2008年06月04日
松平春嶽 四賢侯に数えられた男
英邁な藩主で後に幕末の四賢侯に数えられた松平春嶽。

田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男。松平斉善の養子で、中根雪江に教育を受け、1838年(天保9年))に斉善が死去すると僅か11歳で藩主となる。
将軍徳川家慶の一字を賜り、慶永と名乗るようになるのだ。
中根や由利公正、橋本左内らに補佐され、洋楽所の設置や軍制改革などの藩政改革を行う。
1853年(嘉永6年)アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が浦賀に来航して通商を求めた際には、水戸徳川家の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬とともに海防強化や攘夷を主張するが、老中の阿部正弘らと交流して開国派に転じる。
13代将軍徳川家定の将軍後継問題では、橋本左内を京都に派遣して運動させ、一橋徳川家当主の一橋慶喜を後押しする。
しかし、幕閣では将軍後継問題で紀州徳川家の徳川慶福を推す南紀派の井伊直弼が大老となり、14代将軍後継は慶福に決定してしまう。
幕府が朝廷の勅許無しで勝手にアメリカとの日米修好通商条約を調印すると春嶽は徳川斉昭らとともに登城をして抗議し、不時登城の罪を問われて謹慎処分を下されてしまう。
井伊は強攻策として安政の大獄を決行、これにより多くの尊皇攘夷派・一橋派の大名・公卿・志士らが弾圧をされてしまう。
また春嶽の命により江戸にて奔走していた橋本左内は処刑されてしまうのだ。
1860年(安政7年)井伊直弼は桜田門外の変で暗殺されてしまう。
これにより再び松平春嶽等らは幕政に参加することが許される。
春嶽は熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎え、藩政改革や幕政改革にあたって小楠の意見を重用した。
翌1863年(文久3年)上洛するが、京都では長州藩など尊皇攘夷派が強く、慶喜が尊攘派と妥協しようとすると反対して3月2日に総裁職を辞任する。
1864年(元治元年)には京都守護職に就任し、翌日、越前守から大蔵大輔に転任する。
しかし、4月7日には京都守護職の任を免ぜられる。会津藩と薩摩藩が協力した8・18の政変で長州藩が追放され、禁門の変で長州が失脚すると参与となる。
1867年(慶応3年)には、島津久光や前土佐藩主の山内容堂、宇和島藩主・伊達宗城らと四侯会議を開き、朝敵となった長州の処分について話し合い、春嶽は長州征伐には反対するが、2次に渡る長州征伐に至る。
12月9日の王政復古の宣言の前日、朝廷より議定に任命される。
坂本龍馬なども懇意にしており、冷静な判断で幕末の動乱を見ていた人である。
王政復古後の薩摩、長州の討幕運動には賛成せず、維新後、新政府では慶応4年(1868年)1月17日に内国事務総督、明治2年(1869年)5月15日民部官知事、同年7月8日民部卿、8月11日には大蔵卿を兼任。8月24日には大学別当・侍読に就任。同年9月26日に正二位に叙せられた。明治3年(1870年)に政務を退いている。
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田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男。松平斉善の養子で、中根雪江に教育を受け、1838年(天保9年))に斉善が死去すると僅か11歳で藩主となる。
将軍徳川家慶の一字を賜り、慶永と名乗るようになるのだ。
中根や由利公正、橋本左内らに補佐され、洋楽所の設置や軍制改革などの藩政改革を行う。
1853年(嘉永6年)アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が浦賀に来航して通商を求めた際には、水戸徳川家の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬とともに海防強化や攘夷を主張するが、老中の阿部正弘らと交流して開国派に転じる。
