2008年07月12日
西郷隆盛
西郷隆盛---記事一覧
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タグ :西郷隆盛
2008年05月27日
やっぱり薩摩の英雄 西郷隆盛
先日鹿児島に行って来ました。
鹿児島に着くとどこに行っても西郷さんです。
薩摩の人達がどれだけ西郷さんを大切にしているかがとても良くわかります。
鶴丸城の二の丸にある図書館のそばに西郷さんの像がある。

当日は雨にもかかわらず、多くの人が記念写真を撮っていた。
若い女性の姿が多いのもビックリした。
その後維新ふるさと館などを見学して回ったのだが、ホント薩摩には英雄が多い。
大久保利通、小松帯刀、東郷平八郎、大山巌、海江田信義など数え上げれば限がないくらいに多くの人物がこの薩摩の出だ。
この薩摩には郷中教育なるものがある。
これは年上の者が年下の者を教育し、指導していくことである。
西郷や大久保たちもこの郷中教育の中成長してきたのだ。
現代社会において殺伐した人間関係のが引き起こす諸問題は多い。
だからこそ、いまこの様な人間臭い付き合いが必要に感じる。
鹿児島の人達のこのような風土は引き継がれており、いつ行っても心温まる歓迎を受ける。
人間はもう少し人間らしく生きたほうがいい!そう感じさせてくれる街である。
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薩摩の人達がどれだけ西郷さんを大切にしているかがとても良くわかります。
鶴丸城の二の丸にある図書館のそばに西郷さんの像がある。

当日は雨にもかかわらず、多くの人が記念写真を撮っていた。
若い女性の姿が多いのもビックリした。
その後維新ふるさと館などを見学して回ったのだが、ホント薩摩には英雄が多い。
大久保利通、小松帯刀、東郷平八郎、大山巌、海江田信義など数え上げれば限がないくらいに多くの人物がこの薩摩の出だ。
この薩摩には郷中教育なるものがある。
これは年上の者が年下の者を教育し、指導していくことである。
西郷や大久保たちもこの郷中教育の中成長してきたのだ。
現代社会において殺伐した人間関係のが引き起こす諸問題は多い。
だからこそ、いまこの様な人間臭い付き合いが必要に感じる。
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2008年05月24日
加冶屋町の英雄 西郷隆盛
1827年(文政10年)12月7日鹿児島城下、下加冶屋町山之口馬場で生まれた西郷隆盛。
通称は吉之助である。
西郷の家は「御小姓与」という身分で、士分では下から2番目の身分の下級藩士あった。

少年時代に西郷は、喧嘩で右ひじを負傷し、完全に右ひじを曲げることが出来ないようになった為、この時より武術をあきらめ、学問に精を出すようになったと言われています。
このことが幼少期に武芸ではなく、学問に励むきっかけとなるのです。あとになってみれば、西郷にとってはよかったのかもしれません。
西郷達が住む甲突川近辺は下級武士が多く住んでいた地域で、西郷の育った加治屋町方限は、甲突川東岸ぞいの地区で、今の加治屋町にあたり、当時約七十戸があったらしい。
この狭い方限から、西郷をはじめ、大久保利通、吉井友実、伊地知正治、篠原国実、村田新八、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛、などたくさんの偉人が出ている。
まさに偉人の巣窟のような凄いところである。
西郷はある年齢になると造士館という藩の学校に通います。
薩摩には郷中教育という独特の文化がありました。
郷中教育とは、青少年を「稚児」と「二才」に分けて、勉学・武芸・山坂達者を通じて、先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする組織でした。
その学舎の教育基盤は武道に励はげみ、心身を鍛きたえ、 廉恥れんちを重んじ、礼節を大事にする知・徳・体の調和のとれた人格形成にありました。
西郷達はそんな厳しい郷中教育のなかで鍛えられ成長しました。
16歳になると、西郷は藩の郡方書役助に任命されます。
薩摩藩では、武士の家庭の子弟がある程度の年齢に達すると、家計の助けとなるように小さな役目に付ける慣習がありました。これは武士人口が多い薩摩藩ならではの慣習だったようです。
