2008年07月09日
坂本龍馬---一覧
坂本龍馬---記事一覧

● 『日本の英雄 坂本龍馬誕生』
● 『千葉道場』
● 『土佐勤王党と脱藩』
● 『勝海舟を斬るのか』
● 『西郷隆盛との出逢い』
● 『薩長同盟に向け奔る』
● 『仇敵 後藤象二郎と会う』
● 『先に行くぜよ』
● 『龍馬と桂小五郎』
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2008年06月05日
坂本龍馬と桂小五郎
幕末の人気者坂本龍馬と桂小五郎。
この二人性格が全然違うのだが、何故か仲が良かったらしい。

おそらく自由奔放な典型的なB型の坂本龍馬と、緻密で繊細、石橋を叩いて渡るようなA型の桂小五郎。
合うはずがないのだが、時代がそうさせたのか桂は龍馬を頼りにしているし、龍馬は桂を尊敬していた。

この二人は対照的なようでいて、共通点がいくつかあるのだ。
まず桂も龍馬も「剣の使い手」。
龍馬は北辰一刀流・千葉道場で、桂は神道無念流・斎藤道場で一時期、ともに塾頭を務めているほどである。
しかし、この二人が人を切ったというところを聞いたことがない。
剣を抜かない、つまり人を殺さない剣客?であったのだ。
二人からは悲壮感が感じられないのだ、岡田以蔵や田中新兵衛たちのような人斬りには、やはり血の臭いを感じるのだが、龍馬も桂も人を切っていないので悲壮感や血生臭さを感じることがない。
土佐を脱藩して自らの思想のもとに自由に駆け回る龍馬を、桂はおそらく羨ましく思っていたのではないだろうか。
土佐藩の下級藩士として生まれた龍馬にとって、土佐で生きていては自分の器に収まらなかったのだろう。また土佐独特の身分差別が龍馬の人生観を変えていたとも思われる。
かたや桂は長州の正規の藩士として育ってきていたので、身分差別などを気にしたことはなかっただろう。
その辺が後々、薩長同盟のおりの薩摩と長州がお互いに話しを切り出さず悶々とした日を過ごすことになる原因であろう。
龍馬の「薩摩じゃ、長州じゃ、言うとる場合か。そげな小さきことを言うとってはなん。」と言った言葉に繋がっているように思う。
桂は長州藩士として、いかに自藩を守るかということが主だった。
その中で尊皇攘夷、倒幕と言う答えを導き出し、これに傾倒していく事で長州藩を存続させる道を見ていたのである。
このことは薩摩の西郷隆盛も同じであろう。
薩摩の優位な方策を選び、その中に薩長同盟があり、倒幕に向かっていったように感じる。
桂はもしかしたら龍馬のように自由な生き方がしたかったのではないだろう。
桂は吉田松陰と同時期に海外脱出を企てていたし、その後も、留学させてほしいという希望を藩政府に伝えている。
しかし藩の外交を担当している桂の密留学を藩が許すはずがなかったし、若し許されても同志たちが止めたであろう。
龍馬のほうは、貿易商社「亀山社中」を設立し、海援隊の隊長となって「ユニオン号」を操り、薩長間の貿易や下関の幕長戦にも、高杉晋作に頼まれたとはいえ参加したりている。
桂は龍馬に自分のない部分を求めていたのだろう。
自らの窮屈な器の中で生きなければならないことが苦しかったのかもしれない。
龍馬の自由に動きまわり思想の元に行動する姿に自分を重ねていたのだろうか。
桂は龍馬を友として、同志として信頼し、頼りにしているしていた。
それが薩長同盟の龍馬の裏書に繋がるのだろう。
桂は龍馬のその自由な発想と行動力と実行力に恋をしていたのかもしれない。
しかし、龍馬は志半ばでこの世をさる。
残された桂はさぞかし心細かったであろう。
ともに激動の時代を歩んできた同志たちが周りからいなくなり、残された自分自身は周りからの要望や期待に推されながら自由に動けなくなっていく。
桂と龍馬は相対する性格ながら求めていた先は同じ自由だったのかもしれない。
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この二人性格が全然違うのだが、何故か仲が良かったらしい。

おそらく自由奔放な典型的なB型の坂本龍馬と、緻密で繊細、石橋を叩いて渡るようなA型の桂小五郎。
合うはずがないのだが、時代がそうさせたのか桂は龍馬を頼りにしているし、龍馬は桂を尊敬していた。

この二人は対照的なようでいて、共通点がいくつかあるのだ。
まず桂も龍馬も「剣の使い手」。
龍馬は北辰一刀流・千葉道場で、桂は神道無念流・斎藤道場で一時期、ともに塾頭を務めているほどである。
しかし、この二人が人を切ったというところを聞いたことがない。
剣を抜かない、つまり人を殺さない剣客?であったのだ。
二人からは悲壮感が感じられないのだ、岡田以蔵や田中新兵衛たちのような人斬りには、やはり血の臭いを感じるのだが、龍馬も桂も人を切っていないので悲壮感や血生臭さを感じることがない。
土佐を脱藩して自らの思想のもとに自由に駆け回る龍馬を、桂はおそらく羨ましく思っていたのではないだろうか。
土佐藩の下級藩士として生まれた龍馬にとって、土佐で生きていては自分の器に収まらなかったのだろう。また土佐独特の身分差別が龍馬の人生観を変えていたとも思われる。
かたや桂は長州の正規の藩士として育ってきていたので、身分差別などを気にしたことはなかっただろう。
その辺が後々、薩長同盟のおりの薩摩と長州がお互いに話しを切り出さず悶々とした日を過ごすことになる原因であろう。
龍馬の「薩摩じゃ、長州じゃ、言うとる場合か。そげな小さきことを言うとってはなん。」と言った言葉に繋がっているように思う。
桂は長州藩士として、いかに自藩を守るかということが主だった。
その中で尊皇攘夷、倒幕と言う答えを導き出し、これに傾倒していく事で長州藩を存続させる道を見ていたのである。
