2008年03月12日

幕府軍破る 桂小五郎

桂小五郎の巧みな政治手腕と、多くの志士の助けもあり薩長同盟は締結された。

しかし幕府は、長州藩の武備恭順や大村益次郎(村田蔵六)たちによる秘密貿易を口実として、第二次長州征討を強行してくる。

事前に近代的な軍制改革が施されていた長州軍の志気は、極めて高かく、長州訪問中の坂本龍馬は感激して薩摩に「長州軍は日本最強」と手紙をしたためたほどであった。
そこに薩摩から銃が調達されたのだから幕府軍は太刀打ちすることが出来なかったようである。

初戦は手薄だった大島口への幕軍による奇襲攻撃によって開始され、珍しく慌てた桂小五郎は小倉口の指揮官だった高杉晋作を急遽大島口に回らせ、艦隊による幕軍への艦砲射撃によって形勢が見事逆転。
その後は第二奇兵隊の活躍によって長州側の勝利が確定した。

大村益次郎が指揮官だった石州口・芸州口は、隣接する津和野藩の手引きや、広島藩の長州征討への消極的態度にも助けられ、長州側があっさり勝利を収めた。
芸州口を担当していた井上聞多率いる長州軍は幕府本陣のある広島国泰寺のすぐ近くまで押し寄せ、幕府軍だけでなく安芸藩まで慌てさせている。

島口・芸州口・石州口の三カ所で極めて短期間の内に幕府軍を撃破し、残りの小倉口も高みから徹底抗戦し続けていた肥後藩士たちの戦意喪失により長州側の全面的圧勝が確定する。

しかしこの第2次長州征伐のさい、高杉晋作が病のためこの世を去ります。
桂にとっては辛く、悲しい別れでした。

この勝利のあと、長州は薩摩とともに倒幕の兵を挙げることになる。
いよいよ時代は大きくうねりを上げて動き始めた瞬間だった。


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Posted by 左近将監 at 16:49Comments(0)TrackBack(0)桂小五郎

2008年03月11日

薩長同盟 桂小五郎の決断

桂小五郎が戻ってきた長州藩は近代化に向けて躍進します。

まず、村田蔵六の指揮のもと軍の近代化が着々とすすめられていました。
村田は刀槍の時代から、戦闘では銃と火砲が威力を発揮して勝敗を決する時代になっていることを先の馬関戦争や4カ国艦隊の砲撃で身にしみて分かっていたのです。

長州藩は西洋軍制の導入にともなって、旧式の銃からより命中精度の高いミニエー銃への転換を図ろうとしていました。外国からの武器の輸入は禁止されているうえに、幕府と敵対している長州藩ですから公然と武器の購入はできませんでした。

ちょうどその頃、坂本龍馬が馬関を訪れており、龍馬は桂に薩長同盟について説くのです。
同じ頃、薩摩の西郷隆盛を説得しに中岡慎太郎が向かっており、中岡と同行していた土方は途中で馬関に寄ったのです。そこで龍馬が居ることを知り、二人で桂を説得しました。
薩摩藩の過去における反長州の行動についての反感があり、桂小五郎も長州藩内の「薩摩憎し」の雰囲気をそうとうに意識していました。
現に久坂玄瑞入江九一寺島忠三郎など多くの同志たちの命がすでに散っていったのです。

龍馬、慎太郎の説得の甲斐もあり西郷が馬関に向かうことになりました。

馬関で西郷を待ちながら、まさに薄氷を踏む思いで薩長間の和解交渉に臨もうとしていたことがわかります。

桂は馬関にて西郷の来るのを待っていたのですが・・・・・複雑な思いの中待っていた桂の前に現れたのは中岡慎太郎だけでした。

西郷は大久保から「至急上京するように」との報がはいり、西郷は馬関への寄港を中止して、大坂に直行してしまったのです。

面目を失った桂は憤慨します。当然です。

それを坂本、中岡両名が必死に止めます。
桂の答えは、「今度は薩摩の方から来て欲しい、そうでない場合はわが藩は同盟には反対だ」と言い放ち馬関をあとにしました。

桂にはほかに気がかりな問題がありました。
俗論党の幹部が今に至るまで処分されていないことです。
桂は意を決して辞表を提出し、藩政府は驚きます、ついこの前戻ってきたばかりで、桂が戻ってきて以来藩政も落ち着いてきていたのです。
桂に替わる藩政指導の適任者がいなかったのです。

すぐに藩主が辞表の撤回を求め、俗論党の処分が速やかに行なわれました。
これによって幕府との妥協の途を断ち切った長州藩は前に進むしかなくなったのである。

馬関で西郷に逃げられた坂本と中岡は急ぎ京都に向かい西郷を訪ねる。

龍馬は面白い案を提供するのだ。
それは当時第2次長州征伐を前に武器弾薬に悩んでいた長州藩に薩摩が武器弾薬を提供する。
当然、長州は拒否をするだろうが、同じく兵糧に困っていた薩摩藩に長州から米を引き換えに渡せば両藩共に対面を保てる。というのだ

これに西郷は同意し、このことを踏まえて坂本は桂を説得しにするのだ。

しかし、桂は先の西郷のスッポカシの件もあり、乗り気ではない。
そこであの過激な高杉晋作が説得をするのだ。
「桂さん、長州1藩の力じゃどうもできん。先の馬関での戦で分かったじゃろ?ここは苦しくても薩摩と手を結び、この日の本を守らねばならんぞ。今ならまだ長州に味方してくれる他藩もある。今のうちに薩摩と手を結んで他藩も引き込むんじゃ」

晋作をはじめ龍馬、井上聞多も再三説得し、ついに桂は「公命下るに至る、よって余(木戸)恥を忍び意を決し」とし上京を決意するのだ。(このころ藩命により桂から木戸へ名を変える)
桂にとってもこの時点で幕府が第2次長州征伐を計画しているとのウワサを聞いていたので、この話には悪いものではないことは分かっていたでしょう。

1866年(慶応2年)1月8日、木戸は京都へ入り、薩摩藩家老・小松帯刀の屋敷で西郷に会った。
ところが連日宴会で互いに国事、天下の形勢を論じ合い、肝心の同盟の話には一切触れず終いだった。