西郷は右ひじのケガのために武芸をあきらめ学問に精を出していたので、書がかなり巧みだったのでしょう、郡方書役助、つまり農政をつかさどる役所の書記官の補助、といった役目に任命されたのです。
二十歳のころ、下加治屋町郷中の二才頭に選ばれ、誠意をもって後輩を指導していくのです。
自分たちも先輩から教えられたように、次は西郷達の番です。
西郷はココでリーダーとしての資質を身につけていったのではないでしょうか。
西郷の所には何人もの後輩たちが教えを受けにきました。
明治維新にはこの方限から、数多くの偉人が出たが、そのほとんどが西郷の影響を強く受けて育ったといわれています。
大久保利通・有村俊斎たちと論読会をつくり「近思録」や「伝習録」などを共同で研究もしたようです。
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通称は吉之助である。
西郷の家は「御小姓与」という身分で、士分では下から2番目の身分の下級藩士あった。

少年時代に西郷は、喧嘩で右ひじを負傷し、完全に右ひじを曲げることが出来ないようになった為、この時より武術をあきらめ、学問に精を出すようになったと言われています。
このことが幼少期に武芸ではなく、学問に励むきっかけとなるのです。あとになってみれば、西郷にとってはよかったのかもしれません。
西郷達が住む甲突川近辺は下級武士が多く住んでいた地域で、西郷の育った加治屋町方限は、甲突川東岸ぞいの地区で、今の加治屋町にあたり、当時約七十戸があったらしい。
この狭い方限から、西郷をはじめ、大久保利通、吉井友実、伊地知正治、篠原国実、村田新八、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛、などたくさんの偉人が出ている。
まさに偉人の巣窟のような凄いところである。
西郷はある年齢になると造士館という藩の学校に通います。
薩摩には郷中教育という独特の文化がありました。
郷中教育とは、青少年を「稚児」と「二才」に分けて、勉学・武芸・山坂達者を通じて、先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする組織でした。
その学舎の教育基盤は武道に励はげみ、心身を鍛きたえ、 廉恥れんちを重んじ、礼節を大事にする知・徳・体の調和のとれた人格形成にありました。
西郷達はそんな厳しい郷中教育のなかで鍛えられ成長しました。
16歳になると、西郷は藩の郡方書役助に任命されます。
薩摩藩では、武士の家庭の子弟がある程度の年齢に達すると、家計の助けとなるように小さな役目に付ける慣習がありました。これは武士人口が多い薩摩藩ならではの慣習だったようです。
西郷は右ひじのケガのために武芸をあきらめ学問に精を出していたので、書がかなり巧みだったのでしょう、郡方書役助、つまり農政をつかさどる役所の書記官の補助、といった役目に任命されたのです。
二十歳のころ、下加治屋町郷中の二才頭に選ばれ、誠意をもって後輩を指導していくのです。
自分たちも先輩から教えられたように、次は西郷達の番です。
西郷はココでリーダーとしての資質を身につけていったのではないでしょうか。
西郷の所には何人もの後輩たちが教えを受けにきました。
明治維新にはこの方限から、数多くの偉人が出たが、そのほとんどが西郷の影響を強く受けて育ったといわれています。
大久保利通・有村俊斎たちと論読会をつくり「近思録」や「伝習録」などを共同で研究もしたようです。
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2008年01月22日
西郷隆盛 勝海舟との会談
鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を破った東征軍は西郷隆盛を総大将に、勢いに乗り関東を目指し進軍していた。
これに対し部下を見捨てて江戸に逃げ帰り、新政府軍との徹底抗戦を主張する小栗上野介たちの意見を退け、さっさと蟄居してしまった徳川慶喜。
徳川慶喜の蟄居により幕府の後事を任された勝海舟。
勝の心は「チッ、最後に面倒なことだけ押し付けやがって・・・ 」ってな気持ちだったのでしょうか?
