2008年07月08日
中岡慎太郎
中岡慎太郎---記事一覧

● 『武市瑞山との出逢い』
● 『長州にて』
● 『薩長同盟締結に向けて』
● 『陸援隊じゃ』
● 『近江屋襲撃』
● 『岩倉具視との共謀』
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タグ :中岡慎太郎
2008年07月04日
中岡慎太郎 岩倉具視との共謀
中岡慎太郎の晩年に色濃くその影響を与えた人物・・・・岩倉具視。

1866年長州と薩摩が薩長同盟により結ばれると時代は急速に倒幕に向かって動き始める。
それまで日和見のような状態で動いていた土佐藩は焦りを覚える。
このままでは薩摩と長州から取り残される・・・・
危機感を感じた土佐藩は薩長と強い繋がりを持つ、土佐脱藩者の坂本龍馬、中岡慎太郎の脱藩を許し、支援することを決めるのだ。
龍馬は海援隊を、そして中岡は陸援隊を組織し動き始めた。
中岡の陸援隊は京都の本部を置き、土佐藩の遊撃軍的な存在であった。
その頃中岡は、大宰府の五卿と京都の公卿との間の提携を考え奔走していた。
しかし、訊ねる公卿たちは皆、時勢に疎く、中岡は落胆していたのである。そんなとき橋本鉄猪が中岡に岩倉に会う事を勧めた。
岩倉具視は当時、皇女和宮を降嫁を推進した人物として尊攘派から仇敵として見られていた。
実際に中岡もこの橋本の誘いに
「前中将は佐幕の大奸ではないか。これと王政復古の大策を計議するのは薪を抱いて火を救うようなものだ。まことに危険である」と言ったという。
橋本の熱心な誘いに中岡は心を動かされ岩倉に会う事を決める。
そして岩倉に会った中岡はこう評している。
「はからずも公卿の中にこのような人物がいたとは。私が前中将に会えたことは、天の助けだ。私の宿題はすでに達することが出来た」と語った。
その後中岡は岩倉をたびたび訪ね、親交を深め王政復古について相談していく。
そして中岡は坂本龍馬を連れ岩倉に会いに行くことになる。
後年、岩倉は「中岡・坂本二子を見るを得たるは大橋(橋本)子の恵みなり。誼を条公に通じ、交を西郷、木戸、広沢、黒田、品川五子に結びたるは、中岡・坂本二子の恵みなり」と回顧している。
もし、中岡が岩倉に逢っていなければ・・・もっと凄惨な明治維新になっていたかもしれない。
それを助けた橋本鉄猪も隠れた功労者の一人であろう。
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1866年長州と薩摩が薩長同盟により結ばれると時代は急速に倒幕に向かって動き始める。
それまで日和見のような状態で動いていた土佐藩は焦りを覚える。
このままでは薩摩と長州から取り残される・・・・
危機感を感じた土佐藩は薩長と強い繋がりを持つ、土佐脱藩者の坂本龍馬、中岡慎太郎の脱藩を許し、支援することを決めるのだ。
龍馬は海援隊を、そして中岡は陸援隊を組織し動き始めた。
中岡の陸援隊は京都の本部を置き、土佐藩の遊撃軍的な存在であった。
その頃中岡は、大宰府の五卿と京都の公卿との間の提携を考え奔走していた。
しかし、訊ねる公卿たちは皆、時勢に疎く、中岡は落胆していたのである。そんなとき橋本鉄猪が中岡に岩倉に会う事を勧めた。
岩倉具視は当時、皇女和宮を降嫁を推進した人物として尊攘派から仇敵として見られていた。
実際に中岡もこの橋本の誘いに
「前中将は佐幕の大奸ではないか。これと王政復古の大策を計議するのは薪を抱いて火を救うようなものだ。まことに危険である」と言ったという。
橋本の熱心な誘いに中岡は心を動かされ岩倉に会う事を決める。
そして岩倉に会った中岡はこう評している。
「はからずも公卿の中にこのような人物がいたとは。私が前中将に会えたことは、天の助けだ。私の宿題はすでに達することが出来た」と語った。
その後中岡は岩倉をたびたび訪ね、親交を深め王政復古について相談していく。
そして中岡は坂本龍馬を連れ岩倉に会いに行くことになる。
後年、岩倉は「中岡・坂本二子を見るを得たるは大橋(橋本)子の恵みなり。誼を条公に通じ、交を西郷、木戸、広沢、黒田、品川五子に結びたるは、中岡・坂本二子の恵みなり」と回顧している。
もし、中岡が岩倉に逢っていなければ・・・もっと凄惨な明治維新になっていたかもしれない。
それを助けた橋本鉄猪も隠れた功労者の一人であろう。
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2008年02月23日
近江屋襲撃 中岡慎太郎逝く
中岡慎太郎は陸援隊を組織する一方、大政奉還に向かう龍馬と幾度も話をしていたのだろう。
この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。