1週間遅れで京都に入った龍馬は当然もう同盟が成していると思い薩摩藩邸にいくと、まだ同盟を結んでいない旨を聞かされる。

驚いた龍馬は長州藩邸の桂を訪ねた。
「天下のために連合を周旋し、両藩の要人を会わせたのにくだらない感情におぼれて意地を張り合うとは何事じゃ!」といい。
桂は
「今、苦境にあえぐ長州が薩摩に低頭してまで危険に引きずり込むことができましょうや。薩摩が自ら手をさしのべてくれてこそ、我らは救いを乞いもしよう。このまま長州は滅びてもよいのです。薩摩が生き残って幕府を討ってくれるなら、我々に憾みはないでありましょう」と説いた。

ようするに長州は薩摩の気持ちはありがたいが、滅びんとしている長州の巻き添えになってくれとは言えないというのだ。

龍馬はこの桂の言葉に感動し、薩摩藩邸に戻り、西郷、小松らに長州の胸のうちを語り、何とか薩摩から長州を助けてやってくれんかと説いた。
そして龍馬は「こげな小さな維持の張り合いをしちょる場合か!今までこの日の本の国のために死んでいった者たちは、ただの犬死になってしまうがか?」と訴えた。

ことのことにより、西郷は是非、薩摩から長州に同盟をお願いしたいといい。
「薩摩は日本を救うために長州を全面的に援助する」という言葉が出た。


こうして1866年1月21日 桂小五郎の複雑な心境の中、薩長同盟は締結される。
このとき桂は坂本龍馬に対し、薩摩は信用できないからこの盟約書の裏に龍馬の裏書が欲しいと求めるのでした。


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Posted by 左近将監 at 17:26Comments(0)TrackBack(0)桂小五郎

2008年03月08日

桂小五郎の長州帰藩

長州藩が俗論派によって牛耳られていたところを高杉晋作が蜂起し、長州は正義派政権が誕生することになります。

ちょうどその頃、出石の広戸甚助が馬関にやってきます。
桂小五郎の安否を知らせに来たのでした。

広戸甚助が会ったのは村田蔵六伊藤俊輔でした。二人は敢えて晋作には報告をしませんでした。
なぜならば、過激な晋作がこのこと知ればすぐにでも桂を呼び戻しに行こうとして、幕府の目にいつ見つかるか分からなかったからです。

村田と伊藤は桂に手紙を書き、桂に内乱の状況を知らせると共に、即刻の帰国を促しました。
京を離れ長州に逃げてきていた幾松が広戸と一緒に桂を迎えに行くことになります。

そして出石についた幾松はついに桂に再会することができたのでした。
京都の混乱を掻い潜ること9ヶ月、長く感じられて日々でした。

桂は帰藩することを決意します。
そして、広戸甚助、直蔵、幾松をつれて出石を後にしました。

無事に長州に辿り着いた桂。
長州は桂の帰りを待ち望んでいました。
桂小五郎を迎えて、長州藩は混沌とした状況から脱出することになるのです。

そのころ土佐の中岡慎太郎が桂を訪ねてきます。
まずは共に禁門の変にて戦い無事に逃れてきたことを喜び合います。
そして中岡はとんでもない策を打ち出します。「薩長同盟」です。

桂も今の長州藩では到底幕府に勝つことは出来ないことはわかっており、中岡の策を承諾するのです。

桂はすぐに藩庁に使いを出し藩主 毛利敬親と久方の再会を果たします。
そして国政方用談役(参謀)に任じら次々と策を弄していくのです。

その傍ら、逃亡している高杉、井上らを呼び戻します。
桂小五郎を中心に、幕府、外国勢などとの数度にわたる戦闘をくぐり抜けてきた村田、高杉以下の人材が結束して、長州軍の近代化をめざした再編が着々と進められることになったのです。

長州が再び勢いを取り戻しつつあるとき、桂を訪ねて坂本龍馬が訪れるのです。
話は先の中岡が提案した「薩長同盟」の件です。

坂本、中岡の両名はなんとしても薩摩と長州の手を結ばせ、倒幕の源としたかったのです。
しかし長州は、これまで敵対していた経緯もあり、こちらから平身低頭して薩摩に和を請うようなことはできないという感情があったのでしょう。下駄の裏に「薩賊会奸」と書いて踏んでいた藩士たちもいたほどですから、長州藩全体の雰囲気は推して知るべしです。このときから、「薩長同盟」実現にいたるまでの桂小五郎の苦闘がはじまります。


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Posted by 左近将監 at 13:31Comments(0)TrackBack(0)桂小五郎

2008年03月07日

桂小五郎の出石潜伏

禁門の変にて焼け野原と変わった京の街。
鴨川の河原は焼け出された罹災者の群であふれていました。

桂小五郎も掘立小屋に乞食のような身なりで潜んでいました。
幕吏や新選組は長州藩士を血眼で捜していたので、桂もこうした状況のため潜んでいたのです。

そんな桂を幾松が探し出します。
幕府の厳しい監視のため桂をこの場所から移動させることは出来ません。

幾松は桂ののところに食事を運ぶようになるのですが、やはり幕吏に目を付けられるようになります。
危険を感じた幾松は母に役目を託します。

桂は自由に行動できないので幾松の母に広戸甚助を呼んできてもらうように頼みます
広戸甚助は但馬出石の出身で商家の息子でしたが、この時期は対馬藩の多田荘蔵の使用人をしていました。

広戸甚助は小屋を訪れ唖然とします。あの桂がこのような姿になっていると思ってもいませんでしたし、何より生きていることに驚きました。

桂:「京都を脱出したい。」
広戸甚助:「分かりました、でどちらへ?」
桂:「・・・・・・・・」
広戸甚助:「では、私の郷里、出石はどうですか?」
桂:「頼む!」

こうして広戸甚助桂小五郎を船頭夫に扮装させ、名を宇右衛門と変えて、京を後にしました。

各地の関所で長州藩士は尽く捕らえられます。
江戸の長州藩邸も取り壊され、藩士たちは屈辱的な扱いを受けるのです。

無事に出石に辿り着いた桂と広戸は弟の直蔵に相談し桂を匿います。
まもなく幕府の小五郎探索の手が出石にも伸びてきて、身動きがとれなくなってしまいます。
桂は出石内をあちこち移動しながら隠れます。