神戸海軍操練所に倒幕の者がいたことにより勝はしばらく蟄居させられていたのである。
そこに来て今度はやばくなってきたから、「お前なんとかしろ」状態で任されている。
勝に抵抗していたといわれる小栗上野介もこの頃には居なく、幕政は完全に瓦解していたときである。
そんな勝は東征してくる新政府軍に使者を送ることから始まった。
幕府倒壊となったいま、いかに血を流さすに時代を変え、列国の属国になることを避けるのかが大事であった。
勝の使者、山岡鉄太郎は駿府において「東征大総督府下参謀」となっていた西郷隆盛に会う。
そして江戸に入って来た西郷は薩摩藩邸において勝海舟と会談するのである。
1864年(元治元年)以来の再会である。
また翌日も会談は続き、話し合いの末
西郷は「委細承知知致した。しかしながら、これは拙者の一存にも計らひ難いから、今より総督府へ出掛けて相談した上で、なにぶんの御返答を致さう。が、それまでのところ、ともかくも明日の進撃だけは、中止させておきませう」と言い、これによって江戸は戦火から免れることになったのです。
これには天璋院篤姫や皇女和宮も徳川家の助命嘆願をしていることも若干影響はしているのだろう。
当時の巨大都市江戸。
この江戸を焼け野原にしてしまっては新政府が樹立したときに、列国に立ち向かうだけの経済力を養うことは出来ず、ましてや無駄に多くの血を流してしまっては、まさに列国の思う壺であるという勝と西郷の利害関係は一致し、日本におけるこの難局を乗越えることが出来たのだ。
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これに対し部下を見捨てて江戸に逃げ帰り、新政府軍との徹底抗戦を主張する小栗上野介たちの意見を退け、さっさと蟄居してしまった徳川慶喜。
徳川慶喜の蟄居により幕府の後事を任された勝海舟。
勝の心は「チッ、最後に面倒なことだけ押し付けやがって・・・ 」ってな気持ちだったのでしょうか?
神戸海軍操練所に倒幕の者がいたことにより勝はしばらく蟄居させられていたのである。
そこに来て今度はやばくなってきたから、「お前なんとかしろ」状態で任されている。
勝に抵抗していたといわれる小栗上野介もこの頃には居なく、幕政は完全に瓦解していたときである。
そんな勝は東征してくる新政府軍に使者を送ることから始まった。
幕府倒壊となったいま、いかに血を流さすに時代を変え、列国の属国になることを避けるのかが大事であった。
勝の使者、山岡鉄太郎は駿府において「東征大総督府下参謀」となっていた西郷隆盛に会う。
そして江戸に入って来た西郷は薩摩藩邸において勝海舟と会談するのである。
1864年(元治元年)以来の再会である。
また翌日も会談は続き、話し合いの末
西郷は「委細承知知致した。しかしながら、これは拙者の一存にも計らひ難いから、今より総督府へ出掛けて相談した上で、なにぶんの御返答を致さう。が、それまでのところ、ともかくも明日の進撃だけは、中止させておきませう」と言い、これによって江戸は戦火から免れることになったのです。
これには天璋院篤姫や皇女和宮も徳川家の助命嘆願をしていることも若干影響はしているのだろう。
当時の巨大都市江戸。
この江戸を焼け野原にしてしまっては新政府が樹立したときに、列国に立ち向かうだけの経済力を養うことは出来ず、ましてや無駄に多くの血を流してしまっては、まさに列国の思う壺であるという勝と西郷の利害関係は一致し、日本におけるこの難局を乗越えることが出来たのだ。
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2008年01月17日
西郷隆盛 徳川慶喜と錦の御旗
坂本龍馬・中岡慎太郎の東奔西走の甲斐もあり締結した薩長同盟。
これによって時代はまた大きく動き始める。
幕府は強行に第2次長州征伐を敢行します。
しかし薩摩藩や芸州藩などの有力諸藩が征長軍に参戦しなかったことにより連敗が続きます。