中岡慎太郎は岩倉具視と三条実美と提携させ組織的にも倒幕へ向けてすすめていく。
しかし、龍馬も中岡もこのころには京都ではかなり目を付けられる存在になっており、元新撰組の伊東甲子太郎が「新撰組が狙っているから気を付けろ」と忠告をしに来ている。
見廻り組、新撰組、紀州藩士、京都は龍馬、中岡にとっては最も危険な場所になっていた。
そんな中、あの悲劇は起きる。
1867年11月15日、中岡は、新撰組につかまっている土佐の同士が釈放され、その身柄の引き取りについて京都河原町に下宿している谷守部を訪れに行きました。しかし、谷が不在だったため、近くの龍馬を訪れたとのです。
倒幕まであと僅かに迫ったいたことと、龍馬の無血で政権を変える方針など、両者は若干の方向性が違っていたこともあり、話は盛り上がっていた。
そのうちお腹が空いたので、岡本健三郎に「軍鶏」を買いにいかせる。
これと入れ替わるように、「十津川郷士」を名乗る人間が龍馬を訪れる。
当時十津川郷士は陸援隊にも関与しており、龍馬とも懇意だったため、籐吉は信用してこの者を中に入れてしまうのだ。
2階へ案内しようとする籐吉を背後から斬りつけ、2階の龍馬の部屋へと流れ込む侵入者。
3人の資格が龍馬・慎太郎に襲い掛かる。
両名共に刀を抜くまもなく斬りつけられるのだ。
龍馬は額を斬られほぼ即死状態、慎太郎も後頭部をやられ重症だった。
瀕死の龍馬は中岡に声をかける
「石川大丈夫か?わしはダメじゃ、額をやられちょる・・・・」と。
事態を聞き駆けつける陸援隊士・田中顕助、慎太郎を連れ出し看病するが、2日後に中岡慎太郎はこの世を去る。享年29歳 まだまだすべきことを残して先に逝ってしまった。
慎太郎が死ぬ間際、同士に「岩倉卿に伝えてください。王政復古のことは貴下の力による!」と訴え、最後の最後まで今後の日本のことを憂いていた。
慎太郎の絶命をきいた岩倉具視は「自分は片腕をもがれた」と声を上げて泣いたと言われています。
「今日賎しいものが、明日には貴いかもしれない。小人か君子かは、人の心の中にある」という言葉を残している。
これは当に中岡慎太郎自身の心であろう。
北川村にて村人のために奔走した日々から初まり、常に心の中に義を持ち続けた人だった。
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サムライスピリット・ジャパン 「中岡慎太郎 『涙を抱えて沈黙すべし』
龍馬、原点消ゆ。Price2,415 円
京都に遊ぶ Price2,940 円

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この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。
中岡慎太郎は岩倉具視と三条実美と提携させ組織的にも倒幕へ向けてすすめていく。
しかし、龍馬も中岡もこのころには京都ではかなり目を付けられる存在になっており、元新撰組の伊東甲子太郎が「新撰組が狙っているから気を付けろ」と忠告をしに来ている。
見廻り組、新撰組、紀州藩士、京都は龍馬、中岡にとっては最も危険な場所になっていた。
そんな中、あの悲劇は起きる。
1867年11月15日、中岡は、新撰組につかまっている土佐の同士が釈放され、その身柄の引き取りについて京都河原町に下宿している谷守部を訪れに行きました。しかし、谷が不在だったため、近くの龍馬を訪れたとのです。
倒幕まであと僅かに迫ったいたことと、龍馬の無血で政権を変える方針など、両者は若干の方向性が違っていたこともあり、話は盛り上がっていた。
そのうちお腹が空いたので、岡本健三郎に「軍鶏」を買いにいかせる。
これと入れ替わるように、「十津川郷士」を名乗る人間が龍馬を訪れる。
当時十津川郷士は陸援隊にも関与しており、龍馬とも懇意だったため、籐吉は信用してこの者を中に入れてしまうのだ。
2階へ案内しようとする籐吉を背後から斬りつけ、2階の龍馬の部屋へと流れ込む侵入者。
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瀕死の龍馬は中岡に声をかける
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慎太郎の絶命をきいた岩倉具視は「自分は片腕をもがれた」と声を上げて泣いたと言われています。
「今日賎しいものが、明日には貴いかもしれない。小人か君子かは、人の心の中にある」という言葉を残している。
これは当に中岡慎太郎自身の心であろう。
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2008年02月22日
陸援隊じゃ 中岡慎太郎