このことは薩摩の西郷隆盛も同じであろう。
薩摩の優位な方策を選び、その中に薩長同盟があり、倒幕に向かっていったように感じる。
桂はもしかしたら龍馬のように自由な生き方がしたかったのではないだろう。
桂は吉田松陰と同時期に海外脱出を企てていたし、その後も、留学させてほしいという希望を藩政府に伝えている。
しかし藩の外交を担当している桂の密留学を藩が許すはずがなかったし、若し許されても同志たちが止めたであろう。
龍馬のほうは、貿易商社「亀山社中」を設立し、海援隊の隊長となって「ユニオン号」を操り、薩長間の貿易や下関の幕長戦にも、高杉晋作に頼まれたとはいえ参加したりている。
桂は龍馬に自分のない部分を求めていたのだろう。
自らの窮屈な器の中で生きなければならないことが苦しかったのかもしれない。
龍馬の自由に動きまわり思想の元に行動する姿に自分を重ねていたのだろうか。
桂は龍馬を友として、同志として信頼し、頼りにしているしていた。
それが薩長同盟の龍馬の裏書に繋がるのだろう。
桂は龍馬のその自由な発想と行動力と実行力に恋をしていたのかもしれない。
しかし、龍馬は志半ばでこの世をさる。
残された桂はさぞかし心細かったであろう。
ともに激動の時代を歩んできた同志たちが周りからいなくなり、残された自分自身は周りからの要望や期待に推されながら自由に動けなくなっていく。
桂と龍馬は相対する性格ながら求めていた先は同じ自由だったのかもしれない。
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2008年02月16日
坂本龍馬 先に行くぜよ
坂本龍馬はその日京都にいた。
いつものように一日が終わろうとしていた。
1867年(慶応2年)11月15日 京都河原町にある醤油商・近江屋。
坂本龍馬はそれまで材木商・酢屋の二階を借り、海援隊・京都事務所を置いて拠点としていたが、先の寺田屋での襲撃の件もあり、場所を移していた。
目と鼻の先には土佐藩邸があるところである。
その近江屋の裏庭の土蔵に密室を造り、万一に備えて裏手の誓願寺へ逃れる道も用意してあった。
であるが、日頃から人目を気にしない龍馬。昼間もウロウロしていたのだろう。
見廻り組に容易に発見される。
おりしも14日風邪にて体調を崩していた龍馬は土蔵の隠れ家から母屋の2階に移っていた。
夕方、中岡慎太郎が訪ねてくる。
二人が話し合いをしていると、十津川郷士と名乗る覆面の武土が元相僕取りの下僕藤吉に取りつぎを頼み、藤吉は十津川郷士は龍馬と関わりが多い事から安心したのか2階に案内する。
2階に上がる途中に藤吉は不意討ちを食らう形で斬られる。
そのまま乱入者は2階の龍馬と慎太郎のいる部屋へ押し入り、1人が中岡の後頭部を、1人は龍馬の前頭部を斬りつけた。
北辰一刀流の龍馬が鞘さえも抜く間もなかった。
中岡は後ろを見せていたので当然無理だとしても、正面にいた龍馬が居抜けなかったのだ。
頭部に二創を受けた龍馬は絶命、中岡は翌々日の17日に亡くなる。
龍馬は死ぬ間際まで慎太郎に向かい
「石川大丈夫か?わしゃいかんゼヨ、脳をやられちょる」と慎太郎を偽名で呼んでいた。
こうして時代の変革の原動力となった坂本龍馬は大政奉還を見る事無く先に逝ってしまう。
享年33歳。
生きていれば日本はどうなったのであろうか。
龍馬暗殺の件については、諸説がありマチマチである。
いまここで敢えて言うことはしないが、時代を見誤った者たちの仕業であることは間違いない。
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いつものように一日が終わろうとしていた。
1867年(慶応2年)11月15日 京都河原町にある醤油商・近江屋。
坂本龍馬はそれまで材木商・酢屋の二階を借り、海援隊・京都事務所を置いて拠点としていたが、先の寺田屋での襲撃の件もあり、場所を移していた。
目と鼻の先には土佐藩邸があるところである。
その近江屋の裏庭の土蔵に密室を造り、万一に備えて裏手の誓願寺へ逃れる道も用意してあった。
であるが、日頃から人目を気にしない龍馬。昼間もウロウロしていたのだろう。
見廻り組に容易に発見される。
おりしも14日風邪にて体調を崩していた龍馬は土蔵の隠れ家から母屋の2階に移っていた。
夕方、中岡慎太郎が訪ねてくる。
二人が話し合いをしていると、十津川郷士と名乗る覆面の武土が元相僕取りの下僕藤吉に取りつぎを頼み、藤吉は十津川郷士は龍馬と関わりが多い事から安心したのか2階に案内する。
2階に上がる途中に藤吉は不意討ちを食らう形で斬られる。
そのまま乱入者は2階の龍馬と慎太郎のいる部屋へ押し入り、1人が中岡の後頭部を、1人は龍馬の前頭部を斬りつけた。
北辰一刀流の龍馬が鞘さえも抜く間もなかった。
中岡は後ろを見せていたので当然無理だとしても、正面にいた龍馬が居抜けなかったのだ。
頭部に二創を受けた龍馬は絶命、中岡は翌々日の17日に亡くなる。
龍馬は死ぬ間際まで慎太郎に向かい
「石川大丈夫か?わしゃいかんゼヨ、脳をやられちょる」と慎太郎を偽名で呼んでいた。
こうして時代の変革の原動力となった坂本龍馬は大政奉還を見る事無く先に逝ってしまう。
享年33歳。
生きていれば日本はどうなったのであろうか。
龍馬暗殺の件については、諸説がありマチマチである。
いまここで敢えて言うことはしないが、時代を見誤った者たちの仕業であることは間違いない。
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2008年02月15日
坂本龍馬 仇敵 後藤象二郎と会う