特に薩摩藩は武器や弾薬などを長州に提供、薩長同盟のもと、倒幕に動き始めていました。
そんな時、大阪城に出向き総大将として指揮を執っていた徳川家茂が急死します。
病弱な体にもかかわらず江戸から大坂まで赴き、連日の敗戦のほうが心労をきしたのかもしれません。
このことにより幕府は第15代将軍として一橋慶喜を将軍職に就かせるのです。
しかし、いかに徳川慶喜でも時代の波には逆らうことは出来ません。
西郷隆盛・大久保利通等は1867年(慶応3年)10月14日、薩摩藩と長州藩に対して、待望の 「討幕の密勅」 を取り付けるのです。
ですが、薩長同盟のために奔走していた坂本龍馬が政権を幕府から朝廷に返還させるという 「大政奉還」 にむけて動いていたのです。
龍馬はかつての縁敵 土佐藩の後藤象次郎・板垣退助らにはかり幕府を説得するよう話をするのです。
後藤は土佐藩が出遅れたのを挽回するのはここにあるとし、将軍・慶喜を説得します。
このため 「討幕の密勅」 の動きを知った徳川慶喜は土佐藩の建白を受け入れ、大政奉還に踏み切ったのです。
朝廷は動揺します。戦国以来政治に関わってこなかったので何をどうすればいいのかが分からないんです。
西郷はそんな朝廷をなだめ、大久保や長州の桂らと共に新政府樹立にむけ動きます。
「小御所会議」において徳川慶喜の辞官・納地が決定されることになります。
そんな中幕府は自宅謹慎中だった勝海舟を呼び戻します。
1868年(明治元年)1月3日、「鳥羽・伏見の戦い」が起こります。
幕府軍は「討薩の表」を掲げ、鳥羽、伏見の二街道を通り京へ向けて進撃を開始します。
これに対し新政府側は、薩摩藩が鳥羽街道、長州藩が伏見街道とわかれて布陣。
戦いは薩長連合軍有利で進みますが、兵力の多い幕府軍は少しづつ押し返してきます。
しかし、翌1月4日、薩長軍側に「錦の御旗」が揚がると戦局は一気に新政府軍に傾くのです。
天皇公認の軍であることの証「錦の御旗」
これを見た幕府軍は、戦意を喪失して総退却を余儀なくされたのです。
幕府軍は大坂にいる将軍 徳川慶喜に出陣を要請します。
しかし、慶喜は出陣するといっておきながら夜陰に紛れて軍艦にて江戸に逃げるのです。
翌朝、総大将がいなくなった幕府軍は総崩れで江戸に向けて逃げて行くのです。
「鳥羽・伏見の戦い」 で勝利した新政府軍は、有栖川宮熾仁親王を「東征大総督」に任命し、東海、東山、北陸の三道に分かれて江戸に向け進軍します。
西郷隆盛は「東征大総督府下参謀」に任命され、東海道を通り江戸を目指すことになったのです。
そして江戸城無血開城へと繋がっていきます。
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これによって時代はまた大きく動き始める。
幕府は強行に第2次長州征伐を敢行します。
しかし薩摩藩や芸州藩などの有力諸藩が征長軍に参戦しなかったことにより連敗が続きます。
特に薩摩藩は武器や弾薬などを長州に提供、薩長同盟のもと、倒幕に動き始めていました。
そんな時、大阪城に出向き総大将として指揮を執っていた徳川家茂が急死します。
病弱な体にもかかわらず江戸から大坂まで赴き、連日の敗戦のほうが心労をきしたのかもしれません。
このことにより幕府は第15代将軍として一橋慶喜を将軍職に就かせるのです。
しかし、いかに徳川慶喜でも時代の波には逆らうことは出来ません。
西郷隆盛・大久保利通等は1867年(慶応3年)10月14日、薩摩藩と長州藩に対して、待望の 「討幕の密勅」 を取り付けるのです。
ですが、薩長同盟のために奔走していた坂本龍馬が政権を幕府から朝廷に返還させるという 「大政奉還」 にむけて動いていたのです。
龍馬はかつての縁敵 土佐藩の後藤象次郎・板垣退助らにはかり幕府を説得するよう話をするのです。
後藤は土佐藩が出遅れたのを挽回するのはここにあるとし、将軍・慶喜を説得します。
このため 「討幕の密勅」 の動きを知った徳川慶喜は土佐藩の建白を受け入れ、大政奉還に踏み切ったのです。