1866年1月21日薩長同盟を締結させた中岡慎太郎と坂本龍馬。
1月24日龍馬が寺田屋で襲撃をされる。
寺田屋のお龍の気転で難を免れた龍馬だったが負傷した体を癒し介抱していたお龍と結婚することになる。
2月29日、媒酌人は中岡慎太郎であった。
中岡、龍馬のほんの僅かな平和な時間だっただろう。
そして3月中岡、龍馬、お龍、三吉慎蔵は薩摩藩の船で薩摩に向かう。
途中、下関にて中岡、三吉は下船している。
この船の中、中岡は次なる展開を構想する。
それは長州、薩摩にもう1枚両藩の独走を止め、さらに強い倒幕の絆をつくるには、強力な藩が必要だと考える。
中岡慎太郎が目をつけたのが・・・・土佐であった。
1867年、中岡は早速行動する。
まず、乾退助と会談する。
このころには乾はすっかり勤王思想に目覚めており、密かに活動をしていた。
そこに中岡慎太郎からの話しを聞き、乾はこれに乗るのだ。
乾は後藤象二郎を説得、土佐を勤王へと進めさせる一方、龍馬達と手を結ぶことを勧める。
後藤としても薩摩、長州に後れを取り戻したかったこともあり、両者は会談することになる。
1月13日 坂本龍馬 長崎清風邸で後藤象二郎と会見。
これにより土佐藩は龍馬、中岡の脱藩の罪をゆるし、龍馬の亀山社中と土佐藩の土佐商会を合わせ海援隊を発足、隊長を坂本龍馬とした。
5月21日 中岡慎太郎は乾退助 西郷隆盛、小松帯刀と倒幕決行を会談し、薩土密約を結ばせる。
これを受け6月 9日 坂本龍馬は、土佐藩船「夕顔丸」に後藤象二郎と乗船し京へとむかうのだ。この船中で龍馬は「船中八策」を後藤に提示する。
この「船中八策」は幕府と討幕派との武力衝突を避ける可能性を提示していた。
また、この文書は「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書だった。
6月22日 京三本木料亭にて薩摩藩、西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、乾退助、福岡孝悌が会談し薩土盟約を結ぶのだ。
慎太郎は「議論周旋も結構だが、近日中に必ず薩長による開戦になるのだから、武器をとって戦う覚悟がなければ空論に終わる」として京都にて龍馬の海援隊と同じく、土佐藩の補助をうけ陸援隊を発足させる。
隊士の中には田中顕助、木村弁ノ進らの名前があり、倒幕間近の風潮もあり血気盛んだった、そのころ、先の龍馬の提案した船中八策を後藤は土佐の山内容堂に進言。
容堂もこれを取り入れ、時代は大政奉還へと動きはじめだしていた。
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中岡慎太郎、坂本龍馬の歩いた道を尋ねてみませんか?

1月24日龍馬が寺田屋で襲撃をされる。
寺田屋のお龍の気転で難を免れた龍馬だったが負傷した体を癒し介抱していたお龍と結婚することになる。
2月29日、媒酌人は中岡慎太郎であった。
中岡、龍馬のほんの僅かな平和な時間だっただろう。
そして3月中岡、龍馬、お龍、三吉慎蔵は薩摩藩の船で薩摩に向かう。
途中、下関にて中岡、三吉は下船している。
この船の中、中岡は次なる展開を構想する。
それは長州、薩摩にもう1枚両藩の独走を止め、さらに強い倒幕の絆をつくるには、強力な藩が必要だと考える。
中岡慎太郎が目をつけたのが・・・・土佐であった。
1867年、中岡は早速行動する。
まず、乾退助と会談する。
このころには乾はすっかり勤王思想に目覚めており、密かに活動をしていた。
そこに中岡慎太郎からの話しを聞き、乾はこれに乗るのだ。
乾は後藤象二郎を説得、土佐を勤王へと進めさせる一方、龍馬達と手を結ぶことを勧める。
後藤としても薩摩、長州に後れを取り戻したかったこともあり、両者は会談することになる。
1月13日 坂本龍馬 長崎清風邸で後藤象二郎と会見。
これにより土佐藩は龍馬、中岡の脱藩の罪をゆるし、龍馬の亀山社中と土佐藩の土佐商会を合わせ海援隊を発足、隊長を坂本龍馬とした。
5月21日 中岡慎太郎は乾退助 西郷隆盛、小松帯刀と倒幕決行を会談し、薩土密約を結ばせる。
これを受け6月 9日 坂本龍馬は、土佐藩船「夕顔丸」に後藤象二郎と乗船し京へとむかうのだ。この船中で龍馬は「船中八策」を後藤に提示する。
この「船中八策」は幕府と討幕派との武力衝突を避ける可能性を提示していた。
また、この文書は「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書だった。
6月22日 京三本木料亭にて薩摩藩、西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、乾退助、福岡孝悌が会談し薩土盟約を結ぶのだ。