同盟を成功させた坂本龍馬は寺田屋に投宿した。
安堵感もあったのだろう宿では三吉慎蔵が待っていた。
三吉は槍の遣い手で、長州藩が龍馬の護衛役に付けていた人物。
龍馬も心を許し信頼していた人である
夜未明、伏見奉行所の捕吏数十名が寺田屋を取り囲む。
ちょうどその頃風呂に入っていた お龍がいち早く気付き、2階の龍馬に知らせた。
(この時お龍は裸同然で二階に駆け上がったといわれている)
脱藩者である龍馬の姿を昼間に見られたのだろう。
捕縛士達が2階に上がってくる。
龍馬は三吉と二人で応戦しながら、隣家の屋根伝いに逃走し濠川沿いの材木屋に隠れた。
その間にお龍は薩摩藩邸に知らせに奔る。龍馬を隠した三吉も薩摩藩邸に走った。
これにより薩摩藩士が救出に向かい無事、伏見薩摩藩邸へ逃げのびることができたのだ。
このことを切っ掛けに龍馬はお龍と結婚をする。
仲介人は中岡慎太郎である。
手に傷を負った龍馬に対し西郷隆盛は、 「傷の治療ならば、塩浸温泉の湯がいい」とし龍馬を養生のため薩摩に行くことを進めるのだ。
龍馬もこれに同意し、お龍を連れて塩浸温泉へと向かう。
これが日本最初の新婚旅行とされている。
湯治を兼ね新婚旅行で薩摩を巡った龍馬。心休まるひと時だったろう。
そうこうしているうちに幕府は第2次長州征伐を敢行していく。
しかし、薩長同盟にて最新の武器を手に入れ、亀山社中などの海軍の協力などもあり長州は連戦連勝していくのだ。
長州軍は奇兵隊という武士以外の階級からなる市民軍がほとんどで、一般民衆が武士に勝利した瞬間であった。
1867年(慶応2年)1月、龍馬は長崎の「清風亭」という料亭で土佐藩参政後藤象二郎と会見することになる。
当時、薩摩、長州に大きく出遅れていた土佐は挽回策に必死であった。
亀山社中の土佐藩出身者は多くが土佐勤王党出身で山内容堂が勤王党を弾圧したとき後藤はその前線に立っていた人物である。
武市(瑞山)半平太も失脚に追い込んだ張本人の後藤との会談に土佐出身者は憤りを感じていた。
かたや後藤も亀山社中のメンバーは伯父吉田東洋の仇である。
龍馬は自らの思想の根底にある「日の本の国のために今なにをせにゃならんか」により
私怨私恨を押し殺し、長州・薩摩の連合にさらに土佐が加わればより強固な倒幕の土台が出来るとし後藤と会談するのである。
この会談により亀山社中は海援隊と名を変え土佐藩公認のものとなる。
龍馬や脱藩者たちも罪が許されている。
6月9日に後藤象二郎とともに藩船にて長崎を出航した龍馬は八ヶ条の時勢救済案をまとめ、後藤に提示する。
この「船中八策」は幕府と討幕派との武力衝突を避ける可能性を提示していた。
また、この文書は「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書だった。
このころの龍馬は倒幕ではなく、徳川家をも一大名としてとらえ、日本の力に変えていこうとするものであった。
土佐藩主・山内容堂は後藤からこの案を聞き、将軍徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出した。
10月14日、大政奉還の上奏文は朝廷へ提出され15日、大政奉還は勅許された。
龍馬の唱えた大政奉還策は見事実現を見た。
14日に徳川討伐の勅許を頂いていた薩長は矛先を失う形になったのだ。
12月9日、御所内学問所において明治天皇臨席の元、王政復古の大号令が下された
しかしこの12月9日には龍馬はもうこの世にはいないのである・・・・・
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安堵感もあったのだろう宿では三吉慎蔵が待っていた。
三吉は槍の遣い手で、長州藩が龍馬の護衛役に付けていた人物。
龍馬も心を許し信頼していた人である
夜未明、伏見奉行所の捕吏数十名が寺田屋を取り囲む。
ちょうどその頃風呂に入っていた お龍がいち早く気付き、2階の龍馬に知らせた。
(この時お龍は裸同然で二階に駆け上がったといわれている)
脱藩者である龍馬の姿を昼間に見られたのだろう。
捕縛士達が2階に上がってくる。
龍馬は三吉と二人で応戦しながら、隣家の屋根伝いに逃走し濠川沿いの材木屋に隠れた。
その間にお龍は薩摩藩邸に知らせに奔る。龍馬を隠した三吉も薩摩藩邸に走った。
これにより薩摩藩士が救出に向かい無事、伏見薩摩藩邸へ逃げのびることができたのだ。
このことを切っ掛けに龍馬はお龍と結婚をする。
仲介人は中岡慎太郎である。
手に傷を負った龍馬に対し西郷隆盛は、 「傷の治療ならば、塩浸温泉の湯がいい」とし龍馬を養生のため薩摩に行くことを進めるのだ。
龍馬もこれに同意し、お龍を連れて塩浸温泉へと向かう。
これが日本最初の新婚旅行とされている。
湯治を兼ね新婚旅行で薩摩を巡った龍馬。心休まるひと時だったろう。
そうこうしているうちに幕府は第2次長州征伐を敢行していく。
しかし、薩長同盟にて最新の武器を手に入れ、亀山社中などの海軍の協力などもあり長州は連戦連勝していくのだ。
長州軍は奇兵隊という武士以外の階級からなる市民軍がほとんどで、一般民衆が武士に勝利した瞬間であった。
1867年(慶応2年)1月、龍馬は長崎の「清風亭」という料亭で土佐藩参政後藤象二郎と会見することになる。
当時、薩摩、長州に大きく出遅れていた土佐は挽回策に必死であった。
亀山社中の土佐藩出身者は多くが土佐勤王党出身で山内容堂が勤王党を弾圧したとき後藤はその前線に立っていた人物である。
武市(瑞山)半平太も失脚に追い込んだ張本人の後藤との会談に土佐出身者は憤りを感じていた。
かたや後藤も亀山社中のメンバーは伯父吉田東洋の仇である。