桂が出石で悶々とした生活を過ごしていたころ、長州の情勢はあわただしく動いていました。


8月5日 イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、それにアメリカの仮装艦1隻の17隻から成る4カ国艦隊が長州を砲撃します。
馬関戦争です。

この戦いにおいて外国の威力を実感した長州藩は3日後には講和を結びます。
今の現状ではとても諸外国を相手に戦える状態ではないことを思い知らされたのです。
この時から、長州とイギリスとの友好関係が少しずつ深まっていくことになります。

一先ず外国との争いをなくした長州藩は今度は幕府の長州征伐軍を相手にします。
長州藩では、意見が真っ二つに分かれており、幕府に対して恭順の意を表し、謝罪することによって毛利家の安泰をはかるという俗論派と、外に対しては恭順を装いながら、藩内では武備を充実させて幕府軍の攻撃に備えるという正義派の二派が真っ向から対立していました。

しかし薩摩の西郷隆盛の策もあり俗論派が勢いを吹き返します。
これによって高杉晋作は逃亡し、周布政之助が自殺、桂小五郎は行方不明のまま、井上聞多は重症。
長州は完全に俗論派の実権になっていたのです。

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2008年03月06日

禁門の変 桂小五郎 同士の志

池田屋事件の知らせは6月12日、長州藩にも届きました。

この事により長州藩の慎重派は一気に形成を逆転され、過激派が勢いを吹き返します。

長州藩は14日には進発論が採用され、翌15日には来島又兵衛が遊撃隊400人を率いて萩を出発。
16日には、福原越後久坂玄瑞寺島忠三郎真木和泉が出撃。国司信濃益田右衛門介の2家老もあとに続きます。

もう長州藩の怒りを抑えるものは誰もいなくなっていました。

しかし桂小五郎は何とか慎重にことを運んで欲しいと久坂に手紙を書きますが、結局この手紙は無駄に終わります。

桂のほうも京都では指名手配されているような状態です。
乞食や女郎などに扮装しながらも因幡、対馬、備前、津和野の留守居役に働きかけ、この4藩がほかの十数藩に長州の援護を呼びかけ、親長州派の公家たちも、攘夷の実行を渋っている幕府の因循を糾弾する文書を朝廷に提出しました。

長州の軍勢は福原越後隊が6月24日に伏見の長州藩邸にはいり、益田、国司、遊撃、浪士の各隊は天王山付近に陣を敷きました。

長州藩は幕府や朝廷に長州藩主や七卿の赦免を嘆願します。
中山忠能正親町三条松平容保の行動を糾弾して、長州藩を赦免するように主張しますが、一橋慶喜が断固反対し、薩摩藩 西郷隆盛も慶喜を支持しました。
薩摩藩は長州藩の勢力が再び京都で盛んになることを嫌ったのです。


長州藩のこの不利な形勢を逆転させるためには、天皇を守護職を務める会津藩から引きはなす以外にないと考えます。
真木和泉守は朝廷への嘆願をよそおいながら、兵を潜入させて御所を乗っ取り、会津藩を孤立させる計画を立てていました。しかし会津藩は御所内に居座って動こうとはしません。

7月18日夜、長州軍が進軍を開始します。
翌19日福原越後隊は藤の森に布陣していた大垣藩兵と衝突。大垣藩の第二陣に狙い撃ちされ京に入ることは出来ませんでした。

来島又兵衛率いる遊撃隊は蛤御門をめざし、国司信濃隊は中立売御門に向います。
禁裏周辺の守備は、中立売御門に筑前藩、蛤御門に会津藩、禁裏台所門に桑名藩、堺町御門に福井藩、乾御門に薩摩藩が配置されており、国司信濃隊は筑前藩と衝突、長州勢は優勢に進めます。

来島隊も蛤御門に突入、会津藩を後退させていくのです。
優勢に進める長州勢の前に薩摩藩が立ちふさがります。薩摩藩の加勢によって戦況は明らかに長州側の不利に傾いていき、来島又兵衛が薩摩の川路利良に胸部を狙撃され落馬、槍の穂先で咽喉を突いて自害します。
指揮者をうしなった長州軍はやがて総崩れとなっていきます。

その間に桂小五郎は因州藩邸にて河田佐久馬に、「有栖川宮を擁し、長州藩士とともに天皇の御前を守る」という約束の実行を迫っていました。

しかし因州藩邸は動き気配はなく、正藩連合への努力はすべて徒労に終わったことを桂は自らに納得させるのです。

桂は天皇が難を避けて下鴨社に遷座する、という情報を耳にし、賀茂神社にて鳳輦を待ちます。
天皇に直訴するつもりでしたが、数刻待っても鳳輦はいっこうに現れません。
桂と行動を共にしていた者たちは同志たちと一緒に戦って死にたいと言い始めるのですが、桂は志を遂げるまでは、けっして無駄死にするべきではないと説きますが結局、みな桂に別れを告げて行ってしまいます。

そんな中、ただ一人残ったものがいました。馬屋原です。
馬屋原は桂一人をここに残すことは出来ないとただ一人残りました。

桂は重大なことに気がつきます。因州藩との密約が破られたことを同志に知らせていなかったのです。桂はその任務を馬屋原に託します。

ちょうどその頃、真木和泉守が500人の兵とともに堺町門に到着、越前藩兵と激戦になります。
久坂玄瑞寺島忠三郎入江九一らとともに鷹司邸に立てこもって応戦、しかし多勢に無勢、鷹司邸は会津、桑名など諸藩の兵に囲まれていきます。
久坂は参内する鷹司父子に朝廷での取りなしをしてもらおうと、「ぜひお供をお許しください」と頼みますが、聞き入れてもらえません。

周囲は幕府兵で満ち溢れてきています。
久坂はもはや脱出の不可能を悟って死を覚悟します
久坂は入江に「今日のありさまを両殿さまに伝えて、若殿さまのご出向をおとめしてほしい」と頼みます。入江も承諾し邸内から出ようとしたところを槍で突かれてしまい邸内に引き返すのです。
久坂と寺島も互いに自刃します。

