2008年08月14日
松本奎堂 右眼の志士
松本奎堂 天誅組三総裁の一人である。
松本奎堂は1832年(天保2年)三河刈谷藩士の松本印南惟成の次男として生まれている。
幼い頃から学を好み、10歳にして詩文をつくり神童と称えられたという。
父が刈谷藩用人兼漢学甲州流軍学師範という環境から、11歳で名古屋の尾張藩儒臣奥田桐園に入門。
秀才であったが、三味線や胡弓を奏で、美声の持ち主で歌も上手な芸達者だったそうで、豪胆でもあり18歳の時、槍術の稽古中に左眼を失明したが、平然としていたと伝えられている。
初め尾張国沓掛村の伊藤両村に師事し、1852年(嘉永5年)藩より選ばれて昌平坂学問所に学び、舎長になる。
江戸藩邸の教授兼侍読に任じられるが、過激な言論のために禁固刑に処せられている。
三河国刈谷は徳川家の地元、発祥の地の近くである。
藩主土井氏は譜代大名であり、幕府創業の功を誇る藩風であったが、松本は早くから尊王の志が高く、徳川家を称賛することを恥とし、久能山東照宮廟を訪れたときに徳川家康の狡猾を憎み、志を得た暁には墓を暴き骨を鞭打ってやると罵りような人であり、地元では変人扱いであった。
譜代藩出身で昌平阪学問所で舎長まで勤めたエリートであり、体制側に身をおけば将来は安泰であったというところが他の志士の経歴と比べて異質である。当時もっとも先鋭的な志士の一人であった。
1855年(安政2年)再び昌平坂学問所で学んだが、勤皇思想の正当性を確信した松本は職を辞して脱藩し、名古屋、大坂に出て私塾を開くことになる。
松本は四国の博徒の大親分、日柳燕石とは大変懇意であったし、私塾にはいつも何人もの博徒がいたりもした。
非常な教養人であったが、型破りな人物でもあったようで、頼三樹三郎や梅田雲浜らと親しく、安政の大獄の時、彼らと共に要注意人物に挙げられていたが、生き延び、次第に勤皇志士の中で重きをなすようになっていったのだ。

1862年(文久2年)京都に上り、薩摩藩国父島津久光の率兵上京を期した平野国臣や吉村虎太郎らによる浪士の挙兵計画に参加するが、寺田屋事件で薩摩藩の過激派は粛清され、主だった浪士たちも捕縛されてしまった。
この時、浪士の中には青蓮院宮を奉じて比叡山に籠ろうという議論があったが、松本は大和国十津川の険に拠ることを主張したという。
後年の天誅組の挙兵で、松本はこの案を実行している。
松本は淡路島へ逃れ、同地の勤皇派大地主古東領左衛門や河内国の勤皇派大地主水郡善之祐とも親し交わり、後に彼らは天誅組のために莫大な私財をなげうつことになる。
1863年(文久3年)長州藩は外国船への砲撃を行い攘夷を決行する。
だが、翌月には米仏艦隊の反撃にあって敗北する。松本は吉村らと長州へ赴き高杉晋作と国事を論じ、藩主毛利敬親に謁見した。
8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が下る。松本は吉村や藤本鉄石と議して、行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを決め、前侍従中山忠光を擁して、39人の浪士が京都を出立する。
17日に大和国五条天領に入り、代官所を襲撃し代官鈴木源内の首を刎ねて兵を挙げた。
挙兵した浪士たちは天誅組と呼ばれるようになる。
天誅組は自らを「御政府」と称し、五条を「天朝直轄地」とし、年貢半減などの触書を出した。
職制を定め中山を主将とし、松本は吉村、藤本とともに三総裁の一人となる。趣意書、軍令書、布告など天誅組が公にした文書はほとんどが松本の手にものとされる。教養と文章力は天誅組の中で随一であった。
だが、天誅組の挙兵の直後に8・18の政変が起きて京都の政情は一変してしまう。
攘夷派公卿は失脚し、大和行幸は偽勅とされたのだ。
これにより孤立した天誅組。
天誅組は十津川郷士1000人余を募り、高取城を攻撃するが失敗。
9月には周辺諸藩の大軍が動員され、天誅組は善戦するも各地で敗退が続く。
そのうちに十津川郷士が離反するに及び、中山は兵の解散を命じ、残党は脱出すべく山中の難路を彷徨うことになる。
そのころ松本は右目が悪化し、元々見えない左目と合わせて盲目となっていた。
吉村も脚を負傷して歩行困難になり一行から脱落していく。
9月24日、天誅組残党は鷲家口で紀州・彦根藩兵に捕捉され、壊滅した。
主将の中山は脱出するが、他はほとんどの者が戦死するか捕縛された。