13代将軍徳川家定の将軍後継問題では、橋本左内を京都に派遣して運動させ、一橋徳川家当主の一橋慶喜を後押しする。
しかし、幕閣では将軍後継問題で紀州徳川家の徳川慶福を推す南紀派の井伊直弼が大老となり、14代将軍後継は慶福に決定してしまう。
幕府が朝廷の勅許無しで勝手にアメリカとの日米修好通商条約を調印すると春嶽は徳川斉昭らとともに登城をして抗議し、不時登城の罪を問われて謹慎処分を下されてしまう。
井伊は強攻策として安政の大獄を決行、これにより多くの尊皇攘夷派・一橋派の大名・公卿・志士らが弾圧をされてしまう。
また春嶽の命により江戸にて奔走していた橋本左内は処刑されてしまうのだ。
1860年(安政7年)井伊直弼は桜田門外の変で暗殺されてしまう。
これにより再び松平春嶽等らは幕政に参加することが許される。
春嶽は熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎え、藩政改革や幕政改革にあたって小楠の意見を重用した。
翌1863年(文久3年)上洛するが、京都では長州藩など尊皇攘夷派が強く、慶喜が尊攘派と妥協しようとすると反対して3月2日に総裁職を辞任する。
1864年(元治元年)には京都守護職に就任し、翌日、越前守から大蔵大輔に転任する。
しかし、4月7日には京都守護職の任を免ぜられる。会津藩と薩摩藩が協力した8・18の政変で長州藩が追放され、禁門の変で長州が失脚すると参与となる。
1867年(慶応3年)には、島津久光や前土佐藩主の山内容堂、宇和島藩主・伊達宗城らと四侯会議を開き、朝敵となった長州の処分について話し合い、春嶽は長州征伐には反対するが、2次に渡る長州征伐に至る。
12月9日の王政復古の宣言の前日、朝廷より議定に任命される。
坂本龍馬なども懇意にしており、冷静な判断で幕末の動乱を見ていた人である。
王政復古後の薩摩、長州の討幕運動には賛成せず、維新後、新政府では慶応4年(1868年)1月17日に内国事務総督、明治2年(1869年)5月15日民部官知事、同年7月8日民部卿、8月11日には大蔵卿を兼任。8月24日には大学別当・侍読に就任。同年9月26日に正二位に叙せられた。明治3年(1870年)に政務を退いている。
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2008年05月13日
三岡八郎 財政再建の手腕
幕末の辣腕財政主 三岡八郎
1829年(文政12年)福井城の藩士、三岡義知の長男として生まれる。
家政の切り回しが上手く女中を雇わずに家計を支えた賢婦人を母に持ち、
幼少のころより母を助けて家屋の修繕や菜園の栽培し父の乗馬の飼育などを手伝い、
その一方で武道に励んだという。

幕末四賢公の一人として称えられる福井藩主松平春嶽に抜擢され藩政改革を進め、福井藩に訪れた横井小楠の殖産興業策に触発、経済調査を行い財政に窮した藩の建て直しに力を振るった。
殖産興業策を進めるため、小楠に同行して、下関では物産取引の実情を調査、長崎には越前蔵屋敷を建て、オランダ商館との間に生糸販売の特約を結んだ。
三岡が推進した「民富めば国の富む理である」という「民富論」的な富国策は大きな成果を挙げ、藩財政は黒字に転じた。
藩主松平春嶽が幕府政事総裁職に就任すると、側用人として長州征伐不支持と薩摩・長州など雄藩との提携を主張。
しかし、藩論の支持を得られず蟄居・謹慎を命じられた。
謹慎中、坂本龍馬は三岡の財政再建の手腕を買って新政府の参画を求めて来訪し、城下山町の「たばこや」で会談し、
維新後は、旧姓に復して由利公正と称し、徴士・参与となり、御用金取扱を命じられた。
明治新政府への参画を求められている。
龍馬と三岡は大変気が合ったようで、龍馬は二度、越前福井を訪れているが、 二度目となるこのときは三岡と、足羽川にちかい山町の「たばこ屋旅館」にて、午前8時から夜中の午後12時過ぎまで延々16時間に渡って、日本の将来を語り合ったという。