龍馬は自らの思想の根底にある「日の本の国のために今なにをせにゃならんか」により
私怨私恨を押し殺し、長州・薩摩の連合にさらに土佐が加わればより強固な倒幕の土台が出来るとし後藤と会談するのである。
この会談により亀山社中は海援隊と名を変え土佐藩公認のものとなる。
龍馬や脱藩者たちも罪が許されている。
6月9日に後藤象二郎とともに藩船にて長崎を出航した龍馬は八ヶ条の時勢救済案をまとめ、後藤に提示する。
この「船中八策」は幕府と討幕派との武力衝突を避ける可能性を提示していた。
また、この文書は「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書だった。
このころの龍馬は倒幕ではなく、徳川家をも一大名としてとらえ、日本の力に変えていこうとするものであった。
土佐藩主・山内容堂は後藤からこの案を聞き、将軍徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出した。
10月14日、大政奉還の上奏文は朝廷へ提出され15日、大政奉還は勅許された。
龍馬の唱えた大政奉還策は見事実現を見た。
14日に徳川討伐の勅許を頂いていた薩長は矛先を失う形になったのだ。
12月9日、御所内学問所において明治天皇臨席の元、王政復古の大号令が下された
しかしこの12月9日には龍馬はもうこの世にはいないのである・・・・・
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2008年02月14日
坂本龍馬 薩長同盟に向け奔る
勝海舟の蟄居、神戸海軍塾の閉鎖等により行き場を失った坂本龍馬。
土佐藩からの召喚命令に従わず再脱藩してしまう。
ますます行くところがない龍馬達は勝海舟のはからいで薩摩藩の庇護下、大坂の薩摩藩邸で過ごすことになる。
翌1865年、西郷隆盛のはからいで京都の薩摩藩邸に移る。
指名手配になっていた龍馬は表にも出ることが出来ず無二な日々を過ごしていた。
そこに中岡慎太郎が訪ねてくる。中岡から龍馬に面白い相談事が持ちかけられた。
それは薩長同盟である。
当時犬猿の仲であった薩摩と長州を手を結ばせ、倒幕の偉大勢力と為すことを目論むのだ。
新たな目標が出来た坂本龍馬は中岡慎太郎たちと共に薩長和解にむけて奔走しはじめる。
物事を決めると行動に移すのが早い龍馬。
同時進行で龍馬は薩摩藩の家老小松帯刀が政治的に援助し、長崎の豪商小曾根家援助のもとにより、土佐脱藩の仲間と共に長崎に亀山社中を組織し、物産・武器の貿易を行ったいく。
薩摩も龍馬達海軍塾生の知識と経験を教えてもらい海軍のレベルアップに努めていく。
龍馬は国事と経済の両方を両立しながら薩長同盟締結に向け進む。
西郷隆盛が京都へ上京する際、下関へ立ち寄り、長州の木戸孝允と会談する手はずを
整えるのだが、西郷がこれをすっぽかしたため失敗に終わる。
長州は幕府の第1次長州征伐を受けており、武器弾薬が不足していた、一方薩摩は兵糧米の調達に苦心し困り果てていた。
そこに目をつけた龍馬は、外国から武器を薩摩名義で買い入れ、密かに長州に売りさばき、その見返りに兵糧米を長州から薩摩に届けるというもので、その間を龍馬が率いる亀山社中が取り持つという方法だった。
薩摩藩の小松帯刀は、すでに龍馬のこの申し出を承認しており、西郷も快く承諾、長州の桂小五郎も承諾する。
長州から伊藤俊輔、井上聞多が長崎に入り、武器を調達。
今度は薩摩から黒田清隆が長州に入り米を受け取った。
このとき龍馬は黒田清隆に「王政復古の大目的を達せんには、薩長の間
を和解し、二藩連合して天下に率先せざるべからず」と説き、そこから少しつづ動き始める。
下関にて黒田は高杉、桂と会談し、以前から長州1藩だけでは倒幕は出来んと考えていた高杉晋作の後押しもあり、桂は京都にて会談することを承知する。
先にも書いたが長州は一度薩摩からスッポカシを食らっている。
そのこともあり説得は難航したようだった。
中岡、龍馬の努力の甲斐もありようやく京都での会談にこぎつけた。
しかし、会談は時勢の話などに終始し、肝心の同盟の話に至ってはいなかった。
1週間遅れで京都に入った龍馬は当然もう同盟が成していると思い薩摩藩邸にいくと、まだ同盟を結んでいない旨を聞かされる。
驚いた龍馬は長州藩邸の桂を訪ねた。
「天下のために連合を周旋し、両藩の要人を会わせたのにくだらない感情におぼれて意地を張り合うとは何事じゃ!」といい。
桂は
「今、苦境にあえぐ長州が薩摩に低頭してまで危険に引きずり込むことができましょうや。薩摩が自ら手をさしのべてくれてこそ、我らは救いを乞いもしよう。このまま長州は滅びてもよいのです。薩摩が生き残って幕府を討ってくれるなら、我々に憾みはないでありましょう」と説いた。
ようするに長州は薩摩の気持ちはありがたいが、滅びんとしている長州の巻き添えになってくれとは言えないというのだ。
龍馬はこの桂の言葉に感動し、薩摩藩邸に戻り、西郷、小松らに長州の胸のうちを語り、何とか薩摩から長州を助けてやってくれんかと説いた。
ことのことにより、西郷は是非薩摩から長州に同盟をお願いしたいといい。
翌1月21日、ついに薩摩藩邸において薩長同盟が結ばれるのである。
坂本龍馬 至福のひと時であった。
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土佐藩からの召喚命令に従わず再脱藩してしまう。
ますます行くところがない龍馬達は勝海舟のはからいで薩摩藩の庇護下、大坂の薩摩藩邸で過ごすことになる。
翌1865年、西郷隆盛のはからいで京都の薩摩藩邸に移る。