足ノ郷峠を下りてきた松本奎堂、藤本鉄石ら一行は御殿越しといわれる峠を越えて庄屋松本清兵衛宅に到着する。
ここで夜を明かし、翌日2時過ぎに清兵衛宅を出た。
盲目の松本奎堂は地元の者を雇いカゴに乗って出発した。
清兵衛宅を出た藤本鉄石と松本は途中で別れ、駕籠にのっている松本が遅れはじめたからだった。
藤本は先にこの地蔵堂前を過ぎ伊勢街道へと向かっていた。
松本奎堂のカゴは地元の者にかつがれていたが、近くの清兵衛宅で紀州藩兵によるトキの声と銃声がなった途端、彼らはカゴを放り出し逃げていってしまった。
盲目の松本奎堂は従者の村上万吉と共に山に入り潜伏した。
しかしすぐに彦根藩士に見つかり、村上万吉とともに銃殺された。
松本奎堂 享年33歳。
松本奎堂歌碑
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松本奎堂は1832年(天保2年)三河刈谷藩士の松本印南惟成の次男として生まれている。
幼い頃から学を好み、10歳にして詩文をつくり神童と称えられたという。
父が刈谷藩用人兼漢学甲州流軍学師範という環境から、11歳で名古屋の尾張藩儒臣奥田桐園に入門。
秀才であったが、三味線や胡弓を奏で、美声の持ち主で歌も上手な芸達者だったそうで、豪胆でもあり18歳の時、槍術の稽古中に左眼を失明したが、平然としていたと伝えられている。
初め尾張国沓掛村の伊藤両村に師事し、1852年(嘉永5年)藩より選ばれて昌平坂学問所に学び、舎長になる。
江戸藩邸の教授兼侍読に任じられるが、過激な言論のために禁固刑に処せられている。
三河国刈谷は徳川家の地元、発祥の地の近くである。
藩主土井氏は譜代大名であり、幕府創業の功を誇る藩風であったが、松本は早くから尊王の志が高く、徳川家を称賛することを恥とし、久能山東照宮廟を訪れたときに徳川家康の狡猾を憎み、志を得た暁には墓を暴き骨を鞭打ってやると罵りような人であり、地元では変人扱いであった。
譜代藩出身で昌平阪学問所で舎長まで勤めたエリートであり、体制側に身をおけば将来は安泰であったというところが他の志士の経歴と比べて異質である。当時もっとも先鋭的な志士の一人であった。
1855年(安政2年)再び昌平坂学問所で学んだが、勤皇思想の正当性を確信した松本は職を辞して脱藩し、名古屋、大坂に出て私塾を開くことになる。
松本は四国の博徒の大親分、日柳燕石とは大変懇意であったし、私塾にはいつも何人もの博徒がいたりもした。
非常な教養人であったが、型破りな人物でもあったようで、頼三樹三郎や梅田雲浜らと親しく、安政の大獄の時、彼らと共に要注意人物に挙げられていたが、生き延び、次第に勤皇志士の中で重きをなすようになっていったのだ。

1862年(文久2年)京都に上り、薩摩藩国父島津久光の率兵上京を期した平野国臣や吉村虎太郎らによる浪士の挙兵計画に参加するが、寺田屋事件で薩摩藩の過激派は粛清され、主だった浪士たちも捕縛されてしまった。
この時、浪士の中には青蓮院宮を奉じて比叡山に籠ろうという議論があったが、松本は大和国十津川の険に拠ることを主張したという。
後年の天誅組の挙兵で、松本はこの案を実行している。
松本は淡路島へ逃れ、同地の勤皇派大地主古東領左衛門や河内国の勤皇派大地主水郡善之祐とも親し交わり、後に彼らは天誅組のために莫大な私財をなげうつことになる。
1863年(文久3年)長州藩は外国船への砲撃を行い攘夷を決行する。
だが、翌月には米仏艦隊の反撃にあって敗北する。松本は吉村らと長州へ赴き高杉晋作と国事を論じ、藩主毛利敬親に謁見した。
8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が下る。松本は吉村や藤本鉄石と議して、行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを決め、前侍従中山忠光を擁して、39人の浪士が京都を出立する。
17日に大和国五条天領に入り、代官所を襲撃し代官鈴木源内の首を刎ねて兵を挙げた。
挙兵した浪士たちは天誅組と呼ばれるようになる。
天誅組は自らを「御政府」と称し、五条を「天朝直轄地」とし、年貢半減などの触書を出した。
職制を定め中山を主将とし、松本は吉村、藤本とともに三総裁の一人となる。趣意書、軍令書、布告など天誅組が公にした文書はほとんどが松本の手にものとされる。教養と文章力は天誅組の中で随一であった。
だが、天誅組の挙兵の直後に8・18の政変が起きて京都の政情は一変してしまう。