桂小五郎は鷹司邸の方角から大砲の轟音が轟くのを聞き走り出します。
鷹司邸は火炎に包まれていました。
桂は最早長州の負けが決定的となったことを知り今後の事を考え、京都に留まって長州藩の冤罪をはらす工作をするつもりでした。

真木和泉守は天王山にもどり山頂にて自刃して果てます。
京の街はそのころ鷹司邸から燃え広がった激しい火炎が燃え広がり、街全体を焼き尽くしていきました。

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2008年03月05日

池田屋事件勃発 桂小五郎

桂小五郎は国許 長州の容易ならぬ情勢を察して、なんとか武力衝突をさけようと諸藩のあいだを駆けまわり、藩公父子のこうむった罪の赦しを得るべく外交工作に専念していました

桂小五郎はその頃、林竹次郎を名乗って対馬藩邸に潜伏していました。

そのころの京都は佐幕派の過激派浪士と反幕派の過激派浪士が蠢く危険な状態でした。
多くの浪士が京の街中をウロウロしていたため京は治安が悪くなっていたのです。

京都守護職松平容保は京都の治安維持のために浪士集団を組織します「新撰組」です。
新撰組は京都守護職の後ろ盾もあり、市内の浪士などを捕縛、惨殺をしていきます。
京の街はさらに殺伐した状態に変わっていったのです。

そんな中、肥後藩 宮部鼎蔵の従者が新選組の隊士に捕われます。
新撰組は詰問し、従者の主人の居所を聞きだそうとしますが口を割りません。
一方宮部鼎蔵もなんとか従者を解放させないとマズイと思い、番人に金を握らせ開放させるのですが、これは新撰組の罠でした。
開放された従者は当然ながら主人の元に戻っていくので。それを尾行して浪士たちの巣窟を突き止めたのです。

浪士たちの巣 「枡屋」。
主人湯浅喜右衛門は大津出身で本名を古高俊太郎梅田雲濱の弟子でした。

新撰組によって連行された古高は激しい拷問を受けます。
拷問によって密謀を白状させた新撰組はただちに会津藩に連絡して出動を要請すると、京都市中を走りまわって不審箇所の探索をすすめたのです。

古高が新選組に捕らえられたことを知った桂は池田屋の集会に出席することにします。
桂は杉山松介にその晩、門を厳重に閉じて人の出入りを禁ずるように命じ、旅館・池田屋に入ります。
6月5日の午後8時、まだ時間が早いためか誰も来ていません、それで桂は対馬藩邸に向い、大島友之允を訪ねたのです。

その間に池田屋には多くの浪士が集まってきていました。
新撰組 近藤勇隊も市中を駆け回り池田屋にて密会が行われていることを知ります。

午後10時 近藤勇が池田屋に乗り込みます。

ドンドンドン。。。
池田屋主人:「何事でございましょうか?」
近藤:「御用改めである」
池田屋主人:「御二階のお客様 御用改め・・・・」

言い終わる前に池田屋主人はなぎ倒されていました。

沖田総司永倉新八が抜刀したまま二階に駆け上がります。
不意を衝かれた浪士たちは慌てます、そこへ近藤、沖田、永倉が斬りかかります。

それ以後、池田屋は修羅場と化し、ほどなく土方・井上組も池田屋に到着、追い詰められた志士たちは、次々と新選組に斬殺されていったのです。

宮部鼎蔵も最早これまでと悟り、「諸君、潔く自決せよ」と叫ぶと、捕縛されること恥と思ったのか、立ったまま割腹します。

村塾四天王にも名を連ねる吉田稔麿は、負傷しながらもその場を逃れて長州藩邸に走り、事件を告げてから再び槍を取って門外に出、加賀藩邸の付近で討死しています。

吉田稔麿の報告を受けた長州藩邸でしたが、桂から門を厳重に閉じて人の出入りを禁ずるように命じられていたので誰も外には出ませんでした。
せめても吉田だけはと思い中に入れようとしたときには吉田稔麿はそこにはもういませんでした。

桂から藩邸を守るように言われていた杉山松介は池田屋の異変の報が入ると、「桂さんがあぶない」と血相変えて池田屋に向かいますが、途中、会津・桑名両藩の警備兵に包囲されて片腕を斬られ、藩邸に引き返しますが、手当の甲斐もなく翌朝死亡します。

したその他の志士は松田重助(熊本藩)、北添佶摩(土佐藩)、望月亀弥太(土佐藩)、福岡祐次郎(松山藩)、広岡浪秀(長州藩)などでした。

一方対馬藩邸に行った桂は外がなにやら騒がしいと調べさせると池田屋の事件を知ります。
池田屋と対馬藩邸は家並一棟をへだてただけの距離にあったので桂は事の詳細を知ることが出来たのです。最早自分が行っても長州藩に在らぬ疑いが掛けられるだけである・・・・。

桂小五郎は同志の無念を目の前に感じながらも身動きすることが出来ない状態でした。


この池田屋の事件を契機に長州藩は倒幕の兵を挙げるのです。
もう誰にも志士達の無念をとめることが出来ない状態にまできていました。


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2008年03月04日

8.18の政変 桂小五郎の奔走

1863年 桂小五郎が警戒していたことが起きます。

久坂玄瑞が率いる光明寺党がアメリカ商船に向けて発砲するのです。
幕府公認の商船だったアメリカ商船は長州藩から砲撃をうけるなどとは夢にも思っていませんでした。
なんとかその場を脱して全速で逃げ去りました。
これを皮切りに、22日にはフランス艦を、26日にはオランダ艦に砲撃を浴びせ、ただ驚愕するばかりの両艦を逸走させたのです。「攘夷が成功した!」と、長州藩は勝利に沸きたち、久坂玄瑞ら3人がさっそく京都へ報告に上りました。

しかし、6月1日には米国軍艦の反撃にあい、長州艦船の癸亥、庚申、壬戌は沈没、大砲、砲台も破壊される大損害を受けたのです。
そして、5日には今度はフランス軍艦も下関を砲撃、250人の武装兵が上陸し、砲台を破壊、村を焼き払って復讐戦を果したのです。
同じころ、薩摩藩が引き起こした生麦事件の謝罪や賠償問題で幕府は窮地に立たされていました。
皮肉なことに外国と直接戦闘を交えた長州と薩摩はこののち、特にイギリスとの接近を強めていくことになります。