慎太郎は「議論周旋も結構だが、近日中に必ず薩長による開戦になるのだから、武器をとって戦う覚悟がなければ空論に終わる」として京都にて龍馬の海援隊と同じく、土佐藩の補助をうけ陸援隊を発足させる。
隊士の中には田中顕助、木村弁ノ進らの名前があり、倒幕間近の風潮もあり血気盛んだった、そのころ、先の龍馬の提案した船中八策を後藤は土佐の山内容堂に進言。
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2008年02月21日
中岡慎太郎 薩長同盟締結に向けて
薩摩と長州の会談は順調に下関でおこなわれるはずであった。
中岡慎太郎と西郷隆盛を乗せた船は順調に航海をしていた。
しかし、京都の大久保利通から一刻も早く上京してほしいとの手紙が西郷の元に届く。
急遽第2次長州征伐の勅許を阻むのが先決であるとして、西郷は中岡を佐賀で下船させ、京都へ向うのだ。
西郷の到着を下関にて待っていた坂本龍馬と桂小五郎の前に現れたのは中岡慎太郎ただ一人だけであった。
これにはさすがに桂も怒った。
当然である、それまで「薩賊会奸」と言って嫌ってきた薩摩藩と手を結ぶにあたりどれだけ苦渋を舐めてきたことか・・・・桂の心情を思うと理解できる。
龍馬の「西郷はどうした?」の問いに中岡は
「西郷は幕府が2度目の長州征伐をするというのは無謀もはなはだしい。前の長州征伐の時には、わが薩摩も出兵はしたけれども今度は出兵するにあたらない。ついては木戸との会談も大事だが、このことが大事であるからあらかじめ朝議を固めておかねばならぬ。 一刻もじっとしておられぬ。 早々京都へ上らねばならぬ」と言って京へ向かったがじゃ・・・・
中岡は桂に詫びると、桂は中岡の立場を思い、「今後は薩摩からわが藩へ使者をよこしてほしい。」と言った。
薩摩、長州両藩共に対面ばかりを気にしていた。
気落ちしてばかりもいられない中岡慎太郎と龍馬は再び動く。
京都の薩摩藩邸の赴き西郷に会うのだ、そして懇々と説きつめて西郷を説得する。
そして西郷と共に薩摩に向かうのだ。
ここで龍馬は面白い案を提供するのだ。それは当時第2次長州征伐を前に武器弾薬に悩んでいた長州藩に薩摩が武器弾薬を提供する。
当然、長州は拒否をするだろうが、同じく兵糧に困っていた薩摩藩に長州から米を引き換えに渡せば両藩共に対面を保てる。というのだ。
龍馬はこの双方の利益となる取引をもって両藩の和解を図ろうと考えたのである。
これには薩摩の小松帯刀も西郷も快く承諾し、長州の桂も快諾した。
7月には長州の伊藤俊輔と井上聞多が長崎に訪れ、薩摩藩邸にて小松帯刀に会い、様式銃7千挺を買い付け、薩摩藩の船で下関に運びこんだ。
武器調達に尽力してくれた薩摩に恩を感じ、長州は米を調達してくれたので、薩摩は使者として、黒田清隆らを長州に赴かせ、米は長州から薩摩へと運ばれた。
しかしこの米は西郷が「もうすぐ第2次長州征伐が始まりそうで長州も大変だろうから、米は長州へ返す」と余計な気遣いをした。
桂も「一度差し出した米じゃ受け取れん。もしかしたら薩摩は長州の米は食いたくないのか?」となったため、龍馬の亀山社中がこの米を貰うことになる。
米を受け取りに来た黒田清隆に龍馬は「王政復古の大目的を達せんには、薩長の間を和解し、二藩連合して天下に率先せざるべからず」と熱弁し、黒田も龍馬を交え、桂や高杉晋作と話を詰めようとした。
しかし、桂は先の西郷のスッポカシの件もあり、乗り気ではない。
そこであの過激な高杉晋作が説得をするのだ。
「桂さん、長州1藩の力じゃどうもできん。先の馬関での戦で分かったじゃろ?ここは苦しくても薩摩と手を結び、この日の本を守らねばならんぞ。今ならまだ長州に味方してくれる他藩もある。今のうちに薩摩と手を結んで他藩も引き込むんじゃ」
晋作をはじめ龍馬、井上聞多も再三説得し、ついに桂は「公命下るに至る、よって余(木戸)恥を忍び意を決し」とし上京をする。(このころ藩命により桂から木戸へ名を変える)
1866年(慶応2年)1月8日、木戸は京都へ入り、薩摩藩家老・小松帯刀の屋敷で西郷に会った。
ところが連日宴会で互いに国事、天下の形勢を論じ合い、肝心の同盟の話には一切触れず終いだった。
1週間遅れで京都に入った龍馬は当然もう同盟が成していると思い薩摩藩邸にいくと、まだ同盟を結んでいない旨を聞かされる。
驚いた龍馬は長州藩邸の桂を訪ねた。
「天下のために連合を周旋し、両藩の要人を会わせたのにくだらない感情におぼれて意地を張り合うとは何事じゃ!」といい。
桂は
「今、苦境にあえぐ長州が薩摩に低頭してまで危険に引きずり込むことができましょうや。薩摩が自ら手をさしのべてくれてこそ、我らは救いを乞いもしよう。このまま長州は滅びてもよいのです。薩摩が生き残って幕府を討ってくれるなら、我々に憾みはないでありましょう」と説いた。