攘夷派公卿は失脚し、大和行幸は偽勅とされたのだ。
これにより孤立した天誅組。
天誅組は十津川郷士1000人余を募り、高取城を攻撃するが失敗。
9月には周辺諸藩の大軍が動員され、天誅組は善戦するも各地で敗退が続く。
そのうちに十津川郷士が離反するに及び、中山は兵の解散を命じ、残党は脱出すべく山中の難路を彷徨うことになる。
そのころ松本は右目が悪化し、元々見えない左目と合わせて盲目となっていた。
吉村も脚を負傷して歩行困難になり一行から脱落していく。
9月24日、天誅組残党は鷲家口で紀州・彦根藩兵に捕捉され、壊滅した。
主将の中山は脱出するが、他はほとんどの者が戦死するか捕縛された。
足ノ郷峠を下りてきた松本奎堂、藤本鉄石ら一行は御殿越しといわれる峠を越えて庄屋松本清兵衛宅に到着する。
ここで夜を明かし、翌日2時過ぎに清兵衛宅を出た。
盲目の松本奎堂は地元の者を雇いカゴに乗って出発した。
清兵衛宅を出た藤本鉄石と松本は途中で別れ、駕籠にのっている松本が遅れはじめたからだった。
藤本は先にこの地蔵堂前を過ぎ伊勢街道へと向かっていた。
松本奎堂のカゴは地元の者にかつがれていたが、近くの清兵衛宅で紀州藩兵によるトキの声と銃声がなった途端、彼らはカゴを放り出し逃げていってしまった。
盲目の松本奎堂は従者の村上万吉と共に山に入り潜伏した。
しかしすぐに彦根藩士に見つかり、村上万吉とともに銃殺された。
松本奎堂 享年33歳。
松本奎堂歌碑
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2008年08月13日
藤本鉄石 潔く散る
藤本鉄石 天誅組三総裁の一人である。
藤本鉄石は1816年(文化13年)岡山藩の片山佐吉の四男として生まれている。
後に藩士藤本彦右衛門の養子となり、農事掛り、手代を務めていたが、1840年(天保11年)に脱藩して京都へ出る。
何故に脱藩して京に出たのかは詳しい史料がないために不明だが、この時代の多くの者がそうした状況下にいたので別段不思議なことではないですね。
脱藩した藤本は諸国を遊歴して書画・和歌・漢詩の修行をしていく。
書画は北宋、後に南宋に転じ山水花鳥が最も巧みだったという。その一方で長沼流軍学を修め、剣術は一刀新流の免許を得ている。
1843年(天保14年)東北から江戸、中国そして九州を遊歴し、各地の名士、豪傑、奇傑らと交わり、少年時代に藤本鉄石に接した清河八郎や山岡鉄舟は大いに影響を受けたと言われている。
そんな中、1853年(嘉永6年)ペリー来航以来の混沌とする国難の中で藤本も慷慨の志を持ち、清河八郎を介して尊攘派志士たちと交わりを持つようになる。
1854年(安政元年)伏見奉行内藤正繩に招かれてその部下を教え、伏見京町の私塾である言志塾で学問、武道、兵法を教えはじめる。
しかし、井伊直弼の独断による日米条約調印に藤本は憤り、激しい尊攘論を主張するようになっていく。
1862年(文久2年)薩摩藩 島津久光が率兵上京することになり、世間の志士達はこれを倒幕のための上洛だと勝手に解して、平野国臣、清河八郎、吉村虎太郎らは上方に浪士を集めて、有馬新七ら薩摩藩士の過激派と結託して挙兵を策した。
藤本もこの動きに加わることになる。
だが、島津久光の真意は公武合体であり、藤本は薩摩藩邸に軟禁され、ほどなく挙兵計画から離脱して去っている。
結局、寺田屋事件で薩摩藩士の過激派は粛清され、平野、吉村らも捕えられて国許へ送還されてしまうのだ。
1863年(文久3年)京都守護職松平容保は朝廷に浪士の言論洞開策を勅栽を得て京都市中に布告した。
ただし、これには黒谷の会津藩本陣に出頭する必要があり、応じた浪士は3人しかいなかったが、そのうちの一人が藤本だった。
容保に奉公を願い出た浪士35人を記した会津藩の記録の「京方浪人別」に「浪士頭」として藤本の名が見える。
この時の藤本の真意は何だったのかは不明だ。
同年8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が発せられると、藤本は吉村虎太郎、松本奎堂とともに行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを計画。
藤本は挙兵の軍資金調達のために河内へ先行し、14日に吉村は前侍従中山忠光を迎えて浪士39人が方広寺に結集して京都を出立。