結果的に薩摩も長州も現状のままでは外国に勝つことは出来ないことを知ります。
長州もこの危機どうするのか悩み、一人の男に目を付けます。高杉晋作です。
当時、晋作は頭を丸めて僧侶姿になっていました。

長州藩主 毛利敬親に呼び出された晋作は、馬関の守備を一任されます。
そこで戦闘状況を確認した彼は、今の実戦体験の乏しい武士だけの兵力ではどうにもならないと結論づけ、新しい部隊の編成を考えました。すなわち、陪臣、雑卒、藩士を問わず、有志の者を結集させた民兵組織、奇兵隊を創設するのです。

そんな中、京都では8.18の政変が起きます。
長州藩の勢いが盛んなのを疎んじた会津と薩摩の陰謀だったのです。

九門の出入を禁じられた七卿(三条実美、三条西季知、東久世通禧、錦小路頼徳、壬生基修、四条隆謌、沢宣嘉)は関白鷹司邸に集まり、桂小五郎や長州の藩兵、真木和泉守ら親兵千人も鷹司邸に集まり、邸内は武装兵で満ち溢れています。
長州藩士らは一戦交えても君側の奸を除く覚悟。しかし吉川監物が、開戦を主張している桂小五郎久坂玄瑞を一室に呼んで、思いとどまるように必死に説得したのです。
結局、長州側は朝廷の撤兵要求をのんで、不測の事態を回避するため鷹司邸を出て、洛東の妙法院に移りました。そこでの会議の結果、三条以下七卿を守って長州へ帰藩することに決しました。

長州一藩が孤立した立場に追い込まれ、これ以後、明治維新を迎えるまで、藩の存亡をかけて徳川幕府と対峙することになります。
桂は大阪の藩邸にもどり、さらに京都に潜入、すでに長州人の入洛禁止令が出ていたので、藩邸には入らずに長州藩出入の商家大黒屋に潜伏することになったのです。

8・18の政変による長州藩の追放以降、各藩の勤王党は弾圧をうけ、長州尊攘派もまた、厳しい冬の時代に入っていくことになります。

京都の大黒屋に潜伏した桂は名を新堀松輔と変えて、水戸藩や福岡藩に働きかけて、長州藩の復権について周旋を依頼、さらに長州藩からの使者、根来上総の入洛許可を正親町三条実徳にも依頼し、実徳の周旋によって一旦は許可が下りたのですが、薩摩藩と会津藩の反対によって撤回されてしまいました。

桂はその後も長州の復権に向けて奔走していきます。

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木戸孝允関係文書 2 (2)木戸孝允関係文書 2 (2)
(2007/03)
木戸孝允関係文書研究会

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Posted by 左近将監 at 13:16Comments(0)TrackBack(0)桂小五郎

2008年03月02日

桂小五郎 幾松と出逢う

忙しく駆け回る桂小五郎であったが1862年一つの出逢いがあった。

料亭・吉田屋の幾松でした。

東奔西走する桂の癒してきな存在となる幾松

京都の長州藩邸は御池の河原町にあり、その近くに三本木という祇園よりも規模としては小さい花街がありました。
吉田屋はそこにあったのです。

幾松はその美貌と利発さによって人気者でした。桂も当然惹かれていきます。
通いつめているちに本気で幾松を愛するようになった桂は幾松を身請けしたいと思うようになっていました。
しかし、当の吉田屋はナカナカ「うん」とはいいません。
当然です。看板芸妓の幾松を取られるのは吉田屋としても痛手なのです。
桂はそれでも執拗に吉田屋に話をもちかけます。

ついには吉田屋もおれるのです。身請け後も芸妓をやめずに吉田屋を支えてくれるという条件つきで幾松を桂に落籍することになりました。

木屋町の住居で夫婦同然に暮らすことになった二人。桂にとって至福の一時でした。

1863年(文久3年)2月萩にて謹慎していた長井雅楽が切腹処分に処せられます。
航海遠略策は朝廷によって支持されたにもかかわらず、結果的に朝廷によって退けられてしまったのです。長井は時代の犠牲者でした。

3月には桂は山縣半蔵とともに勝海舟と会談をもちます。
勝は開国論者です。
今の幕藩体制ではどうにもならない、新しい政治体制を築かなければ、いずれ日本は滅びる。それを実行するには、攘夷を行うしかない、そう考えていました。

勝との話し合いで改めて海外遊学が必要だと認識するのです。
同じ考えを井上聞多山尾庸三野村弥吉も持っていることがわかり彼らは外遊許可を藩に申請するのです。

しかしこんな激動のときの藩の外交担当の桂の遊学が認められるはずもなく、桂の代わりに伊藤俊輔遠藤謹助が加わりイギリス船にて幕府に隠れての密航をするのです。

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木戸孝允関係文書〈第1巻〉木戸孝允関係文書〈第1巻〉
(2005/10)
木戸孝允関係文書研究会

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Posted by 左近将監 at 19:47Comments(0)TrackBack(0)桂小五郎

2008年03月01日

桂小五郎 来原良蔵との別れ

航海遠略策を支持していたはずの朝廷が、今度は「不敬の疑いがある、開国してはならない」という態度に変わったために長州藩主 毛利敬親は朝廷に弁解するために京に向かいます。

桂小五郎は藩主 毛利敬親に京都の政情を詳しく説明し、朝廷が「誹詞に似寄っているところがある」とみなしている以上、長井雅楽の開国論を維持するのは難しい状況であることを告げます。

毛利敬親のもと益田弾正浦靱負桂小五郎が、藩の方針をめぐって議論をします。
この結果、これまでの公武周旋という路線は廃棄されることになりました。

京都に入った毛利敬親は早速、藩是決定の御前会議が開かれ、航海遠略策が破棄、奉勅攘夷が藩是となったのです。
7月14日、桂は右筆に任ぜられ、政務座副役を命じられました。

これまで長井雅楽の元、公武周旋が、京都では奉勅攘夷に変ってしまったのですから長州藩は無節操と非難されたでしょう。
薩摩藩も出し抜かれたと思ったのかもしれません。
これ以後両藩は険悪な関係へとなっていくのです。

