村虎太郎 享年27歳。
辞世の句は「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」。
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