一行は海路堺に入り、河内へ進んで狭山藩から銃器武具を差し出させた。
17日に一行は河内檜尾山観心寺に逗留し、ここへ藤本が合流。
この浪士たちは後に天誅組と称されるようになるのだ。
天誅組は大和国五条天領へ入り、代官所を襲撃して炎上させ、代官鈴木源内の首を刎ねて挙兵した。
天誅組は桜井寺に本陣を定め、自らを「御政府」と称し、中山忠光を主将、藤本、松本、吉村を総裁とする職制を定めた。
だが、直後の18日になって8・18の政変が起きて政情は一変してしまう。
三条実美ら攘夷派公卿は失脚し、長州藩は京都からの撤退を余儀なくされ、大和行幸の詔は偽勅とされ中止となってしまう。
犠牲になったのは突然、孤立無援となった天誅組だ。
頼るものもなくなってしまった天誅組は本陣を要害の天ノ辻に移し、十津川郷士を募兵して1000人を集めた。
しかし、26日に高取城を攻撃するが敗北し、この戦いで吉村は重傷を負ってしまう。
9月には周辺諸藩が討伐に動員され、天誅組は善戦するものの多勢に無勢、装備も貧弱で、寄せ集めの軍団は次第に追い詰められていく。
藤本は紀州新宮へ突破して四国九州へ逃れ再挙することを策すが叶わず、遂には十津川郷士たちも離反し、天誅組は実質的な戦闘力を失った。
天誅組残党は山中の難路を進んで脱出を試みるが、三総裁のうち吉村は傷が悪化して歩行困難となり脱落、もう一人の松本は負傷して失明状態になっていた。
24日、藤本ら天誅組残党は鷲尾峠を経た鷲家口で紀州・彦根藩兵と遭遇。
藤本は敵中突破に成功したのが、逃げ延びることを潔しとせず、翌25日、弟子の福浦米吉とともに再び敵陣まで引き返し、紀州藩本陣に猛烈な切り込みをかけるのだ。
不意をつかれた敵軍は混乱に陥ったが、所詮は多勢に無勢、奮戦もむなしく壮絶な死を遂げることになる。
藤本鉄石 享年48歳であった。

藤本鉄石遺詠
雲をふみ岩をさくみしもののふのよろひの袖に紅葉かつちる
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藤本鉄石は1816年(文化13年)岡山藩の片山佐吉の四男として生まれている。
後に藩士藤本彦右衛門の養子となり、農事掛り、手代を務めていたが、1840年(天保11年)に脱藩して京都へ出る。
何故に脱藩して京に出たのかは詳しい史料がないために不明だが、この時代の多くの者がそうした状況下にいたので別段不思議なことではないですね。
脱藩した藤本は諸国を遊歴して書画・和歌・漢詩の修行をしていく。
書画は北宋、後に南宋に転じ山水花鳥が最も巧みだったという。その一方で長沼流軍学を修め、剣術は一刀新流の免許を得ている。
1843年(天保14年)東北から江戸、中国そして九州を遊歴し、各地の名士、豪傑、奇傑らと交わり、少年時代に藤本鉄石に接した清河八郎や山岡鉄舟は大いに影響を受けたと言われている。
そんな中、1853年(嘉永6年)ペリー来航以来の混沌とする国難の中で藤本も慷慨の志を持ち、清河八郎を介して尊攘派志士たちと交わりを持つようになる。
1854年(安政元年)伏見奉行内藤正繩に招かれてその部下を教え、伏見京町の私塾である言志塾で学問、武道、兵法を教えはじめる。
しかし、井伊直弼の独断による日米条約調印に藤本は憤り、激しい尊攘論を主張するようになっていく。
1862年(文久2年)薩摩藩 島津久光が率兵上京することになり、世間の志士達はこれを倒幕のための上洛だと勝手に解して、平野国臣、清河八郎、吉村虎太郎らは上方に浪士を集めて、有馬新七ら薩摩藩士の過激派と結託して挙兵を策した。
藤本もこの動きに加わることになる。
だが、島津久光の真意は公武合体であり、藤本は薩摩藩邸に軟禁され、ほどなく挙兵計画から離脱して去っている。
結局、寺田屋事件で薩摩藩士の過激派は粛清され、平野、吉村らも捕えられて国許へ送還されてしまうのだ。
1863年(文久3年)京都守護職松平容保は朝廷に浪士の言論洞開策を勅栽を得て京都市中に布告した。
ただし、これには黒谷の会津藩本陣に出頭する必要があり、応じた浪士は3人しかいなかったが、そのうちの一人が藤本だった。
容保に奉公を願い出た浪士35人を記した会津藩の記録の「京方浪人別」に「浪士頭」として藤本の名が見える。
この時の藤本の真意は何だったのかは不明だ。
同年8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が発せられると、藤本は吉村虎太郎、松本奎堂とともに行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを計画。