ようするに長州は薩摩の気持ちはありがたいが、滅びんとしている長州の巻き添えになってくれとは言えないというのだ。
龍馬はこの桂の言葉に感動し、薩摩藩邸に戻り、西郷、小松らに長州の胸のうちを語り、何とか薩摩から長州を助けてやってくれんかと説いた。
そして龍馬は「こげな小さな維持の張り合いをしちょる場合か!今までこの日の本の国のために死んでいった者たちは、ただの犬死になってしまうがか?」と訴えた。
ことのことにより、西郷は是非薩摩から長州に同盟をお願いしたいといい。
「薩摩は日本を救うために長州を全面的に援助する」という言葉が出た。
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中岡慎太郎と西郷隆盛を乗せた船は順調に航海をしていた。
しかし、京都の大久保利通から一刻も早く上京してほしいとの手紙が西郷の元に届く。
急遽第2次長州征伐の勅許を阻むのが先決であるとして、西郷は中岡を佐賀で下船させ、京都へ向うのだ。
西郷の到着を下関にて待っていた坂本龍馬と桂小五郎の前に現れたのは中岡慎太郎ただ一人だけであった。
これにはさすがに桂も怒った。
当然である、それまで「薩賊会奸」と言って嫌ってきた薩摩藩と手を結ぶにあたりどれだけ苦渋を舐めてきたことか・・・・桂の心情を思うと理解できる。
龍馬の「西郷はどうした?」の問いに中岡は
「西郷は幕府が2度目の長州征伐をするというのは無謀もはなはだしい。前の長州征伐の時には、わが薩摩も出兵はしたけれども今度は出兵するにあたらない。ついては木戸との会談も大事だが、このことが大事であるからあらかじめ朝議を固めておかねばならぬ。 一刻もじっとしておられぬ。 早々京都へ上らねばならぬ」と言って京へ向かったがじゃ・・・・
中岡は桂に詫びると、桂は中岡の立場を思い、「今後は薩摩からわが藩へ使者をよこしてほしい。」と言った。
薩摩、長州両藩共に対面ばかりを気にしていた。
気落ちしてばかりもいられない中岡慎太郎と龍馬は再び動く。
京都の薩摩藩邸の赴き西郷に会うのだ、そして懇々と説きつめて西郷を説得する。
そして西郷と共に薩摩に向かうのだ。
ここで龍馬は面白い案を提供するのだ。それは当時第2次長州征伐を前に武器弾薬に悩んでいた長州藩に薩摩が武器弾薬を提供する。
当然、長州は拒否をするだろうが、同じく兵糧に困っていた薩摩藩に長州から米を引き換えに渡せば両藩共に対面を保てる。というのだ。
龍馬はこの双方の利益となる取引をもって両藩の和解を図ろうと考えたのである。
これには薩摩の小松帯刀も西郷も快く承諾し、長州の桂も快諾した。
7月には長州の伊藤俊輔と井上聞多が長崎に訪れ、薩摩藩邸にて小松帯刀に会い、様式銃7千挺を買い付け、薩摩藩の船で下関に運びこんだ。
武器調達に尽力してくれた薩摩に恩を感じ、長州は米を調達してくれたので、薩摩は使者として、黒田清隆らを長州に赴かせ、米は長州から薩摩へと運ばれた。
しかしこの米は西郷が「もうすぐ第2次長州征伐が始まりそうで長州も大変だろうから、米は長州へ返す」と余計な気遣いをした。
桂も「一度差し出した米じゃ受け取れん。もしかしたら薩摩は長州の米は食いたくないのか?」となったため、龍馬の亀山社中がこの米を貰うことになる。
米を受け取りに来た黒田清隆に龍馬は「王政復古の大目的を達せんには、薩長の間を和解し、二藩連合して天下に率先せざるべからず」と熱弁し、黒田も龍馬を交え、桂や高杉晋作と話を詰めようとした。
しかし、桂は先の西郷のスッポカシの件もあり、乗り気ではない。
そこであの過激な高杉晋作が説得をするのだ。
「桂さん、長州1藩の力じゃどうもできん。先の馬関での戦で分かったじゃろ?ここは苦しくても薩摩と手を結び、この日の本を守らねばならんぞ。今ならまだ長州に味方してくれる他藩もある。今のうちに薩摩と手を結んで他藩も引き込むんじゃ」
晋作をはじめ龍馬、井上聞多も再三説得し、ついに桂は「公命下るに至る、よって余(木戸)恥を忍び意を決し」とし上京をする。(このころ藩命により桂から木戸へ名を変える)
1866年(慶応2年)1月8日、木戸は京都へ入り、薩摩藩家老・小松帯刀の屋敷で西郷に会った。
ところが連日宴会で互いに国事、天下の形勢を論じ合い、肝心の同盟の話には一切触れず終いだった。
1週間遅れで京都に入った龍馬は当然もう同盟が成していると思い薩摩藩邸にいくと、まだ同盟を結んでいない旨を聞かされる。
驚いた龍馬は長州藩邸の桂を訪ねた。
「天下のために連合を周旋し、両藩の要人を会わせたのにくだらない感情におぼれて意地を張り合うとは何事じゃ!」といい。
桂は