このとき謹慎中だった三岡には、出渊伝之丞と御用人松平源太郎が付き添っていたのだが,龍馬は何の遠慮もせずに「三岡、話すことが山ほどあるぜよ」と三岡を見るなり叫んだといいます。
王政復古後に参与職となり戊辰戦争を戦っていた新政府の財政問題を担当する傍ら、五箇条の御誓文の起草にも参画する。
1871年には第4代東京府知事に任命され、庁内の人員整理などを行う。
翌1872年に岩倉具視に従い欧州へ渡航、欧州各国の自治制度・議会制度などを研究。
1874年には民撰議院設立建白書の提案者に名を連ねる。
1887年に子爵に列せられ、1890年に貴族院議員となった。
1894年(明治27年)3月、後に明治生命(明治安田生命の前身)に合併される有隣生命保険を京都に創立し、初代社長に就任した。
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九州焼酎ネットは、鹿児島、宮崎を中心とした九州各地の蔵元より集めた本格焼酎(乙類)を二百種類以上取り揃え、地元でしか入手できない隠れた限定酒や、焼酎ブームで人気の幻、プレミアム銘柄まで、蔵元希望価格の正価販売通販できる焼酎専門店です。


1829年(文政12年)福井城の藩士、三岡義知の長男として生まれる。
家政の切り回しが上手く女中を雇わずに家計を支えた賢婦人を母に持ち、
幼少のころより母を助けて家屋の修繕や菜園の栽培し父の乗馬の飼育などを手伝い、
その一方で武道に励んだという。

幕末四賢公の一人として称えられる福井藩主松平春嶽に抜擢され藩政改革を進め、福井藩に訪れた横井小楠の殖産興業策に触発、経済調査を行い財政に窮した藩の建て直しに力を振るった。
殖産興業策を進めるため、小楠に同行して、下関では物産取引の実情を調査、長崎には越前蔵屋敷を建て、オランダ商館との間に生糸販売の特約を結んだ。
三岡が推進した「民富めば国の富む理である」という「民富論」的な富国策は大きな成果を挙げ、藩財政は黒字に転じた。
藩主松平春嶽が幕府政事総裁職に就任すると、側用人として長州征伐不支持と薩摩・長州など雄藩との提携を主張。
しかし、藩論の支持を得られず蟄居・謹慎を命じられた。
謹慎中、坂本龍馬は三岡の財政再建の手腕を買って新政府の参画を求めて来訪し、城下山町の「たばこや」で会談し、
維新後は、旧姓に復して由利公正と称し、徴士・参与となり、御用金取扱を命じられた。
明治新政府への参画を求められている。
龍馬と三岡は大変気が合ったようで、龍馬は二度、越前福井を訪れているが、 二度目となるこのときは三岡と、足羽川にちかい山町の「たばこ屋旅館」にて、午前8時から夜中の午後12時過ぎまで延々16時間に渡って、日本の将来を語り合ったという。
このとき謹慎中だった三岡には、出渊伝之丞と御用人松平源太郎が付き添っていたのだが,龍馬は何の遠慮もせずに「三岡、話すことが山ほどあるぜよ」と三岡を見るなり叫んだといいます。
王政復古後に参与職となり戊辰戦争を戦っていた新政府の財政問題を担当する傍ら、五箇条の御誓文の起草にも参画する。
1871年には第4代東京府知事に任命され、庁内の人員整理などを行う。
翌1872年に岩倉具視に従い欧州へ渡航、欧州各国の自治制度・議会制度などを研究。
1874年には民撰議院設立建白書の提案者に名を連ねる。
1887年に子爵に列せられ、1890年に貴族院議員となった。
1894年(明治27年)3月、後に明治生命(明治安田生命の前身)に合併される有隣生命保険を京都に創立し、初代社長に就任した。
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2008年03月15日
橋本左内 動乱に散る
吉田松陰とともに幕末の動乱の中に消えていった橋本左内。

福井藩の藩医の長男として生まれた左内は、幼い頃より学問を好み、10歳のときには全65巻の『三国志』を通読し、その意を解したという。