藤本は挙兵の軍資金調達のために河内へ先行し、14日に吉村は前侍従中山忠光を迎えて浪士39人が方広寺に結集して京都を出立。
一行は海路堺に入り、河内へ進んで狭山藩から銃器武具を差し出させた。
17日に一行は河内檜尾山観心寺に逗留し、ここへ藤本が合流。
この浪士たちは後に天誅組と称されるようになるのだ。
天誅組は大和国五条天領へ入り、代官所を襲撃して炎上させ、代官鈴木源内の首を刎ねて挙兵した。
天誅組は桜井寺に本陣を定め、自らを「御政府」と称し、中山忠光を主将、藤本、松本、吉村を総裁とする職制を定めた。
だが、直後の18日になって8・18の政変が起きて政情は一変してしまう。
三条実美ら攘夷派公卿は失脚し、長州藩は京都からの撤退を余儀なくされ、大和行幸の詔は偽勅とされ中止となってしまう。
犠牲になったのは突然、孤立無援となった天誅組だ。
頼るものもなくなってしまった天誅組は本陣を要害の天ノ辻に移し、十津川郷士を募兵して1000人を集めた。
しかし、26日に高取城を攻撃するが敗北し、この戦いで吉村は重傷を負ってしまう。
9月には周辺諸藩が討伐に動員され、天誅組は善戦するものの多勢に無勢、装備も貧弱で、寄せ集めの軍団は次第に追い詰められていく。
藤本は紀州新宮へ突破して四国九州へ逃れ再挙することを策すが叶わず、遂には十津川郷士たちも離反し、天誅組は実質的な戦闘力を失った。
天誅組残党は山中の難路を進んで脱出を試みるが、三総裁のうち吉村は傷が悪化して歩行困難となり脱落、もう一人の松本は負傷して失明状態になっていた。
24日、藤本ら天誅組残党は鷲尾峠を経た鷲家口で紀州・彦根藩兵と遭遇。
藤本は敵中突破に成功したのが、逃げ延びることを潔しとせず、翌25日、弟子の福浦米吉とともに再び敵陣まで引き返し、紀州藩本陣に猛烈な切り込みをかけるのだ。
不意をつかれた敵軍は混乱に陥ったが、所詮は多勢に無勢、奮戦もむなしく壮絶な死を遂げることになる。
藤本鉄石 享年48歳であった。

藤本鉄石遺詠
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2008年05月11日
今太閤 島田左近
安政年間に、強権的な手法を用い尊皇攘夷派を一掃した男 島田左近。
島田左近に関しての詳しい生年、出自に関しては、いまだ詳細な伝えがない。
島根・石見国の農民出身で生活の糧を求め京まで流れ商家に奉公した後、侍として公家に仕えたとする説や、また美濃国の神主の子に生まれ、烏丸家で養われた後、九条家代々の家令・島田氏に婿養子として入り、当主となったのち、九条家執権まで登りつめたとする説などがある。
幕末に政治的な能力に優れた人物であったことは間違いのない事実である。
左近の名前が歴史上で観られるようになるのは、彦根藩主・井伊直弼が大老に就任したのちの安政年間である。
条約勅許問題で暗躍し、彦根藩とともに動き、当初、通商条約調印に反対であった主家・九条尚忠を幕府方賛成派に内応させ、紀州藩・徳川慶福(のちの家茂)を次期将軍職に擁立するという豪腕をふるった。
安政の大獄では、井伊の指令の下、数多くの尊皇攘夷派の志士、活動家らを一斉に検挙、捕縛。奉行所岡引・文吉を謀臣とし、容赦ない弾圧を行なった。
これにより、幕府から島田へ流れた賄賂は1万両を越えた、とも言われる。
桜田門外の変での井伊暗殺後には更に権勢を強め、1861年(文久元年)皇女・和宮降嫁問題に際しても政治力を行使。
関係者らを調略し幕府への斡旋に深く関与している。
こうして、後に土佐勤皇党の武市瑞山が台頭してくるまでの間、事実上の都の支配者として君臨していく。
その権勢は、今太閤と異名された他、斎藤道三や三好長慶らをなぞらえて例えられたなど、逸話が多く残るが、半ば専制的で苛烈な政治手腕を憎まれ、朝廷や幕府、諸藩の浪士など多くの政敵を作っていった。
攘夷派の志士の目の敵になったのは言うまでもない。
また、好色であったとされ多くの愛人がいたが、謀臣・文吉の娘をとくに可愛がっていたとも言われる。
1862年(文久2年)7月、京・木屋町の愛人宅へ忍んで出向いているところを薩摩藩の田中新兵衛ら配下3名に襲撃さる。
塀を乗り越えて逃げようとしてが、尻を切られころげ落ちたところを首を打たれた。
首は加茂河原に晒された。
このときの暗殺劇から始まるのが、いわゆる「天誅」と呼ばれる都で続発した殺戮騒動である。