「今、苦境にあえぐ長州が薩摩に低頭してまで危険に引きずり込むことができましょうや。薩摩が自ら手をさしのべてくれてこそ、我らは救いを乞いもしよう。このまま長州は滅びてもよいのです。薩摩が生き残って幕府を討ってくれるなら、我々に憾みはないでありましょう」と説いた。
ようするに長州は薩摩の気持ちはありがたいが、滅びんとしている長州の巻き添えになってくれとは言えないというのだ。
龍馬はこの桂の言葉に感動し、薩摩藩邸に戻り、西郷、小松らに長州の胸のうちを語り、何とか薩摩から長州を助けてやってくれんかと説いた。
そして龍馬は「こげな小さな維持の張り合いをしちょる場合か!今までこの日の本の国のために死んでいった者たちは、ただの犬死になってしまうがか?」と訴えた。
ことのことにより、西郷は是非薩摩から長州に同盟をお願いしたいといい。
「薩摩は日本を救うために長州を全面的に援助する」という言葉が出た。
こうして1866年1月21日 中岡慎太郎、坂本龍馬の奔走の甲斐があり見事 薩長同盟は締結される。
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2008年02月20日
中岡慎太郎 長州にて
土佐を後に長州は三田尻に向かった中岡慎太郎。
中岡は長州にて先の8.18の政変にて京都を追い出された三条実美ら七人の公家と面会する。
以後、名を石川誠之助と変え、三条実美らの護衛に当たりながら、三条の手足となって各地の情報を集め、三条の遺志を伝えてことに徹するのだ。
慎太郎の後、すぐに脱藩してきた坂本龍馬もひとまず長州に赴く。
この後、龍馬は江戸に向けて出発している。
1864年(元治元年)中岡慎太郎は高杉晋作らと共に薩摩の島津久光暗殺を企てるが失敗に終わる。
そして、7月長州軍の東上部隊に参加し、禁門の変で真木和泉、久坂玄瑞を亡くした忠勇隊を引継ぎ隊長して活躍しました。
この禁門の変で長州は多大なる犠牲を出す。来島又兵衛 討死 久坂玄瑞、寺島忠三郎、自刃、入江九一 戦死、桂小五郎、行方不明である。
このことで慎太郎は諸藩による無益な戦が意味のないことを思い知らされる。
慎太郎は決意する、薩摩と長州の手を繋がせることを。
そのころ薩長は犬猿の仲であり、誰しもが認める仲の悪さだった。
慎太郎が行動するよりも早く、1863年に筑前藩の月形洗蔵、早川勇によって薩長和解策は唱えられていた。
現に1864年10月に薩摩の西郷隆盛が筑前に来訪した際、月形、早川は西郷に会い薩長和解を説いており、
西郷も「いたずらに長州と内輪の争いをしている時ではない、天下一和に刷新すべき」と語ったという。
月形と早川は、高杉晋作が筑前に来た時に西郷と密会もさせている。
その後も、下関で再度、西郷と高杉を密会させ、薩摩・長州・筑前の3藩をもって幕府の暴挙を防ぎ倒幕を画策していた。
しかし、筑前勤王党は藩内の弾圧にあい挫折、薩長連合は夢に消えるかと思われたが、この月形洗蔵、早川勇の意志を受け継いだのが中岡慎太郎であった。
慎太郎は同志の土方久元と共に、まずは坂本龍馬を訪ねる。
龍馬は海軍塾を閉鎖され、京都の薩摩藩邸にて為すべきとがないままに日を過ごしていた。
そこに中岡からの話である。
龍馬は慎太郎の話に賛同し、行動を開始する。
龍馬はまず西郷、小松帯刀に長州と手を結び共に倒幕することを説く。
一方、慎太郎も薩摩藩邸において薩摩藩士らに西郷・木戸会談の必要性を説くのだ。好感触を得た慎太郎はその足で薩摩へと向かう。
龍馬は入れ替わりで桂小五郎を説得をしに長州へと向かうのだ。
二人の必死の説得により両藩の会談は実現に向けて動く。
閏5月16日、慎太郎は西郷と共に下関に向けて出航する、下関では龍馬と土方が長州勢を説き伏せ待っていた。
しかし・・・・事はうまくは回らなかったのだ。
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中岡は長州にて先の8.18の政変にて京都を追い出された三条実美ら七人の公家と面会する。
以後、名を石川誠之助と変え、三条実美らの護衛に当たりながら、三条の手足となって各地の情報を集め、三条の遺志を伝えてことに徹するのだ。
慎太郎の後、すぐに脱藩してきた坂本龍馬もひとまず長州に赴く。
この後、龍馬は江戸に向けて出発している。
1864年(元治元年)中岡慎太郎は高杉晋作らと共に薩摩の島津久光暗殺を企てるが失敗に終わる。
そして、7月長州軍の東上部隊に参加し、禁門の変で真木和泉、久坂玄瑞を亡くした忠勇隊を引継ぎ隊長して活躍しました。
この禁門の変で長州は多大なる犠牲を出す。来島又兵衛 討死 久坂玄瑞、寺島忠三郎、自刃、入江九一 戦死、桂小五郎、行方不明である。
このことで慎太郎は諸藩による無益な戦が意味のないことを思い知らされる。
慎太郎は決意する、薩摩と長州の手を繋がせることを。