朝廷、藩が奉勅攘夷に変わってしまった以上長井のほうも朝廷への謗詞の罪を問われて自宅謹慎となり、最終的な処分を待つことになったのです。
長井雅楽を支持してきた来原良蔵は自らの責任を強く感じていました。結果的には藩を迷走させることとなってしまったのです。

来原良蔵は自害して果てます。
桂小五郎への遺書には「忠義と思ってやったことが、すべて不忠不義となってしまい、自分を誤り人を誤らせた罪はのがれがたく、割腹してお詫び申し上げる・・・云々」と書かれていました。

来原を失った桂は呆然とします。
航海遠略策に反対してきた桂は、良かれと思って支持した来原を救えなかったのです。

上海に出ていた高杉晋作は京都に戻り攘夷派の武士たちの言動に接して、その浮薄さに失望します。
江戸へ帰った晋作は横浜での外人襲撃を計画します。
この計画に久坂玄瑞井上聞多品川弥二郎赤根武人などが参加します。
しかし計画を実行するに当たりどうやら情報が漏れていることに気づきます。

やむなく下田屋を引き上げて、大森の梅屋敷まで行くと毛利定広が待っていました。
若殿直々の説得にさすがの晋作、久坂も断念するほかありません。
これは土佐の武市半平太が久坂から情報を聞き、時期尚早とし、山内容堂に相談、容堂が定広に知らせとようでした。
すべて丸く収まると思われましたが、ほろ酔い気分の周布政之助が土佐藩を挑発します。
これによって周布は失脚、桂小五郎が周布に変わり藩外交の責任者に就任することになるのです。

桂にとって江戸での一連の事件に衝撃でした。
破約攘夷の外交路線で、薩摩や土佐などと雄藩連合を結成していくつもりだったのに、薩摩との関係は悪化していくし、土佐も周布発言により溝が出来てしまいました。
このままでは長州藩の孤立化は避けられない、そう感じた桂はいずれ戦になることを覚悟していました。

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維新の回天と長州藩―倒幕へ向けての激動の軌跡維新の回天と長州藩―倒幕へ向けての激動の軌跡
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2008年02月29日

桂小五郎を救え

坂下門の変で老中 安藤襲撃した水戸藩浪士。

この襲撃に間に合わなかった者がいました。
水戸藩浪士・川辺左治右衛門です。
川辺は義挙に遅れたことは自分の失態であり、同志にたいして申しわけなく、切腹の場を借りたいと桂小五郎を訪ねて来たのです。

桂も長州藩邸で水戸藩浪士に自害でもされたら、水戸と長州の繋がりまで疑われると思い必死に自害を諌めます。
しかし、結局、川辺は自決してしまうのです。

このこと下手に隠してあとで漏れたらことはさらに厄介になると小五郎も考え、長州藩として川辺の自決を正直に届け出ていました。そして桂とたまたまその場(自決したあと)にいた伊藤俊輔は北町奉行所に拘束されたのでした。

桂にとって幸いだったのは、川辺とはまったく面識がなかったことです。

よって桂は正直に全然知らない男と言いはります。
本当のことですから奉行所のほうもなす術が無く、一旦、桂と伊藤を開放します。

幕府も諦めてはいなく、執拗な取調べが続きます。長州藩政府も幕府を憚って桂の有備館用掛の職を免じて監禁するのです。
これに対して有備館生たちが怒りました。
木梨平之進野村弥吉ら27人が連名で、桂小五郎の監禁を解くよう幕府に周旋せよと、脅迫まがいの嘆願書を藩政府に提出。
桂をこのまま死なせはしないという危機感だったのでしょう。
吉田松陰の件もあり、桂を死なせたら長州藩全体の恥辱であると館生一同が立ち上がり奉行所の襲撃も辞さない覚悟を示していたのです。

長井雅楽も桂の救出に乗り出します。
長井は「水戸の攘夷派を説得できる人物は桂小五郎しかいない」という久世大和守ら4人の老中を説きました。
幕閣たちは、長井の航海遠略策によって引き続き朝廷を懐柔したいことっもあり、長井の提案に耳を傾けます。
これによって桂と伊藤は譴責処分を受けただけですみました。

その後も時代は荒く激しく動いていきます。

寺田屋事件が起こり、薩摩藩の同士討ちが繰り広げられます。
同じ頃、京都の長州藩邸には久坂玄瑞佐世八十郎など、松陰門下生を中心とする約100人が武装して待機していました。

しかし寺田屋の事件を知り久坂らはやがて長井雅楽暗殺を企てることになります。
そんな中、5月12日 桂は江戸から京都へと向かいます。




維新への胎動〈上〉寺田屋事件 (講談社学術文庫―近世日本国民史)維新への胎動〈上〉寺田屋事件 (講談社学術文庫―近世日本国民史)
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Posted by 左近将監 at 18:51Comments(0)TrackBack(0)桂小五郎

2008年02月28日

桂小五郎 水戸藩浪士たちとの義

さて桜田門外の変にて井伊直弼という最大の障害を取り除いた志士たちは活動を活発化させます。

長州藩士 松島剛蔵桂小五郎を訪ねて水戸藩士との提携の重要性を説きました。
松陰の志を継ぐためには、水戸藩と結ぶほかないと松島は言い、水戸藩の西丸帯刀桂小五郎を会談させます。

西丸は、この機に乗じて有為の大藩が幕府を忠諌し、尾張、水戸、越前諸侯の謹慎を解き、政治を刷新しなければならない。
そこで役割が二つある。一方は桜田につぐ激発をやって天下を破り、もう一つは尊攘の大義を打ち立てて、天下のことを成す。と説き桂に対して、「破ると成すと、貴殿の所存ではいずれが難きか」と聞きます。

桂は「破るは難い」と答え、これに対し西丸は「しからば我等が、その難きをとる」と。

丙辰丸の盟約」の締結です。
これにより桂は倒幕の第1歩を歩み始めたのです。
水戸藩士たちとの密約について、小五郎はまだ久坂にも高杉にも話していませんでした。
桂はまず、藩の重臣たちを説き雄藩連合を拡大していき、無駄な犠牲者を出さないようにしたいと考えていました。

