2008年04月01日

井上聞多 倒幕への戦い

所郁太郎の懸命な手術のおかげで何とか一命を取りとめた井上聞多

井上がそんな状態の間、長州藩はまた迷走を始める。
俗論派が実権を掌握し、高杉晋作伊藤俊輔らは身の危険を感じて逃亡して身をかくしてしまっていた。

井上は動くに動けない体だったために座敷牢に拘束されることになる。

俗論派は井上や高杉などの処刑を藩主 毛利敬親に求めるが、敬親は「ここは預かりおく」といい井上達を処刑する事を認めませんでした。

亡命先の長崎にいた高杉は、このまま時を過ごしても無くなる命ならば戦って死んだほうがましだと思い、伊藤俊輔らをつれて長州にもどりクーデターを起こし再び政権を手中に収める。
実権を奪い返した高杉はすぐに井上を救出させます。

獄中から救い出された井上は鴻城隊として参加。

新しく誕生した正義派政権の主な成員は高杉晋作井上聞多伊藤俊輔村田蔵六波多野金吾山県狂介佐世八十郎石川小五郎などで、幕府に対する徹底抗戦を覚悟した大割拠態勢が敷かれることになりました。

高杉、伊藤、井上は馬関の開港して外国文化の導入と貿易をすべしと唱えていましたが、これを良しとしない者たちにより、支藩士ばかりでなく、本藩の攘夷論者をも怒らせてしまったのです。

この騒動を鎮めるため、藩政府は「馬関は開港しない」と宣言し、高杉、伊藤、井上の馬関応接掛を免じて山口帰還を命じました。
身の危険を感じた三人は山口にも帰らず、高杉は大阪へ、井上は人足姿に変装して豊後別府に遁れ、伊藤は藩内を流転していました。

そんな混沌とした長州に一人の男が戻って来ます。
禁門の変後、身を隠していた桂小五郎が潜伏先の出石から戻って来たのです。
大きな牽引力を得た長州は息を吹き返すのです。
桂は、幕府軍の遠征軍が目前に迫っているのに、同胞の間であい争うとは何ごとかとし、高杉、伊藤、井上達を呼び戻します。

桂を先頭に長州は結束を固めていきます。
そんな中、坂本龍馬中岡慎太郎らが薩長同盟の話を持ってきます。
1藩だけの倒幕は成し得ないとしていた桂は苦渋の決断で同盟に応じます。

長州は薩摩から武器を貰い、長州からは兵糧を薩摩に送るという形で話はまとまり、井上聞多伊藤俊輔と武器を受け取りに再び長崎に向かうのです。
長崎にて薩摩の小松帯刀らから援助を貰い薩摩汽船「胡蝶丸」でミニエー銃四千丁、ゲーベル銃三千丁を三田尻に届けるのでした。

こうして武器を得た長州軍は第2次長州征伐に立ち向かっていくのです。
井上は芸州口で諸隊を指揮し、休戦に当っては幕府の使者の勝海舟と談判することになります。

井上はこうして倒幕の最前線にて戦っていくことになって行きます。

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Posted by 左近将監 at 15:06Comments(0)TrackBack(0)井上聞多

2008年03月29日

瀕死の重傷 井上聞多

4カ国艦隊の彷徨が火を噴いて3日。
井上聞多があれほど開戦してはならないといっていたにもかかわらず、強行に外国との開戦に踏み切った長州藩。

京都では禁門の変にて大敗し、幕府は第1次長州征伐を発令。
このことにより長州は前面に幕府軍、背後の海からは外国艦隊と言う状態になっていた。

つい先日まで開戦を唱えていた者たちはここに来て「このままでは国が滅びてしまうから、和議をしよう。和議をして、幕府の征討軍にあたらなければならぬ」と外国艦隊との和議を主張し始める。

長州藩家老たちは井上に和議交渉をやるように求めます。
しかし、井上にしてみれば遠くイギリスから危機を聞きつけ帰ってきたのに、人の言うことも聞かずに開戦すれば、わずか3日経つか経たぬ間に和議をしろとは何事だと憤慨します。
当然のことです。
井上はこれに応じようとはしませんでしたが、世子 毛利定弘高杉晋作に諭されなんとか和議交渉に臨みます。

井上、伊藤俊輔らの甲斐もあり和平協定は結ばれ一先ずは安心です。

しかし井上達にはさらなる試練が待っていました。
背後の外国艦隊の脅威はなくなっても、幕府軍は着々と進んできます。
長州藩内では意見が2つに分かれていました。
幕府に対して恭順の意を表し、謝罪することによって毛利家の安泰をはかるという保守派(「俗論派」)と、外に対しては恭順を装いながら、藩内では武備を充実させて幕府軍の攻撃に備えるという武備恭順派(「正義派」)の二派が真っ向から対立していたのです。

井上は山口の政事堂で君前会議で尊王の素志を貫徹し藩の危急を救う道は「武備恭順」以外にないと激しく論駁し、ついに毛利敬親の採決を「武備恭順」に導いてしまいます。

その君前会議後、井上聞多が政事堂を退出したのは午後8時ごろ、家に向かう井上は数人の者に襲われます。
背中、腹など体中を斬りつけられて、全身傷だらけの重症です。
それでも井上は夢中で逃げて芋畑に身を隠し、敵の追跡を逃れ、近くの百姓家に助けを求めます。
おびただしい鮮血と泥にまみれた井上を、百姓は井上の兄・五郎三郎の家まで運びました。