そのころ薩長は犬猿の仲であり、誰しもが認める仲の悪さだった。
慎太郎が行動するよりも早く、1863年に筑前藩の月形洗蔵、早川勇によって薩長和解策は唱えられていた。
現に1864年10月に薩摩の西郷隆盛が筑前に来訪した際、月形、早川は西郷に会い薩長和解を説いており、
西郷も「いたずらに長州と内輪の争いをしている時ではない、天下一和に刷新すべき」と語ったという。
月形と早川は、高杉晋作が筑前に来た時に西郷と密会もさせている。
その後も、下関で再度、西郷と高杉を密会させ、薩摩・長州・筑前の3藩をもって幕府の暴挙を防ぎ倒幕を画策していた。
しかし、筑前勤王党は藩内の弾圧にあい挫折、薩長連合は夢に消えるかと思われたが、この月形洗蔵、早川勇の意志を受け継いだのが中岡慎太郎であった。
慎太郎は同志の土方久元と共に、まずは坂本龍馬を訪ねる。
龍馬は海軍塾を閉鎖され、京都の薩摩藩邸にて為すべきとがないままに日を過ごしていた。
そこに中岡からの話である。
龍馬は慎太郎の話に賛同し、行動を開始する。
龍馬はまず西郷、小松帯刀に長州と手を結び共に倒幕することを説く。
一方、慎太郎も薩摩藩邸において薩摩藩士らに西郷・木戸会談の必要性を説くのだ。好感触を得た慎太郎はその足で薩摩へと向かう。
龍馬は入れ替わりで桂小五郎を説得をしに長州へと向かうのだ。
二人の必死の説得により両藩の会談は実現に向けて動く。
閏5月16日、慎太郎は西郷と共に下関に向けて出航する、下関では龍馬と土方が長州勢を説き伏せ待っていた。
しかし・・・・事はうまくは回らなかったのだ。
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2008年02月19日
中岡慎太郎 武市瑞山との出逢い
坂本龍馬と並び土佐の偉大なる英雄中岡慎太郎。
中岡慎太郎は1838年 土佐国安芸郡北川郷柏木村にて生まれる。
中岡の家は北川郷の大庄屋だったため、生活は裕福だったようだ。
7歳になると野友村にある島村策吾の塾で儒学を学び始め、14歳になると先生に代わって授業をするほどになっていました。
中岡は17歳にて土佐藩校の田野学館に学びに出ます。
1855年(安政2年)8月7日、武市瑞山が藩命にて田野学館に剣術を教えていました。
中岡は武市の武術と人格に敬服し、武市が高知に戻ると、中岡もついて高知に出て、武市瑞山道場に入門することになります。
この武市瑞山道場にて中岡は運命を共にする坂本龍馬と出逢うのです。
この時代に武市、龍馬、中岡は多くを語り日の本の将来をどう見ていたのだろうか。
1858年20歳の時に、父・小伝次が病気で倒れたため、北川村に戻り大庄屋の仕事を引き継ぎました。このときに結婚もしています。
中岡は村のために尽力します。
田の整理、ゆずの推進などをしていきます。
中岡の基本理念は「民衆が安心した生活をすることができて、初めて国というものが成り立つ」という考え方だったのです。
1861年(文久元年)、武市瑞山は尊皇攘夷運動を開始すべく「土佐勤王党」を結成。
土佐勤王党には坂本龍馬、中岡慎太郎を始め、約192名が名を連ねました。
山内容堂の警護役、五十人組に選ばれる。そこで中岡は容堂の命令で、信州松代にいる佐久間象山を土佐藩に呼ぶための使者として命じられます。
中岡は、象山の幅広い知識や西洋諸国の進んだ科学技術の話に圧倒されます。
1863年(文久3年)事態は一変します。
8・18の政変により、長州藩と三条実美ら尊皇攘夷派の公家7人は京都から追い出され、全国各地で尊皇攘夷派を弾圧する動きが始まるのです。
土佐藩も例外ではなく、吉田東洋を暗殺した武市瑞山をはじめとする土佐勤王党の主だった者が捕縛されていきました。
中岡慎太郎は自身の身の危険を感じ脱藩を決意し、9月19日 長州の三田尻に向かうのだった。
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中岡慎太郎は1838年 土佐国安芸郡北川郷柏木村にて生まれる。
中岡の家は北川郷の大庄屋だったため、生活は裕福だったようだ。
7歳になると野友村にある島村策吾の塾で儒学を学び始め、14歳になると先生に代わって授業をするほどになっていました。
中岡は17歳にて土佐藩校の田野学館に学びに出ます。
1855年(安政2年)8月7日、武市瑞山が藩命にて田野学館に剣術を教えていました。
中岡は武市の武術と人格に敬服し、武市が高知に戻ると、中岡もついて高知に出て、武市瑞山道場に入門することになります。
この武市瑞山道場にて中岡は運命を共にする坂本龍馬と出逢うのです。
この時代に武市、龍馬、中岡は多くを語り日の本の将来をどう見ていたのだろうか。