朝廷は動揺します。戦国以来政治に関わってこなかったので何をどうすればいいのかが分からないんです。
西郷はそんな朝廷をなだめ、大久保や長州の桂らと共に新政府樹立にむけ動きます。
「小御所会議」において徳川慶喜の辞官・納地が決定されることになります。
そんな中幕府は自宅謹慎中だった勝海舟を呼び戻します。
1868年(明治元年)1月3日、「鳥羽・伏見の戦い」が起こります。
幕府軍は「討薩の表」を掲げ、鳥羽、伏見の二街道を通り京へ向けて進撃を開始します。
これに対し新政府側は、薩摩藩が鳥羽街道、長州藩が伏見街道とわかれて布陣。
戦いは薩長連合軍有利で進みますが、兵力の多い幕府軍は少しづつ押し返してきます。
しかし、翌1月4日、薩長軍側に「錦の御旗」が揚がると戦局は一気に新政府軍に傾くのです。
天皇公認の軍であることの証「錦の御旗」
これを見た幕府軍は、戦意を喪失して総退却を余儀なくされたのです。
幕府軍は大坂にいる将軍 徳川慶喜に出陣を要請します。
しかし、慶喜は出陣するといっておきながら夜陰に紛れて軍艦にて江戸に逃げるのです。
翌朝、総大将がいなくなった幕府軍は総崩れで江戸に向けて逃げて行くのです。
「鳥羽・伏見の戦い」 で勝利した新政府軍は、有栖川宮熾仁親王を「東征大総督」に任命し、東海、東山、北陸の三道に分かれて江戸に向け進軍します。
西郷隆盛は「東征大総督府下参謀」に任命され、東海道を通り江戸を目指すことになったのです。
そして江戸城無血開城へと繋がっていきます。
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2008年01月13日
西郷隆盛 勝海舟との出逢い
1864年(元治元年)西郷隆盛は越前福井藩の堤正誼にとある江戸幕府の重臣にあうことを進められる。
その相手が勝海舟である。

西郷隆盛と勝海舟の出会い
西郷は勝に会ったときの感想をこう記している。
「勝氏と初めて面会したが、実に驚くような人物であった。最初は幕府重臣として非難するつもりだったが、会って話をしてみると本当に頭が下がる人物である。
勝氏の知略には驚くばかりである」と大久保に宛てた手紙で書いている。
その理由は、勝は現状の幕府の状態や世界の政治情勢をみて,今後幕府が政治を続けていくことは無理だと考えていた。
幕府が徳川というプライドを取り除き,諸藩と協力して諸外国に立ち向かわねば清国のようにされてしまうと説いた。
勝はのちに海軍操練所をまかされたおり,坂本龍馬など他藩の優秀な人材を迎え入れ,幕府の海軍ではなく日本の海軍の建設に努めたのはそういった理由からである。
勝は,西郷の力量を見込み幕府の内情を打ち明けて批判し,諸藩による議会政治の確立が必要だと語ったのだ。
この出会いが後年、江戸無血開城に繋がっていくのです。
その同じ年、長州は幕命により第1次長州征伐にあっていました。
薩摩藩も西郷を征長軍の参謀に任命し、長州に向っていました。
長州藩内では、禁門の変での恨みが骨髄にまで染み渡っており、薩摩・会津を憎むものがほとんどで、自らの下駄の裏に「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」書き憎しみを顕にしておりました。
しかし西郷の説得により長州は幕府に恭順の意をしめします。
その幕府は一時は和平を結びますが、再度長州征伐を計画します。
これに反対した西郷は、出兵を拒否。
このことが歴史を大きく動かすことになるのです。
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その相手が勝海舟である。

西郷隆盛と勝海舟の出会い
西郷は勝に会ったときの感想をこう記している。
「勝氏と初めて面会したが、実に驚くような人物であった。最初は幕府重臣として非難するつもりだったが、会って話をしてみると本当に頭が下がる人物である。
勝氏の知略には驚くばかりである」と大久保に宛てた手紙で書いている。