同時に、彼の死後、島田に追従していた者たちも次々と討たれていった。
こうして、時代は島田の天下から、武市を首領とする土佐勤皇党一派の時代に移っていく。皮肉なことに、時代の転換点を自らの死で演じた人物といえる。
島田左近 享年38歳といわれている。
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島田左近に関しての詳しい生年、出自に関しては、いまだ詳細な伝えがない。
島根・石見国の農民出身で生活の糧を求め京まで流れ商家に奉公した後、侍として公家に仕えたとする説や、また美濃国の神主の子に生まれ、烏丸家で養われた後、九条家代々の家令・島田氏に婿養子として入り、当主となったのち、九条家執権まで登りつめたとする説などがある。
幕末に政治的な能力に優れた人物であったことは間違いのない事実である。
左近の名前が歴史上で観られるようになるのは、彦根藩主・井伊直弼が大老に就任したのちの安政年間である。
条約勅許問題で暗躍し、彦根藩とともに動き、当初、通商条約調印に反対であった主家・九条尚忠を幕府方賛成派に内応させ、紀州藩・徳川慶福(のちの家茂)を次期将軍職に擁立するという豪腕をふるった。
安政の大獄では、井伊の指令の下、数多くの尊皇攘夷派の志士、活動家らを一斉に検挙、捕縛。奉行所岡引・文吉を謀臣とし、容赦ない弾圧を行なった。
これにより、幕府から島田へ流れた賄賂は1万両を越えた、とも言われる。
桜田門外の変での井伊暗殺後には更に権勢を強め、1861年(文久元年)皇女・和宮降嫁問題に際しても政治力を行使。
関係者らを調略し幕府への斡旋に深く関与している。
こうして、後に土佐勤皇党の武市瑞山が台頭してくるまでの間、事実上の都の支配者として君臨していく。
その権勢は、今太閤と異名された他、斎藤道三や三好長慶らをなぞらえて例えられたなど、逸話が多く残るが、半ば専制的で苛烈な政治手腕を憎まれ、朝廷や幕府、諸藩の浪士など多くの政敵を作っていった。
攘夷派の志士の目の敵になったのは言うまでもない。
また、好色であったとされ多くの愛人がいたが、謀臣・文吉の娘をとくに可愛がっていたとも言われる。
1862年(文久2年)7月、京・木屋町の愛人宅へ忍んで出向いているところを薩摩藩の田中新兵衛ら配下3名に襲撃さる。
塀を乗り越えて逃げようとしてが、尻を切られころげ落ちたところを首を打たれた。
首は加茂河原に晒された。
このときの暗殺劇から始まるのが、いわゆる「天誅」と呼ばれる都で続発した殺戮騒動である。
同時に、彼の死後、島田に追従していた者たちも次々と討たれていった。
こうして、時代は島田の天下から、武市を首領とする土佐勤皇党一派の時代に移っていく。皮肉なことに、時代の転換点を自らの死で演じた人物といえる。
島田左近 享年38歳といわれている。
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2008年05月04日
尊攘の先達 真木和泉
攘夷の真木和泉 筑後国久留米藩、水天宮の神職 真木旋臣の家に生まれる。

藩校明善堂で学び、江戸・水戸に遊学し尊皇攘夷を唱える。
神職を継ぎ、国学や和歌などを学ぶ。水戸学に傾倒し、会沢正志斎の影響を強く受け、水戸学の継承者として位置づけられる。久留米に帰り、木村三郎、村上守太郎らと水戸学の影響下にある天保学と呼ばれる学派を作り、天保学連の中心となり、藩主有馬頼永に藩政改革意見を上書している。
1852年(嘉永5年)稲次因幡、木村三郎らとともに執政 有馬監物らを排斥しようとするが失敗し、嘉永の獄で「三里構い」となって蟄居を命ぜられた。
この蟄居生活は長く、11年にもおよぶ。
幽閉中、真木は開国の進展に応じて諸国の尊攘志士と交流し公家に建策、1861年(文久元年)「義挙三策」を著し王政復古を説いた。
そんな中、平野国臣、清河八郎らと会議し1862年(文久2年)には脱藩し薩摩に向かう。
薩摩で大久保利通、有馬新七らと薩摩藩 主島津久光を擁立しての上洛を計画、久光が上京するとともに今日に上がり、京で活動しはじめる。
しかし、島津久光にこの情報が漏れ、寺田屋事件にて有馬達は註殺されてしまう。
真木も捕らえられ幽閉され久留米に護送幽閉されたが、その後は長州藩に接近する。
長州へおもむき毛利敬親父子に謁見して攘夷親征、討幕を説き、6月上京し学習院御用掛となった。