指名手配になっていた龍馬は表にも出ることが出来ず無二な日々を過ごしていた。
そこに中岡慎太郎が訪ねてくる。中岡から龍馬に面白い相談事が持ちかけられた。
それは薩長同盟である。
当時犬猿の仲であった薩摩と長州を手を結ばせ、倒幕の偉大勢力と為すことを目論むのだ。
新たな目標が出来た坂本龍馬は中岡慎太郎たちと共に薩長和解にむけて奔走しはじめる。
物事を決めると行動に移すのが早い龍馬。
同時進行で龍馬は薩摩藩の家老小松帯刀が政治的に援助し、長崎の豪商小曾根家援助のもとにより、土佐脱藩の仲間と共に長崎に亀山社中を組織し、物産・武器の貿易を行ったいく。
薩摩も龍馬達海軍塾生の知識と経験を教えてもらい海軍のレベルアップに努めていく。
龍馬は国事と経済の両方を両立しながら薩長同盟締結に向け進む。
西郷隆盛が京都へ上京する際、下関へ立ち寄り、長州の木戸孝允と会談する手はずを
整えるのだが、西郷がこれをすっぽかしたため失敗に終わる。
長州は幕府の第1次長州征伐を受けており、武器弾薬が不足していた、一方薩摩は兵糧米の調達に苦心し困り果てていた。
そこに目をつけた龍馬は、外国から武器を薩摩名義で買い入れ、密かに長州に売りさばき、その見返りに兵糧米を長州から薩摩に届けるというもので、その間を龍馬が率いる亀山社中が取り持つという方法だった。
薩摩藩の小松帯刀は、すでに龍馬のこの申し出を承認しており、西郷も快く承諾、長州の桂小五郎も承諾する。
長州から伊藤俊輔、井上聞多が長崎に入り、武器を調達。
今度は薩摩から黒田清隆が長州に入り米を受け取った。
このとき龍馬は黒田清隆に「王政復古の大目的を達せんには、薩長の間
を和解し、二藩連合して天下に率先せざるべからず」と説き、そこから少しつづ動き始める。
下関にて黒田は高杉、桂と会談し、以前から長州1藩だけでは倒幕は出来んと考えていた高杉晋作の後押しもあり、桂は京都にて会談することを承知する。
先にも書いたが長州は一度薩摩からスッポカシを食らっている。
そのこともあり説得は難航したようだった。
中岡、龍馬の努力の甲斐もありようやく京都での会談にこぎつけた。
しかし、会談は時勢の話などに終始し、肝心の同盟の話に至ってはいなかった。
1週間遅れで京都に入った龍馬は当然もう同盟が成していると思い薩摩藩邸にいくと、まだ同盟を結んでいない旨を聞かされる。
驚いた龍馬は長州藩邸の桂を訪ねた。
「天下のために連合を周旋し、両藩の要人を会わせたのにくだらない感情におぼれて意地を張り合うとは何事じゃ!」といい。
桂は
「今、苦境にあえぐ長州が薩摩に低頭してまで危険に引きずり込むことができましょうや。薩摩が自ら手をさしのべてくれてこそ、我らは救いを乞いもしよう。このまま長州は滅びてもよいのです。薩摩が生き残って幕府を討ってくれるなら、我々に憾みはないでありましょう」と説いた。
ようするに長州は薩摩の気持ちはありがたいが、滅びんとしている長州の巻き添えになってくれとは言えないというのだ。
龍馬はこの桂の言葉に感動し、薩摩藩邸に戻り、西郷、小松らに長州の胸のうちを語り、何とか薩摩から長州を助けてやってくれんかと説いた。
ことのことにより、西郷は是非薩摩から長州に同盟をお願いしたいといい。
翌1月21日、ついに薩摩藩邸において薩長同盟が結ばれるのである。
坂本龍馬 至福のひと時であった。
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2008年02月13日
坂本龍馬 西郷隆盛の出逢い
1863年(文久3年)、勝海舟は、将軍徳川家茂が船で大阪湾を巡視するのに同行します。
神戸村に上陸後、海舟は「この村に海軍の仕官育成の機関を建設したい。」と将軍家茂に直談判するのです。
この勝の提案が直ちに受け入れられ、「神戸海軍操練所」が設立されることとなりました。

神戸海軍操練所は、幕臣たちが学ぶ場所であった。
これに隣接して諸藩の志士を集めた「神戸海軍塾」が設けられます。
塾頭は、そうあの勝の手足となり奔走した坂本龍馬でした。
この間、海軍塾設立資金の調達のために越前福井藩主松平春嶽を訪ねるなど、龍馬は海舟の手足となって働きました。
神戸海軍塾は広く塾生を求めた。
門下生には陸奥宗光、伊東祐亭、龍馬の誘いにより岡田以蔵、近藤長次郎、北添佶摩、望月亀弥太などもいた。
そのため、脱藩者はもとより、薩州の暴れ者や諸藩の浪人が多くなり、幕府から睨まれていた。
そして禁門の変の責任を問われて、勝が軍艦奉行を罷免されたこと。
致命的だったのは、池田屋事件の浪士の中に、神戸海軍塾の塾生の北添佶摩、望月亀弥太が参加していたことが露見してしまったのだ。
これにより勝は江戸にて蟄居、神戸海軍操練所は、幕命によって閉鎖されてしまう。
この1年ちょっとの海軍塾であったが、その間に歴史を動かす大きな出会いがある。
それは勝海舟と西郷隆盛、西郷隆盛と坂本龍馬の出会いであった。
勝は1864年(元治元年)兼ねてより見識のあった西郷と会談をもつ。
これによりお互いの意見を交わし、共に進むべき道を確認します。
そして勝は龍馬にも西郷を紹介します。
西郷と会った龍馬は
「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。ただ、その鐘をつく撞木が小さかったのが残念でした。」
西郷を「釣り鐘に」、龍馬自身を「撞木」に例えているところが、いかにも龍馬らしいですね。
この龍馬の西郷評を聞いた勝は、
「評される人も評される人。評する人も評する人。」と言っています。
この後この数奇な出会いが日本を変えていくことになるのです。