その理由は、勝は現状の幕府の状態や世界の政治情勢をみて,今後幕府が政治を続けていくことは無理だと考えていた。
幕府が徳川というプライドを取り除き,諸藩と協力して諸外国に立ち向かわねば清国のようにされてしまうと説いた。
勝はのちに海軍操練所をまかされたおり,坂本龍馬など他藩の優秀な人材を迎え入れ,幕府の海軍ではなく日本の海軍の建設に努めたのはそういった理由からである。
勝は,西郷の力量を見込み幕府の内情を打ち明けて批判し,諸藩による議会政治の確立が必要だと語ったのだ。
この出会いが後年、江戸無血開城に繋がっていくのです。
その同じ年、長州は幕命により第1次長州征伐にあっていました。
薩摩藩も西郷を征長軍の参謀に任命し、長州に向っていました。
長州藩内では、禁門の変での恨みが骨髄にまで染み渡っており、薩摩・会津を憎むものがほとんどで、自らの下駄の裏に「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」書き憎しみを顕にしておりました。
しかし西郷の説得により長州は幕府に恭順の意をしめします。
その幕府は一時は和平を結びますが、再度長州征伐を計画します。
これに反対した西郷は、出兵を拒否。
このことが歴史を大きく動かすことになるのです。
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2008年01月11日
西郷隆盛 錦江湾に投身する
島津斉彬の死後、国許薩摩へ戻った西郷隆盛に更なる試練が待っていました。

幕府大老の地位に就いた井伊直弼は、自分の方針に反対する大名や公家の多くを謹慎処分にし、その他幕府に批判的な意見を持つ一般の志士達を一斉に捕縛していったのです。
世に言う「安政の大獄」です。
島津斉彬没後の薩摩藩も対抗する術はなく、斉彬の息のかかった者たちは次々に失脚していきます。
西郷は京都・江戸において薩摩藩のために尽力した僧・月照をこの安政の大獄から守ろうと薩摩へ呼び寄せます。しかし、藩主は斉彬の弟・久光の子 島津忠義になっており、実権を握っていたのは、斉彬の父であり前々藩主の斉興だった。
斉興はそれまでの政策をすべて止めさせ、旧体制に戻していました。
当然ながら、薩摩藩は月照を匿うはずもなく、追放命令を出したのです。
愛情深く、そして義理堅い西郷は月照は、二人で相談し、相伴って寒中の海に身を投じたのでした。
錦江湾の海に身を投じた西郷と月照でしたが、西郷だけは奇跡的に命を取りとめます。
そのことがまた西郷を苦しめます。自分だけ生き残ってしまったことに武士として恥辱を感じていたことでしょう。
そんな西郷に薩摩藩は奄美大島行きを命じました。西郷は前藩主・斉彬の無二の寵臣であったので、藩としては隠したかったのでしょう。
それから3年後、時代は再び大きく動き始めます。
桜田門外の変が起こったのです。これにより幕府は急速に力を弱めていきます。
薩摩藩もそのころは斉彬の弟の久光が、藩主・忠義の後見人となっており
その久光の重臣としての地位を確立しつつあった西郷の盟友、大久保一蔵は、先君の寵臣として働いていた西郷を奄美大島から召還させることを久光に願い出ました。
そして西郷は3年ぶりに藩政に戻ることとなったのです。
しかし戻るなり西郷はまた謹慎となります。
その後薩摩藩は、寺田屋騒動などの動きの中、着実に時代の変革の中心となって行きます。
そんな中「生麦事件」が起こります。
島津久光が江戸から戻る行列を4人のイギリス人が馬で乗り入れ、横切ろうとしたのです。
薩摩藩士 奈良原幸五郎は刀を引き抜き、イギリス人の一行に斬り、一人が死亡したのです。
この事件が切っ掛けで薩英戦争となっていきます。
そのころ京では長州藩が実権を握っていました。
これを快く思わない会津藩ともう一つが、薩摩藩でした。
両藩が協力して長州藩を京から追い出そうとしたのです。
ここでまた西郷は呼び戻されます。
そして戻った西郷はまず、会津との同盟を破棄させます。