しかし、会津藩と薩摩が結託した8・18の政変が起こると、七卿とともに長州へ逃れる。
長州に下った真木は「出師三策」を著して軍事力による朝廷奪回を主張
久坂玄瑞、来島又兵衛らとともに浪士隊清側義軍の総管として長州藩の汚名を雪ぐため京に軍を向けるのだ。
6月15日、来島又兵衛が遊撃隊をもって挙兵上京し、福原越後・国司信濃・益田右衛門介の三家老も京都へ向けて進軍します。
6月22日には福原は大坂へ上陸、武装したまま6月24日、伏見長州藩邸に布陣します。
福原隊は、長州藩京都留守居役・乃美織江を通じて、所司代へ上京の届け出を提出しました。
その理由は、「池田屋騒動に関する取り調べ」としていました。
また、真木和泉守と久坂玄瑞は6月24日には淀川を遡って天王山に布陣します。
関所の届けには、「朝廷と幕府への嘆願書の提出」を理由としていました。
さらに河原町の長州藩京都屋敷にいた藩士と合流した浪士ら約500人が嵯峨天龍寺に移り、長州藩は三方から御所をうかがうことになったのです。
天王山に布陣していた真木は、朝廷に対し、挙兵上京した大義名分を訴える哀願書を提出します。
内容は8.18の政変で京を追われた三条実美ら五卿ならびに長州藩の毛利父子の冤罪、攘夷の国是嘆願でした。
しかし一橋慶喜は、「大軍を擁して入洛するだけでも大逆行為」と憤慨し、孝明天皇も「今さら長州の入京は不可」と仰せられて、長州討伐が決定します。
長州藩は大垣藩が守る関門へ向かいます。大垣藩は長州勢に大砲を撃ち込みついに戦端が開かれました。
開戦当初は長州藩が押していました。
真木たちも天王山から御所に向かいます。
時が経つにつれ形勢は長州不利になっていき、真木和泉率いる隊を本隊とし、山陰街道を天王山に向かって撤退します。
長州勢追討の命令が出たこともあり、真木は責任を感じていました。
天王山に着いた真木は自害を決意します。
真木和泉 享年52歳。
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藩校明善堂で学び、江戸・水戸に遊学し尊皇攘夷を唱える。
神職を継ぎ、国学や和歌などを学ぶ。水戸学に傾倒し、会沢正志斎の影響を強く受け、水戸学の継承者として位置づけられる。久留米に帰り、木村三郎、村上守太郎らと水戸学の影響下にある天保学と呼ばれる学派を作り、天保学連の中心となり、藩主有馬頼永に藩政改革意見を上書している。
1852年(嘉永5年)稲次因幡、木村三郎らとともに執政 有馬監物らを排斥しようとするが失敗し、嘉永の獄で「三里構い」となって蟄居を命ぜられた。
この蟄居生活は長く、11年にもおよぶ。
幽閉中、真木は開国の進展に応じて諸国の尊攘志士と交流し公家に建策、1861年(文久元年)「義挙三策」を著し王政復古を説いた。
そんな中、平野国臣、清河八郎らと会議し1862年(文久2年)には脱藩し薩摩に向かう。
薩摩で大久保利通、有馬新七らと薩摩藩 主島津久光を擁立しての上洛を計画、久光が上京するとともに今日に上がり、京で活動しはじめる。
しかし、島津久光にこの情報が漏れ、寺田屋事件にて有馬達は註殺されてしまう。
真木も捕らえられ幽閉され久留米に護送幽閉されたが、その後は長州藩に接近する。
長州へおもむき毛利敬親父子に謁見して攘夷親征、討幕を説き、6月上京し学習院御用掛となった。
しかし、会津藩と薩摩が結託した8・18の政変が起こると、七卿とともに長州へ逃れる。
長州に下った真木は「出師三策」を著して軍事力による朝廷奪回を主張
久坂玄瑞、来島又兵衛らとともに浪士隊清側義軍の総管として長州藩の汚名を雪ぐため京に軍を向けるのだ。
6月15日、来島又兵衛が遊撃隊をもって挙兵上京し、福原越後・国司信濃・益田右衛門介の三家老も京都へ向けて進軍します。
6月22日には福原は大坂へ上陸、武装したまま6月24日、伏見長州藩邸に布陣します。
福原隊は、長州藩京都留守居役・乃美織江を通じて、所司代へ上京の届け出を提出しました。
その理由は、「池田屋騒動に関する取り調べ」としていました。
また、真木和泉守と久坂玄瑞は6月24日には淀川を遡って天王山に布陣します。
関所の届けには、「朝廷と幕府への嘆願書の提出」を理由としていました。
さらに河原町の長州藩京都屋敷にいた藩士と合流した浪士ら約500人が嵯峨天龍寺に移り、長州藩は三方から御所をうかがうことになったのです。
天王山に布陣していた真木は、朝廷に対し、挙兵上京した大義名分を訴える哀願書を提出します。