井上聞多はもう虫の息でした。
これを見た兄は介錯をして楽にしてやろうとしますが、母がこれを諌め、とにかく医者を呼び出来るだけのことをしようと言い医者を呼ぶことにします。

この一大事に駆けつけたのは井上と親しい漢方医 所郁太郎でした。
所はすぐに焼酎で傷口を洗浄し、小さな畳張りを使って次々と傷口を縫合していきます。
手術が終わったのは夜も明けるころだったようです。

一命を取り留めた井上はしばらく養生と藩の監視下におかれることなります。
長州は再び俗論党が台頭していたからです。

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Posted by 左近将監 at 13:58Comments(0)TrackBack(0)井上聞多

2008年03月28日

イギリス留学 井上聞多

長州の剛直児 井上聞多
黒田内閣で農商務大臣を務め、第二次伊藤博文内閣では内務大臣など、数々の要職を歴任した。従一位大勲位侯爵、元老。

長州藩士・井上五郎三郎光享の次男として、周防国湯田村に生まれ、幼名は勇吉、通称を聞多。
志道慎平の養嗣子となるも、のち井上家に復籍。

藩校・明倫館に入学し、次第に蘭学に興味を抱くようになる。江戸に出て岩屋玄蔵江川太郎左衛門に蘭学を学びぶようになると外国文化に興味を持つようになっていた。

1853年のペリーの浦賀来航以来、勃興した尊皇攘夷運動に共鳴し、攘夷実行には海軍興隆が不可欠との見解を藩に進言、聞き入れられ海軍学修行を命じられ、更にイギリス軍艦の買取交渉などにも当たりました。

1862年(文久2年)の江戸遊学中には高杉晋作久坂玄瑞らとともにイギリス公使館の焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践し、このときは火付け役を担当している。

基本的に井上は松下村塾生ではない。ただし、松陰の門下生と多くの交流を持ち、時勢の兼ね合いも合ったのだろう次第に攘夷運動に傾倒している。
そんな中、久坂から佐久間象山の武備充実論を聞かされると、たちまち洋行を志し、長州藩執政の周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願する。
長州藩もこれを承認し、井上聞多伊藤俊輔山尾庸三野村弥吉遠藤謹助ら5人とイギリスへ留学することになった。
このとき、井上は密航という犯禁の罪が養家先に及ぶ事を恐れ志道家を離別している。

こうして井上は5月12日、ガワー総領事の斡旋でジャーディン・マセソン社の船で横浜を出港し、上海に向かう。
上海についた伊藤らに「お前達は何のために洋行するのか?」と聞くと、「海軍を研究する」と言おうとして「ネイヴィー」とすべきところを間違って「ネビゲーション」の一言を発してしまった者がいたために、この言葉を「ナビゲーション=航海術」と理解され、ロンドンまでの旅程は、“航海術を学ぶ”ということと理解されていたので、水夫と同格の扱いで非常に困苦し、日本人を「ジャニー」と呼び軽蔑されていたと感じている。便所は船体から張り出した横木につかまって用をたす方式であったから、嵐の時には身体を縄で縛って危険から保護した。さらに伊藤は下痢で苦しんだため、「実にその困難の状は筆舌の能く尽す所でなかった」という。

なんとかイギリスに到着した井上達はイギリスにて国力の違い、文化の違いを目の当たりにし、このままでは日本は勝てないと判断すると、次第に考えを開国論に転じていきました。

そんなある日、井上の耳にとんでもない知らせが舞い込む。
長州藩の外国船砲撃事件に関し、4カ国が長州を攻撃すると言う知らせだった。
この知らせを受け井上と伊藤は直ちに帰国を決意する。

井上は「国家に対する憂いの思いは、国内に居る時よりも寧ろ海外に在る時が切実なのを覚えた。例えば藩主は今如何に憂慮して居られるだろうか、同志の士は如何に行動しつつあるか、或いは彼らは攘夷の為に戦死したのでは無かろうか、或いは敗戦の結果土地割譲の窮地に陥ったのでは無かろうかなど、、」と言っている。

こうして横浜に戻ってきた伊藤と井上はイギリス公使館に自分達が長州藩に帰って藩論を一変したいと説明し、停戦講和を願った。
英国公使は、他の3国も了解したから藩に帰って尽力して欲しいと、藩主あての公使からの書簡を手渡された。書簡に対する返答は到着から12日後となっていた。

急ぎ長州へ戻り、藩庁に赴くと 、「幾百艘の軍艦が来襲しても死力を尽くして防戦する」という藩の方針が決定しているということだった。
井上は伊藤とともに海外の情勢を説き攘夷が無謀なこと、開国の必要性を訴え、御前会議にて藩の重役達の前で西洋事情を話したが理解されず、西洋文明を説明しても「ホラを吹くにも程がある」と嘲笑される始末。
挙句の果てには攘夷論者からは命を狙われるなど意識のギャップに、井上と伊藤は隔靴掻痒の思いであった。

結局、井上聞多伊藤俊輔の奔走虚しく、8月4日4カ国艦隊の咆哮が一斉に火を噴くことになる。

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Posted by 左近将監 at 16:41Comments(0)TrackBack(0)井上聞多