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歳三と龍馬Price 1,680 円
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神戸村に上陸後、海舟は「この村に海軍の仕官育成の機関を建設したい。」と将軍家茂に直談判するのです。
この勝の提案が直ちに受け入れられ、「神戸海軍操練所」が設立されることとなりました。

神戸海軍操練所は、幕臣たちが学ぶ場所であった。
これに隣接して諸藩の志士を集めた「神戸海軍塾」が設けられます。
塾頭は、そうあの勝の手足となり奔走した坂本龍馬でした。
この間、海軍塾設立資金の調達のために越前福井藩主松平春嶽を訪ねるなど、龍馬は海舟の手足となって働きました。
神戸海軍塾は広く塾生を求めた。
門下生には陸奥宗光、伊東祐亭、龍馬の誘いにより岡田以蔵、近藤長次郎、北添佶摩、望月亀弥太などもいた。
そのため、脱藩者はもとより、薩州の暴れ者や諸藩の浪人が多くなり、幕府から睨まれていた。
そして禁門の変の責任を問われて、勝が軍艦奉行を罷免されたこと。
致命的だったのは、池田屋事件の浪士の中に、神戸海軍塾の塾生の北添佶摩、望月亀弥太が参加していたことが露見してしまったのだ。
これにより勝は江戸にて蟄居、神戸海軍操練所は、幕命によって閉鎖されてしまう。
この1年ちょっとの海軍塾であったが、その間に歴史を動かす大きな出会いがある。
それは勝海舟と西郷隆盛、西郷隆盛と坂本龍馬の出会いであった。
勝は1864年(元治元年)兼ねてより見識のあった西郷と会談をもつ。
これによりお互いの意見を交わし、共に進むべき道を確認します。
そして勝は龍馬にも西郷を紹介します。
西郷と会った龍馬は
「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。ただ、その鐘をつく撞木が小さかったのが残念でした。」
西郷を「釣り鐘に」、龍馬自身を「撞木」に例えているところが、いかにも龍馬らしいですね。
この龍馬の西郷評を聞いた勝は、
「評される人も評される人。評する人も評する人。」と言っています。
この後この数奇な出会いが日本を変えていくことになるのです。
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2008年02月12日
坂本龍馬 勝海舟を斬るのか
千葉道場にて再び厄介になることになった坂本龍馬。


千葉道場の千葉定吉は鳥取藩の剣術師範に就任し、鳥取藩江戸屋敷詰であり、その子千葉重太郎も1860年(万延元年)には重太郎も鳥取藩に仕官することになっていた。
龍馬は千葉道場に再び訪れたのは1862年だから、千葉家は仕官して2年くらいはたっていたことになる。
重太郎は鳥取藩士として江戸政界に関わる中で当時の勝海舟の開国論に反感を抱くようになっていた。
江戸で生活している千葉重太郎にしてみれば、勝の開国論は日の本をダメにする考え方、異国に国を売ろうとしている輩とした思えていない。
そこに土佐を脱藩して訪れた龍馬。
重太郎にしてみれば、師範の自分と、免許皆伝の龍馬二人いれば勝を仕留めることができると考えたのだろう。
重太郎から勝の話しを聞かされた龍馬は、脱藩はしてみたが何一つしていない自分の生活にも嫌気がさしていたのだろう。
「一度、勝の話しを聞いてみるか!」ってな具合に考えた。
そこで龍馬は幕府政事総裁職の松平春嶽に面会し、春嶽公の紹介状を携え千葉重太郎と共に勝海舟を訪ねるのである。
しかしそこで龍馬は勝の話に吸い込まれていく、まずは異国に匹敵する国防力を待たなくてはいけない、そのためには、開国し異国文化を取り入れ、貿易をなして、海軍の建設していかなくてはならない。と説く海舟。
龍馬は今宵のこと、ひそかに期する所あり。もし公の説いかんによりては、あえて公を刺さんと決したり。今や公の説を聞き、大いに余の固陋(ころう)を恥づ。 請う、これよりして公の門下生とならん。として勝に師事することになるのだ。
勝海舟は後年、このときの龍馬を
「彼はオレを斬りにきた奴だったが、なかなかの人物さ。その時おれは笑って受けたが、落ちついていて、なんとなく冒しがたい威厳のある、いい男だったよ」と評している。
坂本龍馬はこの後、勝と共に海軍設立のために奔走していく。
自由にならない幕臣、勝海舟の変わりに手足となり、国中を駆け巡るのだ。
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幕末三舟伝 Price 2,940 円
師弟 Price 1,785 円
龍馬の時代京を駆けた志士群像 Price 1,575 円


有田焼「幕末・明治維新の志士達」陶板 Price 48,000 円
有田焼 坂本龍馬磁器陶額 Price 26,250 円


千葉道場の千葉定吉は鳥取藩の剣術師範に就任し、鳥取藩江戸屋敷詰であり、その子千葉重太郎も1860年(万延元年)には重太郎も鳥取藩に仕官することになっていた。
龍馬は千葉道場に再び訪れたのは1862年だから、千葉家は仕官して2年くらいはたっていたことになる。
重太郎は鳥取藩士として江戸政界に関わる中で当時の勝海舟の開国論に反感を抱くようになっていた。
江戸で生活している千葉重太郎にしてみれば、勝の開国論は日の本をダメにする考え方、異国に国を売ろうとしている輩とした思えていない。
そこに土佐を脱藩して訪れた龍馬。
重太郎にしてみれば、師範の自分と、免許皆伝の龍馬二人いれば勝を仕留めることができると考えたのだろう。
重太郎から勝の話しを聞かされた龍馬は、脱藩はしてみたが何一つしていない自分の生活にも嫌気がさしていたのだろう。