内容は8.18の政変で京を追われた三条実美ら五卿ならびに長州藩の毛利父子の冤罪、攘夷の国是嘆願でした。
しかし一橋慶喜は、「大軍を擁して入洛するだけでも大逆行為」と憤慨し、孝明天皇も「今さら長州の入京は不可」と仰せられて、長州討伐が決定します。
長州藩は大垣藩が守る関門へ向かいます。大垣藩は長州勢に大砲を撃ち込みついに戦端が開かれました。
開戦当初は長州藩が押していました。
真木たちも天王山から御所に向かいます。
時が経つにつれ形勢は長州不利になっていき、真木和泉率いる隊を本隊とし、山陰街道を天王山に向かって撤退します。
長州勢追討の命令が出たこともあり、真木は責任を感じていました。
天王山に着いた真木は自害を決意します。
真木和泉 享年52歳。
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2008年02月18日
貸金業者が「吉田松陰」など商標登録
貸金などを業務とする東京の会社が「吉田松陰」「高杉晋作」「桂小五郎」という幕末の志士たちの名を商標登録していたことがわかり、3人の出身地の山口県萩市は18日、特許庁に登録取り消しを求める異議申し立てをしたと発表した。
実際にどんな商品なのか知らないが、イメージがあるのでよろしくないですよね。
市などによると、商標登録は2005年6月に宮城県の会社が出願。07年9月に登録の審決が下り、同年10月に商標権の名義が東京の会社に変更された。対象品目は、「吉田松陰」と「桂小五郎」が食用油脂、加工水産物などの食品、「高杉晋作」は食品に酒類や清涼飲料水も加えている。
市は「人物の名声に便乗した利益取得が目的といわざるを得ない」と指摘。「歴史上の著名な人物名に関して独占排他的に権利を主張すること自体認められるべきではない」として、商標登録制度の改正も求めていくという。
実際にどんな商品なのか知らないが、イメージがあるのでよろしくないですよね。
市などによると、商標登録は2005年6月に宮城県の会社が出願。07年9月に登録の審決が下り、同年10月に商標権の名義が東京の会社に変更された。対象品目は、「吉田松陰」と「桂小五郎」が食用油脂、加工水産物などの食品、「高杉晋作」は食品に酒類や清涼飲料水も加えている。
市は「人物の名声に便乗した利益取得が目的といわざるを得ない」と指摘。「歴史上の著名な人物名に関して独占排他的に権利を主張すること自体認められるべきではない」として、商標登録制度の改正も求めていくという。
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2008年01月01日
あけおめ〜〜〜
あけましておめでとう!
カウントダウンはみんなどうやって過ごしたのかな?
今年も一年素晴しい年になるように
世界が平和でありますよう願います。
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2007年12月31日
年末ジャンボ宝くじ当選番号一覧
年末ジャンボ宝くじの当選番号一覧が発表された!
ホントに当たった人はメッチャ幸せやなぁ〜〜
当然買わなきゃ当たらないのだが・・毎年買っていない[emoji:i-229]
理由は・・いつも忘れるのだ。気がつくと発売終了〜〜
あぁ〜〜今年も夢は見られそうにない。
年末ジャンボ宝くじ(第532回全国自治宝くじ)の当選番号一覧
第532回の年末ジャンボ宝くじの当選番号決定の様子が12時45分からNHKで生中継されており、先ほど終わりました。ネット上では午後5時過ぎから照会可能ですが、一足お先に書いておきます。…(続きを読む)
今年も終わりですよ。
早いものです。
今年のヒット商品ってこんなものありましたよ。
ホントに当たった人はメッチャ幸せやなぁ〜〜
当然買わなきゃ当たらないのだが・・毎年買っていない[emoji:i-229]
理由は・・いつも忘れるのだ。気がつくと発売終了〜〜
あぁ〜〜今年も夢は見られそうにない。
年末ジャンボ宝くじ(第532回全国自治宝くじ)の当選番号一覧
第532回の年末ジャンボ宝くじの当選番号決定の様子が12時45分からNHKで生中継されており、先ほど終わりました。ネット上では午後5時過ぎから照会可能ですが、一足お先に書いておきます。…(続きを読む)
今年も終わりですよ。
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