そのために、長州の周布政之助長井雅楽を説得しなければなりませんでした。
周布政之助は帰藩した松島剛蔵が説得し盟約の受諾をしました。
しかし、長井雅楽はロシア、イギリスがこぞって日本上陸をしようとしている現実をみて「航海遠略策」を唱えます。
この策に藩も賛同し長井雅楽は朝廷と幕府のあいだを周旋する任務を与えられるのです。

おどろいた桂は、なんとかして「航海遠略策」を撤回させねばならぬと水戸藩の美濃部又五郎と長井とを対面させようとしたのです。
同じ頃久坂玄瑞長井雅楽の「航海遠略策」に反対しており、江戸に着いた長井をつかまえ延々と議論を重ねていました。

桂の努力の甲斐もあり長州藩直目付・長井雅楽と水戸藩側用人・美濃部又五郎との会見が、小五郎の手引きで実現したのです。桜田藩邸での2人の会見には周布政之助も同席しました。
会見後、長井は京に向かいます。
残った周布政之助はその後も水戸藩士らと会談を繰り返し周布はすでに小五郎らの意見に賛同し、水長の密約を支援する決意を固めていました。

同じ頃和宮の降嫁が10月に内定されたという情報が伝わると、まず久坂玄瑞が行動を起します。
そのときには高杉晋作も東北遊学から戻り江戸に来ていました。
久坂は「要駕策」を行おうとしていたのです。

桂はこの過激の動きをいち早く察知していました。
なにしろ高杉が来ればなにかが起る、久坂と晋作が二人そろったのです。

桂は先ず晋作を切り離します。
幕府の上海航行の計画があり、晋作をこれに乗せることにするのです。
かねてより海外渡航を希望していた晋作はこれに賛同し「要駕策」から手を引きます。

晋作が抜けても、久坂玄瑞はまだ諦め切れませんでした。

周布の家にて何度も議論するのです。
結局、久坂に周布が折れ、久坂と一緒に伏見で藩主の行列を待ち受けることにしました。
2人の計画は結果的に失敗に終わります。
無断で江戸を離れたことを咎められて、2人とも帰国させられるのです。

水戸藩士たちも、血気に逸っていました。
老中 安藤信正を襲撃計画を実行しようとしていました。

丙辰丸の盟約」によって同盟はしているにしても正式なものではないし、周布、久坂が萩にて謹慎中、長井も江戸に戻ってきているので、桂は時期尚早とし水戸の西丸帯刀に計画の延長を申し入れました。

しかし水戸藩も追い詰められており、計画は予定通り行うことでした。

1862年(文久2年)1月15日 朝、坂下門にて水戸浪士たち6人は襲撃をします。
安藤を背中から刺したものの致命傷にはならず、襲撃は失敗に終わります。
水戸浪士たちは尽く討死にします。
安藤は一命は取り留めたものの幕政から失脚、その姿を消します。

桂にも幕府からの疑いの目は向けられました。
以前より水戸藩士たちが出入りしていることは幕府にも知れており、目を付けられていたのです。

桂は奉行所に呼び出され尋問されるのです。

このあと桂と長州藩士たちの厚き人情が発揮されるのです。

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木戸孝允関係文書〈第1巻〉木戸孝允関係文書〈第1巻〉
(2005/10)
木戸孝允関係文書研究会

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Posted by 左近将監 at 12:08Comments(0)TrackBack(0)桂小五郎

2008年02月27日

桂小五郎の決意

幕府によって捕らえられた吉田松陰は投獄される。(当然ですね・・・)

桂小五郎は松陰のために金子などを使い守衛や役人を買収し、松陰を解放させようと試みるが、事が事だけに不可能であった。
結局、松陰は萩にて蟄居の命が下る。
ペリーや老中 阿部正弘の配慮があったと言われる)

その間にも桂は貪欲に知識を吸収していく。
下田奉行、中島三郎助から造船術を学び、戸田浦の船大工、高橋伝蔵を訪問したりとしていた。

1858年8月には桂は江戸藩邸の大検使役に任命されました。
簡単にいうと財務主任です。毎年銀250匁の機密費が支給され、通例では検使を務めてからこの役につきます。
これには松陰が周布政之助や直目付の清水図書に桂を熱心に推薦したことから異例の抜擢となったようです。
そのほかにも、この時期に松陰の推薦により多くの門下生が江戸、京都になどに派遣されていきます。
身動きが取れない自分の代わりに門下生たちが様々な情報とうをもたらしたのです。

しかし、1859年安政の大獄が起こります。
これにより、幕府より吉田松陰の護送命令が出るのです。松陰は萩から江戸に護送されるのだ。

そのころには桂は松陰の後押しもあり、長州藩においてかなりの立場になってきていた。
10月11日、藩命により桂は伊藤俊輔を連れて江戸に入っている。
入れ替わりで藩命にて江戸から萩へと高杉晋作が下るのだが、晋作は萩に下る前に、桂と会談している。おそらくは松陰のことについての話し合いだっただろう。

そうして晋作が萩へと戻っていく中、10月29日、吉田松陰は処刑される。
桂小五郎伊藤俊輔と共に松陰の遺体を引き取りに行き、千住回向院に埋葬するのである。

この松陰の処刑は多くの長州藩志士の心に火をつけてしまった。

桂はその年一人の人物と出会っています。それは村田蔵六。

長州出身の医者で幕府講武所の教授を勤めていました。
桂は村田蔵六との交誼を深め、松陰の死後、桂は村田蔵六と共に長州を洋式軍術に変更していくのです。

1860年3月3日、「桜田門外の変」がおきます。
大老 井伊が暗殺されたことを尊攘志士たちは喜んだことはいうまでもありません。
桂もめずらしく興奮し、快挙であるといって事変を喜んでいます。
これにより、ひとまずは松陰の仇討ちはできました。

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若者たちに維新を託して―吉田松陰、安政の大獄に散る (新ものがたり日本歴史の事件簿 2)若者たちに維新を託して―吉田松陰、安政の大獄に散る (新ものがたり日本歴史の事件簿 2)
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Posted by 左近将監 at 14:20Comments(0)TrackBack(0)桂小五郎