「一度、勝の話しを聞いてみるか!」ってな具合に考えた。
そこで龍馬は幕府政事総裁職の松平春嶽に面会し、春嶽公の紹介状を携え千葉重太郎と共に勝海舟を訪ねるのである。
しかしそこで龍馬は勝の話に吸い込まれていく、まずは異国に匹敵する国防力を待たなくてはいけない、そのためには、開国し異国文化を取り入れ、貿易をなして、海軍の建設していかなくてはならない。と説く海舟。
龍馬は今宵のこと、ひそかに期する所あり。もし公の説いかんによりては、あえて公を刺さんと決したり。今や公の説を聞き、大いに余の固陋(ころう)を恥づ。 請う、これよりして公の門下生とならん。として勝に師事することになるのだ。
勝海舟は後年、このときの龍馬を
「彼はオレを斬りにきた奴だったが、なかなかの人物さ。その時おれは笑って受けたが、落ちついていて、なんとなく冒しがたい威厳のある、いい男だったよ」と評している。
坂本龍馬はこの後、勝と共に海軍設立のために奔走していく。
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幕末三舟伝 Price 2,940 円
師弟 Price 1,785 円
龍馬の時代京を駆けた志士群像 Price 1,575 円
有田焼「幕末・明治維新の志士達」陶板 Price 48,000 円
有田焼 坂本龍馬磁器陶額 Price 26,250 円
2008年02月10日
坂本龍馬 土佐勤王党と脱藩
江戸での剣術修行を経て土佐に戻った坂本龍馬は武市半平太の結成した土佐勤王党に加盟した。
土佐勤王党とは一藩勤王を唱え、武市半平太が1860年(文久元年)8月に結成。
坂本龍馬、中岡慎太郎といった面々も含め、190余名が加盟。
その中心はほとんどが郷士、下士、庄屋といった下士層で構成されており、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎は、土佐勤王党の四天王といわれていました。
そんな土佐のでの生活の中、同じ土佐勤王党の吉村虎太郎他2名が脱藩します。
自らの考えを実現せんとする吉村の行動におそらく龍馬も触発をされたのでしょう。
二度の江戸への遊学経験・河田小龍の話・尊攘派の討幕計画などを通して時代の動きを敏感に感じていた龍馬は土佐の田舎にじっとしていられなかったのではないだろうか
龍馬の心には「せにゃいかんことがある。行くぜよ!」というものがあったのだろう。
1861年(文久2年)その当時武市との考えにズレを感じていた龍馬は脱藩を決意します。
龍馬は道中の護身用にと、才谷屋秘蔵の刀を手に入れようとしたが、既に事情を察していた兄の権平が家中の者に「龍馬に刀を渡してはいかん」と根回しをしていて出発寸前まで刀は手にすることができなかった。
しかし、次姉の栄が、ひそかに、龍馬に家伝の宝刀を用立てた。
栄はこの責任をとって龍馬が脱藩を決行した3月24日の夜自刃して果てた。
栄の遺体はこの日の内に、身内の者達の手によって密葬されたと言う。
龍馬は本当に身内に助けられた人物であり、愛された男であった。
脱藩した龍馬は長州に入り、大坂、京都を経て、江戸に向かう、向かう先は、佐那子が待つあの千葉道場である。
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その中心はほとんどが郷士、下士、庄屋といった下士層で構成されており、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎は、土佐勤王党の四天王といわれていました。
そんな土佐のでの生活の中、同じ土佐勤王党の吉村虎太郎他2名が脱藩します。
自らの考えを実現せんとする吉村の行動におそらく龍馬も触発をされたのでしょう。
二度の江戸への遊学経験・河田小龍の話・尊攘派の討幕計画などを通して時代の動きを敏感に感じていた龍馬は土佐の田舎にじっとしていられなかったのではないだろうか
龍馬の心には「せにゃいかんことがある。行くぜよ!」というものがあったのだろう。
1861年(文久2年)その当時武市との考えにズレを感じていた龍馬は脱藩を決意します。
龍馬は道中の護身用にと、才谷屋秘蔵の刀を手に入れようとしたが、既に事情を察していた兄の権平が家中の者に「龍馬に刀を渡してはいかん」と根回しをしていて出発寸前まで刀は手にすることができなかった。
しかし、次姉の栄が、ひそかに、龍馬に家伝の宝刀を用立てた。
栄はこの責任をとって龍馬が脱藩を決行した3月24日の夜自刃して果てた。
栄の遺体はこの日の内に、身内の者達の手によって密葬されたと言う。
龍馬は本当に身内に助けられた人物であり、愛された男であった。
脱藩した龍馬は長州に入り、大坂、京都を経て、江戸に向かう、向かう先は、佐那子が待つあの千葉道場である。
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2008年02月09日
坂本龍馬 千葉道場
千葉定吉道場に入門した坂本龍馬。
龍馬はここで多くの出会いをしていくのだ。
まずは千葉道場の千葉定吉、千葉重太郎、そして千葉佐那子。
小太刀に優れ、十代の頃に早くも皆伝の腕前に達していた佐那子は、美貌で知られ「千葉の鬼小町」あるいは「小千葉小町」と言われていた。
そんな二人はいつの日からか恋仲になる。
この当時の龍馬の心境を綴った手紙が姉・乙女に届いており現存している。
龍馬は北辰一刀流の免許皆伝し、この時、定吉は龍馬と佐那子の結婚を許す。
しかし、龍馬は当時は動乱の世。夫婦になるのは世の中が落ち着いてからということになり、婚約の証として定吉は龍馬に短刀を、龍馬からは紋付の袷衣が贈られたが、この後、龍馬は江戸に戻ることはなかった。