志の違う両藩が、長州憎しというだけで結んだ同盟だったからです。
蛤御門の変でも西郷は会津藩からの援軍を断っています。
そして蛤御門の変の2ヵ月後、西郷はある人物との出会いを迎えます。
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世に言う「安政の大獄」です。
島津斉彬没後の薩摩藩も対抗する術はなく、斉彬の息のかかった者たちは次々に失脚していきます。
西郷は京都・江戸において薩摩藩のために尽力した僧・月照をこの安政の大獄から守ろうと薩摩へ呼び寄せます。しかし、藩主は斉彬の弟・久光の子 島津忠義になっており、実権を握っていたのは、斉彬の父であり前々藩主の斉興だった。
斉興はそれまでの政策をすべて止めさせ、旧体制に戻していました。
当然ながら、薩摩藩は月照を匿うはずもなく、追放命令を出したのです。
愛情深く、そして義理堅い西郷は月照は、二人で相談し、相伴って寒中の海に身を投じたのでした。
錦江湾の海に身を投じた西郷と月照でしたが、西郷だけは奇跡的に命を取りとめます。
そのことがまた西郷を苦しめます。自分だけ生き残ってしまったことに武士として恥辱を感じていたことでしょう。
そんな西郷に薩摩藩は奄美大島行きを命じました。西郷は前藩主・斉彬の無二の寵臣であったので、藩としては隠したかったのでしょう。
それから3年後、時代は再び大きく動き始めます。
桜田門外の変が起こったのです。これにより幕府は急速に力を弱めていきます。
薩摩藩もそのころは斉彬の弟の久光が、藩主・忠義の後見人となっており
その久光の重臣としての地位を確立しつつあった西郷の盟友、大久保一蔵は、先君の寵臣として働いていた西郷を奄美大島から召還させることを久光に願い出ました。
そして西郷は3年ぶりに藩政に戻ることとなったのです。
しかし戻るなり西郷はまた謹慎となります。
その後薩摩藩は、寺田屋騒動などの動きの中、着実に時代の変革の中心となって行きます。
そんな中「生麦事件」が起こります。
島津久光が江戸から戻る行列を4人のイギリス人が馬で乗り入れ、横切ろうとしたのです。
薩摩藩士 奈良原幸五郎は刀を引き抜き、イギリス人の一行に斬り、一人が死亡したのです。
この事件が切っ掛けで薩英戦争となっていきます。
そのころ京では長州藩が実権を握っていました。
これを快く思わない会津藩ともう一つが、薩摩藩でした。
両藩が協力して長州藩を京から追い出そうとしたのです。
ここでまた西郷は呼び戻されます。
そして戻った西郷はまず、会津との同盟を破棄させます。
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2008年01月09日
島津斉彬の教え
幕末の動乱期を見事に立て直した薩摩藩主 島津斉彬公。

その島津斉彬公に重用され、斉彬公が亡くなったときに自らも命を絶とうとした男
それが・・・西郷隆盛である。
西郷隆盛は 鹿児島城下、下加冶屋町山之口馬場で生まれ、通称 吉之助で通していました。
西郷家は薩摩藩の中でも下級藩士でした。
16才の時、西郷隆盛は藩の郡方書役助という職に就きます。ここで西郷は迫田利済と出会います。
迫田の理念「国の根本をなすものは農民である」は西郷に大きな影響を与えていきます。
1849年(嘉永2年)薩摩藩にお家騒動が起こります世に言う 『お由羅騒動』 です。
薩摩藩第27代藩主・島津斉興は長子の斉彬でなく、異母兄弟の久光を藩主にしようとします。
当時斉彬は、世間からは「当時三百諸侯中の世子の中でも随一」と言われるほどの人物。
斉興のこの異常な行動に対し、薩摩藩内の不満を持っていたグループが「斉興隠居・斉彬擁立」の運動を起こします。
これに対し激怒した斉興はその一派を切腹・島流し等にしていきます。
これが『お由羅騒動』です。
斉彬の「どうしたら日本は日本でいられるか。列国の属国にされず、欧米各国と同等の独立国でいられるか。」という心は強く、終に1851年(嘉永4年)2月 薩摩藩主となります。