1858年20歳の時に、父・小伝次が病気で倒れたため、北川村に戻り大庄屋の仕事を引き継ぎました。このときに結婚もしています。
中岡は村のために尽力します。
田の整理、ゆずの推進などをしていきます。
中岡の基本理念は「民衆が安心した生活をすることができて、初めて国というものが成り立つ」という考え方だったのです。
1861年(文久元年)、武市瑞山は尊皇攘夷運動を開始すべく「土佐勤王党」を結成。
土佐勤王党には坂本龍馬、中岡慎太郎を始め、約192名が名を連ねました。
山内容堂の警護役、五十人組に選ばれる。そこで中岡は容堂の命令で、信州松代にいる佐久間象山を土佐藩に呼ぶための使者として命じられます。
中岡は、象山の幅広い知識や西洋諸国の進んだ科学技術の話に圧倒されます。
1863年(文久3年)事態は一変します。
8・18の政変により、長州藩と三条実美ら尊皇攘夷派の公家7人は京都から追い出され、全国各地で尊皇攘夷派を弾圧する動きが始まるのです。
土佐藩も例外ではなく、吉田東洋を暗殺した武市瑞山をはじめとする土佐勤王党の主だった者が捕縛されていきました。
中岡慎太郎は自身の身の危険を感じ脱藩を決意し、9月19日 長州の三田尻に向かうのだった。
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2008年01月16日
中岡慎太郎 坂本龍馬
幕府の理のない長州征伐に異を唱える西郷。
その薩摩の動きをいち早く察知し、驚く行動に出た人物がいます。
土佐脱藩者、中岡慎太郎です。
中岡慎太郎はこの薩摩の動きを知るや否や、長州と薩摩を同盟させることを考えます。
当時の長州藩は「薩賊会奸」と言われるくらい薩摩藩を憎んでいました。
その長州と薩摩を同盟させる・・・・とんでもない発想です。
まず中岡は単身長州に乗り込み、長州藩のリーダー的存在であった桂小五郎を薩長融和に向けての説得をします。
薩摩憎しの長州藩でしたが、幕府の征伐を前にこの話は願ってもないことだったようです。
中岡の説得のおかげで長州は薩摩との同盟の話を承諾します。
中岡は一方の薩摩にある人物を説得に向かわせます。
その人物は坂本龍馬です。
薩摩藩の西郷、小松をはじめとする藩士たちと懇意にしていた龍馬は見事薩摩藩を同盟に納得させます。
長州藩桂小五郎と薩摩藩西郷隆盛との同盟に向けた会見が催されます。
しかし、ここ数年争ってきた両藩のわだかまりはその場を重く憂鬱なものとしていきます。
両藩ともになかなか同盟締結の話を切り出すことはしませんでした。
そこに、同盟締結を見届けるべく、坂本龍馬が遅れて京に入ります。
龍馬は、薩長同盟がまだ締結されていないことに驚き、怒りました。
龍馬は西郷に対して、
">「薩長同盟は、薩摩や長州という小さな問題ではない。これは日本全体の問題である。
この同盟が成し得なかったら、今まで死んでいった多くの仲間たちは、みな犬死になったしまうではないか」と強く訴えます。
この龍馬の心の叫びに、西郷は薩摩藩から長州藩に同盟を申し込みます。
慶応2(1866)年1月20日、夢の「薩長同盟」が締結さるのです。
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土佐脱藩者、中岡慎太郎です。
中岡慎太郎はこの薩摩の動きを知るや否や、長州と薩摩を同盟させることを考えます。
当時の長州藩は「薩賊会奸」と言われるくらい薩摩藩を憎んでいました。
その長州と薩摩を同盟させる・・・・とんでもない発想です。
まず中岡は単身長州に乗り込み、長州藩のリーダー的存在であった桂小五郎を薩長融和に向けての説得をします。
薩摩憎しの長州藩でしたが、幕府の征伐を前にこの話は願ってもないことだったようです。
中岡の説得のおかげで長州は薩摩との同盟の話を承諾します。
中岡は一方の薩摩にある人物を説得に向かわせます。
その人物は坂本龍馬です。
薩摩藩の西郷、小松をはじめとする藩士たちと懇意にしていた龍馬は見事薩摩藩を同盟に納得させます。
長州藩桂小五郎と薩摩藩西郷隆盛との同盟に向けた会見が催されます。
しかし、ここ数年争ってきた両藩のわだかまりはその場を重く憂鬱なものとしていきます。
両藩ともになかなか同盟締結の話を切り出すことはしませんでした。
そこに、同盟締結を見届けるべく、坂本龍馬が遅れて京に入ります。
龍馬は、薩長同盟がまだ締結されていないことに驚き、怒りました。
龍馬は西郷に対して、
">「薩長同盟は、薩摩や長州という小さな問題ではない。これは日本全体の問題である。
この同盟が成し得なかったら、今まで死んでいった多くの仲間たちは、みな犬死になったしまうではないか」と強く訴えます。
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