後年
9年後に龍馬の訃報に接する佐那子。
佐那子は自分の夫は龍馬ただ一人と操を守り続け、龍馬の形見となった袷衣の家紋の部分を切り取り、自分の宝として大切に持っていたという。
そのほかにも江戸において諸藩の人間と交流することで色々な知識をつけていった。
免許皆伝した龍馬は土佐へと戻っていく。
激動の時代を前に時代は穏やかであった。
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世界を見ろ!異国の文化ぜよ!海外旅行はH.I.Sぜよ



龍馬はここで多くの出会いをしていくのだ。
まずは千葉道場の千葉定吉、千葉重太郎、そして千葉佐那子。
小太刀に優れ、十代の頃に早くも皆伝の腕前に達していた佐那子は、美貌で知られ「千葉の鬼小町」あるいは「小千葉小町」と言われていた。
そんな二人はいつの日からか恋仲になる。
この当時の龍馬の心境を綴った手紙が姉・乙女に届いており現存している。
龍馬は北辰一刀流の免許皆伝し、この時、定吉は龍馬と佐那子の結婚を許す。
しかし、龍馬は当時は動乱の世。夫婦になるのは世の中が落ち着いてからということになり、婚約の証として定吉は龍馬に短刀を、龍馬からは紋付の袷衣が贈られたが、この後、龍馬は江戸に戻ることはなかった。
後年
9年後に龍馬の訃報に接する佐那子。
佐那子は自分の夫は龍馬ただ一人と操を守り続け、龍馬の形見となった袷衣の家紋の部分を切り取り、自分の宝として大切に持っていたという。
そのほかにも江戸において諸藩の人間と交流することで色々な知識をつけていった。
免許皆伝した龍馬は土佐へと戻っていく。
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2008年02月08日
日本の英雄 坂本龍馬 誕生
日本の英雄、坂本龍馬。
日本人は何故、龍馬に魅了されるのか。
常人離れしたその好奇心と行動力で人脈を広げ、日本の将来を変えた男・坂本龍馬。

龍馬は1835年11月15日に父・坂本八平と母・幸との間に最初に誕生する。
有名な話で、母・幸はお産前に
「龍が真紅の炎を吐きながら胎内に躍りこんだ夢を見た」といい、
父・八平は歓喜して「龍馬 直陰」と名付けたとい。
龍馬は通称で、本来は坂本直陰となる。
坂本家は才谷屋の分家であり、本家の才谷屋は、質店を生業としおり、その後、酒・呉服・諸品の販売も手がけ城下屈指の豪商に成り上がっていった。
そのため、坂本家は百六十石の領知を所有し、三人扶持切米五石 の家禄もあり、また本家才谷屋との関係から相当裕福な家だったようである。
元々が郷士なので、坂本家は学問的伝統を尊び、龍馬はそんな環境の中育っていく。
龍馬が12歳のとき「楠山庄助塾」ヘ強制的に入塾させられるが、龍馬はこの塾の環境になじまず、あくぴをしたり鼻をほじったり・・・半年後には退塾している。
母・幸が亡くなるのはこの時期である。12歳での母との別れは龍馬の心に何を感じさせたのであろうか。
母が亡くなった後、龍馬は三歳上の姉・乙女によくなつき、乙女が学問武芸の指導にあたったというのは有名な話である。
文字色
14歳の時、 「日根野弁治道場」に入門し小栗流剣術を学ぶ。
ここで龍馬は己の才能を発揮していく、剣術にのめりこみ剣術一筋の生活を送ることになるのだ。
そして龍馬19歳のとき1853年(嘉永6年)に剣術修行のため江戸の北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉道場に修行しに行くことになる。
この江戸での修行が龍馬に多くの物を与えることになるのだ。
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日本人は何故、龍馬に魅了されるのか。
常人離れしたその好奇心と行動力で人脈を広げ、日本の将来を変えた男・坂本龍馬。

龍馬は1835年11月15日に父・坂本八平と母・幸との間に最初に誕生する。
有名な話で、母・幸はお産前に
「龍が真紅の炎を吐きながら胎内に躍りこんだ夢を見た」といい、
父・八平は歓喜して「龍馬 直陰」と名付けたとい。
龍馬は通称で、本来は坂本直陰となる。
坂本家は才谷屋の分家であり、本家の才谷屋は、質店を生業としおり、その後、酒・呉服・諸品の販売も手がけ城下屈指の豪商に成り上がっていった。
そのため、坂本家は百六十石の領知を所有し、三人扶持切米五石 の家禄もあり、また本家才谷屋との関係から相当裕福な家だったようである。
元々が郷士なので、坂本家は学問的伝統を尊び、龍馬はそんな環境の中育っていく。
龍馬が12歳のとき「楠山庄助塾」ヘ強制的に入塾させられるが、龍馬はこの塾の環境になじまず、あくぴをしたり鼻をほじったり・・・半年後には退塾している。
母・幸が亡くなるのはこの時期である。12歳での母との別れは龍馬の心に何を感じさせたのであろうか。
母が亡くなった後、龍馬は三歳上の姉・乙女によくなつき、乙女が学問武芸の指導にあたったというのは有名な話である。
文字色
14歳の時、 「日根野弁治道場」に入門し小栗流剣術を学ぶ。
ここで龍馬は己の才能を発揮していく、剣術にのめりこみ剣術一筋の生活を送ることになるのだ。
そして龍馬19歳のとき1853年(嘉永6年)に剣術修行のため江戸の北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉道場に修行しに行くことになる。
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