2008年02月26日

桂小五郎と吉田松陰

桂小五郎は実は松下村塾の門弟ではなかったことは先日も書いた。

桂は、17歳のときに藩校明倫館で山鹿流兵学教授であった吉田松陰と出逢っている。
松陰も3歳年下の桂の器量に対して見るところのある人物と評し懇意を深めているのは事実であり、藩校の先生と生徒と言う間柄でもあったので門弟になる。

吉田松陰は藩に内密で東北遊学した罪により、藩士の身分を剥奪されていました。
しかし藩主 毛利敬親は松陰の才を惜しみ、10年間の諸国遊学の許可を松陰に与えていました。

そんなわけで吉田松陰は江戸に来ていました。ですが、士籍がない松陰は藩邸におおっぴらに行くことができません。そこで小五郎に藩邸の様子を窺うように頼んだのです。
長州藩邸も松陰から学問を学びたいという藩士らがいて、出入も自由にできることになるのです。
そんな折のペリー艦隊の来航でした。
幕府は来春のペリー再来に備えて、品川台場の建設を決定、桂の師・斉藤弥九郎は兵学上師として現場に赴く事があったのでこれに同行すること頼むのです。
弥九郎は桂を自分の弁当持ちに化けさ同行させるのです。
桂は弥九郎をとおして江川太郎左衛門と知り合い、海岸の測量法や砲台について学ぶことになりました。

桂は正式に江川塾に入門します。
ここで山野の戦法、海岸、船上の砲術など西洋銃陣を学んでいく。

そんなある日桂に松陰から話があるので来て欲しいという依頼が来る。

用件は別れでした。
このとき長崎にはロシア艦隊が来ており、松陰もその情報は入っていた。

外夷に抗するためには外夷のことを知らねばならない

そう考えていた松陰は長崎に行くことを決めるのです。
密航するしかない」松陰はそう考えていたのです。

幕吏に密航と気づかれて捕まってしまうか、もし外国船に乗り込めたとしても、無事日本に戻ってこられる保証はありません。
師とも弟子とも最後の別れになるかもしれない。そう思ったら
松陰は最後に桂に会いたかったのでしょう。

しかし桂は姿を現しませんでした。
藩命によって大森・羽田の海岸調査に出向いていたのです。
松陰は「圭木(桂のこと)を待ちしも至らず、悵然たることこれを久しうし、決然袂を振って去る」と言って長崎へ旅たちます。

そんな決意の元長崎へと向かう松陰ですが、ロシア艦隊は松陰が長崎に来る前に出航してしまいます。
仕方なく松陰は江戸へ戻っていくのです。

そんな松陰の考え方は桂にも受け疲れており、来原良蔵と共に藩庁に堂々と渡航願いを提出したのです。外国を自分の目で見て、直接の情報を得たいそう考えていました。
ビックリしたのは長州藩庁です。
このことが公になればとんでもないことになります。
事態を有耶無耶にして揉み消します。

そうこうしていると1854年ペリーは再び来航してきます。
これを聞きつけた吉田松陰は米艦乗込みを決行します。
事態を聞かされた桂は松陰に一緒に連れって行ってもらうことを願い出ますが
「藩士である君が密航などしたら大変なことになる」と説き伏せられ断念しています。

結局密航は失敗に終わり、松陰は捕縛されるのでした。

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木戸孝允 (幕末維新の個性 8)木戸孝允 (幕末維新の個性 8)
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幕末諸州最後の藩主たち 西日本編―ペリー来航から戊辰戦争・西南戦争まで激動の25年史 (古地図ライブラリー)幕末諸州最後の藩主たち 西日本編―ペリー来航から戊辰戦争・西南戦争まで激動の25年史 (古地図ライブラリー)
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百秀は白麹仕込みに添え麹を使用することにより、いも焼酎本来の旨みを引き出しつつも、いも焼酎独特の香りを和らげていますので、いも焼酎の香りが苦手な方から、長年いも焼酎を飲み続けてある方まで納得できる焼酎だと思います。 飲み方は、水割り・湯割りどちらも満足しました。。 大正9年、十数名の有志により創業を開始した日当山醸造さん。創業よりの製造技術、貯蔵管理の技が杜氏に引き継がれています。特選された米麹とさつまいもを主原料とし、大自然の霧島山系より湧き出る清麗な湧水を使用、醸造、麹造りからもろみの発酵・蒸留・熟成と美味しい焼酎造りに十分な時間と真心を注ぎ、本格焼酎の旨さを追求しています。  

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2008年02月24日

若き 桂小五郎

西郷隆盛大久保利通とともに、維新の三傑として並び称せられる桂小五郎


1833年8月11日萩藩医 和田昌景の長男として生まれている。
この和田家は毛利元就の七男毛利元政の血を引くという名家であった。

桂小五郎は長男であったが、病弱で長生きしないと思われていたため、長姉に婿養子文讓が入り跡をとっていたために、七歳で向かいの桂家の末期養子となり長州藩の大組士という武士の身分と秩禄を得ることとなる。

10歳に時に岡本権九郎が城下で開いた向南塾にて学び、14歳の時には藩校、明倫館に入学している。
17歳のときに藩校明倫館で山鹿流兵学教授であった吉田松陰と出逢い、師事してはいるが、桂小五郎はいわゆる私塾・松下村塾の門下生ではなかった。
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嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を藩に許可され斎藤弥九郎に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門一年で練兵館塾頭となる。
藩命で帰国するまで5年間、練兵館の塾頭を務め、その間、剣豪の名を天下に轟かせることになる。

ここで北辰一刀流の坂本龍馬と試合をしたと言う記録も残っている。

1854年 ペリーが再度浦賀に来航する。桂はすぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など天領五カ国の代官である江川太郎左衛門に実地見学を申し入れ、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞する。
艦隊を見学した桂は刺激を受け、松陰の「下田踏海」に際しては自ら積極的に協力を申し出るが、松陰から堅く制止され、結果的には幕府からの処罰を免れることができた。

桂の要望を断りながら、松陰は「下田踏海」に踏み切る、結果幕府に捕縛され萩へ送られることとなる。

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桂小五郎―奔れ!憂い顔の剣士 (時代を動かした人々―維新篇)桂小五郎―奔れ!憂い顔の剣士 (時代を動かした人々―維新篇)
(2004/11)
岡田 嘉夫、古川 薫 他

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