藩主となった斉彬は様々な方針を打ち出していきます。
そして広く意見を求めることをしたのです。
そのときに西郷は、農政に関する建白書を出したと言われています。
西郷の建白書は、いかに農民が重税に苦しみ、困難な生活を強いられているか、ということを切々と訴えたものであったとされています。
このような西郷の建白書や意見書は、斉彬の目に留まり中御小姓・定御供・江戸詰を命じられたのです。
これが西郷隆盛と島津斉彬公との出会いでした。
島津斉彬公に見出され、江戸勤務となった西郷。
斉彬より庭方役を拝命することとなる。斉彬は西郷の才能着目し、面倒な手続きを取らずに自由に庭先などで会うことの出来る庭方役に任命し、これにより西郷は藩主 斉彬の自由な時間に会う事ができるようになったのです。
そんなおり1858年(安政5年)7月16日 島津斉彬公は突然急逝します。
西郷にとって大きな存在であった斉彬は、神のような存在でもありました。
斉彬の突然の死は、西郷に大きなショックを与え
「斉彬公亡き今、もう生きてはいけない・・・」 とまで思わせました。
しかし西郷は、斉彬の志を継いで日本の近代化に向けて働くことを心に決めます。
そして国許の薩摩へ帰った西郷に更なる試練が待っていたのです。
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その島津斉彬公に重用され、斉彬公が亡くなったときに自らも命を絶とうとした男
それが・・・西郷隆盛である。
西郷隆盛は 鹿児島城下、下加冶屋町山之口馬場で生まれ、通称 吉之助で通していました。
西郷家は薩摩藩の中でも下級藩士でした。
16才の時、西郷隆盛は藩の郡方書役助という職に就きます。ここで西郷は迫田利済と出会います。
迫田の理念「国の根本をなすものは農民である」は西郷に大きな影響を与えていきます。
1849年(嘉永2年)薩摩藩にお家騒動が起こります世に言う 『お由羅騒動』 です。
薩摩藩第27代藩主・島津斉興は長子の斉彬でなく、異母兄弟の久光を藩主にしようとします。
当時斉彬は、世間からは「当時三百諸侯中の世子の中でも随一」と言われるほどの人物。
斉興のこの異常な行動に対し、薩摩藩内の不満を持っていたグループが「斉興隠居・斉彬擁立」の運動を起こします。
これに対し激怒した斉興はその一派を切腹・島流し等にしていきます。
これが『お由羅騒動』です。
斉彬の「どうしたら日本は日本でいられるか。列国の属国にされず、欧米各国と同等の独立国でいられるか。」という心は強く、終に1851年(嘉永4年)2月 薩摩藩主となります。
藩主となった斉彬は様々な方針を打ち出していきます。
そして広く意見を求めることをしたのです。
そのときに西郷は、農政に関する建白書を出したと言われています。
西郷の建白書は、いかに農民が重税に苦しみ、困難な生活を強いられているか、ということを切々と訴えたものであったとされています。
このような西郷の建白書や意見書は、斉彬の目に留まり中御小姓・定御供・江戸詰を命じられたのです。
これが西郷隆盛と島津斉彬公との出会いでした。
島津斉彬公に見出され、江戸勤務となった西郷。
斉彬より庭方役を拝命することとなる。斉彬は西郷の才能着目し、面倒な手続きを取らずに自由に庭先などで会うことの出来る庭方役に任命し、これにより西郷は藩主 斉彬の自由な時間に会う事ができるようになったのです。
そんなおり1858年(安政5年)7月16日 島津斉彬公は突然急逝します。
西郷にとって大きな存在であった斉彬は、神のような存在でもありました。
斉彬の突然の死は、西郷に大きなショックを与え
「斉彬公亡き今、もう生きてはいけない・・・」 とまで思わせました。
しかし西郷は、斉彬の志を継いで日本の近代化に向けて働くことを心に決めます。
そして国許の薩摩へ帰った西郷に更なる試練が待っていたのです。
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