15歳のとき「啓発録」を著し、自己を律する行動指針を定めている。
藩の医学校済世館で漢方医を学び、1849年(嘉永2年)には大坂にある緒方洪庵の適塾で蘭学、西洋医学を学ぶ。
ここでも左内は、ずば抜けた俊才であり、洪庵は「他日、塾名を上げる者は左内。彼は池中の蛟竜である」と評している。
大坂で梅田雲浜や横井小楠らと交流し、帰藩後は藩医としていったんは父の跡を継ぐが、学問への志が止み難く、1854年(安政元年)藩に江戸遊学の許可を得て、坪井信良、杉田成卿に蘭学を学び、あわせて塩谷宕陰らに漢学を師事する。
この時代、みな必死の思いで学ぶことを求めている。
現代では学びは義務なのだが、やはり貪欲に学びたいという気持ちは大事なのだろう。
また、江戸では西郷隆盛、安島帯刀、藤田東湖、佐久間象山など諸藩の碩学、有志とも親交を結んでいる。
安政4年正月、24歳で藩校明道館の学監同様心得に任じられ教育改革に取り組み、いち早く洋学教育の導入を推進。
同年8月、江戸に上がり、藩主 松平春嶽に近侍し、中根雪江と協力して条約問題や将軍継嗣問題に取り組んでいる。
特に将軍継嗣問題では、一橋慶喜を押す一橋派の核となって国事奔走した。
幕政改革、幕藩体制は維持した上での西欧の先進技術の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派の思想を持ち、攘夷で揺れる幕末期では危険人物とされた。
しかし、井伊直弼が大老に就任すると、反対派諸候を厳罰に処し、松平春嶽も隠居・謹慎を命じられ左内の運動は挫折した。
1858年(安政5年)10月22日、橋本左内は謹慎を命じられ、以後安政の大獄による幽囚生活を送った後、井伊直弼により死罪に決し、1859年(安政6年)10月、26歳の若さで江戸伝馬町獄舎において斬首される。
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福井藩の藩医の長男として生まれた左内は、幼い頃より学問を好み、10歳のときには全65巻の『三国志』を通読し、その意を解したという。
15歳のとき「啓発録」を著し、自己を律する行動指針を定めている。
藩の医学校済世館で漢方医を学び、1849年(嘉永2年)には大坂にある緒方洪庵の適塾で蘭学、西洋医学を学ぶ。
ここでも左内は、ずば抜けた俊才であり、洪庵は「他日、塾名を上げる者は左内。彼は池中の蛟竜である」と評している。
大坂で梅田雲浜や横井小楠らと交流し、帰藩後は藩医としていったんは父の跡を継ぐが、学問への志が止み難く、1854年(安政元年)藩に江戸遊学の許可を得て、坪井信良、杉田成卿に蘭学を学び、あわせて塩谷宕陰らに漢学を師事する。
この時代、みな必死の思いで学ぶことを求めている。
現代では学びは義務なのだが、やはり貪欲に学びたいという気持ちは大事なのだろう。
また、江戸では西郷隆盛、安島帯刀、藤田東湖、佐久間象山など諸藩の碩学、有志とも親交を結んでいる。
安政4年正月、24歳で藩校明道館の学監同様心得に任じられ教育改革に取り組み、いち早く洋学教育の導入を推進。
同年8月、江戸に上がり、藩主 松平春嶽に近侍し、中根雪江と協力して条約問題や将軍継嗣問題に取り組んでいる。
特に将軍継嗣問題では、一橋慶喜を押す一橋派の核となって国事奔走した。
幕政改革、幕藩体制は維持した上での西欧の先進技術の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派の思想を持ち、攘夷で揺れる幕末期では危険人物とされた。
しかし、井伊直弼が大老に就任すると、反対派諸候を厳罰に処し、松平春嶽も隠居・謹慎を命じられ左内の運動は挫折した。
1858年(安政5年)10月22日、橋本左内は謹慎を命じられ、以後安政の大獄による幽囚生活を送った後、井伊直弼により死罪に決し、1859年(安政6年)10月、26歳の若さで江戸伝馬町獄舎において斬首される。
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